文化祭前日「グスコーブドリの伝記」④

「では、今度は、あなたたちの『物語』でも聞かせてもらおうかな、できたらだけどね」

 リンゴさんはまた指を立ててカップに口をつけ、残った紅茶を一気に飲み干す。

「『私たち』の、ですか」

「そう」

 彼女がそういうのなら、それは、私と、シロのことだ。

「何も、ありません」

 一ノ瀬先輩に答えたように、答え直す。

「期待されても困ります」

「期待はしていないよ、他人に期待しちゃいけないよ」

 カップの底に残された香りを名残惜しんで、彼女が息を吸う。

「私はね、さっき話した二人みたいに、あなたたちはなって欲しくはないと思う。もし引くなら今のうち。それ以上、深みにはまるのは私はおすすめしない、かな」

 いつもの軽薄さとはほんの少しだけ違う声色で彼女は、私に忠告めいたことを言った。

「深み、ってどういうことですか?」

「このままズブズブってこと」

「……わかりません」

「私もね、気持ちはわかるんだけどね。このままぬるぬるっとぬるま湯で過ごしていくのも悪くない、って思ってない?」

「それは、そんなことは」

 図星をつかれた私は否定しようといくつも言葉を浮かべるけれど、どれも空中分解をしてしまった。

「杏ちゃんはそれでもいいかもしれないけど、それでもね、シロ君はそれをいつか許してくれなくなってきちゃうと思うんだ」

 この状況が悪くないと思っているのは事実だ。たとえば、もう一度シロと紫桐さんがよりを戻すとしても、私への対応が変わるとは思えない。紫桐さんも束縛を強制をしないだろう。信じる根拠は絹糸よりも細くても、それだけは何となく実感としてある。

「これは、うーん、彼が他の人に取られるとか、杏ちゃんが可愛くて男の子だから我慢がうんぬん、って話じゃなくてね、もっと根源的なところの、根っこの、核の部分なんだろうけど」

 ぐるぐる首を回して瞬きをしている。言葉を選んでいるようだ。

「人間観察が趣味です、っていうとなんか無趣味かなんかに聞こえるけど、私の人間観察の結果を聞いてもらえれば、ってくらいなんだけど」

 やたらと前置きが長いのは、それだけ彼女にとって言いにくいことなのだろう。

「先に言っておくと、誤解しないでちょうだいね、私はシロ君のことかわいい後輩だと思っているし、本好きなところも良いと思っているし、見た目も、うーん、これは評価しちゃうとあれだから対象外として、ともかく、そういうぱっと思いつくことを除外しちゃったうえで、彼のことを私がどう思うのか、っていうとね」

 ひとつひとつ言い訳をして、私の顔色をうかがっているみたいだ。

「私は正直、シロ君が、怖い」

 彼女はそう彼を評価した。

「これが暴力的な怖さなら良いんだけど、いや良くはないんだけど、私が怖いのはそうじゃなくてね、まるで、砂のお城みたいなのよ。砂上の楼閣ってやつ?」

 砂の、城。

「確かにあるんだけど、蜃気楼みたいにいつか気がついたらなくなっていて、後にも先にも存在を残さないような、そんな気がする。そして、その城を壊すのは、きっと彼自身には簡単なんだろうとも思う。これが私の勘違いで、そんなことないっていうならそれが一番良いんだろうけどね」

 彼女の言っていることが正しいかどうかはわからない。ただ、彼女がそう思っている、に過ぎない。

 でも、紫桐さんも似たようなことを言っていた。小さな頃からずっと一緒にいる彼女だからこそわかる彼の変化がどこかにある、と。そしてきっかけが一ノ瀬先輩の言う『神様事件』の影響なのは、おそらく、間違っていないだろう。

「今はぬるま湯で心地良いかもしれないけれど、近いうちにそれが苦しくなる。もしシロ君のことを杏ちゃんが好きでいてくれたらいいな、とも思うけどね」

「なんですかそれ」

 思わず笑ってしまった私にリンゴさんが舌を少し出してウィンクする。

「お姉さんは酸いも甘いもちゅうちゅう吸いたいのよう」

 いつものおちゃらけたリンゴさんが急に顔を出す。

「でもあんまり深刻にとらえないでね、そう思ったってだけ。彼をどこかに縛り付けておきたいなら、早めに手を打たないとってこと、かな?」

「……ありがとう、ございます。わかったようなわからないような」

「はい、杏ちゃんのそういう素直なところが私は好きだよー」

 私が素直、か。確か春にシロにも、一ノ瀬先輩にも同じように言われたけれど、自分自身それほど素直だとは思っていない。

「それも、ありがとうございます。もう教室に戻らないと」

「はいはい、くだらない話につきあってくれてありがとね」

「いえ、こちらこそ」

「それじゃあ、戻る前にこれを借りていきなさいな」

 彼女が立ち上がって、水樹君が作った天文学のコーナーから一冊の本を持ってきた。

「これは……」

「少しは彼の気持ちがわかるかもよ」

 彼とは、どちらのことを指すのだろう、と一瞬思ったが、リンゴさんはすでに笑顔で手を振っていたので聞くことはできなかった。

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