エア婚約令嬢

亜逸

エア婚約令嬢

「お父様……わたくし、アレス様と婚約することになりましたの」


 ある朝、娘のリアーナが突然こんなことをのたまい始め、オリバー・オルストイ男爵の目が点になる。


 アレスといえば、この国の第三王子にあたる人物。

 男爵令嬢に過ぎないリアーナなど、相手にされるわけがない。

 そもそもそんな話、父である自分の耳には毛ほども届いてない。


 いや、まさか、我が娘に限ってそんなはずは――……残念ながら大いにあり得ると思ったオリバーは娘を窘めた。というか懇願した。


「リアーナよ。さすがに王族とのエア婚約はやめなさい。というか、ほんとマジで勘弁してください」

「エアだなんてひどいわ、お父様! つい先日、アレス様がこちらにやってきて晩餐を共にしたこと、もうお忘れですか!?」

「忘れるも何も、そんな恐れ多すぎて食事が喉に通らない晩餐、開いてすらいないのだが?」

「そ、そんな……ひどい! ひどすぎますわ、お父様! あの夜のことを忘れてしまわれるなんて!」


 歌劇のヒロインさながらに、さめざめと泣く。

 自然、オリバーの目が遠いものになる。


 オリバー自身、多少なりとも親バカが入っているという自覚を差し引いても、リアーナは器量しで気立ての良い娘だった。

 そんな彼女の大きすぎる欠点が、


「あの夜、お父様もアレス様も、お酒の飲み過ぎでぐでんぐでんに酔われていたではありませんか!」


 妄想癖これである。


(それにしても……まさかリアーナが、アレス様のことをお慕いしていたとはな)


 どうりで今まで彼女に持ちかけた縁談を悉く断られたわけだと思いながらも、オリバーは心を鬼にして、娘を現実に戻す言葉を投げかける。


「リアーナよ。あまり妄想が過ぎると、不敬罪で其方そなたと吾輩の首が飛ぶことになるぞ」


 妄想癖があるというだけで決してアホではない愛娘は、バツが悪そうに口ごもる。


 今のご時世、王族に不敬を働いたからといって早々首が飛ぶことはない。

 ゆえに、オリバーの言葉がただの脅しであることはリアーナも理解している。

 しかし同時に、罰せられた場合は軽い罪では済まされないことも理解していた。


 不敬罪の一言で妄想世界から現実世界に舞い戻ってくれたのも、ひとえにリアーナが聡明だったからに他ならない――と思っていたら、


「……リアーナよ。なにゆえ、吾輩から盛大に目を逸らしておるのだ?」


 訊ねると、リアーナは目はおろか顔までもを盛大に逸らした。

 額からはダラダラと冷汗が流れていた。


「まさかとは思うが、アレス様とのエア婚約……吾輩以外の誰かにも言ったのではあるまいな?」

「そ、そんなエア婚約だなんてひどいですわ、お父様!」


 一瞬にして現実から妄想に舞い戻る娘の首根っこを掴むように、オリバーは語気を強くしてもう一度訊ねる。


「言ったのではあるまいな?」


 すると、リアーナは錆びついた扉のようなぎこちなさで、再びこちらから顔を逸らし、


「軽く、吹聴しただけですわ」


 ……訂正。愛娘はアホだった。


「なぜ言いふらした!?」

「だって……アレス様と婚約できたことが嬉しかったんですもの……」


 だから婚約それ妄想エアだろうが――という言葉は、かろうじて呑み込む。

 なぜなら今のリアーナは、心底アレスのことを慕っている表情をしていたから。

 そんな表情を見せる愛娘に現実を突きつけられるほど、親バカオリバーの心はからくできていなかった。


 こうなってしまった以上はもう、王族の耳に届いていないことを祈るしかない――そう思っていたオリバーのもとに、長年オルストイ家に仕えている老執事がやってくる。


「オリバー様。王城しろから使いの者が来ておりますが」


 それだけで全てを察したオリバーは「もうどうにでもな~れ」と思いながら天を仰いだ。











 やはりというべきか、リアーナは王城に呼び出されることとなった。

 リアーナ一人を王城に向かわせるのは、心配でもあり、不安でもあったので、オリバーも共に登城することにした。


 事と次第によっては爵位の剥奪もあり得るかもしれないと戦々恐々としているオリバーと、もしかしたらアレスに会えるかもしれないと目をキラキラさせているリアーナが通されたのは王城の応接間。

 賓客というほどではないが、さりとて軽視するような相手でもない……そんな人間を通すのに使われている、そこそこに格式の高い部屋だった。


(少なくとも、首を洗っておく必要はなさそうだな)


