文化祭二日前「双子の星」

文化祭二日前「双子の星」①

『また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。

(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)』



 文化祭二日前。

 文化祭前だろうが、憂鬱だろうが、平日のバスは時間通りに私を学校近くまで運んでくれる。

 今日はいつもよりも早く家を出た。

 かろうじてアナウンスが聞こえる範囲の音量で、ネットラジオを聞いていた。夏休みに東京で買って新しくした黒いスマートフォンから取り込んだ音は、それまでの音楽専用機で聴いていたのと違って少しだけ安っぽく聞こえたけれど、ラジオを聴く分には影響がないし、それはそれで今の心境に合っていた。専用機分の重さがなくなって、体がわずかに軽くなる。なるほどそれがスマートなんだな、とぼんやりと考えていた。

 ネットラジオは先週生放送を聴き逃していたQQLという音楽ユニットが毎週木曜日に放送しているものだった。主立った活動はネットだけで、シークレットイベントで登場する以外は姿を現さない正体不明のユニットだ。

 爽やかな音楽のジングルが流れ、柔らかい丸い声が聞こえる。

「QQLの『夜のラジオ』へようこそ。お話し相手は、私、ナルと」

 ぼんやりとした男性の声がそれに続く。

「ユーリ」

「の二人でお届けいたします。一日の終わりの大切な時間、あと三十分だけ、私たちと付き合ってね」

 ボーカル担当のナルと、作曲その他担当のユーリ。

 五月のゴールデンウィークのライブで私は初めて薄暗がりで二人を見ることができた。あまり大きくはない体から大人びた女性の雰囲気を出しつつも、全身を跳ねらせて踊り歌うナルと、後ろでキーボードやDJの機械を操作している悪戯っぽい笑顔を浮かべたユーリ。

 そのうちナルとは夏休みにもう一度会い、会話をすることができた。

 私はバスの中で目を閉じて、夜の世界に没入しようとする。

「もう秋が近づいてきましたね、それでは、まず一曲目から。『暗がりに棲む』です」

 ナルの声とともに、音楽がフェードインしていく。

 普段のポップでキュートな曲調を残しつつも、どこか不安げな、部屋の四隅の暗がりを怖がる少女の物語を、抑揚のない台詞のようにナルが歌っている。

「『暗がりに棲む』でした。ありがとうございます。それでは、今日はメールから先にどんどんいっちゃおうかしら? どうユーリ?」

「別に問題はないんじゃないかな」

 専用の掲示板に書き込みがあって、それを読みながら進行をしていくことが多い。

「ふふ、それじゃあね、これから。えーと、ラジオネーム『マシュマロ』さんから、いつも聴いています、ありがとうございます。『私は学校で好きな男の子がいて、その子に告白したのですが、他に好きな人がいると振られてしまいました』あらあら残念。『そのこと自体は納得をしたのですが、そう簡単に諦めてしまって良いものなのでしょうか?』」

「じゃあ諦めなければいいじゃないか。いや、すっぱり諦めても良いけど」

 横からユーリが口を挟む。

「ちょっと待って、続きがあるの。『私は納得をしたつもりなのですが、その後の気持ちのやり場に困っているのです。私はずっと彼のことが好きでした。振られた今でもその気持ちは変わらないつもりです。ここで、簡単に諦めるのは、彼のことをずっと好きだった今までの私自信を裏切ってしまうのではないのでしょうか。率直な意見をお聞かせください』ですって」

「うーん、それは難しい」

「あ、珍しくユーリが真剣ね」

「珍しくとはなんだ珍しくとは、いつだって真剣に生きているつもりだ」

 茶化したナルにユーリが反論する。

「これは、自己愛にも繋がる深い問題だ。また彼女は、連続する自分という存在というものに疑問を持ち始めている。時間は連続しているのか、それも問題になるな」

「なんか、哲学的な話にすり替えてうやむやにしようとしていない、ユーリ?」

「あ」

「あ、ってことは認めたのね……」

「じゃあ、適切なアドバイスでもしてよ、耳年増」

「い、あ、あなたねえ、本当いつか悪い病気になるわよ、というかするわよ」

 ユーリの嫌味に引きつった笑みを浮かべたであろうナルを想像して思わず失笑してしまい、横にいた男子高校生に見られてしまった。バスの中にいるということをすっかり忘れそうになっていた。

「いつ呪術師になった」

「人差し指が折れると仕事にも支障を来たすわよねぇ」

「物理的な脅迫!?」

 ユーリが怯えた声で返す。

 二人とも別に本業があるらしく、あくまで音楽活動は趣味の延長線上にあるらしい。顔が広まって本業に影響が出ると困る、というのもあって積極的には表に出てこないらしい。ユーリはどうやらネット関連の仕事をしているようで、ナルの言う指が折れると困るというのはキーボードが叩きにくくなるからだろう。

「えーユーリのことは放っておいて、『マシュマロ』さんへ」

 ナルがこほん、と咳をして場を持ち直そうとする。

「あなたを納得させるような回答は、すぐに思い浮かびそうにはありません。でも、あなた自身が前に進もうとしたことは事実だと思います。これは始まりの一歩です。そのことだけは忘れないようにして、あとは時間がゆっくり解決してくれると思うわ」

