十一話『過去の破片』
昼休み。それは学校生活の醍醐味の一つだろう。自分の友人と弁当を食べたり、雑談したり、日々の中で楽しい時間の一つだ。が、普段の仁は鍛冶作業を進めるために、工房で弁当を食べていた。
しかし今日の工房の様子は少し異なる。
「ふぅ、やっと逃げられた」
ネージュと仁は弁当を持って工房の中に駆け込んだ。校内を逃げ回っていたので仁は息を切らしていた。
「でもよかったのか逃げてきて? ネージュの言う学校生活の楽しみを一つ逃すことになったけど」
「さすがにあの状況だとお弁当は食べられそうにないから。仕方ない」
チャイムが鳴ってすぐに山ほどの生徒が教室に襲来し、ネージュが質問攻めにあう様子は、まるで一切れのパンを巡って池中の魚が集まってくるようだった。隣にいた仁は人ごみの中で死ぬかと思ったほどだ。
そして、質問攻めの中でパニックになり涙目で助けを求めてきたネージュを連れて逃げ出してここに至る。
(俺、殺されるかも)
一応、学校内での魔術の使用は授業以外では禁止されているが、気絶させるくらいの威力ならば喧嘩でもよく使われる。最悪の場合、殺傷性の戦闘用魔術をぶっ放すバカが一年間に二、三人はいるので、殺されるというのも冗談では済まされない。この学校、治安が悪すぎるのだ。
「考えても仕方ないか。とりあえず早く弁当を食べよう」
「仁、今日のおかずは?」
「開けてみればわかる」
ネージュが弁当を開けると中には好物のハンバーグとご飯。冷めてはいるがとても美味しそうだ。
早速、慣れた手つきでハンバーグを口に運ぶネージュ。幸せそうに口元をほころばせるのを見ていると仁のも少し嬉しくなる。
「すごく、美味しい。やっぱり、仁の料理は最高ね」
「それは良かった。今日の夕飯のリクエストは?」
「カレーいや麻婆豆腐……」
と、この間およそ三分。成人男性一人前の弁当がネージュの胃の中に消えた。ネージュはまだ食べたりなさそうな顔をしているが、これ以上は食費で灰月家の家計がトドメを刺されるので心苦しいが仁は首を横に振る。
ネージュはソファに座ると、暖炉に燃える鮮やかな炎を見つめていた。
「ねぇ、二週間前もこうして二人でここで話したのよね。私、最初は仁を信用してなくて剣で脅したりして……それがもうすごく昔の事みたいで」
目の前だけを見て、ネージュは懐かしそうに呟く。安心しているのだろうか、その声は少し眠たげだ。
「もし、これからも追手なんて現れずに、このまま過ごせたらいいな、なんて思うの」
それは希望的観測をするにはあまりにも弱気な声で語られたネージュの願い。でもそれはそんな希望は叶わない、そう思ってなければ出ない言葉。
彼女は知っているのだ。幸福が永遠に続くことなどないと。
ほんの二十秒ほどの静寂。しかし、二人にはもっと短く感じられた。
そのわずかな時間、ネージュは今までのことを考えて、そして気が付いたのだ。自分は仁の過去を何も知らないことに。
いや、本当は最初から気付いていた。でも過去の話を拒むような仁の瞳を見るたびに、その思いを飲み込んだ。
(それでいいの? 何も知らないままで本当に?)
それは好奇心ではない。知りたいでは無く、知らなければならないとそう感じた。仁がネージュを助けてくれるように、ネージュも仁の力になりたいと思ったから。
だから少女は、
「仁は私の過去を聞いた。でも、私は、あなたの過去を知らない。……私もあなたの力になりたいの、だから教えて」
瞬間、仁の顔つきが変わる。見えない何かにおびえるような苦悶の表情を浮かべて口元を手で押さえて。今にも倒れそうなほどに荒くなる呼吸。
掠れるような声で仁は言う。
「……覚えて、ないんだ……なにも。あの日以外は」
「それはどういう」
こと、と言葉を繋げようとしてネージュは怯んだ。そこにいたのは彼女の良く知る灰月仁ではない、別の灰月仁のような何かだと感じたから。
仁がネージュに敵意を向けているわけではない、ただその眼はずっと何か大きく恐ろしいものに怯えたまま。
なのに、ネージュはこれ以上に恐ろしい人を見たことがない。研究所の人間よりも、もっと深くて暗い何かを彼は抱えているのだと直感する。彼の魂はずっと、ここではない場所に囚われたまま。
「この名前も、俺がつけたもので……だから俺には」
「落ち着いて、仁……ごめんなさい」
甘かった。ネージュは自分より不幸な人間は存在しないと、心のどこかで思ってしまっていて。でもそんなことはなく、悲劇なんてものは世界のどこにだって転がっているのだと気付かされただけだった。
「あなたのこと、何も考えられてなかった」
パチパチと薪を飲み込む炎の音だけがする。炎の色は次第に暗くなっていく。今度はひどくゆっくりと時間が流れた。
「いや、俺は」
不意に扉の音がして、誰かが工房に入ってくる。足音は一つだけなので一人らしい。となると、こんな時間にここに来るもの好きは一人だけだ。
「おい、仁。いるんだろう。っと」
