搖音

💔

「好きなひとが……できて……」

　顔を真っ赤にしながら目を逸らして、搖音（ゆね）はぽつりとそう言った。

　僕はいよいよ心が無風になったのを感じた。動くもののない、死んだ砂漠のようになって、渇いて、ひび割れていった。

　搖音が用意してくれたテーブルの上のコップを取って、喉を潤す。やっとの思いで返事をした。

「そうなんだ」

「うん……」

「搖音も、もう四年生だもんね。そういう人もできるよなあ」

「お兄ちゃん……わたし、どうしたらいいかな……？　こ、告白とかって、まだ早いかなぁ……？」

「搖音は可愛いから、告白したらみんなOKすると思うよ」

「もー！　こっちは真剣に相談してるの！」

「えー、本音なのにー。少なくともお兄ちゃんだったら、搖音みたいな美少女に告白されたら舞い上がっちゃうな！　そりゃーもう、お祭り騒ぎだよ。あの搖音ちゃんに告白されたんだぜ～って、クラス全員に発表して回るし」

「……ねえ、お兄ちゃん」

「全員に発表はうざがられるか。あはは！　でもそれくらいに嬉しいだろうな、きっと全人類がそうだよ。可愛い搖音の告白なら、誰もがOKするね。僕の命をかけてもいいぞ。それに」

「お兄ちゃん！」

「うん？」

　涙目で上目遣いをされた。

　僕が無造作にテーブルに置いていた手のひらに、搖音の細指が触れる。

　長袖に隠れた手の甲から伸びる、搖音のベビーピンクの指は、きゅ、と僕の指を握った。

「ちゃんと、きいて……？　こんなこと、大好きなお兄ちゃんにしか相談できないの……。お願い……」

　僕は口を閉じた。

　心を抑えた。

　じゃあさ。

　言わないでよ。

　大好きとか。僕に。言わないでくれ。

　ほんとうに僕が好きなのだとしても。そんなこと、言わないで。

　お兄ちゃんを苦しませないで……。

　幼稚園生の頃の搖音は、元気いっぱいな今の搖音と違って、びっくりするほど引っ込み思案だった。臆病で、いろいろなものを怖がった。暗いところが怖くて、家のなかでも夜は廊下に出られない。ひとりになるのが怖くて、誰かと一緒じゃないとトイレにも行けない。階段を下りるのが怖くて、一段一段丁寧に下りるから、いつもほかのさくら組さんたちに置いていかれていた。友達がいなかった。ほかの子のことが怖いと言って、いつもお父さんかお母さんにくっついていた。幼稚園ではいつもひとりでしくしく泣いている、そんな子だった。

　年長さんになっても同じだった。当時小学生だった僕は、弱虫な搖音を見ると、いらいらした。冷たく当たったこともある。そのたびにお母さんに怒られた。でも、ふーんだ、という感じで、反省はしていなかった。

　転機が訪れたのは、ある夏の日だった。

　お母さんが仕事が忙しいというので、その日は僕が搖音を幼稚園まで迎えに行った。たくさんの園児たちが親と一緒に帰っていくなかで、小学生の僕はおどおどとしながらも、幼稚園の先生に挨拶をした。先生は事情をお母さんから聞いていたようだった。

「搖音ちゃん、部屋から呼んでくるね。あと、搖音ちゃんずっと目をこすってたから、目の周りが赤くなっちゃってるかも」

「そんなに泣いてるんですか？」

　僕はまたすこし、いらっとした。泣き虫はばかだ。ばかは嫌いだ。先生に「だから優しくしてあげてね」と言われた時も、はあ～？と聞く気がなかった。

　すぐに搖音が年長さんの部屋から現れた。先生に手を引かれ、片方の手ではまだ目をこすっている。洟も出ているらしい。僕は不機嫌になった。口なんか聞いてやるまいと思った。弱いヤツは、ムカつくし、喋りたくなかった。

　搖音と目が合った。

　その瞬間、搖音が勢いよくこちらへ走ってきた。

「え！？」

　ばぎゅっ、と音がするくらいに強く搖音に抱きつかれ、僕はバランスを崩しかけた。僕の鳩尾のあたりに、搖音が顔をうずめる。思わずぽかんとした。払いのけるという発想も出てこなかった。ただただ、戸惑った。

