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 桃子に出会うまで、つまりリ・ドゥ・リスに足を踏み入れるまで、ゆりのは自分で下着を買ったことがなかった。母任せだった。

 学校帰りに池袋の西武百貨店に寄って、最上階のWAVEと、地下のリブロを行き来するために延々エスカレーターを乗り継いでいると、必ず三階で下着売り場の近くを通る。同年代の女子高生が、楽しげにランジェリーを広げている様子が嫌でも目に入る。それを他人事のように見ていた。

「ああいうところ、入ったことない」

 下りエスカレーターのベルトに凭れながら、ゆりのは呟いたことがある。

「あたしもない」

 一緒にいた、当時いちばん仲の良かった喜久恵も同調した。

「ないけど、近寄って値札見たことはあるよ。ああいうとこのパンツって三千円位するんだよね。ビックリした、あたしなんかダイエーで五枚千円なんだけど」

「ええっ」

 正直、ゆりのは自分の下着の値段など把握していなかったが、三千円もしないことは確かだった。

「だって、誰に見せるわけでもないのに」

「ねーっ。見えないところに拘るのが真のオシャレ、なのかも知れないけどさ、でも三千円あったらマンガ大人買いするよ」

「文庫本だったら十冊買えるもんね……、いや、十冊は無理か」

「無理でしょ。今時消費税込み三百円はいくら何でもないよ」

 そんな話をして笑いあった喜久恵も一年後には、丸井のバーゲンで古本を物色するような慣れた手つきで色とりどりのショーツを選んでいた。二人とも系列の女子大に内部進学していたが、学部が分かれ、滅多に顔を合わせなくなっていた。

「キク、いつのまにそんな高いパンツ買うようになったの?」

 喜久恵が手にとってじっと眺めているショーツの値札、「sale 1980」という赤字を見やってゆりのが言うと、喜久恵は「んー」と生返事をして、

「や、普段は相変わらずダイエーだけど、……夏休みに旅行するかも知れなくて、彼と」

 彼、という代名詞がゆりのを撲った。いつのまに? 気になる男の子と言ったら、マンガの登場人物だった喜久恵に、恋人? そしてそのとき、それまで深く気にすることもなく聞き流してきた「勝負下着」という言葉の意味をゆりのは初めて理解した。見慣れた喜久恵の横顔が知らない女に見えた。

 ラブホテルに行った話を聞かされたこともある。「服を脱がせてくれるじゃない、ストッキングがいっつも大変そうなんだよね、伝線しないようにそろそろ〜って」ナシゴレンに卵を混ぜながらあっけらかんと喜久恵は笑った。

 男の人と付き合って、一緒にベッドに入るということはそういうことか、笑おうとしながらゆりのは思った。性的なことへの過剰な嫌悪感はわたしにはない、とゆりのは思っていた。「体を求められるのが怖くて、男の子と付き合えない」と潔癖な顔で言う少女達を、ゆりのは軽蔑していた。そういう女に限って、舌の根の乾かぬうちに平気な顔して男とホテルへ行くのだ。そんなことはわざわざ大仰に言いたてなくても、多かれ少なかれ誰でも思う。素裸になって体に触れられ、異物を挿入されるという未知の行為が、少しも怖くない方が奇特ではないか。わたしだってそれは怖いに決まっているけれど、だからといって、わたしは清純ぶったりは絶対にしない、厭らしい。そう思っていたのだ。

 その夜、喜久恵と別れて新宿駅の地下道を歩きながら、ゆりのは身震いをしてシャツの衿元を強くかき合わせた。エスニック料理で体は温まっていたし、寒い季節ではなかったのに、そうせずにはいられなかった。胸元に伸びてきてボタンを外す手を思い浮かべるだけで、泣きたいくらいの嫌悪感が込み上げた。忙しない足どりのビジネスマン風の男の右手が、すれ違いざまゆりのの太腿にぶつかる。誰かの手で服を脱がされるなんて想像するのも嫌だ。喜久恵と「抱かれたい作家ランキング」を無邪気に発表しあっていたわたしは何てバカみたいだったのだろう、と唇をかんで俯いた。

 翌年の夏、ゆりのはひとり池袋西武の夏物在庫一掃セールを冷やかしていた。靴売り場から三階の洋服を見に行こうとして、高校生の頃に横目で見ていた下着売り場の横を通った。何故か足が止まった。どの売り場も人でごった返していたのに、そこだけが無人だった。人目を窺うようにして、ゆりのはセールのワゴンにそっと近付いた。

 何の気なしに拾いあげたのがほとんど紐だけのソングで、ゆりのはぎょっとした。振り返ると、ハンガーに吊られたスリップは透け透けで、ブラジャーにはレースがぎっしりついている。見られることを前提にしたデザイン。その目的に思考が到達した瞬間、いつかの嫌悪感が生々しくよみがえった。