やってきたカレンは気まずそうに顔をしかめる。薄明るい部屋で見つめあう男女を見れば誰だってそんな気持ちになるだろう。
「あーっと。邪魔する気は無かった……という訳じゃないか。仁、オマエひどい顔になってるぞ。気分転換に鍛冶でもしてきたらどうだ」
そうします、と短い返事だけして仁は工房の自室に消える。
残されたのはカレンとネージュ。何とも言えない空気が二人の間を流れる。
それを打ち破ったのはカレンだった。
「で、名前は?」
「……ネージュ・エトワール、です。カレン先輩」
「ほぉ、私の名前を。仁から聞いていたか? 仲いいんだな、二人とも」
その言葉にネージュはすぐには頷けない。二週間で仁の色々な面を知ったし、彼も自分のことを受け入れてくれたと思っていた。けれど、ネージュは仁の過去を知らなかった。そんなことで『仲がいい』なんて言えるのか、分からない。
「噂の編入生ってのがどんなのかと思えば、これは随分と美人だな。人気になるのも分かる。どうやって仁は引っかけたんだか」
独り言をつぶやきながらカレンは新しい薪を拾うと、炎の中へと放り投げた。部屋に光と暖かさが戻ってくる。
そんなカレンの後姿に、ネージュは思わず声をかけていた。
「あ、あの、カレン先輩は仁と仲がいいんですよね」
「まぁそうだな。他の奴らよりは、だが」
「それじゃあ、彼の過去について何か知っていたり……とか」
カレンは口元に手を当てて考えている様子。そして苦い顔をしながら口を開いた。
「アイツはな、あまり自分のことについて話したがらないんだよ。詳しいことは私も教えてほしいくらいだ」
ただ、と前置きしてカレンは続ける。
「アイツ、家族を怪異に殺されたらしい。その時の事件のショックで記憶がないんだと思う、って言ってたか。だからこんなところで魔術も使えないのに人一倍努力してるんだろうな」
「それは……復讐のために」
いつもは優しい仁。けれど、怪異に絡みの話題の時は普段からは想像もできないほど冷徹な声色に変わる。彼が怪異を憎んでいる、と口にすることはないが、ネージュから見てもそれは明らかだった。
「まぁそれもあるだろうが、一番は自分みたいな人間を生まないためだろうな。アイツは眼つきは悪い悪人ヅラだけど、良い奴なんだよ。最後の最後で残酷になり切れない、そういう眼をしている」
私の主観だがな、と付け加えるカレンをネージュは素直に尊敬していた。自分のことだけで精一杯な自分とは違う、誰かのことを考えられる姿に圧倒された。
「カレン先輩は仁の事に詳しいですね」
「かれこれ一年近くの付き合いになるからな。そのくらいなら色んなことが分かってくるようにもなるさ」
謙遜するカレンだがそれは少し違うようにネージュには感じられた。きっとネージュが同じだけの時間を仁と過ごしたとしても彼のことなど分からない、そんな気がする。だから仁の過去を知るこの先輩は本当に尊敬できる素晴らしい人なのだと思ったのだ。
「仁が言っていた尊敬できる先輩はきっとカレン先輩のことなんでしょうね」
「ったく。そういうことを言うのか、可愛い後輩め」
どこか照れた表情でカレンは微笑む。仁の事を気にかけている姿といい、まるで本当の姉弟のような二人。暖かい家族のような関係を少しだけネージュはうらやましいと思う。
そんなネージュにカレンは諭すように言った。
「それとな、あんまり人の過去を詮索するのは感心しないぞ。特にこの街ではな。ここには人に聞かれたくない過去のある奴なんてゴロゴロしてんだ」
「それはどういう?」
「知らないのか。十年前の『極東戦役』、わかりやすく言えば怪異の大規模襲撃と同時に起こった『
頭の中に散らかっていた点と点が繋がり、一つの答えを導き出す。けれどネージュはそれを口にできなかった。
「そして仁も私も孤児の一人って訳だ。まぁ、私は元々ストリートチルドレンでいつ死ぬかも分からない暮らしだったから失ったものなど何もないが……」
一瞬、カレンは目を閉じて口をつぐんだ。それから言葉を選ぶようにして、
「アイツは全部なくしてしまった。暮らしも、家族も、自分も、何もかも、な」
ネージュは何も言えない。
それは仁の苦痛を想像できないからではない。むしろ鮮明に想像できてしまうからこそ、きっと彼にとって憐れみ言葉など何の慰めにもならないのだと知っているから。
「だからさ、踏み込むんじゃない。アイツが助けて、って言うまで待ってやってくれ。それから何も言わずに受け止めてやってほしい」
暖炉に灯る炎を見つめながらカレンは呟く。それに答えるようにネージュは大きく頷いていた。
それを見たカレンは大きく息を吐いて、
「さてと、アイツも頭の冷えた頃だろうし、鍛冶場見学でもしていくか?」
と、その時。またしても工房の入り口の開く音がして、見覚えのある少年と少女がやってくる。
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