十六話『破滅の聖杯』
工房を訪れるのは三回目だが、ネージュにとっては自宅の次に安心できる場所だ。ここには悪い思い出がないからだろうか。
冷たい工房の中、ソファにネージュは腰掛けて、落ち着かない様子で部屋の中をグルグルと歩き回る仁に話しかける。
「これからどうするの? いつまでもここに隠れ続けられるとは思えないけれど」
「だよな。でも他に隠れられそうな場所も思いつかない……一か八か、裏山に逃げ込むってのも考えたけど、この吹雪だと捕まる前に寒さで動けなくなりそうだし」
仁は話しかけたネージュに視線を向けず、俯いて顎に手を当てたまま考えている。ネージュも次の一手を考えているが、お互いにいいアイデアが出そうにない。敵は徐々に仁たちの選択肢を奪うために生徒を幻術で操って暴れさせるだけでなく、新しい策を使う可能性もある。
「考えることが多すぎる。それにみんなをこのまま放っておけば人死が出そうだ。いや、そもそも幻術にかけられた今の状態は人質に取られているようなものか」
「私が触れれば、仁みたいに解除することはできると思うけど、この数を相手にするのは」
相手はただ暴れるだけでも二人にとってはその数の多さから十分すぎるほど厄介。この数の対処をすれば目立つことは避けられない。そもそも、二人でも対応できるかはかなり怪しい。
生徒たちの攻撃は魔術でもなんでもない物理攻撃。怪異のように攻撃を打ち消せるわけでは無いし、一対一ならともかく、多対一を迫られるこの状況では死角からの一撃が致命傷になるリスクは大きい。
仁も運動はできる方だし、ネージュは人間離れした身体能力があるが、二人とも戦闘経験は殆どない。それなのに戦うという選択は無謀すぎると二人の中で意見は一致している。
「あと二十五分だけ耐えれば、勝機が見えてくるが。いや、一旦別のことを考えて思考をリセットするべきか?」
仁は壁にかかった時計をにらむ。いつもはあんなにも速く感じる秒針が、今は驚くほど遅い。カチッ、カチッ、と時を刻む音がカウントダウンのように思えて助けが近づく安心感と、まだ助けの来ない焦燥感で胸が焦げ付く変な感覚がある。
「となれば一番気になるのが『破滅の聖杯』か」
「それは……私の事よね。仁は何か知ってる?」
ネージュが知らないということは組織にとって都合の悪い情報ということ、相手のハッタリであるという可能性はこの時点で消滅する。
「いや、ごめん……それは今話すことじゃない」
「いいえ、今教えて。少しでも情報は多い方が良いから」
そう語るネージュの瞳は真っ直ぐに仁を見つめていた。
彼は息を呑む。自分のことを知りたいと、そう願う彼女の姿に仁は自身を重ねてしまったから。
「……異端審問所の定める『禁忌指定』の中でも世界を滅ぼせる存在が三つある。それぞれ、『黙示録の獣』、『魔王』、そして『破滅の聖杯』って呼ばれてる」
仁の言葉の意味が理解できない。正確には理解できるはずなのだ、でも理解したくないと意識が拒む。が、それも長くは続かない、ネージュはいつまでも自分の責任から逃げ続ける卑怯者にはなれなかった。
「私が……世界を……滅ぼす」
事実を口にするだけ。けれど口は思うように動かない。胸に手を当てて一つ一つ絞り出すように言葉を繋げてやっとだ。同時にたった一つの大きな感情が胸を支配して離さなくなる。
(怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い)
ネージュが恐れているのは自分ではないし、自分の運命でもなければ、追手に連れ戻されることでもない。本当はそうあるべきと思いつつも彼女は全く別のことを恐れていた。
(怖い。仁にどんな目で見られているのか知るのが、怖い)
たった二週間、けれど間違いなく彼女にとって人生でもっとも幸福だった時間。それをくれた仁が自分をどんな風に見ているのか、どんな風に彼の視線が変わってしまったのか知るのが怖い。仁の顔を見ることができない。また誰かが自分の元から離れてしまうのが堪らなく恐ろしい。
