文化祭前日「グスコーブドリの伝記」③

 ふらふらと、私の足は教室ではなく図書室へ向かっていた。

 教室へ行って、桂花と顔を合わせる自信がなかったからだ。シロは部室にいるから、そちらにも戻れそうにない。だから今私が行ける場所は図書室しかなかった。

 一ノ瀬先輩は嘘はつかない。

 それは半年間の少ないやりとりだけでわかっている。

 信頼ではなく、事実として、だ。

 それなら桂花のことは?

 彼女は、明らかに、彼女のお兄さんが『生きている』ものとして話していた。

 彼女のことは信用できる?

 彼女は大切な友人だ。

 信用したい。

 だけど。

「願うことと、事実は違う」

 シロの声が頭に響いた。

 そうだね、きっとシロは正しい、と私は心の中のシロに返事をした。

 正しいけれど、と呟き、続きはうやむやにした。

「いらっしゃい、浮かない顔してるね」

「リンゴさん……」

 カウンターにはまるで日常のように、リンゴさんが座っていた。

 ドアを閉めると、無音になる。

 まるで、シェルターのようだ。

「お願いだからそんな今にも泣きそうな顔してないで。今は誰もいないよ、私と、杏ちゃんだけ。お茶でも持ってこようか?」

「ありがとうございます」

 リンゴさんはてきぱきとカウンターの奥に引っ込みガチャガチャと作業をしている。奥に電気ポットのようなものがあるのだろう。本で覆われている部屋なのに良いのだろうか、と自分ながら今はどうでもいい心配をしていた。

「よいしょっと。ティーバッグだけどね」

「いいえ、ありがとうございます」

 カウンタの上にカップが二つ並べられた。

「ささ、座って座って」

 カウンタの向かい側、私のそばにイスが置かれる。誘われるままに私は座った。

 出された紅茶に口をつける。

 ほのかに甘い香りが鼻を抜けていった。

「どうかな、少し落ち着いた?」

「……はい。これは、ひょっとして、アップル、ですか?」

「ご名答、リンゴだけにね」

 にゃにゃは、と奇妙な声でリンゴさんが笑った。

「次はアプリコットでも仕入れてこようかな、杏ちゃん」

「……期待しています」

 アプリコット、杏のことだ。

「さて、だけど杏ちゃん。その顔つきだと、何か言いたいことがあるみたいね」

 レンズの奥の瞳を細くさせて、リンゴさんが私を見る。

「リンゴさんは、やっぱり、シロの言うように、全部知っていたんですか」

 思い切って、私は一昨日誤魔化された質問をまたする。

「それは難しい質問だね、ワトソン君。世の中、一体何をどこまで知っていればいれば『全部』知っていたことになるんだろうね」

 メガネのフレームを直して、格好をつける。

「茶化さないでください」

「うんにゃ、私は茶化すしかないのよ。よくよく、くよくよせず考えて、私は私の存在自体を茶化すしかない、そういう役回りなのよ」

「役回り、ですか」

「そう、ただの狂言回しの舞台装置が私なの」

 何かの漫画のキャラクターみたいな言い回しで彼女は言った。

「シロは最初にリンゴさんは宛先も知っているって言いました。これは本当なんですか?」

「それは言えないのよ、本当に」

 言えない、ということは、知っている、ということの言い直しだ。

「わかりました」

「物わかりが良くて大変よろしい。ところで、杏ちゃんは宮沢賢治だとどの話が一番好き?」

「え、えーと、教科書に載っているのと有名なものくらいしか知らないです。『銀河鉄道の夜』とか『注文の多い料理店』とか『オツベルと象』とか、あとはなんでしたっけ、『クラムボン』が出てくる」

「『やまなし』だね」

「はい、それくらいです。リンゴさんは?」

「私はやっぱり『グスコーブドリの伝記』かな。もし読んでないなら貸してあげるよ、あ、貸すのは私じゃなくて図書室から、ってことだけどねー」

 知らない名前だった。リンゴさんが好むような話だから、恋愛色の濃い物語なのだろうか。

「そうします」

「それじゃあ、少しだけ、物語をお話しましょう」

 リンゴさんが両肘をカウンターの上において、組んだ手の上にあごを乗せた。

「物語?」

「そう、ある女の子の物語。私ができるのは物語を語ることくらい」

 彼女が一つ、大きく息を吐く。

 反対に私は息をのむ。

「あるところにとても仲の良い兄と妹がいました」

 それは、彼女の通り、誰かの物語だ。

「兄妹仲は大変良く、誰もがうらやむくらいでした。兄はとても優秀で、常に誰かの役に立ちたいと率先的に動くような人物でした。妹は体は小さく弱く、兄の後ろにいつも隠れていました。そのうち、妹はそんな兄に兄妹以上の、尊敬以上の感情を持つようになりました、それはとても自然なことのようでした」

 微かに、リンゴさんが視線を落とした、気がした。

「妹はそれを兄に隠していましたが、周りからみればそれは明らかで、とても隠しきれるものではありませんでした。妹はその気持ちを打ち明けるつもりなんて最初からありませんでした。ただ一緒にいられれば、それが永遠に続けば、それで良いとさえ思っていました。しかし、やはり、そうはいきませんでした」

 努めて冷静に話そうとしているのが私にも伝わってきた。

「兄は、自分の性格ゆえに、よくトラブルを引き受けていました。妹はいつもいつも心配をしていました。そしてその心配がいよいよ本当のものとなってしまうのです。兄は、自分を犠牲にすることで、みんなを守ろうとしたのでした。妹にとって、兄に危害が及ぶことなら他の人なんて、自分ですらどうでもよいと思っていましたが、兄にとってはそうではありませんでした。兄は心配をするな、と言いましたが、妹は心配で仕方がありませんでした。必ず帰ってくると兄は言い残して行き、妹はその帰りを待つことにしました」

 彼女がため息を一つつく。

「結果的に、兄は帰ってきませんでした」

 残酷な最後を彼女が告げる。

 そして、

「妹は今でも、兄の帰りを待っています」

 と、より残酷な言葉を続けた。

「これで、終わり。終わりよ」

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