十四話『襲撃』

 仁はノートに黒板の内容を書き写しながら、目線だけをネージュの方に向ける。ただしネージュに気付かれないよう慎重にだ。


(あの時のこと、ネージュは気にしてる? いや……どっちだ)


 横顔だけでは上手く今のネージュの表情を読み取れない。こういう時はネージュのミステリアスな雰囲気もあり、とことん何を考えているのか分からないのだ。


(でも、驚かせたのは事実だし、何か言った方がいい? でも、もう少し時間をおいて向こうから話しかけてくれるのを待つべきか?)


 いくつもの選択肢が浮かんでは消えて行くを繰り返して、仁は結論を選べない。うまく言い表せない不安だけが時間と共に重くなる。


(こういう時に英士か薫がいてくれれば)


 一人で考えてどうにもならないなら、二人で考えるのが仁のモットーだが、気軽に相談できる二人は今頃、怪異と壁外で戦闘中だろう。肝心な時にいないのである。


(仕方ない、狐火先輩にでも相談しに行くか)


 一年生が三年生の教室に向かうのはかなり勇気のいることだが、頼れるのはカレンだけなので仁は覚悟を決める。

 とその時、不意に誰かの声がした。


「灰月仁、君は選択しなければならない」


(——ッ。誰だ⁈)


 それは知らない声、聞いたこともないはずの声。けれども心のどこかで引っかかる不思議な声だった。頭では理解できなくても心が声がする度に大きく揺れる。


「君は選択しなければならない」


(なんだコレ、何を選択しろと?)


 声は頭の中を時に囁くように小さく熱っぽさを感じさせるように、時にスピーカーで機械音声を流すように大きく冷たく、何度も変化しながら「君は選択しなければならない」とだけ繰り返す。


(だからッ、何を選択しなければいけないのか早く教えろ!)


 気味の悪い声が響く不快感と、胸の中から溢れ出す焦りに思わず叫びだしたくなる。とにかく少しでも早くこの感情を吐き出したいと思わずにはいられない。

 突然、繰り返されていた声は途切れた。そして少しだけ間を置いて、


「立ち止まって自身の平穏を得るのか、踏み出して自身の理想を求めるのか。近い未来、君は選択しなければならない、灰月仁」


(どういうことだ、これから一体何が)


 が、問いに答える声は無く、胸の中にあった不快感が次第に消えてゆく。仁は大きく息を吸うと教室中の視線が自分に向いていることに気が付く。


「大丈夫か、灰月? 具合が悪かったら医務室に行ってもいいんだぞ」


「あ、はい……大丈夫です」


 中年の小太りな教師からの心配に短い返事で返す仁。余裕のない仁の中にあったのは、『選択』に対する疑問と危機感だけだった。


(また俺は失うのか)


 あの時、全てを失ったあの日。

 思い出したくないと、仁は記憶に蓋をする。けれどそれは暴れまわって出てこようとする。そのたびに仁は必死に頭の中を空っぽにした。熱を帯びた汗が全身から噴き出して、体中がサウナの中にいるみたいに蒸し暑い。


(落ち着け、本当に起こるかどうかも分からないことに怯えるな。——あれは幻覚だ)


 本当は今の声が幻覚とは思えないが、そう思わなければ冷静でいられそうにない。何故そう思ったのかは分からないが、今の声からはあの日の灼けた空気と同じ気配がした。


(考えるのは後にしよう。今は授業に集ちゅ……)


 視界が歪んだ。比喩でもなんでもなく、突然グシャリと。


「はぁ⁈」


 直線が曲線に変わり、遠近感がグチャグチャになって、世界から色が消えたかと思えば、次の瞬間には目が痛くなるほどの極彩色に覆いつくされる。目まぐるしく世界が切り替わり、自分がどこにいるのか忘れてしまいそうだった。


(不味い、意識が……)


 あまりの光景に刺すような頭痛と、耐え難い嘔吐感がこみあげ、強烈すぎる苦痛に意識が飛びそうになる。このまま抗うよりも意識を失った方が楽なのではないか、そう思った瞬間。


