曇天
朝に囀るのはどうも小鳥たちだけではないらしい。ゴミを捨てに行くだけで聞こえてくる私達母娘への侮蔑。「ほらあの、越してきたの」「捨てられたんでしょ?選挙活動にも大した顔出さなかったみたいだし当然だよねぇ~」「娘さんなんて高校生なのに毎日別の男連れて歩いてんだからたまげたって矢野さんが言ってたよ」「奥さんも、大人しそうな顔してねぇ~」。その後に全員で「ねぇ~」と不細工な声でハミングする。
雑鳥どもがいくら騒いだところで、私の晴れやかさに一片の雲も浮かばせることは不可能。私は姫を護る女剣士として、野次馬に一瞥もくれず堂々と道を歩く。今なら、そうね。ジャンヌ・ダルクの気持ちがよくわかるわ。
女好きは承知で結婚した。かわいい娘にも恵まれて、何不自由なく生活させてもらっているからよかったが、私のこの言い難い気持ちを誰もわかってはくれない。専業主婦という名の無期懲役の私。もはや寵愛も、懲罰さえもしてくれない看守の夫。若さと美しさをどんどん発揮していき、まるで王子様が現れんとするお姫様の娘。今なら白雪姫の魔女の気持ちがよくわかるわ。この世で一番美しいと、陽のあたった鏡のように輝く指輪をもらった私はもういない。顔は地味だし、貧相な胸。全裸で立っても色気もないのなんて、そんなの私が一番わかってる。鏡に問うまでもない。
夫はこの街の市長。「君には家庭をしっかり守ってほしいんだよ、僕は君たちに何の不自由もさせないつもりで外に出る。」彼の言葉に寄り添い、その通りにしてきた。自宅の一階には、事務所として毎日様々な人が訪れる。私が立ち入ることはほぼない。後援会には若い女もいるので、私がリビングで寛いでいるとたまに聞こえる声がある。「もう~智博さん…奥様に聞こえちゃうからホテルで…」そのまま始まることもよくある。発情期の雌猫は通る声でよく鳴くこと。野良猫の多い地域に住んでしまった、その程度のこととすぐに慣れた。糞尿を敷地で撒かれなければ可愛いものだ。それだけうちの雄猫が優秀なのだろう。
こんなに穏やかな模範囚の私なのに、ここ二年めっきりと褒美がない。野良猫を撫でるのに、そんなに夢中になる…?私の牢獄はほとほと乾いていた。二年もない営みを忘れられない愚かな私、あぁだから未だ囚人なのだな、これこそが罪なんだわ。今なら蛇に唆されたイヴの気持ちがよくわかるわ。決定的に違うのは、唆してくれる蛇も、魅惑の果実もないことくらいかしら…そんなことをぼうっと考えていたら、本物のイヴが帰ってきた。一分もすれば、ママ~冷蔵庫のチョコ食べてもいいかな?と聞かれるでしょ、私は答える準備をして待つ。「みおちゃん、手は洗ったの?」
娘は本当にかわいい。綺麗とも言える。長いまつ毛は何もせずカールし、くっきりとした二重の瞳は少々主張が激しい。鼻は高いが私に似て控えめで、口角はいつも10時10分だ。唇には一切の皺も見当たらない。私と夫の最高傑作だと、見る度いつも思う。最近は特に妖艶さも増した気がした。娘は蛇から林檎をもらったのだろう。私も通った道だからなのか、血が繋がっているからなのかはわからないけれど、雰囲気でわかるものだ。なんの躊躇もなくガブリと齧り付いて、その甘さに、歯触りに感動して、また一口、また一口と。林檎と同じ色の唇で、どこかに行きたがるのね。あぁ、あなたは囚人じゃないもの、どこにでも行けるのよ。私のかわいい娘、豊満な妖艶さをまとって、私がもう見られない世界を旅してきなさいな。そして囚われの貧相な私に、楽しそうに外の世界を聞かせてちょうだい。それだけが、今の囚人の楽しみだった。
蛇も林檎もないこの牢獄にも、パンドラの匣はあった。看守に構われなくなった退屈な囚人は、牢獄を隅々掃除するのが大好きになった。怠惰の象徴にある丸い掃除機には目もくれず、カントリー調のほうきとちりとりを持って掃除に励む。豊満な胸はないが、膨大な時間が私にはある。
今日は夫が出張(という名の何かかもしれないけれど!)でいないので、夫の書斎、もとい看守室にも掃除に入った。ここは私だけのパンドラの匣。初めて開けたのは、娘がまだ四歳の頃だった。その時見つけたのは「悲しみ・裏切り」、私はまだ弱かった。夫の胸板を幾度も叩き、罵り泣き喚いた。夫は私を宥めて抱きしめて、なし崩しにベッドに沈んだ。その夜のセックスはいつになく興奮したのを覚えている。今でもひとり思い出して耽るほどに、だからこそ味を占めた。二度目に見つけた「不安・恨み」、この時も結局しまいには時化こんで、夫が果てた灰白い残骸を指にすくって舐め取りながら、優越感さえ抱いた。その抱き心地も鮮明に残っている。三度目に出てきたのは「争い・嫉妬」、今までと違ったのは、その後のいい思いがなくなったことだった。夫の顔には極太の油性ペンでしっかりと〝うんざり〟と書かれていた。そんなの、私の方が先にそうだったのに。対抗心と共に「後悔」も一緒に見つけたので、その頃からはもう開けないようにしていたのだ。人間は痛みに強い、二年も経てばその後悔もとっくに排泄されており、私は久しぶりの開封の儀に心踊ってしまった。
ほうきが音を立て床に落ちた。下手くそなフラフープのようにカタカタとなった。ちりとりを持つ手は自我に反し震えている。
あぁ、開けなければ良かった。待っていた災厄は「貧困」。怒りと悲しみは、打ち消しあってゼロになった。脳内はひどく澱んだ灰色。立ち込める暗雲。
もう、台風の目を楽しむことは許されなかった。私がその赦しを求めなかったからだ。私は釈放された。入所時の持ち物など、何も無かった。
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