文化祭二日前「双子の星」⑩
病院からの帰りにコンビニに寄って何かを探すでもなくうろうろとしていた。これも散歩の一部だろう、今日あったことを色々と思い返していた。何も解決したようにも思えなかったが、こうやって毎日が過ぎていくことにも慣れ始めていた。
夕飯の時間はとっくに過ぎていたが、父は家にいないことは知っていたので、コンビニで調達するため、ただそこまで空腹にはなっていなかったので、サンドイッチを一つ、それにシュガーレスの炭酸飲料を買うことにした。
コンビニを出て、小さな公園を横切る。
その公園のベンチに見知った顔があるのに気がついて、私は左横に座る。
「うわっ」
急にシロが顔を上げる。
こちら側に顔を向けたシロが長く息を吐いた。
「なんだ、杏さんか」
「なんだはないでしょ」
「いや、こんな時間にこんなところでベンチに横に座られたらびっくりもするよ。一瞬身構えてしまった」
相変わらずの眠たそうな顔でシロが言う。緊張していたようには見えない。
「それはそうかも」
「それで?」
顔を横に向けながら、シロは首を傾ける。
「で?」
「何かあった?」
「いや、別に何もないけど。シロがいたから」
「ああ、ああ、そういうことね。偶然だ」
「そう、偶然」
「何していたの?」
制服を着たままのシロに問いかける。私も制服のままだけど。
「いや、最後の準備をしていて、それでようやく解放されたってだけ。あまりに疲れているから家に着く前に少し休憩をしていたんだ」
シロが膝の上にある包み紙を見せる。コンビニで売っている肉まんかあんまんかだろう。
「いつもそんなものばっかり食べているの?」
「ただの道途中のエネルギー補給。杏さんだって」
私の膝にあるビニール袋をシロが指さす。
「うん、私は、そんなにお腹空いていなかったから」
「そう」
それでシロは正面をむき直した。私も正面を見る。
お互いに無の時間が流れる。
公園の一角にある噴水は今日も流れていなかった。夏の明るい時期にだけ流れるのかもしれない。
「もうずっと流れていないよ」
私も心の声を読み取ったのか、シロが言った。
「経費削減か故障か知らないけど、たぶん、もう何年も使われていないと思う。僕が流れているのを見たのはもっと小さい頃かな。なにせ少子化だしね」
わかるようでわからないような付け足しをした。
「食べないの?」
シロが私の方を見ずに言う。
「うん、家に帰ってからにしようと思っていたけど、いっか」
私がビニール袋からサンドイッチを取り出す。ハムとキュウリとレタスのこのコンビニで売っていた一番薄いサンドイッチだ。包装の後ろのテープを引き、一つを口に運ぶ。意外でもない食べ慣れた味だ。
シロは無言で座っている。私が食べ始めたから帰る、というわけでもないようだった。何かを話したいといった雰囲気もない。私は手早く食べて、最後に喉に張り付いたパンを炭酸で引き剥がして流し込む。満腹や満足にはほど遠いけど、今日はこれくらいでいいだろう。
「今日は大変だったね」
その作業がすべて終わるのを待っていたかのように、シロが口を開いた。顔は正面を向いたままだ。
「そう、そうだね」
大変だったのかどれのことについてか、あるいは全部についてかは問いかけなかった。
「杏さんははやめに帰ったかと思っていたけど」
「ああ、うん、病院に行っていたから」
「そう」
吐く息に合わせたみたいな短く言葉を返す。
夏休み、観覧車の中で私は彼に自分がどうしてここに来たのかを曖昧ながらも話している。だから、これだけで彼には伝わる、察しが悪そうで頭が回る彼には伝わってしまうだろう。
「もう定期的には来なくていいって」
「それは、いいこと?」
「たぶん」
「それじゃあ、よかったね」
シロが生返事を返した。
興味がないのか、それとも過剰に踏み込まないようにしているのかはわからない。たぶん後者ではないか、という気持ちはある。こういうときの、適切な距離感をシロはいつも測っているように思える。
「今日みたいのも、我慢できるようにならなくちゃね」
「それは、どうだろう」
「どうして?」
「我慢するってことは内側にストレスを溜めることだから、小規模な爆発なら許されるんじゃないかな、まとめてドカン、というやつよりはいいよ」
「なんだか経験がありそうな言い方」
「それなりに生きているからね」
「私と同じじゃない」
私のツッコミにシロが軽く笑った気がした。
「そう、杏さんが色々なことを経験をしてきたように、僕にもそれなりに経験があるってだけ」
「それは……」
言いかけて、止める。
私が彼に踏み込むことは許されるだろうか?
誰の許しを?