「仁!」


 雪のように白く、しかしとても暖かい手が、仁の手を掴む。歪な視界に白い穴が開いたかと思うとそこからヒビが走って世界が砕け、元通りになった。


「——ッ。ありがとう、助かった」


「良かった。みんな急におかしくなって、それから」


 教室には気絶したクラスメイト達が転がっている。気絶したためにピクリとも動かない様子は死んでいるのではないかと心配になる。


「大丈夫、やっぱり気絶してるだけだ。ところでこれは」


 全員の呼吸の確認を終えた仁とネージュは顔を見合わせる。聞くまでもないことではある、けれど「もし違うのなら」という仁の希望的観測はネージュの声で砕かれる。


「ええ、間違いなく組織の追手の仕業ね。ようやく私を連れ戻しに来たみたい」


 いつかこうなるとはネージュも思っていた。けれど、どうして今日なのか、とネージュは唇をかみしめる。


「だよな。じゃあ、早く逃げないと」


 仁は窓の外を見て、舌打ちをする。先ほどまで無かったはずの半透明の膜が学校の周りを囲むようにして出現している。


「あれは、結界術か。いや、待て。ネージュには魔術を打ち消す力がある。あんなものいくら重ねても無駄なはず。ならどうして」


「たぶん私が出ると同時にそこから結界が壊れるのを利用して、私の逃げた方角を知るためだと思う」


 その仮説に納得感を覚えると同時に、仁は驚愕せざるおえない。


「そのためだけにこれだけ大きな結界を⁉ それに学校中に幻覚を見せた後に……本当に人間か?」


 魔術は範囲が大きいものほど大量の魔素エーテルとそれを操る高度な技術が要求される。これほどの魔術師となれば軍人三十人以上の戦力だろうか。学生が敵うどころか、逃げることすらできないだろう相手なのは間違いない。


「戦う訳にはいかない。でも逃げることも」


 そう、できない。ネージュが結界の外に逃げれば敵は間違いなく追ってくる。そうなれば戦闘は避けられないし、これほどの魔術師ならば広範囲を破壊する魔術の一つや二つ扱える。逃げられるとしても沢山の人が巻き込まれることは明らかだ。


「なら、隠れて待つべきだな」


「私もそう思う。きっと私がどこにいるか、敵は正確には知らないでしょうし」


 相手がネージュの位置を知っているのなら、学校全体に幻覚を見せるまでもなく、直接襲撃すれば終わる。それをしないのは、相手がネージュの位置までは知らないか、よほど性格が悪いかだろう。


「三十分後には異端審問官が来るはずだ。それまでここで死んだふりでもしてやり過ごすとしようか、って痛ッ」


「冗談言ってる場合? 敵は私の顔を間違いなく知ってる。すぐに見つかって終了よ」


「すみませんでした」


 仁の冗談にネージュはかなり本気のビンタで応じる。ついでに呆れたと言わんばかりの目で睨まれて仁は心の底から反省。


「じゃあ、これからどこに隠れるかだけど」


 その時、ガサガサとスピーカーの入る音がして、耳障りな甲高い合成音声が流れる。


「こんにちは。——『破滅の聖杯』いや、ユ零弐。聞こえているだろうか。分かっているとは思うが自由は終わりだ。被害を広げたくないなら大人しく帰ってこい」


 何らかの魔術によって声を調整しているのだろうが、それを除いても抑揚の一つもない平坦で感情を感じさせない声。ひたすらに淡々とした口調で聞いていると人でないものが人の言葉を話しているかのごとき違和感を感じる。


