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後から思えば、リ・ドゥ・リスに通い詰めていたあの一時は何もかもが夢のようなのだった。起きて、出社して働いて、たまに同僚と食事をして、帰ってきて、眠る。その繰り返しの中にあっては、まるで生活感のない蓮実の家、天蓋つきのベッドで下着姿で戯れていたことなど物語のようだ。
その全てが夢ではないという証拠を見つけて、ゆりのの手が止まる。胸元と裾に幅広のレースがあしらわれ、天使に貴婦人、薔薇のプリントが鮮やかな一枚のスリップ。タグにはCOCOのマーク。チュニック社のエアル。
特別に仕舞ってあったそのスリップを、ゆりのはそっとかぶった。そういえば最近着ていない。ひと頃は毎日のように着ていたのに、と思いながら姿見の前に立つ。初めて着たときと同じ感慨がゆりのを襲った。自分で自分を抱きしめて蹲る。蓮実さん。二度と会うことのない人の名前を声に出さずに呼んだ。胸が痛んだ。
「鴨居羊子を知ってる?」
「カモイヨーコ?」
「そう、チュニックという会社を起こした人。まだ下着に対する考え方がガチガチに保守的だった時代に、色んな楽しい下着を作った革新的な女の人」
その日、ゆりのは初めてひとりで蓮実の家を訪ねた。何とか内定を貰い、卒業論文も提出し終えてほっとして誕生日を迎えると、十二月の半ばだった。桃子はクリスマス商戦に追われて忙しく、残業が終わり次第駆けつけることになっていた。
ゆりのは緊張していた。三人でいると専らお喋りの中心は桃子で、蓮実は聞き役に回ることが多いので、気まずくなったらどうしようと不安になる一方、桃子を介さず蓮実と向き合えるのが嬉しくもあった。
蓮実はスリップの上に薄手のカーディガンを羽織っていた。賑やかなサーカスの絵柄は、モチーフが違ってもいつもと同じブランドのものだとはっきりわかる。くっきり鎖骨が浮いた滑らかな蓮実の胸元は真っ平で、スリップはぶかぶかなのに、細く薄い体によく似合っていた。静脈が薄青く透けている。ボーイレングスのショーツからまっすぐ伸びる脚は少年のようだ。きれいな人だ、とゆりのは思う。美人だとか可愛いだとかではない、硬質な、無機物の持つしんとした清潔感が蓮実にはあった。
いつもは食事を終えるとすぐに二階へ上がるのだが、その夜はそのまま食卓でお茶を飲んでいた。
「……私は、暇潰しと言ったら本を読むタチで、君ぐらいの頃はまだ、服を買うお金があったら本を買っていたよ。洋服屋の店員って寄ってきて色々言うでしょう、あれが怖くて店に入れなかった。まして下着なんてもっとどうにも出来なくてね。リスみたいな気軽な感じのお店も知らなくて、高校の頃は学校帰りに西武の下着売り場を横目で眺めて、別世界だなあって思ってた」
ゆりのはびっくりして蓮実を見た。下着選びを楽しんでいる今でも、昨日のことのように思い出せる。エスカレーターを乗り継ぐときに目に入る、総レースのランジェリーで一杯の、心もち照明の落とされた一角。短いスカートをはいて群れている他校の制服の少女たち。同じ光景を、蓮実も見ていたのだろうか。
「下着のことは考えたくなくて、黒で通していた。洋服を買うことが楽しくなってからも、下着だけは黒の無地。ずっとそうだったんだけど、あるとき『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』という本をタイトルに惹かれて読んだら、鴨居羊子という人の生き方があまりにもかっこよくてね。この人の作った下着なら着てみたい、と思い詰めて、今でもチュニック社の製品が買えるとわかったら、売っている店を調べてすぐ買いに行った。それが三十になるかならないかの頃かな。
ちょうど同じ頃桃子から連絡があって、また離婚して働きだした、表参道の下着のお店に勤めてるって言うから、私も今チュニックの下着に夢中だという話をしたの。そうこうするうちにお互い見せる相手もいないんだったら勝負下着で旅行でもしようか、なんて言い出して、……今に至る」
近より難く、積極的に喋らない蓮実が自分の内面を開示したこと、しかもそこに共通点があったことに、ゆりのはどきどきしていた。喉が渇いて、ゆりの用になりつつあるビアンカを持ち上げ、紅茶を飲み干す。
ふいに蓮実はテーブルの下からきれいにラッピングされた紙袋を取りだした。
「本当は桃子が来てから一緒に渡したかったんだけど、もういいや。ゆりちゃん、お誕生日と就職内定おめでとう」
「えっ! ……いいんですか、そんな」
「いいよ、じゃあついでにメリークリスマス」
開けちゃって、と促されて包みを開くと、ハトロン紙にくるまれていたのはスリップだった。蓮実が愛用している物と同じブランドと一目でわかる鮮やかな色、優美な図柄。
「チュニック社の定番、エアルっていう人気のあるシリーズなの。桃子はリスの新作を贈りたかったらしいんだけど、私の我が儘を通してもらった。きっと気に入ってもらえると思ったし、似合うのもわかってたから」
「ありがとうございます……」
「上で試着してご覧」
言われるままにゆりのはひとり、二階に上がった。ブラジャーもせず直に着たので、蓮実と同じように胸元のレースと体の間にやけに隙間がある。全体に少しぶかぶかしていて、筋肉のついていない手足がいっそう細く見えた。チビでみそっかすのくせに小生意気なコールガールみたいだ、と思った。立方体の椅子を姿見の前に引っ張ってきて腰掛け、脚を組んでみる。外国の煙草でも持ちたい気分だ。
すっかりなりきっているうちに、何故か涙が出てきた。チュニックのスリップはゆりのをオブジェにしてしまうのではなく、あくまでもゆりのが主体、ゆりのが主役の可愛らしさ、色っぽさを引き出していた。誰かに媚びるのではない、わたし自身が望む、わたしのためのエロス。
鴨居羊子という人はすごい人だ。蓮実がそう言う理由がわかった。既にこの世にいない、この日初めて名前を聞いたその女性の精神が、一枚のスリップに宿っている。大丈夫、あなたはとってもキュートでセクシーで、だけどあなたに備わっているそれは男どものためのものなんかじゃない、あなたのためのものなんだよと、そんな声が聞こえてくるようでさえあったのだ。
どれほど時間が経ったのか、終電近くに桃子が到着して、引き戸が鳴る音で我に返って下りてゆくまで、蓮実はゆりのを放っておいてくれた。疲れているせいか桃子はハイで、ワインをあけて大いにはしゃいだ。そのあとはいつもどおり、朝まで騒いで三人で眠った。
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