5

 ゆりのがひとりで蓮実を訪ねるようになったのはそれからだ。桃子には言わずに、しかもわざと仕事の忙しそうな時を狙って。

 蓮実はいつでも同じ、ぶっきらぼうに見える態度でゆりのを迎えた。ゆりのと蓮実だけのときには下着になることはなく、食卓で過ごした。お茶を飲みながら、とりとめのないことを喋り詰めにではなく喋る。それだけのことが楽しかった。

 好きな人が出来たのではないか。ぼんやりした思いを確信するまでに時間はかからなかった。好きと言うなら桃子のことだって勿論好きだ。キスするのも嫌ではないし。でも、蓮実を好きだという気持ちはそれとは違う気がする。二人きりで会いたいし、独占したい。桃子と三人でいると、「ハス」「トーコ」と呼び合うふたりの親しさに妬いてしまう。「でも、結構長いこと音信不通だったんだよ。桃子には子どもがいたりしたし、ほんとに最近だよ、こんなに頻繁に遊ぶようになったのは」と蓮実は言うが、それでも蓮実と桃子のあいだにはどこか閉鎖的な親密さがあるように思えてならない。その気配は桃子の側により強く感じた。

「好きな人が出来たかも知れない」

 暫くぶりに行ったリ・ドゥ・リスの試着室で桃子に向かってそう呟いたのは、だから、牽制のつもりだったのかも知れない。

「あら、そうなの? ご無沙汰してるうちに何かあった?」

「蓮実さんなの」

 脇がきつすぎないか確かめていた桃子の指が一瞬止まった。

「……サイズは変わってないわね」

 鏡越しにゆりのと目を合わせて一度微笑み、桃子はすぐ目を伏せた。ゆりのは試着していたブラジャーを外し、元々していたのを着けた。ストラップを肩にかけ、上半身を前に倒してホックを留め、かがんだまま右手で左の乳房を引きあげるようにしてカップに入れる。右の乳房は左手で同じようにする。桃子に教わった正しい着け方を忠実に実行しているゆりのに、桃子がぽつりと言った。

「ゆりちゃんはレズビアンなの」

「はっ?」

「蓮は男じゃないでしょ」

 桃子は壁に寄りかかって腕を組んでいた。蓮実が男ではないにも関わらず、恋をしたと思ったことはゆりのの中ではそれほど不自然なことではなく、葛藤もなかった。むしろ、今日まで恋愛感情さえ持てなかったのはそこに気付かなかったからかと、晴れ晴れした気分になりさえしたのだ。

「だからわたしの恋愛対象は男性じゃないんだって、やっと……」

「男を好きじゃないということと、女を好きだということは、全然違うことよ」

 平べったい桃子の口調の端々に否定の響きが滲む。

「ゆりちゃんはずーっとK女でしょう、女子校は流行るじゃない、同性の先輩に憧れてチョコあげたりとか。あたしにも憶えがある。思春期の疑似同性愛、恋愛ごっこよ」

「違います、一緒にいてどきどきしたり、ずっとその人のことばかり考えたり、会いたくて苦しくなったり、そんなこと今までなかったんです。それに……」

 苛立ちで、ゆりのの声は少しずつ熱を帯びていく。羽織ったブラウスにボタンをかけるのも忘れて、ゆりのは言い募った。

「それにわたし、男の人は、触られることを想像するだけで鳥肌が立つくらい嫌なんです。だけど女性の桃子さんには、キスされても平気だったもの」

 言い終わるか終わらないかのうちに桃子が覆い被さってきて、ゆりのは壁際に追い詰められた。有無を言わさず乱暴にくちづけられる。今までにない執拗なキスだった。唾液があふれて口の端をつたうのを感じ、逃れるために顔を背けようとしたが、後頭部を強かに打っただけだった。桃子は左手でゆりのの右手首を壁に押しつけて拘束し、右手で荒々しくゆりのの左肩のストラップを引き下ろした。剥き出しになった乳房をぎゅっと掴まれて、ゆりのは呻いた。いつも、今さっきも壊れ物を扱うようにゆりのの胸に触れていた、同じ桃子の手とは思えない。