 ……わたしにはどうせ必要ない。見てくれる人だっていない。ゆりのは踵を返し、急いでお気に入りのショップへ走り、Tシャツを一枚買った。


 リ・ドゥ・リスは表参道の、通りを少し入ったところにある、小ぢんまりしたインナーウェアの専門店だ。

 店の真ん中に真鍮のベッドが鎮座していて、ポプリやサシェ、ランジェリー用の洗濯石けんやネットが敷布の上に陳列されている。ショウウィンドウのトルソには外に着ても違和感のないキャミソールが着せられ、ピアスやヘアピンなどのちょっとしたアクセサリーがブラジャーの替えストラップやチェーンと一緒に並んでいる。ゆりのが説明会の帰りにふらっと入ったのは、新しく出来た雑貨屋と勘違いして、だった。意識して下着売り場を避けていたつもりはなかったが、近付く必要に迫られることもないまま、大学四年生になっていた。

 無造作に開け放したふうの抽出に、きちんと畳まれて行儀良く整列したブラジャーに気付き、間違えた、と思った瞬間店員と目が合った。肩の下までの栗色の髪をゆったりと巻き、トルソと色違いのキャミソールを薄手のタートルネックと重ねて着た、華やかな人だった。彼女はにっこり笑って「いらっしゃいませ」と会釈したが、ゆりのが怖れたようにこちらへ向かってきて延々と商品の説明を始めたりはせず、きびきびと店の奥へ歩み去った。その足取りにつられてゆりのも中へ進んだ。

 下着がたくさんあるのに、あの何ともいえない気恥ずかしさに圧迫されないのが不思議だった。小さな鳥籠やドライフラワーがあちこちにディスプレイされている店内は、女の子の部屋のような雰囲気だ。商品も、例えばレースをふんだんに使ってあっても、「レースのランジェリー」という言葉から脂ぎった男達が妄想するような淫靡さはなく、あるのは外国の子供服のような可憐さだった。

 この店でなら買えるかも知れない。とりあえず今日は小物を買っていこう、バレッタとか靴下とかを。そう思いつつ、小花のレトロなプリントに惹かれてブラジャーを手に取ったところで、先程の店員に穏やかに声をかけられた。

「ご試着もできますので」

「あっ、はい……」

 どぎまぎしてゆりのは商品を握りしめた。ふと、目の端に小さな貼り紙が引っかかった。「ブラジャーを一枚ご試着いただくごとに、お客様にかわって私たちが十円を寄付させていただきます」という文面に、乳がんに対する取り組みを表すピンクのリボンマーク。ゆりのの視線の動きを店員は敏感に察した。

「そうなんです、今、ピンクリボン活動のキャンペーン中なんですよ」

 啓蒙週間なのだろうか、余所でも乳がん検診の受診を促すポスターを見た。乳がんを早期発見して克服した人たちの体験談には、「夫に『しこりがあるぞ』って言われて気が付いたんです」というコメントをよく見かける。わたしがもし乳がんになったらきっと手遅れになるだろう。そう思いながらゆりのはイラスト付きで解説されているセルフ検診の方法を丁寧に読む。

「ですから、ご試着だけでも、ぜひ」

「……じゃあ、お願い……します」

「はい、こちらへどうぞ。サイズはよろしいですか?」

「あっ、えっと」

 慌てて手の中のブラジャーのサイズを確認した。B70。ゆりのは自分のサイズを測ったことがない。まあ、せいぜいその位だろう、と漠然と思って肯いた。店員はゆりのから品物を受け取り、試着室へ案内してくれた。

 ふかふかの、円いベージュの絨毯の上で服を脱ぐ。外したブラジャーは股引のようならくだ色で、しかも背中のホックのあたりがほつれ、破れかけていた。今の今まで平気で着けていたのが急に恥ずかしくなり、ビジネスバッグの中へ押し込んだ。

 一応着けてみたところで、途方に暮れてしまった。自分では特に違和感はないけれど、サイズが合っているのか判らない。似合っているかどうか以前の問題だ。てっきりメジャーが出てきて、トップバストとアンダーバストを測ってサイズを調べてくれるものだと思っていたのに、自己申告だったし。自分からカーテンを開けて外に出る訳にもいかないから、店員さんを呼べばいいのだろうか。そわそわ鏡を眺めていたゆりのが、とうとう意を決して声を出そうとしたそのとき、「お客様、いかがですか? 着けられましたか」という声がした。

「はい……」

「フィッテイングチェックをさせて頂いてもよろしいですか」

「あ、はい、お願いします」

「失礼しますね」

 素早くカーテンを開けてするりと入ってきた店員は、鏡の中のゆりのを一瞥するなり「ああ、少し小さいみたいですね。少々お待ち下さい」と言ってさっと出ていき、すぐに戻ってきた。失礼します、と言うが早いかゆりののブラジャーを外し、胸を露わにされたことに羞じらう間も与えずに、新たに持ってきたブラジャーのストラップをかけ、カップを胸に当てた。「ちょっとお体前に倒してください」と言いながら背中に手をあてて前傾させ、ホックをとめる。絨毯に膝をつき、ゆりのの脇の下あたりからそっと手を添えて、丁寧な手つきで乳房をカップにおさめていく。彼女が近くに来ると甘い香りがした。華やかな、大人の女の人の匂い。冷たい指先がはずみで乳首をかすめ、ゆりのはひやりとしたが、店員は気に留める様子もなかった。わたし、誰かに胸を触られるの初めてだな、とゆりのはふと思った。

