夕立

 築年数が年齢の3倍近くある、8畳一間に二人暮らし、バスルームにはトイレも洗面台もくっついている、キッチンのシンクなんて洗面桶程度しかない。ぎりぎり不快にならないレベルのカビの臭いが立ちこめるのは、唯一の窓が北向きの掃き出し窓だからそのせいかもしれない。隣の人の鼻歌も、生活音も丸聞こえ。あちらの音が聞こえるということは、こちらの音も聞こえるわけで、せいぜい気分転換に音楽でも聞こうなんてものなら、容赦なく壁がどつかれる日々。ただでさえ荷物が詰まった狭い部屋に、わたしの息も詰まり続けた。



 ママとパパが離婚した。理由は教えてもらえていない。離婚してすぐは、多分それはわたしがかわいいからではないだろうな、とのんきに考えていた。一ヶ月経つと、ママはわたしを連れてあの綺麗な家から今のアパートに引越した。家賃は5万円と管理費、わたしのスマートフォンは大手企業から格安プランの会社へと変化し、3ギガを超えるとママにひどく怒られた。大学も、かねてから希望していた私立大学はさすがに諦めてもらうかもしれない、と言われたが、わたしはもう学生を延長しようとは思っていなかった。なぜなら両親の離婚後、無視や仲間はずれは立派な「いじめ」へと進化を遂げたからである。トイレの個室はどれだけ晴天でも土砂降りになるし、虫こそ浮かないものの、スープや味噌汁には陰毛のような縮れた毛が浮いていた。これは誰の毛なのだろうとか考える余裕も最初はあったが、毎日のように続くとそれも失われていった。歯のない用務員さんと談笑中に、場のノリで肩を組まれているところを写真に撮られ、クラスのグループLINEに「歯無しともヤる女」という文面と共に送信されていた。優しかった異性が、すべからく好奇の目を向ける。でも、優しいことには変わりなかった。むしろ前より手厚くなった気さえする。パパに守られていた真綿の平和がなくなった。最新の家電製品も、広いバスタブも、わたしの個室もなくなった。結構かわいがっていたトイプードルも、もちろんここでは飼えないのでパパの家に置いてきた。

 トイプードルにはたまに会いに行けばいいや、その時ついでに、パパにお小遣いをもらえばいいや…そう思っていたのに、ママは離婚時の条件としてパパとわたしの接見禁止を提示していたらしい。パパはあんなにわたしのことをかわいがってくれたのに、それにはなぜか承諾したようだ。ママはなんて余計なことをしてくれたのだろう。わたしだって高校生も終盤、そのくらい先に相談してくれたっていいじゃないか。

「いい、大学いかない。いきたくないもん。」

 優しいだけが取り柄のママがわかりやすい空元気で振舞ったり、近所からの悪口を武勇伝のように語る姿にいつまでも慣れなかった。慣れないフルタイムの仕事に憔悴しているのは分かるが、慰める側の心のすり減りを彼女は理解していない。デパートで買ってもらったキラキラのコスメたちが底を見せてしまった頃、わたしは電車を乗り継ぎ、歌舞伎町に足を運ぶことにした。生活水準を下げることがこんなに苦痛だと思わなかったのと、息が詰まる家に安息のない学校、居場所がなくなった。ふらりと自分の居場所探し、かわいさをお金に変える術をこれから試しに行くのである。


 夜の煌びやかな仕事は、高校生の入店を許さない。キャバクラはおろか、ガールズバーでさえ門前払いだった。「来年の四月になったらまた来てよ、みおさんならすごいかわいいからめっちゃ稼がせるよ」。来年の四月までまだ何ヶ月もある。その間、底の見えたコスメが持つとは到底思えない。将来的な大きな金額でなく、今をわたしのまま生きるお金がいる。まず数万円でいい。高校生でも働ける店はないかと探しながら(また3ギガを超えてママに怒られるな)適当に歩いていると、ある病院の前に女の子が等間隔に並んでいた。背の高いモデルのような子、ツインテールで目の周りが真っ赤な子、カフェで読書でもしていそうな眼鏡の地味な子、どうやら待ち合わせスポットらしい。背の高いモデルのような女の子は父親が迎えに来たようで、そのまま帰っていった。

 とりあえずここでいいか。病院入口の花壇のへりに腰をかけて、お店探しを続けようとスマホに目をやった瞬間に肩を叩かれた。

「お金に困っていませんか?」

 見上げると爽やかなグレーのスーツの男性と目が合った。返答に困っているわたしを見て、畳み掛ける男性「君かわいいから、3万円。どう?」どうと言われても意味がわからなかった。でも3万円をくれるということはわかったので、わたしは初めて口を開けた。「あの、わたし、まだ高校生なんですけど働けますか?」男性の目の奥がギラリと光る。

「じゃあ、5万円。どう?」どうの意味はもうどうでもよかった。



 大きなベッドが真ん中に配置された、悪趣味な配色の個室。存在は知っていたが初めて入った。着くなりキスをされ胸を揉まれた。下半身に手が伸びてくる。

「あの、ごめんなさい。わたし…」やっとの思いで出た声はか細く、頼りなく空気に溶けてしまった。でも、男性はそこで止めてくれたのだ。そして慌てて「ごめん、もしかして初めて?」本当に困ったような顔をして覗き込んできた。わたしはそれがなんだか可笑しくて少し緊張を解くことができた。

