三十六話『積み上げたもの』

 工房の中は冷たく、雪に反射する青白い光でうっすらと明るい。仁が暖炉に火を灯すと橙の光に照らされてようやく暖かさが戻ってくる。


「えーっと、確かこの辺りに救急箱があったはず」


 光の届かない戸棚の中を探す仁。普通なら魔素灯エーテルランプがあるのだが、ネージュの影響で使えなくなっているので、物を探すには少し時間がかかりそうだ。

 仁もユウも命の危険はないが傷だらけ。まずは応急手当をしなくてはならない。


「灰月君、煤日君。救急箱よりも私が回復魔術を使います」


「薫、回復魔術が使えるのか? 俺、初耳なんだけど」


「ほら、早く。二人ともそこに座ってください」


 薫に促されるままソファーに座る仁とユウ。


「シツナヒコに希う。我が風に宿り穢れを清め安らぎを与え給え——『科戸風ノ禊祓しなとかぜのみそぎはらえ』」


巻き起こった風が傷を撫でると体から痛みが消え、活力が湧く。暖かな春の風に包まれているような感覚があって心地が良い。


「風系の回復魔術とは珍しいな。オレは聞いたこともない」


「回復は水系の特権じゃなかったのか。どういう系統の魔術だ? 詠唱から考えて神道系か陰陽道系なのか?」


 目を輝かせるユウと仁魔術オタクども。二人は薫の肩を掴んで質問攻めを行い、薫は言葉に詰まりながらたどたどしく答える様子を見かねて、英士は軌道修正を図る。


「三人とも、僕たちの目的を忘れてたりはしないよね」


「ああ、もちろん。まずは作戦会議……」


 と、グゥゥウと全員の空腹の合図が鳴った。古来より『腹が減っては戦は出来ぬ』ということわざがある。決戦に向けて腹ごしらえは欠かせない。


「の前に、何か食べるか」


「灰月君の言うとおりです。な、なにか食べて英気を養わないと!」


 仁の言葉に恥ずかしそうに耳を赤らめた薫が続く。男三人にとっては気にも留めないことだが、良家のお嬢様には相当恥ずかしかったようだ。


「たぶん校舎の食堂に行けば食材くらいあるだろ。誰か取ってきてくれないか。俺は武器の調整がしたい」


「ああ分かったよ。僕が行こう。二人はどうする?」


「オレも行く。ここで出来ることが無いしな」


「私もです。人手が多い方が往復しなくて済むでしょうし」


▲▼▲


 作業場に入ると仁は壁に立てかけられた剣槍の覆いを取り、それを鍛冶台の上へと置いた。冬の湖のように曇りない刀身に自身の顔が映る。仁は映り込んだ顔を恐る恐るのぞき込んで、安心して息を吐いた。


(よかった。俺は迷ってない)


 もしかしたら自分でも気づいていないだけでまだ迷いがあるのではないか、そんな恐怖は否定される。

 仁は壁に掛けてある調整用の道具を並べて、剣槍の全てをもう一度自分の身体の一部として扱えるように整える。

 その時、聞き覚えのある、しかし、ここにいないはずの人物の声がした。


「仁、君はどうしてそこまでしてあのネージュという少女を助けようとするんだい?」


 驚きと共に声のした方を振り返ると、作業場の壁にすがるヴァンの姿があった。


「ヴァン、お前……心の中から出てこれるのかよ」


「いいや、僕は君の意識に干渉してここにいるように見せているだけだ。だから僕の姿は君以外には見えないし、声も聞こえない」


「つまりは幻覚みたいなものか」


「そう思ってくれて構わない。で、そろそろ僕の質問に答えてくれないか。どうしてそこまで君はネージュを助けたいと思う?」


 ネージュを助けたい理由、それはユウにも問われた。泣いている誰かを見殺しになんてできない、そう思ったからと答えた。だが、本当にそれだけか?


「俺はさ、なりたいんだ。十年前のあの日、俺を救ってくれたあの人みたいに。だからネージュを助けたかったのかもしれない。たぶん、俺はネージュをあの時の自分に重ねて同情してたんだと思う……今度は俺が助ける番だって」


 考えていたこと、思ってきたこと、抱えてきたこと、その全部を言葉にできるように仁はグチャグチャに混じっていた感情を吐き出していく。


「でも、それも今日あったことだけで分からなくなった。カレン先輩に殺されかけて、ネージュ達の戦いを何にもできずに見ていただけで、最後は俺が助けなきゃいけないのにネージュが俺を助けるために去っていって……自分が無力な存在なんだって思い知らされて、ヴァンの力を借りても何もできなくて……諦めそうになった」