 きっちり着け終えると店員はうーん、と唸った。細い指を布地と肌のあいだに差し入れて首を傾げ、

「今、Cなんですけど、まだ少しきついかな……Dの方が合うかも知れないなあ。アンダーは逆にゆるそうですね、65にしてみましょう」

「D?!」

 お待ち下さいね、と店員は再び売り場に出ていき、「度々ごめんなさい」と戻ってきた。

「Dだなんて、胸の大きい人のサイズだと思っていたのに……わたしなんて全然、ないのに」

 ぼそぼそと呟くゆりのに、店員は「そんなことないですよ!」ときっぱり言った。

「それに単純に数字だけでしたら、A80とD65でトップバストのサイズは同じなんですよ。お客様は今までかなり小さいサイズを着けてらしたから、正しく合ったものを着けて頂ければきれいなバストの形が出ると思うわ。……ああ、やっぱりこれで丁度いいですね」

 店員は満足げに、鏡越しにゆりのに笑いかけた。ゆりのもまじまじと自分の胸元に見入る。いつの間にかカップの部分がずれ落ち、直しても直しても乳首がはみ出て情けなくなることが、これまでしょっちゅうあった。肩ひもが長すぎるのかと思っていたのだが、胸を覆う布地の絶対量が足りなかったのだった。今までわたしはボロ布を巻き付けて胸を押し潰していたのだなあ、本来はこうあるべきだったのだ、とゆりのはDカップに収まった乳房を見つめた。

「あのう……、これ、似合ってますか?」

 ゆりのがおずおず訊ねると、店員は勿論です、と言わんばかりに微笑した。

「とってもよくお似合いです」

「わかりました。……これ、ください」

「畏まりました、ありがとうございます。このまま着けていかれますか?」

「いいんですか?」

「ええ、ぜひ」

 その場で値札を切って貰って、ゆりのは服を着た。グレーのスーツがさっきより軽くなったように思えた。勧められるままに揃いのショーツを買い、店を出たときには妙に気分が高揚していた。最早ブラジャーとは到底呼べないらくだ色の布きれは、駅のゴミ箱に捨てた。



 その日の風呂上がり、上気した素肌に買ったばかりのブラジャーとショーツを着けて、ゆりのは脱衣場の鏡の前に立ってみた。試着した時は似合うと断言されただけで有頂天になってしまったが、家で落ち着いて見ると、細面で地味なゆりの顔にはベビーピンクの生地が甘すぎるような気がした。けれどカラフルな小花のプリントは、文句の付けようがなく可愛い。

 これが洋服だったら、とポーズや角度を変えて鏡に見入りながら、ゆりのは思う。こんな甘く可愛らしいデザインを買おうものなら、まず母が黙っていないに違いない。ゆりのに似合うのは落ち着いた色のシンプルなデザインなのだ、と主張する母に、対抗するセンスも拘りも持ち合わせていないゆりのは、可愛い、欲しい、と直感するものと関係なく言われるままに服を着ることに慣れきっていた。

 だから、百パーセント自分の好みの、可愛いものを身につけている姿は見慣れなくて、落ち着かない。でも、どうせ誰も見ないのだから、似合っていなくても文句は言われないのだ、と思うと嬉しくなった。肌に一番近いところに、わたしがわたしのために選んだ、わたしの好きなものを着けていられる。外に何を着ていようが、その奥には誰も干渉できないわたしだけの悦楽がある。

 その考えは就職活動の憂鬱をも軽減した。天候も気温も関係なくリクルートスーツに身を包み、いったい仕事の能力に関係があるのかと訝りながら息苦しい薄化粧をする、選別される為だけの「身だしなみ」はゆりのを心底疲れさせたが、下着を自由に選ぶ楽しみを覚えてからはましになった。あるときは花束を、あるときは爆弾を隠し持つような気分で、ゆりのはスーツの下に赤やピンクや黒の下着を着けた。ソングを着けて行ったこともある。一見野暮ったい、ぱっとしないわたしがレオパード柄のソングをはいているなんて、面接官は思いも寄らないだろう、そう思うと痛快で、あまりあがらずに済んだ。

 あれこそまさに勝負パンツだったじゃない、誰にも見せなかったけど。思い出すと今でも愉快になる。結局ソングで面接に挑んだ会社に、ゆりのは今勤めているのだ。就職できたのも、配属先であの人に出会ったのも、リ・ドゥ・リスなくしてはなかったことなのかも知れない。レオパードのソングは既に手元になかった。あったとしても、今日着けて行こうとは思わない。

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