　搖音は震えていた。

　死にかけたところから生還したはいいものの、まだその実感がなく、影に怯えているような、たとえるならそんな怖がりようだった。

　搖音が何かを言う。

　お兄ちゃん、と、蚊の鳴くような声が、お腹に押し付けられた顔のあたりから聞こえてきた。

　もう寂しくしないで。

　確かにそう言った。

　その時、なんだかわからないけれど、僕の腹の底から、狂おしく甘く、熱く、煮えたぎるような、手に余る力が突如として湧き上がってきた。このちっぽけな存在を、僕が護らなくちゃいけないと思った。経験したことのない感情だった。ただ護りたい、だけではない気がした。離れがたかった。この感情を理解できないまま、僕は搖音を抱きしめ返した。強く強く、抱きしめた。

　搖音は、僕の腕の中で、びくっと怯えるように肩を跳ねさせたが、腕の力と体温を感じたからか、やがて落ち着いていった。僕の方も、搖音の呼吸音が穏やかになっていくのと同じスピードで、不可解な感情が体に馴染んでいくのを感じた。

　しばらくの間、そうしてふたりで抱き合っていた。

　幼稚園の先生は、あらあら、と言い微笑んだ。

　後から知ったのだけれど、お父さんもお母さんも、幼稚園帰りの搖音には困らされていたのだという。抱っこしたり、赤ちゃんのように揺らしてあげたりしていたそうだ。ただ、僕ほどに強く抱きしめ返すことはなかったらしい。その日以降、搖音はすこしずつ笑顔を見せるようになった。お母さんに、あんたたち仲いいわねえ、と言われることが増えた。

　僕は搖音のことを事あるごとに抱きしめてあげた。搖音も、よく「ぎゅーってして」と僕にせがんだ。

　搖音を遊びに付き合わせた。だまし舟の折り紙の折り方や、ブランコの高くまでこげるこぎ方を教えた。搖音は「お兄ちゃんはいっぱい楽しいこと知っててすごい」と目を輝かせた。

　搖音に友達を作らせるため、勇気づけた。搖音ならできる、と心の底から励ました。自信なさげに俯いていた搖音も、顔を上げて、笑ってくれた。搖音のがんばりで、幼稚園にいるうちにふたりの友達と仲良くなることができた。

　両親と搖音と一緒に、ランドセルを買いに行った。みんなして「搖音が選びなさい」と勧めるものの、本人は「お兄ちゃんに決めてもらうー！」と言って聞かなかった。仕方なく、搖音に似合うものを僕が選んだ。

　小学校の入学式。

　桜吹雪が舞っていた。

　パステルピンクのランドセルを背負った搖音は、桜の下から僕を見つけ、満面の笑顔で駆けよってきた。

「お兄ちゃーん！　一年生になったよーっ！」

「搖音。立派だよ」

　僕たちは世界一の兄妹だ。

　真面目にそう思う。

　僕が中学二年生になり、搖音が小学四年生になったいまも、それは変わらない。

「そうだなあ。まずは聡史くんやその周りの情報収集をしたらいいよ。聡史くんは物静かで大人っぽくて、塾に通ってて、あとはなにかある？　知っていること」

「休み時間に、席で本読んでることが多いかも。なんか、なんだっけ、外国のファンタジー。分厚かった！」

「なにを読んでいるのか、聞いてみたら？　そこから話を広げられるかもね。でもたぶん、最初は警戒されちゃうかも。聡史くんとはそこまで話すわけではないんだろ？」

「うん……。このまえ用事があったから話しかけたけど、あんまり話が続かなかった……」

「搖音は聡史くんの読んでる本に興味ある？」

「ある！　わたし、『エルマーとりゅう』なら好きだったし！」

「だったら最高だ。どんどん質問してみるといいよ、聡史くんに。本についてをさ。聡史くんはきっと本が好きな人だから、本の話なら続けられるんじゃないかな？　それで最初は、仲良くなるといいよ。まずは聡史くんの一番の友達になるところからだ」