 割りと本気でそんなことを考えながら、何のために呼ばれたのかも、誰と会わされるのかもわからないままリアーナと一緒に待つこと五分。


「失礼します」


 応接間にやってきたのは、一人の年若い従僕フットマンだった。

 仕える相手が王族だからか、立ち振る舞いにどこか気品を感じさせる黒髪の青年だった。

 

「私はアレス様に仕える従僕、ロルカと申します。リアーナ様、オリバー様、この度はわざわざご足労いただき、まことにありがとうございました」


 そう言って、ロルカはうやうやしく一礼する。


 正直な話、オリバーは娘が心配で勝手に付いてきただけなので、お引き取り願われる可能性が高いと思っていたが、ロルカの反応を見るに、どうやら同席することを許されたようだ。


 そのことに内心安堵しつつも、オリバーはロルカに訊ねる。


「ロルカくん。娘が城に呼び出されたのは、やはり娘が流した……についてかね?」


 たとえ相手が従僕であっても、「第三王子とエア婚約した」などとのたまうことに抵抗があったオリバーは、つい迂遠な言い回しで訊ねてしまう。


 だが、さすがは王族に仕える従僕と言うべきか、こちらの言わんとしていることをあますことなく理解してくれたロルカは、こちらが望む答えをも余すことなく答えてくれた。


「はい、そのとおりです。ですがオリバー様、どうかご安心くださいませ。あの程度の噂を流されたくらいで、寛大なるアレス様が女性を罰するような真似をしないことは、僭越ながらこのロルカめが保証いたします」


 さすがにエア婚約は〝あの程度〟では済まされないのでは?――という疑問はさておき。

 アレスに仕える従僕のお墨付きを得られたことには、安堵を覚えずにはいられないオリバーだった。


「ええ、ええ、そうですとも。アレス様は極めてお寛大で、極めてお素晴らしい方ですもの」


 もっとも、すぐ隣で愛娘がこんなことを宣っているせいで、覚えたばかりの安堵は今にも吹き散らされそうだが。

 あと、無事に館に戻った暁には、リアーナにはもう少し言葉遣いというものを教えてやろうと心に決める。


「早速本題に入らせていただきますが、リアーナ様……なにゆえ、アレス様と婚約したなどという嘘を言いふらしたのですか?」

「嘘ではないからです。少なくとも、わたくしの脳内では」


 ロルカの問いに対し、毅然とリアーナは答える。

 その姿は凜々しさすら覚えるくらいだが……言っていることは、我が娘ながら悪魔か何か取り憑かれてはいないかと心配――いや、悪魔如きが取り憑いた程度でどうこうできるものではないと思い直す。


 一方ロルカは、さすがは王族に仕える従僕と言うべきか、正気を疑うようなリアーナの返答に眉一つ動かしていなかった。

 彼もまた、悪魔如きがどうこうできる手合いではないのかもしれない――と、オリバーが益体やくたいもないことを考える間に、話は続いていく。


「リアーナ様の脳内では嘘ではなくても、現実ではそういうわけにはまいりません。アレス様と婚約したと吹聴したリアーナ様の行為は、王族に対する不敬にあたります。仮に、の話になりますが、もし今回の件が大事になった場合、リアーナ様はどのようにして責任をとるつもりでいらしたのですか?」