首を二度横に振って、呼吸を整える。
「一ノ瀬先輩が言っている『正義の味方』のこと?」
「うーん、まあ、そうだね、それだけじゃもちろんないけど、それは大きい」
少し歯切れが悪そうにシロが軽い口調で言った。
「まあ、色々なことに勝手に首を突っ込んで、色々なことで痛い思いをしたってところかな」
「紫桐さんと?」
「そうだね、二人で」
シロが右手で頬杖をついて、遠くを見ていた。その先には寂れた商店街があるだけで、彼が本当は何を見ているのかはわからない。
「そう」
ここまであっさりと言われてしまうとこちらも返す言葉がない。
「みんなの厄介事を引き受けて、それがどんな真実であれ、相手がどう思うかも考えずに解決して回っていた。それで一ノ瀬先輩に出会って、あとは、ああ、これ以上は言わないね」
「うん」
一ノ瀬先輩が『正義の味方』と呼んでいたシロの時期だ。
私は夏にシロの部屋で見たスクラップブックを思い出す。おそらくそれも関係しているのだろうが、何も見ていないと言った手前、それを持ち出すことはできない。たとえ見ていたとしても、それを持ち出すのは今でもない。
「だから、あんまり今はそういうことに率先的に関わりたくないって感じかな。今のリンゴさんの依頼のこともそうだし、そもそも春のことも夏のこともそうだよ」
「私が無理矢理やらせているから付き合っているの?」
「そこまでは言っていないけど」
「言っているように聞こえる」
「それならそれでもいいけど。僕は杏さんがいつか取り返しのつかない痛い思いをしないかどうか気にしているんだよ」
「心配症だね、シロは。私は大丈夫だよ」
「そうだね、ずいぶん強くなったと思うよ。僕がいなくても大丈夫なくらいに」
「そういうつもりで一緒にいたの?」
これはかなり意地悪な質問だ。言葉に出してから反省したが、言ってしまったことは取り返せない。
シロがこちらを頬杖をつきながらこちらを見て、苦笑いのような曖昧な表情をした。
「僕は杏さんを守ると言った。それは杏さんが拒否しない限り、だよ」
目を少しだけ細めてシロが言う。
心臓が跳ねて明確にドキリとした。
「そんな重い思いで受けたんじゃないよ」
そう言うのが今の私には精一杯だった。
「そんな重い思いでとらえなくてもいいよ」
シロが私をじっと見ている。
再度沈黙。
数秒の間があって、シロがまた正面をむき直した。
「こういう話を知っている?」
シロが切り出した。
「昔々、山に一人で住む男がいました」
語り始める。
「男の家には古いオルゴールがありました。そのオルゴールはもうすでに壊れてしまっていて、ネジを回しても音が鳴ることはありません。それでも男はそのオルゴールを大事にしていました。あるとき、男の元を訪ねた別な男が言いました。自分ならそれを直すことができる、と。しかし男はそれを断りました。それからも、ずっと男は壊れたオルゴールを大事に家に置いています」
シロが一気に喋った分、息を整える。
「以上」
「なにそれ」
「そういう話があるよってだけ。たいした意味はない」
「よくわかんない。ウミガメのスープみたいなやつ?」
「ウミガメのスープ? ああ、イエスノーで答えを導き出すやつか」
シロが手を振る。
「いいや、そういうんじゃなくて、僕が知る限りでは、この話に答えはないと思う」
「じゃあ心理テストみたいな?」
「うーんどうだろう、専門家が聞けばそういうことにもなるかもしれないけど、僕はやっぱり知らない」
首をシロが大きく曲げる。
「杏さんはどう思う? どうして彼はオルゴールを直さないか」
しばし思案。
壊れたオルゴール。
どのくらいの大きさだろう、手のひらに乗るくらいだろうか。
「誰からかもらったものなの?」
「そういう情報はさっき話した以上のものはないよ」
「何の曲なのかも?」
「そう、そういうのもわからない。いや、本当はもっと詳細な情報がある物語だったのかもしれない。僕が知っているのがこれだけってこと」
「誰から聞いたの?」
「それは今は関係ない」
シロが唇に人差し指を置く。
もう聞こえることができないのに、でも捨てることはできない。
私なら、修理してもらうだろうか。
「もっと壊れてしまうのが怖いから?」
「直せると言われているのに?」
「うん、他人に触れられることを含めて、わずかでもこれ以上壊れるのが怖いからなんじゃないかと思う」
一度壊れたものは、完璧には直らない。それを知っているのであれば、壊れたものは壊れたまま愛するしかないのではないだろうか。
「そう、杏さんはそう考えるんだ」
「シロは?」
「僕? 僕は、そうだな、考えたこともなかった」
「私に話すくらいなのに?」
「自分事として考えたことがなかったってことかな」
「そんな」
「そうだな、合理的に考えれば、外装のみに価値があるってことじゃない? ゼロの中身を修理したところでゼロのままなんだ」
中身に価値はなく、外側にこそ価値がある。
「シロっぽいね」
シロが立ち上がって、無造作に右手で左腕を払った。
「どうかな、ああ、そういえば」
「なに?」
「二人でこんな時間を過ごすのも久しぶりだね」
ふいに言った言葉が胸をざわざわとさせる。
「そうだねシロ、観覧車以来?」
「そうそう、それくらい」
夏休み、ロッテが来ていたときに水族館でリンゴさんたちの計らいというか、陰謀というか、そういうので二人で観覧車に押し込められたとき以来だろうか。短時間では二人でいても、学校で、周りにすぐ誰かが来る状態だった。
そう言われてしまうとどうにも意識してしまい、スカートの裾を両手で握ってしまう。
「嫌?」
「え、別に、いやとかそういうのじゃなくて、久しぶりだなって思っただけだけど」
「そうだよね」
「うん。ああ、誕生日、ありがとう」
「今さら?」
「時間を経て価値に気がつくということもある」
ついこの間にあったシロの誕生日に私がプレゼントをしていた。
「でもどうしてあれを選んだの? ああ、いや、わざわざそういうのは聞くべきじゃないことなのかもしれないけど」
「図書カードも考えたけど、そういうのはやっぱり違うと思ったから」
「まあ、そうかもしれないね」
「本っていうのは決めていたけど、シロは読んだら古本屋に売るタイプじゃない? だから、なるべく売れにくいものにしようと思って」
「たしかに、あれは手元に置いておいた方がいい本だからね」
「うん」
「ありがとう、大切にするよ」
「ありがと」
「杏さんはいつ?」
「……十一月」
「まだで良かったよ、何か考えておくね」
緩やかな笑顔でシロが言う。
それに私も応じる。
「うん、期待して待ってる」
「それじゃあ、今日はもうこんな時間だし、また明日」
「うん、また明日」
私は立ち上がるシロの背中を見続けて、彼が公園からいなくなるのを待って、ようやく立ち上がった。
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