「うん……。…………」

「まだ不安？」

「勇気が出せるか、わかんない……」

「大丈夫」

「お兄ちゃん……」

「絶対、搖音なら勇気を出せるよ。きっとうまくいくよ。今までだって、頑張って話しかけて、友達をつくってきたじゃんか」

「そうだけど……」

「好きだっていう気持ちは、いざとなったら搖音のなかで思わぬ力になって、背中を押してくれるはずだよ」

「お兄ちゃんは……？」

「うん？」

「お兄ちゃんは、好きな人に、告白したことある？」

『搖音～！　お兄ちゃんも、搖音が大好きだよ～！』

「……あるよ」

「あるんだ……！　ど、どんな感じだった……？　うまくいった？　相手はだれ？」

「ふふ。誰かは言えないけど、世界一可愛くて、守ってあげたくなる、大好きな女の子だよ」

「わー！　わぁぁ……！」

「その子を支えてあげるために何ができるのか考えることが、僕の生きがいなんだ。……恥ずかしくなってきた……搖音、いま言ったこと誰にも言わないでね？」

「わかった！　搖音とお兄ちゃんだけの秘密！　……そーかぁ。お兄ちゃんも好きな人がいて、一緒にいるんだね……！」

「うん」

「お兄ちゃんが好きな人のことを話す時、幸せそうだった……」

「そう？」

「お兄ちゃん。わたしも、お兄ちゃんみたいに、幸せになれるかな……？」

「なれる。僕が応援してるんだから。絶対に、なれるよ」

「うん……うん……！　わたし、やってみる。ありがと、お兄ちゃん！　大好き！」

「僕も搖音のことが」

　砂利を踏んで夜の道を歩いている。近所で一番近いコンビニはセブンイレブンで、次がファミリーマート、一番遠いのがローソン。冬の夜風は堪えるけれど、いまは、冷え切りたかった。住宅街の端で、電柱を避けながら、ローソンの店内からあふれる過剰な光を目印に、進んだ。

　自動ドアをくぐると、店内放送だけが賑やかで、客は少なく、寂しげだった。ドリンクコーナーで、ふだん一切飲まない缶コーヒーを手に取る。ローソンまで歩くことが目的だから、コーヒーなんて必要はなかったけれど。

　わずかとはいえ僕以外に客はふたりいて、大人の、若い男女だった。二人組の男女は、何かを小声で話しながら僕より先にレジへ行った。僕はその後ろで順番を待った。

　男女はあたたかそうな上着と手袋と帽子をかぶっていた。

　僕は簡素なウインドブレーカーだ。

　その男女がどういう間柄なのかはわからなかった。しきりに小声でなにかを話しており、断片的に聞き取れたのは、他愛もない、きょうの晩ごはんの話だったり、明日の天気の話だったりした。

　なぜだか、レジ待ちの時間がほんとうに長く感じた。

　あたたかいコーヒーを買って、ローソンを出ると、粉雪が降っている。

　予報では確かにそうだったけれど、この地方には珍しい。

　白くてやわらかくて、周囲の光の加減で明滅する氷の粒は、すい、と降りて、僕の手のひらで消えた。

　儚くて、綺麗だ。

　コーヒーを開けた。

　口をつける。

　苦くて、不味い。

　ばかだなあ。

　――僕も搖音のことが

「大好きだ。きっとこの気持ちは永遠に消えない。でも、僕は、君の弱さや、君が僕を必要としてくれるところが好きなだけなのかもしれないね。幼稚園で抱きしめ合ったあの日の幻影にこれからも僕は縋り続けるだろう。僕は君の幸せを祈るふりをして、妹が兄から離れてしまうまでの時間を引き延ばそうとするだろう。搖音。いまごろ君は家の窓に額をつけて、雪に、はしゃいでいるのかな。予報では明日にはすべて溶けているみたいだよ。何事もなかったみたいに。でも僕は決して忘れない。前にも進まない。いずれ搖音は僕を置き去りにして走りだす。どこまでも行く君を、僕はやがて、風景みたいに眺めるようになるだろう。だめなお兄ちゃんでごめん。搖音を愛してる。ずっと、苦しむ。」