「とうこさん、やめて……」

 弱々しくゆりのが言うと、桃子は唾液で濡れた唇が触れるほど耳許に口を寄せた。

「女のあたしだって手加減しなかったらこうなるのよ」

 桃子の右手がスカートを捲って太腿の内側に伸びる。指先がショーツをくぐる。自分の体も、桃子の手もひどく熱い。こわい。ゆりのは泣きたくなった。無力な幼い子どもに還ったような、暗闇でひとりぼっち、怖くて、訳がわからなくて、えんえんと声をあげて泣きたい。見開いた目からぼろぼろ涙がこぼれた。

「……い……ヤだよう……」

 声を出そうとするとしゃくりあげてしまい、喘息のように喉がひゅうひゅう鳴る。桃子が力を抜き、体を離した。途端に膝ががくがく震え、壁にぺったり背中をつけたままゆりのは崩れ落ちた。抱えた膝に顔を埋め、小さく小さく蹲ってゆりのは泣いた。

 桃子が側に来たのが香りでわかった。ふわり、と空気が動いて裸の肩に触れられる。ゆりのはびくりと体を震わせ、桃子も一瞬指先を離した。が、桃子は怯まずゆりのの体を抱きかかえた。壊れ物を保護するように。

「……ごめんね、ゆりちゃん、ほんとにごめん。もうしない。怖がらせてごめんね、もう大丈夫だよ、泣かないで、大丈夫だよ……」

 背中を撫でられ、大丈夫、と繰り返されているうちに、ゆりのの泣き声は少しずつ収まってきた。桃子は冷たく絞ったハンドタオルを持ってきて、ゆりのにそれを手渡すと、そっと出ていった。

 ひとりになってからもゆりのは暫くそのままでいたが、やがてのろのろ立ち上がって服を着た。泣き腫らした目に冷えたタオルは気持ちよかった。ただ濡れタオルで拭いたぐらいでは、顔がひどいのは誤魔化せない。諦めて靴を履いた。

 試着室を出るなり、いつもレジにいるアルバイトの女の子と鉢合わせた。ただならぬ気配に様子を窺っていたのだろう、ゆりのの真っ赤な目を見ると驚きと好奇心が彼女の顔いっぱいに広がった。俯いて早足で立ち去ろうとするゆりのの背に、「おつかれさまでしたー」とマニュアル通りの台詞が投げかけられた。

 店を一歩出たところで「ゆりちゃん!」と呼び止められ、腕を掴まれた。桃子だった。

「ゆりちゃん、……話がしたいんだけど、時間ある? もしよかったら、そこのカフェで待ってて欲しいんだけど、あたしあと十五分もしたら休憩だから」

 躊躇ったがゆりのは肯いた。とにかく少し休みたかった。

 暦の上では春でも三月はまだ寒い。晴れて、空は潤んだ青をしているけれど、風は冬の冷たさだ。桃子が指さした通り沿いのカフェに入り、ゆりのはアイスのカフェラテを注文した。全身が火照っている。手が熱くて気持ち悪い。そのくせ、思い出したように体の芯からぞくりと震えがくる。グラスを額にあてると、冷たさが心地よかった。

 何時間でもそうしていたかった。何もせず、何も考えず、ただぼうっとしていたい。桃子が目の前に腰を下ろして「待たせてごめんね」と言ったとき、ゆりのには時間の経過がまるでわからなかった。

「……蓮はね」

 湯気の立つコーヒーカップに口をつけ、桃子はゆっくり話し出した。

「蓮は昔からずっとああだった。子どもの頃からひょろっとして、制服以外ではスカートもはかなくて」

 桃子は懐かしそうに、

「一度ね、蓮に男子校の学ランを着せて、校内を腕組んで歩いたことがあるの。忘れもしない、高三の文化祭よ。軽い冗談のつもりだったんだけど、敷地内に男がいる、不純異性交遊だ! って先生に告げ口されそうになっちゃって。慌てて着替えたのよ」

「……その学ランって、誰のだったんですか」

「あたしが当時付き合い始めたボーイフレンドの。……蓮にはそうは言わなかったけど、付き合ってるのも内緒にしてたから。すぐばれたけどね。今にして思えば、あのときもう、蓮は気付いてたのかも知れない」

 言葉を切って、桃子はガラス越しに外を見た。その視線をゆりのも追いかける。絶え間なく流れる人の波の、カップルばかりやけに目につく。

「……ひどいでしょう」

 ゆりのの心を読んだように桃子が言った。

「蓮を好きだったのよ。後先考えずに本人にも言った。あなたが好きだって。蓮は、ありがとう、私も君を好きだよって言ってくれて、あたしはすっかり舞い上がって、じゃあずっと一緒にいよう、卒業したら一緒に暮らそうって、……言った矢先に男が出来るなんて、思いもしないで」