 わたしは異性とのこういう行為は別に初めてではないこと、ただ事情がありお金がいるので働けるところを探しに歌舞伎町に来たことを伝えると、荒木と名乗った男性は色々と丁寧に教えてくれた。高校生が働いて大金を得られるところはほぼないこと、あの病院の前は待ち合わせスポットではなく、所謂『援助交際』の交渉を待つ女性が立つスポットだということ(立ちんぼ、というらしい)。──ということは背の高い女性も、父親でなく買春した男性とホテルに行ったのか。

「荒木さんは、よく女の子を買うの?」

「うーん、そうだね。君たち女の子がお金を求めるように僕は若い子とのセックスを求めてる。それは例えば風俗嬢ではダメなんだ。かといって、一から関係性を構築していくのは面倒。」

 こんな真面目そうな男性も、性欲の前にはお金を惜しまないんだ、女の子を買うっていう、世間ではいけないとされることをしてしまうんだ、しかも、未成年が相手でも。考えていると荒木さんは続けた。

「君がかわいかったから声をかけたし、君が未成年なのも唆るのは確かだよ。でも僕自身はなんとなく、君にはあの子たちのようになっては欲しくないと思ってしまう。大方ホストの売掛にでも消えちゃうんだろ?」

 わたしはずっと君と呼ばれるのもなんだか嫌で、みおですと名前を明かした。そしてホストには行ったことがないということと、自分の身に今起きていることも話した。「みおちゃんがどうしてもというならその通りにするよ。かわいいからこっちも有り難い。」

 荒木さんがなんとなく正しい道を提示してくれた時も、わたしの頭の中は5万円でいっぱいだった。初めての行為でもないし、これで男性が喜ぶのは知っていた。それが金銭に代わるのなら、なんて素晴らしい錬金術だろうか。


 荒木さんはわたしを優しく抱いてくれた。全てを優しく終わらせてくれたし、きちんと5万円もくれた。一緒にシャワーを浴びている時に「本名は言わない方がいいかもな」と教えてくれた。そして、「みんなが僕みたいに優しくないことは覚えておくこと、まぁ何だかんだ言って結局手を出した僕も、決して優しくはないだろうけどさ。」と付け足して先に浴室を出ていった。

 シャワーから戻ると、荒木さんは誰かと電話中のようだった。わたしが出てきたのを見ると、「ごめんね仕事に戻る、20時には帰るよ。」と電話を切った。

「彼女さんがいるんですか?」

「ううん、嫁だよ。去年の末に子どもが生まれてね。それから嫁とはこういうことできないから。」うちの子可愛いんだよ、見てよ、と続けながら荒木さんはスマートフォンのアルバムを開いた。アルバムのタイトルには子どもの名前だろうか?あやかと記されていた。お世辞にもかわいいとは言えない子どもの写真を見せられながら、へぇかわいいなんて適当に相槌を打っていた。

 ホテルを後にし、荒木さんの背中を見送ったわたしは、あろうことかまたあの病院の前に戻ってしまっていた。さっきとは違う目線で、そこにいる女の子たちの観察をした。テレビで見るような綺麗な子から、普通の子、そしてママくらいの年齢のおばさん、みんな何がしかでお金に困っている、身体を売っている、そういう目で見ると全然タイプの違う全ての女の子に、なんだか親しみが沸いた気がした。その日何度かまた声をかけられたが、そのまま帰宅してネットでいつものコスメをたくさん買った。コンビニで支払いを終えると、5万円はあっという間に残り1枚になった。それからしばらくは、歌舞伎町には近寄らないようにはしていた。一応の目標である生活水準の心配は消えたからである。



 先週から学校は夏休みに入った。これで陰毛入りのスープとも暫しの別れ。でも家にいればママに何かと口うるさく言われるし、好きなロックバンドの歌を流そうものなら壁をどつかれたりする。太陽が西に沈み始めた頃、バケツをひっくり返したような雨が降り出したが、わたしはその土砂降りの中、また歌舞伎町へ向かった。届いたコスメの底はまだまだ見えないが、財布が空である焦燥感には勝てなかった。身体を売ったあの日から、別に後悔もなかったのだ。すぐ止むと思っていた雨は、歌舞伎町に着いてもなお降り続いていた。病院前には色とりどりの傘が花を咲かせ、摘み取られるのを待っている。「君かわいいね、なにちゃん?おじさんでもいいかな?」見知らぬおじさんの問に、ふと荒木さんの顔が浮かんだ。──本名は言わない方がいいかもな。


 わたしは答える。

「あやか、です。優しくしてくださいね。」

 心の中で、荒木さんとその娘に謝った。雨は一層強まった。欲望と金がとぐろをまくこの街に、深い雨に、夜の闇に、わたしは呑まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕暮れの病院の前で みーこ @miipyan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