「君は抵抗せずおとなしく捕まるのならすぐに放送室に来るといい。もしそうでないなら、少し手荒な手段を使うことになる」


「……誰がお前たちの元に戻るか」


 ネージュはマイクに向かってそう吐き捨てる。それは聞こえているはずの無い言葉、けれど敵は聞こえていたかのように言う。


「君は強情だからな。やはりこうするしかあるまい」


 ブツンッ、とスピーカーが切れると同時に、仁とネージュは背中を合わせてどこから来るか分からない攻撃を警戒する。


 だが、そんな二人の予想を完全に裏切ることが起こる。


「く、くるなぁ! 化け物ッ!」


 それまで気絶していたはずの男子生徒が突然、椅子を振り回して暴れはじめる。その顔には明確な恐怖の色が浮かんでいる。まるでここにいない何かに怯えているかのようだ。


「あなただけは許せないッ! 殺してやるうぅぅぅぅう!」


 少し離れた場所では目を血走らせた女子生徒が、見えない何かにシャーペンを何度も何度も突き刺している。


「ど、どうなってる」


 次々と立ち上がって発狂するクラスメイト。教室でそれぞれが凶器を手にしてグチャグチャに暴れまわる。天井に穴が開き、ガラス窓が次々と割れてゆく光景に理解するのに二人は少し時間が必要なほど混乱する。


「ネージュ、危ない!」


 仁がネージュに覆いかぶさった次の瞬間に、頭ギリギリを投げられた椅子が通り過ぎてゆく。

 誰もが周りのことなどお構いなしに暴れまわるので、血を流している者も少なくない。が、同時に疲れも痛みも感じず、ここにはいない何かと戦っている。


「ネージュ、とりあえず教室から逃げないと」


「でも、入り口は通れそうにないけど」


 入り口側に近づくほど暴動は激しくなっていく。いくら椅子や机とはいえ、頭に当たれば仁は確実に死ぬ。ネージュだって負傷は避けられない。ここにいても死ぬのは時間の問題。つまり、逃げるしかないのだ。


「仁、前から三番目の窓の下、たしか木が植えてあった?」


「それ今必要……マジ? 正気か?」


「ええ。しかも雪のクッションまである」


「やっぱりそういうことになるのかぁ」


 素早く窓のそばまで駆け寄る二人。割れた窓からは猛烈な勢いの吹雪が吹き込む。こんな寒い外に行かなければならないと余計に気が重たくなる。


「本当にここから飛ぶのか? ここ四階だぞ、落ちたら即死……」


「それじゃあ、お先に」


「ちょっと⁉」


 ネージュは窓から飛び降りると丸くなって吹雪の中に消える。バキバキバキッ、と枝の折れる音がして軽く雪が舞ったのを見ると無事着地できたらしい。


「クソ、ああ高い! しょうがねぇ、飛んでやりますよッ。三、二、」


 ドンッ。


 飛んできた机が背中にクリーンヒットしたせいで仁はカウントの途中で窓の外に。崩れた体勢に真っ白な頭、そして何よりも、


「不味い、マズい、まずい! 木に届かない!」


 パニックのあまり時間の流れがゆっくりに感じはじめ、いよいよ絶体絶命の仁。それでも彼は足掻くのをやめない。

 身をよじるようにして体勢を持ち直す。そして渾身の力で校舎の外壁を蹴った。


「これでなんとか木まで届く!」


 目をつむって歯を食いしばり、枝を折る時の衝撃に備える仁。内心、大きな枝に当たって死なないように祈るのに必死。

 が、枝を折ることなどなく自由落下を続ける。


「あれ? ちょと! オイ!」


 仁が突っ込んだのは先ほどネージュが飛び降りたのと全く同じ場所。つまりクッションになる枝はすでに折れてしまっている。


「嘘だろぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおお、っと」


 地面との激突を覚悟した仁だったが、その前にネージュによってキャッチされる。お姫様抱っこの姿勢で。


「た、助かったぁ。ありがとう、ネージュ」


「何とか間に合ってよかった」


 恰好が気恥ずかしいとかそんな感想よりも先に仁は生きていることに安心する。いや、自由落下することになった原因はネージュではあるのだが。


「これからどこに隠れるべきかしら」


「とりあえず工房に戻ろう。あそこなら鍵もかけられるし、校舎から離れてるから時間も稼げるはずだ」


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