文化祭前日「グスコーブドリの伝記」⑨
「いつからいたんだ……」
「ごめん、最初から……」
小さく笑って、桂花が小首を傾げる。
シロがわざとらしいため息を漏らす。
「リンゴさんも共犯か」
「シロ君、ごめんね」
リンゴさんがシロの質問を謝罪で認める。
「別にいいけど」
「こうするしかなかったの、杏ちゃん、それだけはわかって」
「僕まで騙されるとは、リンゴさんは手際が良いなあ」
少しだけ、シロは愉快そうだった。騙されたことが嬉しいのか、それともそれすらもすでに知っていて最後のネタばらしを名残惜しんでいるのか。
カウンターの脇から桂花が歩き出て、水樹君の横に立つ。私とシロが、二人と向かい合う形になる。
桂花は私を見て話し始める。
「アンちゃん、実はね、私、数学が一番苦手なんだ。もうすんごく勉強して、毎日予習復習してあのくらいなの。お兄ちゃんはもっとできたはずなんだけど、やっぱり私って才能がないのかな」
「そんなこと、ないよ……」
彼女の実力は十分過ぎるほどだ。彼女が自分の兄を理想化しすぎているのか、本当にそれほどの人物だったのか、私にはわからない。
「本だって、いくら読んでもお兄ちゃんに追いつきそうもない。お兄ちゃんなら、お兄ちゃんなら、っていつも考えちゃう」
いないはずの、幻影を追いかけていた桂花。
「本当はね、私も、いつか、どうにかしなくちゃいけないって思っていたんだ。でも甘えちゃったんだよね、その方が楽だから、逃げちゃったんだ」
逃げたという桂花。
「わかってたよ、わかってたんだよ。もうお兄ちゃんはいないって。手紙のせいになんかしたりしない、私はわかっていたんだから。とっくに振り返っていたのに、見てみないふりをしていたんだよね、まるでオルフェウスみたいに」
最初から誰が書いたかなんて桂花にはわかっていたのだ。
それを冥界から妻のエウリディケを連れ戻す地上の階段の途中で振り返ってしまったオルフェウスになぞらえて桂花が言った。それを哀れに思った音楽の神アポロンはオルフェウスの竪琴を夜空に上げ、こと座が誕生したという、私でも知っている有名な話だ。
それなら、エウリディケが彼女の兄で、アポロンが彼女になる。
しかし、アポロンはまた狩りの女神アルテミスの兄でもある。兄妹というなら、彼女の兄がアポロンで、彼女がアルテミスになる。だとしたら、水樹君にとっては非常に滑稽な話だ。アポロンは妹アルテミスをそそのかし、その自慢の弓矢でもって恋仲ともいえるオリオンの頭を打ち抜かせた。私の知らない桂花の兄は、今は二つに分かれ、一方は桂花に、もう一方は水樹君に引き継がれることになった。水樹君は、アポロンとして桂花というエウリディケを失い、オリオンとして恋する桂花というアルテミスによって命を落としているともいえる。
「ずるいよね、卑怯だよね、馬鹿だよね、みんな迷惑かけてごめんね、でも、でもね、つらいけど、楽しかった、楽しかったよ、二年間も付き合ってもらってありがとう」
桂花は水樹君をちらりとだけ見た。うつむいている水樹君の表情は私には読み取れなかったし、桂花側からでもわからなかっただろう。
「でも、もう終わりにしようね。楽しかったけど、終わらせるなら今だよね」
「……うん」
うつむいたまま、水樹君はさらに頭を下げた。
桂花は再び私を見て、にこりと笑う。その可愛らしい瞳からは、涙が溢れ、頬を伝っていた。
「こんな私だけど、アンちゃん、友達でいてくれる?」
「もちろん、桂花がどんな桂花でも友達だよ」
彼女を安心させたかったからではない。
今の私の本心から出た気持ちだった。
「桂花、これ」
私は胸ポケットに入っていた、二日間温められ続けた便箋を彼女に渡した。おそらく最後になるであろうそれを彼女は泣き笑顔で受け取った。
「ありがと、アンちゃん。あとで読むね」
水樹君ではなく私にお礼を言って、それを開かずに自分の胸ポケットにしまった。
「先、行っているね」
桂花は、水樹君と一緒に図書室を出て行った。
結局、私は何をしていたのだろう。
私は夏休み前の出来事を、あの二人のことを今桂花と水樹君に重ねていた。
あのときと同じではないのだろうか。
シロの言うとおり、私は彼らにとっては無関係で、私がいなくても、いつかは同じ結論にたどり着いていたのではないだろうか。
だとしたら、私がしたことは二人の時計を少し早めただけだったのではないだろうか。
それに意味はあったのだろうか。
むしろ有害であったのではないか。
余計なお節介だったのではないだろうか。
ぐるぐると頭の中で思考が巡るばかりで、指を動かすこともできなかった。
「本物って、何だろう」
不意に口をついてでた言葉に、私自身が驚く。
彼は、彼らは『本物』だったのか、『偽物』だったのか、それはもうわからなくなっていた。
私はシロを盗み見る。
そこにはいつものぼんやりとしたシロがいるだけだった。
ただ、図書室を出て行く直前、私とすれ違う瞬間、桂花が呟いていた言葉がずっと私の耳にこびりついていた。
「大丈夫だから、お兄ちゃん……」
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