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 わたししか知らないし、誰も見ないから、どんなデザインのものでも買えて、楽しい。そう呟いたのは、蝶の刺繍が施された黒いブラジャーを試着しながらだっただろうか。

「え、そうなの?」

 脇や肋骨の真上からも肉をかき集めて胸を寄せ、ストラップの長さを調節しながら桃子は言った。いつもパールピンクに塗られた短い爪が桜貝のように光る、細く冷たい指先。初めてブラジャーを買った時から、ゆりのは毎回桃子にチェックをしてもらっていた。運悪く桃子が店にいない時は、商品を見るだけ見て買わずに帰ってしまう。

「じゃあ、ゆりちゃんの下着姿は今のところあたしの独占状態なのね。勿体ないなあ、可愛いのに。これだってとってもお似合いよ」

「え、そうですか? ちょっとエロすぎるかなあと思ってたんだけど」

「そこがいいんじゃない、ゆりちゃんはお色気過剰って感じじゃないから。そういう子が着けるから丁度よく色っぽいのよ」

「……桃子さんに言われると本気にしちゃうじゃないですか」

 最初に買い物をしたとき、ポイントカードを作るための申込書を見て「可愛いお名前ですね」と桃子は言った。

「ありがとうございます、名前は可愛いってよく言われます」

「あたし、これで『トウコ』って読むんですよ」

 桃子は豊かな胸に乗っている名札を示して、

「十中八九『モモコ』でしょ、この字だったら。一回で正しく読んでもらえたこと、ないです。ひとりだけ、褒めてくれた人がいたけど」

 以来、桃子とゆりのは名前で呼び合うようになった。初めのうち桃子は「ゆりのさん」と呼んでいたが、奇遇にもお互いK女子学院の卒業生だと知れてからは「ゆりちゃん」になり、口調もぐっとくだけた。リ・ドゥ・リスでは制服姿の女子高生もちらほら見かけたが、桃子は若い子が相手でも変に馴れ馴れしい接客はせず、きちんとした敬語で対応する。桃子が「ゆりちゃん」と親しく話しかけてくれることに、ゆりのは優越感さえおぼえていた。

「でも新しく買ったりすると、誰かに見せたくならない? ゆりちゃん、体だってきれいなのに。細いし」

 きれいだなんてお世辞でも滅多に言われないので、ゆりのはつい赤くなってしまう。

「……わたし、彼氏がいなくて」

「別に男の子じゃなくていいのよ」

 桃子はあっさり言った。

「女の子どうしで温泉旅行とか。行かないの?」

「ああ、行きたいですねえ……でも今、就活中だし」

 そのやりとりがきっかけで、桃子に招ばれて下着を見せ合って遊ぶことになったのだが、その展開は後になってみても、むしろ後になればなるほどゆりのには信じ難い。

「おとめ下着パーティーをするから、ゆりちゃんも来ない?」

 欲しいサイズが店頭になく、取り寄せを頼んでいた品物を入荷したという電話のついでに、桃子は言った。

「パジャマパーティーのランジェリー版っていうか、お気に入り下着のお披露目大会。パーティーって言っても、あたしと、仲良しの友だちひとりだけなの。勿論男じゃないわよ。どう?」

 そう誘われて数日後、勤務を終えた桃子に連れられて蓮実の家へ向かったのだった。K女子学院の同級で、初等科からの付き合いだと道すがら桃子は話した。半蔵門線で渋谷へ出て、JRに一時間程も乗り、駅から徒歩十五分、仕上げに坂を上ったところにその家はあった。マンションの一室だろうという予想に反し、古い木造の一軒家だった。がしゃがしゃ、と桃子が硝子の引き戸を叩くと、内側から錠の回る重い音がしてがらがらと戸が開いた。

 現れたのはすらりと背の高い人だった。あごまでのボブで、前髪を眉の下で切り揃えている。端正だが気難しげな顔をしていた。

「……待ってた」

 低い、掠れたような声で投げ出すように言う。やっぱりお邪魔だったかな、とゆりのは気後れした。桃子はあまり機嫌良さそうに見えない友人の様子に構わず、陽気に初対面の二人を紹介した。

