6

 抽出に落としていた目を上げて壁掛け時計を確かめ、ゆりのははっとした。いい加減支度をして出なければ、待ち合わせに間に合わなくなる。

 焦って取りだした一枚は、あの日、試着室で桃子に襲われた日に着けていたものだった。ローズピンクの花柄の刺繍、ワンポイントで白いリボン。可愛いけれどありきたりに思えて、買った当時からそれほど気に入って着た記憶がない。そういえばあれから着けていない。

 もういいか、これで、無難に可愛いし。ゆりのは手早くブラジャーとショーツを着け、ローションを塗って、蓮実からもらったチュニックのスリップをかぶった。シンプルなすみれ色のワンピースを着て、念入りに化粧をする。

 社会人になって暫くして、恋人が出来た。同じ部署でゆりのに仕事を教えてくれた、先輩の男性社員だ。あれほど悩んだのが嘘のように簡単だった。そして今日、付き合い出してから初めて、彼の部屋に招ばれた。「うまいカレー食わせてやるよ、俺、カレーだけは自信あるんだ」と誘われて、「楽しみにしてる」とゆりのも答えた。

 駅まで迎えに来た彼と手をつないで、アパートまで歩く。薄暮の空の、やさしい青と桃色のグラデーションが美しかった。部屋は男の一人暮らしにしては片付いていて、ゆりのがそれを言うとそうだろ、と彼は胸を張った。香辛料が効いたトマトとチキンのカレーを食べ、ゆりのの手みやげのトップスのチョコレートケーキを食べ、映画のDVDを眺めながらだらだらとビールを飲んで、彼は「泊まってくよね」と言った。



 優美で鮮やかな天使に彼が一瞬気圧されたように見え、ゆりのは急いでスリップを脱いだ。これだけは何となく、脱がされたくなかった。ブラジャーとショーツだけの姿になって、ゆりのは言ってみた。

「……可愛いでしょ、この下着」

「可愛いよ」

 即座にそう言ってくれた彼の熱を孕んだ眼差しは、しかしカップの繊細な刺繍もピンクの色合いの上品さも白いリボンさえも、何も見ていないのだった。ああ、三人で下着を見せ合ってそのレースが最高にエロくて可愛いとかちょっとだけ下品な感じが絶妙とか言い合った、あの時のわたしは、本当に過去になってしまったのだと、そのときゆりのははっきり悟った。

 わたしは、目の前の彼と蓮実さんだったら、どっちをより好きだろうか? そんな思いがちらりと過ぎったが、肩から引き寄せられて思考がとんだ。彼の手があたたかくて、そのあたたかさが震えるほど嬉しくて、他のことはどうでもよくなる。ゆりのは目を閉じた。素肌に触れる彼の手を感じることだけに感覚が澄んでゆく。何も考えられない。体が熱い。

 まぶたの暗闇のなかで、無力な子どもがひとりぼっちでいる。あれはわたしだ。声を限りに泣き叫んでいる。いやだよう、こわいよう。けれどゆりのは泣かなかった。だって優しい女性の声が聞こえている。大丈夫、大丈夫、大丈夫。聞き覚えのあるその声は、泣きじゃくる幼いゆりのを冷静に見守る、ゆりの自身の声なのだった。

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百合の寝台 柳川麻衣 @hempandwillow

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