二十七話『少女は終わりを選ぶ』

 仁は錆びきって上手く開かない鉄扉を無理やり押し開けて部屋の中へと入る。そこは無数のモニターが並んでおり、この工場がまだ動いていた時にはここから指示を送っていたのだとわかる。

 背負っていたネージュをゆっくりと床に置くと、すぐ近くにあった椅子に全体重をかけて座った。


「ネージュを連れてこんな所まで逃げてきて。本当に何がしたいんだ、俺は」


 名前も知らない大勢の誰かのために一人の大切な人を犠牲にする、そこにある正しさを自分は受け入れようとしたのではなかったのか。


「なんでなんだ。クソッ、分からない。頭では理解していたはずだ。なのに、どうして、咄嗟にあんなことを」


 なぜネージュを連れてきたのか、それが分からない。考えるより先に体が動いていた、ヒーローインタビューでよく聞く言葉だが、仁の行動は正にそうだった。ただ、仁の選択は誰かを助けるのではなく、事態を悪化させるだけに過ぎなかったのだが。


「仁、ここは?」


 目を閉じて何も考えないようにしていた仁に目覚めたネージュが声をかける。

 目覚めた瞬間に殺される可能性も考えていたので仁は少し拍子抜けするが、それでも警戒心が完全に失われた訳ではない。


「ここは少し離れた廃工場地帯の中の建物。ここなら吹雪に悩まされる心配もないから今日はここで休もう」


 それでも仁は恐れを悟られないように必死にいつも通りの表情を作ろうとする。


「無理しないで。仁が私を怖がるのは……当然だから」


「いや、無理なんてしてない。ネージュはネージュ。怖がるはずないじゃないか」


「嘘つき。そんな引きつった顔してるのに?」


 まさか、と思いながら仁は自分の顔を触る。けれど、仁の顔はいつもと何も変わってはいない。


「ほら、どうしてそこまで必死になるの」


「——ッ。これは違うんだ、ネージュ。これは、その……」


 試されていたことを理解する。そしてネージュに恐れていることを知られてしまった。


 ネージュは天使の輪に手を伸ばすが、触れることはできない。こんな輪も魔術のように触れただけで壊れてしまえばいいと思ったが、触れられないのでは壊すこともできないのだ。


「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき。——本当にひどい嘘つきね、私」


 淡々とした口ぶりで呟くネージュ。それは仁ではなくネージュ自身に向けたナイフのように鋭い言葉だった。


「なんで、ネージュは嘘つきなんかじゃないだろ」


 自分自身を追い込んでゆくネージュが見ていられなくて、仁はその言葉を否定しようとする。しかし、ネージュは首を横に振って。


「ごめんなさい、仁。私は……やっぱり怪物だった」


 言わせてはならない言葉を言わせてしまった。その事実をネージュが認めてしまえば彼女は正真正銘、ただの怪物だ。いまや怪異などと比べようもないほどの力を振るう、天災が人の形をしているだけの存在に過ぎない。


「違う、違うんだ。そうじゃない、もっと他にあるだろ! そんな悲しいこと言うなよ……」


 具体的な反論も慰めも何一つ思い浮かばない。声を荒げて吠えることしか出来ない自分の不甲斐なさに仁は怒りを通り越して笑いすらこみ上げてくる。ただただ自分が滑稽だった。

 ネージュが化け物であると心のどこかで思っていても、それを否定しようとする自分がいて、それが堪らなく気持ち悪い。


(どうして俺は決められない。どうして俺は迷ってる。どうして俺は目の前の怪物を殺さない。どうして俺は目の前の少女のために戦わない)


 数だけ見れば大勢の誰かを助けるべきなのは仁も理解している。それでも、目の前の少女と過ごしたこの一か月はそれまで仁が持っていなかったものが沢山あった。確かに満たされていると感じた。

 だから目の前の一人は仁にとって大勢の誰かなんかより価値があると、そう言ってしまうことが出来れば楽だったのに。


 一言も喋らない仁にネージュは優しく語りかける。


「ごめんなさい。いつも朝ご飯を作ってくれて。朝早く起きるのはつらかったでしょ」


(確かに早起きするのは辛い。でも美味しそうにご飯を食べてくれる君のためなら、いつだって起きられたんだ)


「ごめんなさい。学校に行きたいなんて私の夢を叶えるために、大怪我してるのに準備させて」


(確かにあの時は大変だったけど、学校に行けて毎日楽しそうな君の横顔を見るだけで報われた気がしたんだ)