「ごめんごめん、遅くなって。ゆりちゃん、家主の蓮実よ。蓮、お得意様のゆりのちゃん」

「今晩は」

 会釈する蓮実の横顔を真っ直ぐな黒髪がさらさらと隠す。一瞬それに見とれ、ゆりのは慌ててお辞儀をした。

「上がって、御飯の支度してあるから。出来合いだけど」

「ありがとう、これ、デザートに食べよう」

 桃子が差し出したピエール・エルメの紙袋を受け取り、蓮実はふたりを奥へ促した。狭く、古いながらも家の中はきちんと手入れされていた。デパートの地下で調達したという茸とほうれん草のキッシュ、ラタトゥイユなどをご馳走になり、お風呂まで使わせて貰って、二階へ通された。

 六畳と四畳の二間にフローリングを敷いて、ひと続きの洋間のように使っている二階で、天蓋つきのベッドにゆりのは目を奪われた。お伽話に出てきそうな、大人二人がゆったり横たわってなお余裕のありそうな大きなベッド。ここにひとりで寝るのだろうか、とぼんやり眺めているところへ、いきなり桃子がダイブした。ぼふ、と心地よさそうな音がする。

「あー! 最高。ゆりちゃんも早くおいで」

 クッションにしがみついて手招きする桃子のランジェリーはアナスイだ。定番色の紫と黒で、ソングタイプのショーツを堂々と着けていた。買ったばかりの、大きなアップリケを縫いつけたサテンのブラジャーとショーツ姿の自分がいかにも子どもっぽく思え、そのことはゆりのを少し安堵させた。

 ゆりのはこわごわ桃子の隣りに倒れ込んだ。素肌に清潔なシーツの感触が快い。桃子は髪からも体からも甘い香りをさせている。大人の女の人のあの香りは、単に香料の強いシャンプーを使ったり、香水をつけたりしているだけなのだろうか。同じ女なのにゆりのにはその秘密がわからない。

「桃子さん、いい匂いがする」

「今お風呂上がりにボディローション塗ってきたからね。薔薇の香りなの。ゆりちゃんにも塗ってあげる」

 桃子はルルギネスのバッグを引き寄せると、ポーチから小さな壜を取りだした。蓋を開けると、確かに桃子から立ちのぼる香りを濃く甘く煮詰めた香気が漂う。惜しげもなくたっぷり手のひらに垂らし、桃子はゆりのの肩から腕に向かって塗り始めた。

「もう冬に向かってどんどん乾燥してくるからね。しっかり保湿しないと」

「わたし乾燥肌なんで、寒くなってくると痒くて」

「それなのに何もしてないんでしょう。だめよ、ベビーオイルでもいいから塗らないと」

 膝小僧、脛、かかと、背中にも桃子は丹念にローションを擦り込み、「仕上げにデコルテね」と言ってゆりののあごを軽く掴んで顔を仰向かせた。

「ゆりちゃんはまだ若いから気にもならないだろうけど、首で年齢ってわかるのよ、だから顔のシワばっかり気にしてないで、首もちゃんとケアしてあげないと」

 首を両手で押し包まれて、堪えきれずゆりのは「くすぐったい」と身を捩った。桃子も「こら、大人しくして!」と笑いながら有無を言わさず逃げるゆりのを押さえつける。桃子の手はそのまま鎖骨の周辺を丁寧にたどり、自然に下りて、試着室でカップへの収まり具合を整えるときのように乳房に触れた。

「おっぱいが大きくなるマッサージしてあげる」

 湯上がりなのに桃子の指は冷たい。本や映画のベッドシーンではよく、男に乳房を鷲掴みにされた女が身悶えしてよがっているけれど、実際触られただけでそんなに気持ちいいものなのだろうか? ゆりのは常々疑問に思っていたが、いざ他人に揉まれてみてもやはり変な声が出たりはしない。ブラジャー越しだからか、桃子が女だからか。それともわたしが不感症なのか。

「ゆりちゃんのおムネがもっと大きくなりますように」

「えー、もういいですよ、Dで充分です。……そりゃ、桃子さんみたいな谷間はないけど」

 桃子が豊かな体をしていることは服の上からでも一目瞭然で、下着一枚になると特にバストは見事だった。ただ、彼女は胸に比例してお腹や腰回りの肉づきも良いことを発見し、服でカバーしてたんだな、やっぱり桃子さんも三十過ぎてるんだ、と若いゆりのは残酷なことを平然と思った。