「だといいね」

「余計なことを足さないで、どーせ耳年増ですよーだ。でも、本当に、深刻にならないでね」

 ナルは今度はふくれっ面になっているだろう。表情がくるくるとめまぐるしく変わるのが容易に想像できた。

「では、今日はもう一曲、特別にアコースティックで歌いたい曲があるのだけど、ユーリ、準備はどう?」

「うん、うん」

 ジャカジャカと鳴らし、それから一弦ずつチューニングをしているようだ。

「オーケー」

「今回は曲自体はオリジナルではないの、だからダウンロードはなし、これからの一発勝負ってことにしてね。もう少し秋が深まって、私の住んでいた街の夜空が澄み切ってくると、どうしても思い出してしまう曲なの。じゃあ行くよ、ユーリ」

「うん」

「それでは聴いてください。宮沢賢治作詞作曲で、『星めぐりの歌』です」

 ユーリが静かにギターを鳴らす。

 いつものふわりとした声ではなく、透き通った声色でナルが歌う。


「あかいめだまの さそり

 ひろげた鷲の  つばさ

 あをいめだまの 小いぬ

 ひかりのへびの とぐろ


 オリオンは高く うたひ

 つゆとしもとを おとす

 アンドロメダの くもは

 さかなのくちの かたち


 大ぐまのあしを きたに

 五つのばした  ところ

 小熊のひたいの うへは

 そらのめぐりの めあて」


 短い歌だ。

 最後のギターの余韻が消えても、まだそこに音楽が残っているようだった。

「ふう、さあ、こんなものかしらね」

「悪くなかったと思うよ」

 ユーリが感想を言った。

「もう少し褒めてくれたっていいのに、ほらみんな褒めてくれてる」

 彼女が言っているのは、掲示板の書き込みのことだろう。

 私も初めて聴いた歌なのに胸に染み込んで心が暖かくなるのを感じていた。きっとバスの中でなく家で一人きり夜に聴いていたら泣いていただろう。

「ああ、もう、すばらしい! 感嘆したよ!」

 大げさにユーリが拍手をする。

「ひどい、今度は嘘くさい。もう二度と歌わないんだから」

「ごめんごめん」

「もう知らない」

 それからナルは掲示板の書き込みを読み、ユーリが適当極まりないボケをしてまたもリアルタイムのユーザーから突っ込まれて、を繰り返していた。

「さて、そろそろ時間かしらね」

 時間は三十分、リアルタイムだと夜の十二時に近づいているようだ。個人でやっているネットラジオなので厳密な時間に縛られないのでときどきは延長したり短縮されたりもしている。

「それでは良い夜を、QQLでした」

「次は東町ターミナルです」

 音楽の終わりかけとバスのアナウンスがリンクした。私はケータイを取り出して、音楽アプリのストップを押して、イヤフォンを鞄にしまう。

 バスを降りると見知った顔が二つあった。同じバスに乗っていたのに、私がラジオに集中していたために気がつかなかったのだろう。

 二人は知り合いなのだろう、並んでバスを降りていく。

 その二人、私の友人と水樹君は会話を交わしながら、私の前を歩いていた。

 二人はとても仲が良さそうだった。

 知らない人が見たら恋人同士と思ってもよさそうで、そんな二人の間に今から割り込む気にはなれず、私はそんな二人の後ろ姿を見ていた。

「いよう」

「はい?」

 後ろから肩を叩かれた。

 振り返ると、ヘッドフォンを首に巻き付けている男子高校生がいた。中性的な顔立ちで、憂いを帯びた瞳が印象的だ。その彼が肩をすくめた。

「一ノ瀬先輩、おはようございます」

「睨むことないじゃないか、朝の挨拶くらいするぞ俺だって。それに俺は敵じゃない、そのあたりは勘違いしないでもらいたいな」

 新聞局の三年生である一ノ瀬先輩だ。先輩とは四月に知り合って以来、たびたびの出来事で因縁めいたものが築き上げられていっている。たとえば、先輩の横に無言で立っている不健康そうに目の下にクマを作っている人とかとだ。

「絹木先輩もおはようございます」

 彼女は小さくうなずいた。ひょっとしたら小声で挨拶をしたのかもしれないけれど、挨拶があったとしても周りの騒音の方が大きかっただろう。

 たぶん、一ノ瀬先輩の恋人である美術部二年生の絹木先輩とは、学校内で会えば会釈をする程度の関係だ。きちんとした会話をした記憶はない。記録にはもちろんない。出会ってから間に夏休みを挟んだからかもしれないけれど、そうでなくてもこれ以上私と彼女の関係を進展させることはなさそうな気がした。

「何か用ですか?」

「おいおい、用がなくちゃ話しかけちゃいけないのかよ」

「いえ、そんなことはありませんけれど……」

 先輩は私よりもシロと因縁が深いようで、こちらから見れば一方的に先輩がシロに執着しているようにも思える。確かに底のしれない危険人物であることは間違いなく、シロも私と先輩が二人で会うことを快く思っていない。

「それじゃな、文化祭頑張れよ」

「あ、はい」

 頑張る?

 何を?

 先輩に言われると何もかもが意味深に思えてくる。

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