 桃子は俯き、肘をついて手のひらで額を支えた。

「……大人げないことをしてしまって、本当にごめんなさい。あの時は頭に血がのぼって挑発的なことも言ったけど、本当はあたしだってあれ以上は出来なかった。……高校生の時、蓮を好きだと思ったときね、雑誌の悩み相談コーナーに、インターネットなんか無いからね、女なのに女の子を好きになってしまいました、って送ったことがあるの。そしたら、相手のヴァギナを舐められるか想像してみて、出来ると思う? と回答されて、……そのときは、体だけが恋愛じゃないって逆上して突っぱねちゃったんだけど。もちろん今でもそういうことだけが恋愛の全てじゃないとは思うの、でも全てじゃないけど、必要だということも今ならわかる」

「……あの」

 ゆりのは思いきって訊ねた。

「男の人と付き合うようになったら、蓮実さんはどうでもよくなっちゃったんですか。……今はもう、何とも思ってないんですか」

「……どうだろうね」

 少し考え、コーヒーをひと口飲んで桃子は呟いた。白いコーヒーカップの縁に赤く残った口紅を、指の腹で素早く拭う。

「今でも、好きは好きよ。でも、蓮と抱き合ったりキスしたりしたことはないし、……積極的にしたいと思ったこともないと思う。……してもいい、とはいつも思っているけど」

 テーブルの上の伝票を取り上げ、桃子は立ち上がった。

「……ゆりのちゃん、わたしは販売員としてお客様に許されないことをしてしまったし、何より友だちとしてゆりちゃんを傷つけてしまって、心から申し訳なく思っています。あたしのことは、許して頂戴なんて言えないけど、……出来たら、下着を楽しむことはどうか続けてね」

 ゆりのに向かって深々と頭を下げ、桃子は静かに席を立った。

 そのあとどうやって家まで帰り着いたのかゆりのは覚えていない。ひどい頭痛がして、体温を計ったら三十八度近くあった。着替えもせずに布団にもぐり込み、熱で朦朧とする頭でゆりのは思った。

 ……あんなことを言っていたけど、桃子さんは今でも蓮実さんを好きなのに違いない。恋愛の好きとそうでない好きと、何が違うって言うんだろう? だけどわたしだって、蓮実さんへの思いだけは違うって、そう思ったんだった。わたしは蓮実さんの体に触れたいのだろうか? ……


 半月程経って、蓮実から電話があった。

 卒業式、入社式と身辺が慌ただしいのをいいことに、ゆりのは桃子や蓮実のことをなるべく考えないようにしていた。目の前の日常に集中する。必死でそうしていたゆりのの意識を、受話器越しの低い、掠れた声は一瞬で蓮実の家に引き戻した。

「忙しいだろうなとは思ったんだけど、どうしてるか気になって。今、平気?」

「平気です」

 言いながら涙ぐみそうになる。最後に会ってからひと月も経っていないのに、十年ぶりに声を聞いたような気がした。寄り添って一緒に眠った天蓋つきのベッドが、際限なく語り明かした食卓が、夢のように遠い。

「桃子が、……何かひどいことをしたんだって、具体的には聞いてないけども」

「……」

「ごめんね。私が謝ったってどうにもならないけど、本当にごめん」

「いえ……」

 声が喉に引っ掛かる。うまく言葉が出ない。

「君さえ良かったら、また来て。いつでも。待ってるから」

「……わたしに恋人が出来ても?」

 自分は何を口走っているのだろう。ゆりのは即座に後悔した。けれど電話の向こうの蓮実は、一秒の躊躇もなく「勿論」と言った。その潔い響きに、ゆりのは絶対に言うまいと決めていた言葉を、言ってしまった。

「わたし、蓮実さんのこと好きです」

「ありがとう、私も君を好きだよ」

 電話を切ってから、ゆりのはその場に座り込んで泣いた。好きな人に好きだと告げ、好きだと言って貰えたのに、信じられない程寂しかった。自分でも訳がわからないまま、終いには声をあげてゆりのは泣き続けた。

 それっきり、蓮実にも桃子にも会っていない。リ・ドゥ・リスにも行っていない。

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