「さわる?」

「いいんですか?」

「いいよ、遠慮しないで」

「わあ、何かドキドキする」

 いつのまにか蓮実がお茶の盆を手に入ってきて、立方体の椅子に腰掛けてふたりを眺めていた。リボンやブーケが色鮮やかにプリントされたスリップに、黒のボクサーショーツをはいた蓮実を見て、ゆりのははっとした。手足も胴もすんなりと細く、どこにも贅肉のついていない体は、三十過ぎとは思えない。化粧を落とした素顔は桃子よりずっと若く見えた。二十代と言っても通るだろう。

「桃子のはアナスイ? 可愛いね」

「うん、新作。蓮こそ、それチュニックでしょう。似合ってるわよ、羨ましい」

 蓮実に気付かず桃子とじゃれていたことがきまり悪く、ゆりのは口の中だけで頂きます、と言ってサイドテーブルに置かれた紅茶に手を伸ばした。茶器は三つともウエッジウッドで、柄がバラバラだった。迷っていると、桃子がそれが自分専用と言わんばかりに優美な鳥の絵のクタニクレーンを選んだ。ゆりのは持ち手の形が愛らしいビアンカにした。蓮実にはサムライが残った。

「この家には組の食器ってないのよね」

 桃子が呟くと、「必要ないもの」と蓮実はあっさり言った。

「……蓮実さんは、ほんとにおひとりなんですか? その、ここに一人暮らしというだけじゃなくて、ええと……」

「恋人がいるかという意味なら、いない」

 ゆりのがおずおず訊ねると、蓮実はさらりとそう答え、微笑して続けた。

「ひとりだよ。私はずっとひとり」

 それを聞いた桃子の表情に影が差した。しかし彼女はすぐに華やいだ声で、

「何よ、あたしだって独り者よ。今日はシングル女子限定なんだから」

「わたし、もうすぐ二十二になるんですけど、……男の子と付き合ったことがないんです」

 今まで誰にも言わなかった、言えなかった秘密を、零れるようにゆりのは呟いていた。それを口に出してしまうと、言葉は次から次へと溢れた。

「生まれてから一度も。何も経験していないんです。ファーストキスもまだだし、手をつないだことさえないの。……大学の、周りの女の子たちにはみんな彼氏がいるのに、高校まで何もなかった友だちだって、大学生になった途端に恋人が出来たのに。わたしだけ、ずっと何もないままで……、彼氏欲しいなーって言うと、すぐ出来るよーってみんな簡単に言ってくれるけど、みんなはわたしがこの歳で恋愛経験ゼロだなんて思ってないから、……わたしにはこのまま一生恋が出来ない気がする」

 感情が昂ってきて、ゆりのは膝に抱えていたクッションに思いきり顔を埋めた。頭に、そっと手が置かれた。桃子の声が静かに訊いた。

「ゆりちゃん、好きな人はいないの」

「……いないです」

 突っ伏したままゆりのは答えた。

「好きな人もいないから、だから、わたしはおかしいんじゃないか、何か欠落してる人間なんじゃないかって……」

「好きでもない人と付き合ったって仕方がないとあたしは思うよ。それにね、キスなんてそんなに大したことじゃないのよ」

「え?」

 思わず顔をあげたゆりのの頬を両手で挟み、桃子がぐっと顔を近づけた。甘い香りが強くなる。まっすぐ瞳を覗き込まれて、反射的にゆりのは目を閉じた。ウエーヴのかかった髪が首筋をくすぐる。唇に柔らかいものが触れ、それが桃子の唇だと解るのに時間がかかった。素早く差し入れられたあたたかい舌が出ていくまで、ゆりのはまぶたの薄闇の中で茫然としていた。

 恐る恐る目を開ける。電灯が眩しかった。桃子がゆりのの肩を抱きかかえ、あやすように囁いた。

「ね? 簡単だったでしょう。一生経験出来なくなんて、なかったでしょう」

 ゆりのは何も言えずに、ただ頷いた。

 ゆりのを真ん中にした川の字でベッドに寝そべり、いつしか三人一緒に眠りに落ちてパーティーはお開きになった。この夜の全部が夢なのではないかと思いながら、ゆりのは眠りに引きこまれた。

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