「ごめんなさい。私が現れたばかりに、こんなことに巻き込んで」


(違う、ネージュのせいなんかじゃない)


 ネージュは仁の手を取り、彼女の首を握らせた。焼けるような冷たさが仁の手を襲う。


「ネージュ、いったい……何を」


 ネージュは目を閉じて大きく息を吸って、


「ごめんなさい。最後に一つだけ我儘を許して——仁、私を殺して」


 頭をハンマーで殴られるような衝撃が走った。しかし、言葉の意味は簡単に理解できてしまった。そこにある彼女の覚悟も。


「バカなことを言うなよ! ふざけんじゃねぇッ!」


 ネージュの行動に対して、世界が彼女に与えた理不尽な運命に対して、自分には何の選択権も与えられていなかったことに対して、仁は叫ぶ。無駄だとわかっていても声に出さずにはいられなかった。


 ネージュは仁の手に自分の手を重ねて力を込める。


「仁、早く。お願い、私が私である内に、終わらせて」


 思い残すことはある。海で泳いでみたかった、薫ともっとカフェに行ってみたかった、もっと仁と一緒に過ごしたかった。やりたいことも、見たいものも、沢山あった。それでも、


(私がずっと一緒にいたい人の未来に私は邪魔だから)


 仁にこんなことをさせるのは心が痛む。それでも、仁の優しさをネージュは良く知っている。きっとネージュが彼女自身の手で決着をつければ、仁の中で自身の存在は運命の被害者として刻まれ、仁は助けることのできなかった彼自身を責めながら生きるだろう。


(だから私はあなたに殺されなくてはならない)


 しかし、ネージュが仁に自分を殺させれば? 仁の心が傷つくのは変わらない。それでも仁の中でネージュはひどい我儘で心を傷つけた相手になるはず。これなら仁はきっとネージュを恨んでくれる、そうすれば彼が自分を恨まずに済むと思ったから。


 ネージュの首は細くて色白で繊細だ。仁が少し力を込めるだけで彼女の吐息は苦しそうなものに変わる。仁は泣きながら首を絞めていた。


(これでいい、これでいいの。私を恨んで。生きていればきっといいことがあるから)


 ネージュは微笑む。この奇跡のような一か月があっただけで彼女の心は十分救われていた。だから未練はあっても後悔はない。


(これでいいのか。俺は本当にこんなことをするためにここまでやってきたのか? ネージュを殺さなくていい理由は無いのか?)


 必死に仁は思考を巡らせて答えを探す。けれどその度にネージュを殺すのが正解だと結論付けられる。


(なんでだ。なんで俺はネージュを殺そうとしているのに、ネージュを助ける方法を考え続けてる)


 こんなですら悲劇バットエンドですら一番マシな終わり方だと頭では分かっている。でもどうして、


(どうして納得できないんだ!)


 それでも仁の感情とは関係なく力は強まり、ネージュの首を締め上げる。漏れる苦しそうな吐息すらも次第に小さくなって、


 固く閉じられたネージュの瞳から一筋の涙がこぼれた。


(ああ、そうだ。俺はなんでこんな簡単なことが分からなかったんだろう)


 仁はその手から力が抜けた。今まで迷っていたのが嘘のように、あっさりと。


「なん……で」


 息を荒げながら信じられない、といった様子でネージュは仁を見つめる。


「なんでも何もあるか! 理由なんて俺は君を殺したくないし、君に死んでほしくない。それ以外に何があるんだよ」


「そんなの私が生きてていい理由にはならない……」


 実験のためだけに人生を捧げさせられ、ただ誰かの道具にされるだけだった命。最期も儀式の道具として使われて自分も他人も不幸にするだけの生だと知ったあの夜に誰かのために死のうとした。それでも生き残ってしまった。


「初めからそうだったの。私は生き残るべきじゃなかった。外の世界にこんなに優しい人たちがいるんだって知るべきじゃなかった」


 胸の内だけに留めておくはずの思いをネージュは吐き出す。それが誰に向けた言葉だったのかは彼女すらも分からない。


「こんな苦しい想いをするなら、なんで私は生き残ってしまったの? どうして私はこんな冷酷な世界に生まれて……」


 自分はどんな言葉を目の前の少年からかけてもらいたかったのか? 同情だったのかもしれないし、失望だったのかもしれない。一つ確かなのは彼の言葉はそのどれでも無かったことだろう。