「仁、私は」
何と言おうとしたのか正確に自分でも分からなかった。見捨てないでほしい、と言おうとしたのか、自分なんて見捨ててほしい、と言おうとしたのか。分からない。
けれどネージュが続きを口にするよりも先に、仁は言う。
「確かにネージュは世界を滅ぼす力があるのかもしれない」
「——っ」
「でも、ネージュはその力で世界を滅ぼしたいって思うのか?」
簡単には答えられない問い。この世界は今までネージュ自身に耐え難い苦しみと望んでもいない力を与えた。そこに選択肢なんてなく、無理やり押し付けられた運命を涙を枯らして歩み続けた。そんな苦しさしかないなら世界なんてさっさと滅べばいいと答えられただろう。
(それでも)
ネージュの人生で暖かさで溢れていたこの二週間、ネージュはこのぬくもりが特別でないことは知っている。ようやく普通になれただけだと。それでも、この普通のためなら、
「私は世界を滅ぼそうなんて思わない。私は……この世界はどうでもいい。でも、そこにいる人のことは大切だから」
「だろ。ならネージュが世界を滅ぼすことなんてない。怖がる必要なんてないんだよ」
ネージュの瞳を真っ直ぐに見つめる仁の視線には恐怖も隠し事もない。
(私の馬鹿)
たった二週間。でも、仁が自分を見捨てることはないとわかったはずなのに。だって彼は憎い怪異かもしれない少女さえ助けてしまう、底抜けなお人好しなのだから。
「仁はどうして私を助けてくれるの?」
ネージュの中でずっと分からないこと。いままでは仁に頼ってばかりで考えもしなかったこと。どうして仁は自分を助けてくれるのか。仁の助けになりたいと思うより、仁の過去を知るより、ネージュは今の仁に向き合うべきだとようやく気が付いた。
仁の瞳が輝きを増す。そこには強い覚悟があった。
「目の前で困ってる人がいれば助けたいから、ただそれだけ」
「あなたらしい理由ね」
ネージュは満足げに微笑む。仁の答えは理由になんてならないだろう。具体性なんて全くない。でも、それでこそ仁らしいとネージュは思った。
「ところでさ、ネージュ。明日の朝御飯のリクエストってある?」
「急になんで」
「ほら、『楽しいことを考えてた方が人生うまく行く』って言っただろ。難しいことで悩まずに、楽しい未来のことを考えよう。もちろんご飯のことじゃなくてもいい」
「楽しい未来……」
少し前までは想像もできなかったこと。未来なんて苦しいことが続くだけだと思っていた。でも、勇気を出して外に飛び出したおかげで、見えるようになったものは数えきれないほどある。だから今ならもっと違う夢が。
「私……海で泳いでみたい。仁も一緒に」
「いやいや、俺泳げないから海は無理! それに新門の海岸は港だから泳げないし、難しいこと言うなぁ」
とは言ったものの、仁の中での心配はもう一つ。
(ちょっと待て。海水浴となると水着。ネージュの……水着姿だとッ)
仁はかなり煩悩まみれの思考を何とかして追い払う。いや、確かに見てみたい気持ちが無いと言えば嘘なのだが。
「よし、それじゃこれからのことを考えよう」
と、その時。ガンッ、という音と共に工房の入り口が強引に破壊され、中に人が流れ込んでくる。その数は少なく見積もっても教室で相手にしたよりも多い。
「もうこんなところまで。思ったよりもかなり早い!」
仁は焦りを抑えるために、奥歯を強く噛みしめる。悪態の一つでも吐きたいが、そんな余裕は無さそうだ。
「仁、こんなのどうすれば……」
「とにかく奥に逃げよう」
走って工房の奥へと向かう二人。追いついてくる生徒いないが、徐々に行き止まりへと追い詰められていることは確かだった。
二人は一番奥にある仁の作業場にたどり着くと、できる限り厳重に扉に鍵をかける。これで少しくらいは時間が稼げるはずだ。
「クソ、ここにある武器を使う訳にはいかない、戦うのはダメ。やっぱり逃げるしかない」
「でもこの部屋から逃げる方法なんて……」