 ふと、仁は思った。なぜ自分は諦めなかったのか、否、諦められなかったのかと。諦めようとした時に仁を踏みとどまらせたものは何だったのかと。


 そんなもの、一つしかないに決まっている。


「……俺は誰にも泣いてほしくなかった。誰しもが幸福であって欲しかった」


「それはとても傲慢だよ、仁。人も怪物も神すらも、そんなことを実現できる力を持ってはいない。手の届かない理想の前に膝をついた者も、狂ってしまった者も僕は見てきた」


 ヴァンは過去を思い出すように語る。ただ彼はその傲慢を軽蔑するでも憐れむのでもなく、ただ淡々と事実を伝えるだけだった。


「だよな、だから俺はネージュを助けることも出来なかった。彼女を泣かせてしまった」


 そんな力なんて無いことを早く気が付けばよかったと、仁は自嘲する。そんな力があれば十年前の地獄だって悲劇を防げたはずだ。


「そうだよ。俺はこの悲劇の始まりを止められなかった」


 仁は勝手に理想を抱いていた。自分を助けてくれた『あの人』が完璧な人間であるかのように思っていた。


(でも、それは違う。願った通りのあの人なら地獄が起こる前に解決している)


 心の底では気付いていた。でも認めたくなかった、今までは。

 けれど、それは初めから分かっていたことのはずだ。だって仁が憧れたのは灰の海になった街でも諦めず、一人でも多くの命を拾おうとしていたあの人、その諦めない姿に仁は心を打たれたのだから。


「俺はネージュが泣かないようにすることはできなかった」


 それでも、


「それでも、まだ終わってない。悲劇を悲劇のままで終わらせない、俺の手はまだ届く。ネージュの涙を拭いて、明るい未来を取り戻すことならできる」


 真っ直ぐ前を向いて仁はそう宣言した。憧れに流されるのではなく、憧れを胸に自分で考えて決めた自分の在り方を。


「はぁ、やっぱり君は筋金の入った愚か者だ——でも僕は君のそんな姿をとても好ましく、そして羨ましく思うよ」


 目を瞑り、ヴァンは口元に薄っすらと笑みを浮かべながら言い放つ。その笑みは言い表せないほど多くの感情があって、確かに満たされていた。


「仁、今回だけ特別に限界を超えて僕の力を貸す。でも、君は力に耐えられずに死んでしまうかもしれない。最後に訊くよ、その覚悟は君にあるかい?」


「そんな覚悟はないッ!」


 力強い断言。ヴァンは思わず目を見開いて言葉が出ない。仁の答えは予想外過ぎた、思わず笑ってしまうほどに。


「俺は死なないし、死ぬわけにはいかない。俺が死んでたらネージュが笑顔になんてなれるはずないからな。そんな覚悟じゃなく、オレに必要なのは絶対に生きてネージュを助ける覚悟だろ?」


 満足そうな表情を浮かべてヴァンは目を閉じる。かつての自分によく似た少年は、一番大事なところで自分とは決定的に違っていたから。


「ああ、良かった。君はきっと僕たちのようにはならない。喜んで今ある僕の力のすべてを君に貸そう。——絶対にネージュを救ってみせろ」


 最後のヴァンの一言はいつもの彼とは違う、少し冷たい感じがする。でも、その中に不器用ながらエールを仁に送っているのだと分かるまで時間はいらなかった。


「ありがとう。……なんか俺、みんなに力貸してもらってばっかりだな。今までも一人じゃ絶対にここまで来られなかったし。本当、みんなにもらってばかりだ」


 ヴァンはため息を吐く。仁の自己評価が高くないことは知っているが、まさか重要なことに気付かないほどの鈍感さまで兼ね備えているとは思いもしなかったからだ。


「仁、確かに君一人ではここまで来られなかったのは正しい。でも、もらってばかりじゃないだろう」


「どういうことだ?」


「これまで君が掛けてきた言葉が、築いてきた信頼が、見せてきた覚悟が、積み重ねてきた君の全てが、薫や英士やユウを、そして僕を心を動かした。君が人に与えたものが今の君を助けるために返ってきたってことさ」


 何か見返りを得るために人を助けたわけじゃない。そもそも人を助けることが目的だったはずだ。だが、


「——嬉しいなぁ」


 瞳が熱を帯びて、泣きたくなる。自分のやってきたことが自分を助けてくれている高揚感が背を押して、今ならどんな不可能も変えられる気がした。


「ヴァン、ありがとう。色々話せて、ちゃんと気持ちに整理がついた。それじゃ、行ってくる」


 仁は剣槍の刀身をボロ布で拭く。そこに映る自分の顔はいつもより晴れ渡っているような気がした。


「ああ」


 短いヴァンの返事を聞きながら仁は真っ黒いコートを羽織りなおし、剣槍を急ごしらえの白い布の鞘で覆って背負う。

 この姿になるのは初めてのはずなのにずっと昔から知っているような気がした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る