「いい加減にしろ、ネージュ」


 仁は怒っていた。ただし、そこにあの恐怖を感じさせるほどの底の見えない闇は無い。真っ直ぐにネージュだけを見つめて怒っていた。


「人間、生きてれば色々後悔することだってある。でも、それでも前を向いて生きるしか無いんじゃないのか」


 仁は気が付けばネージュを人間と言っていた。彼女を怪物だと思う自分がいることに蓋をして。


(ああそうだよ、ネージュは怪物なんかじゃない。どれだけ強大な力を持っていても目の前で悩んで悲しんでいる、ただの女の子だろうが)


 誰かを犠牲にして生き残ったこと。その苦しみを仁は良く知っている。

 あの日のことを誰かに詳しく話したことは無い。カレンや薫、英士に自分が『東京』の生き残りであることを話した程度。どうやって生き残ったのかは語れる勇気がなかった。

 でも、自分が罪を晒すことで目の前の少女のためにできることがあるのなら。


「俺の過去を聞いてくれ」


 言葉を詰まらせながら仁は語る。あの燃え盛る炎の中で沢山の人を見殺しにしてきたこと。なのに、生きたいと願ってしまったこと。生き残ってしまったあと、灰の海で出会ったあの人のこと。


「俺は後悔してる、でもそれだけじゃないんだ。ネージュがこれまでのことを引きずってるのか、上手く割り切れたのかなんて本当のことは分からないけど。それでも、生きて行かなくちゃいけないんだ。それが生き残った者の責任だから」


 人の罪悪感に付けこむひどいやり方だと思う。それでも、それがネージュのためになるなら仁は容赦なく実行する。


「厳しくて、優しい言葉」


 そう呟いたネージュはその場に正座すると太ももを叩く。


「え、急にどうした?」


「どうって、膝枕してあげようと思って」


「いや、え? 今そんな状況じゃないだろ」


「どんな状況でも私がしてあげたいから。ほらずっとお世話される側だったから、その恩返しに。早く」


 仁はネージュに押し切られて膝枕を享受する。丁度いい寝心地で高級枕かと思えるほどの感覚に驚く仁。


「どう? 少しは休めそう?」


「ああ。たまにはこういうのも悪くないな」


 氷のようにネージュの肌は冷たいままで、どうしようもない現実はすぐそこに今もあるのだとわかっている。でも、


「そうだ。明日には新門を出よう。今なら簡単に街壁を越えられるはずだ。それからネージュが暮らせる場所を探そう」


「でも、私が『破滅の聖杯』として完全に覚醒したら」


「乗っ取られたりなんてしない。ネージュはすごいから、そんなことありえないって俺は君を信じてる」


「ありがとう。それなら仁は私に最後まで付いてきてくれる?」


 顔に手を当てて少し声の調子を落とす仁。


「あのさ、なんとなく恥ずかしいんだけど言わなきゃダメか?」


「だめ」


「目の前で困ってる君を放っておけるわけないだろ……ついていくさ、最後まで」


 ネージュが仁の頭をなでる。意識が次第に遠くなってゆく。気にする余裕がなかったが落ち着いてみると今まで感じた疲労が仁の体を襲う。


「ごめん。少し……寝……」


「おやすみなさい、仁」


 それから五分。ネージュは仁を寝かせたまま立ち上がる。


「今までありがとう、仁。そして、さようなら。私なんて忘れて幸せになって」


 死ぬという選択肢はネージュの中から消えていた。けれど、彼女は仁の元から去らなければならない。

 ネージュは仁がくれた白い長手袋を脱いで、少しためらってから、それを仁の手に握らせていくことにした。仁がネージュを忘れられるように、何も残すべきではないのに。


(なんで私はあんなことを……お願い、仁。私についてこないで)


 未練は消えない。できることなら今すぐにでも泣き出してしまいたい。暖かな日常の中に留まっていたい。

 だが結局、ネージュに行われている干渉を防ぐ手立ては分からないのだ。だから完全に乗っ取られる前に、誰かの暖かな日常をこれ以上壊してしまう前にネージュは歩き出した。


(本当はやっぱりもっと仁や薫と一緒に居たい。でも、それは私のエゴ。もう我儘は終わりにしないと)


 足取りは重たく、一歩を踏み出すごとに振り返ってしまいたくなる。それでも、ネージュは前へと歩み続ける。


(体に力が溢れてくる。取り込まれかけているからか。でもこれで街壁を越えられるはず)


 仁を起こさないようにゆっくりと扉から外へ出るネージュ。外はさらに吹雪が強まり、歩くことも難しい。


「できるだけ新門から離れないと」


 大切な人を守るため、少女は終わりを選ぶ。

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