ネージュは仁の背後にある大きな炉を見た。その炉は大きく、中には人が入れる空間がある。そしてその炉からは巨大な煙突が伸びていた。
「仁、煙突の中を上がって屋根に出られない?」
「煤まみれで滑りやすくなってる上に足場がないから難し……いや、これを足場にすれば。修理代は考えたくもないけど」
仁が手に取ったのは放置された失敗作の一本。あの魔素を吸い込む特性は再現できなかったが、武器としての切れ味は保証付きだ。
「私が先に行って、仁が後からついてくる。それでいきましょう」
「ちょっと待て! それはダメだろ。ネージュ=サン! 今、あなたはスカートなんですよ! しかも登るってことは俺は上を向くじゃん! その……見えるのはどうかと……」
「でも、仁の力じゃ煙突に刺さらないから私が先に行くしかない。私が登り切ってから仁が登るには時間的余裕がない。そもそも私は下着を見られる程度気にしないから、仁も気にする必要はない。だからこれで問題ない」
「もうちょっと気にしろ! 女子高生とは思えないワイルドさと合理性なんて捨て去っちまえ! ああ、もういいよ、上なんて見ないで行ってやる!」
二人はできるだけ沢山の武器を持って煙突を登る。煙突の中は焦げ付くようなにおいがして、刃を突き立てるたびに煤が舞う。しかもスペースに余裕はないのでとても窮屈、かつ足場が壊れるかもしれない、仁は上を向かずに手探りで登らなければならない、と精神を削る要素は多い。
「ふう、何とか登りきったわね」
ネージュは制服や髪についた煤を払う。一気に黒い粉が舞って、すぐさま吹雪の中に消えてゆく。そこにいるのは煤まみれの少女ではなく、いつもの天使を思わせるほど白い少女だ。
「なんとか登りきった……三回落ちかけたけど」
仁は煤を払い落とすよりも先に、校舎の方へと目を向ける。やってくるのは暴れ続ける生徒の大群。お互いに傷つけあうことなど気にしないために、雪の上には血が飛び散り、まるでカーペットのようだ。
「私は校舎に戻るべきだと思う。さっきみたいに逃げ場のない所に追い詰められるわけにはいかないから、リスクを冒してでも逃げ道があった方が良いはず」
「俺も賛成だ。この吹雪でなければ裏山に逃げ込むのも考えたが、今は遭難しそうだし。助けのことも考えると校舎になるな」
「でも、問題はどうやって校舎まで戻るか」
工房の周りはすでに取り囲まれていると言っていい。逃げ道が見つからないのは相変わらず。
「ネージュ、ほらあそこ。ほとんど人がいない。あのくらいなら突破できるんじゃないか」
仁が指さしたのは最も校舎に近い工房の端。暴徒たちが工房の奥へと向かうために次第に人数が減っていく。
「確かに。校舎にも近い。でも……」
罠である可能性もある。しかし、そこ以外に道はないと二人とも分かっていた。
「罠でも行くしかないだろ。ここに居ても捕まるのは時間の問題だし」
二人は工房の屋根を飛び移りながら、吹雪の中を駆ける。目立つのを避ける意味でも、寒さで動きが鈍るのを防ぐためにも、だ。
二人は屋根の端から素早く着地。高さはあるが雪がかなり積もっているおかげで無傷である。雪を舞い上げて目立ってしまったのは想定外だったが。
「妙。誰もいない」
校舎内には散らばったガラスや血痕はあるが、暴れ続ける生徒の姿どころか物音ひとつさえしない。異様な状態だった。
「静かすぎる。どう考えても罠だよな」
ただトラップとなる魔術を記した紙などは見つけられない。学校を覆う結界と全生徒を幻覚で暴れさせていることも考えると、更に大規模な魔術の同時発動は難しい。
(もし、そんなことができるなら正面から向かってくる方が効率的か)
考えれば考えるほど悪い想像が膨らんで決断が難しくなる。だから、仁はこれ以上の思考を無駄と判断した。
「ともかくここにいても寒さで動けなくなるだけだ。中に入って隠れられる場所を探そう」
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