「その時は、この首を差し出したまでですわ」


 リアーナは一点の曇りもない目でロルカを見据え、断言する。

 まさかとは思うが、王城ここに来る前にした、首が飛ぶことになる云々の話から着想を得て答えたのではあるまいな?――と、オリバーは眉をひそめる。


 一方ロルカは、さすがは王族に仕える従僕と言うべきか、物騒な返答をかえすリアーナに見つめられてなお、眉一つ動かすことなく話を続けた。


「なぜ、こうも迷いもなく、自分の命を差し出すことができるのですか?」

「それは勿論、アレス様のことを愛しているからですわ」

「……なるほど。ちなみにですが、リアーナ様はアレス様のどういったところを愛してらっしゃるのですか?」


 その問いは、父親ゆえに聞くに聞けなかった問いだった。

 だからというわけではないが、オリバーは平静を装いながらも耳をそばだてる。


 リアーナは、深く、深く、深呼吸をしてから、父親であるオリバーですらもドン引きするほど早口に、アレスへの愛について語り出した。


「いやらしい話になりますが避けて語るわけにもまいりませんのでまずはアレス様の大変お素晴らしい容姿について語らせていただきますが容姿という点においてアレス様の魅力を際立たせているのはなんと言っても眼力めぢからにありますあの猛禽のような鋭い目つきにわたくしのハートは見事に射抜かれてしまいましたわ世にいる令嬢スケどもはアレス様の目つきを恐いだの何だのほざいてらっしゃいますがわたくしから言わせれば節穴もいいところあのワイルドかつダンディな視線の良さをわからないまなこなど必要ありませんので何だったらわたくしが手ずからくり抜いて差し上げようかと思ったくらいですわ眼の話をしたとなればアレス様の顔立ちについても語らなければならないのですがあのワイルドかつダンディな彫りの深い顔立ちはもう最高としか言いようがありませんわそれはもうわたくしのハートを鷲掴みにして離さないくらいにおまけに太陽よりも燦然と輝く金色こんじきの髪と相まって首から上だけでも映えること映えること何だったら今すぐアレス様のお部屋にお邪魔して一枚の絵に収めたいくらいですわと顔のことばかり語っているとその辺にいる令嬢スケのように顔にしか興味のないクソお嬢様と思われかねないのでそれ以外についても語らせていただきますがさすがは王国軍を率いる立場というだけあって見上げるほどに高い背丈と引き締まった肉体がワイルドかつダンディすぎてもう辛抱たまりませんわ特にお素晴らしいのは無駄に開かれた襟元からチラ見えしている胸元あそこまで引き締まった胸元はそれだけでもう国宝級今すぐ国庫に納めて末代まで大切に保管するべきだと言いたいところですがさすがにアレス様から胸元だけを引き剥がすのは猟奇的にも程がありますので我慢して差し上げますわといい加減話が長くなってまいりましたのでそろそろアレス様の内面のお素晴らしさについて語らせていただきますわその辺にいる頭の軽い令息ボンクラとは違ってアレス様は無駄口を叩くような方ではないからよく勘違いされますがアレス様は誰よりも慈悲深くお優しい方なのです今から二年と四ヶ月加えて五日前に目撃したことですがアレス様がお忍びで町に降りている情報を聞きつけて尾行した際突然の雨に見舞われたわけですが用意周到かつワイルドかつダンディなアレス様はしっかり傘をお持ちになっておられたのですとはいえ雨足が予想以上強く傘を差してなお体が濡れると判断したアレス様は建物と建物の間つまりは路地を行くことで吹きつけてくる雨の角度を制限し必要以上に体が濡れることを避けることにしたのですワイルドかつダンディなだけではなく理知的であるところもアレス様の魅力の一つではありますがそこまで語ってしまったら盛大に話が逸れてしまうので今は勘弁して差し上げましょうアレス様が傘を差して路地を征く道中雨でずぶ濡れになっている子猫を見つけたのですさてここまで来ればもうおわかりですねアレス様はご自身のお体がずぶ濡れになることを厭わずに子猫に傘を差し上げたのですよもう何ですのそれわたくしを萌え転がすつもりですの本当にアレス様は至高かつ最高かつ罪深い御方ですわとアレス様の意外な一面を語ったところでここからは誰もが知っているアレス様の勇猛果敢さについて語らせていただきますわ先程も言いましたがアレス様は王国軍を率いる立場にありますそれゆえに誰よりも勇猛で誰よりも果敢で誰よりもワイルドで誰よりもダンディでなくてはならないのです確かにわたくしたちの国は平和ではございますがそれもこれもアレス様が第三王子という身分でありながら前線まで赴いて命を賭けて戦ってくれているおかげに他なりませんそこに感謝こそすれ恐れる要素など毛ほどもないのに世にいる令嬢スケどもはアレス様のことを恐いだの何だのとさっきも似たようなことを言ったような気がしますわねまあいいですわとにかくアレス様は軍を率いる立場ゆえに誰よりも勇猛果敢でなくてはならない戦場までアレス様のことを尾行しに行った時見せていただいたアレス様の勇ましさとワイルドさとダンディさはさながら末代まで語り継がれるべき英雄譚なんだったらわたくしが語り継ぎたいくらいですけれどそこまで話を延ばしてしまったらいくら時間があっても足りませんしアレス様の従僕であるあなたの時間をこれ以上奪うのはわたくしとしましても気が咎めるものがありますのでまだ十分の一も語れた気がしませんがわたくしが如何にワイルドかつダンディなアレス様のことを愛しているかについて語るのはこれくらいで勘弁して差し上げましょう」


 ……………………。


 さすがにこれは、オリバーも開いた口が塞がらなかった。

 というか、何しれっと戦場まで尾行ストーキングしているのだ我が娘よ。

 それから何回ワイルドかつダンディと言えば気が済むのだ。

 ツッコむところが多すぎることにツッコみを入れたいくらいだぞ。


 だが、さすがは王族に仕える従僕と言うべきか、ロルカは今の熱弁を前にしても眉一つ動か――あ、今、頬のあたりがヒクッて動いた。

 引きつりそうになったのか、笑ってしまいそうになったのかは定かではないが、さすがに王族に仕える従僕といえども今の熱弁はそれなり以上にこたえたようだ。


 頬がひくついたことを誤魔化ごまかしたかったのか、ロルカは「コホン」と一つ咳払いをしてからリアーナに言う。


「リアーナ様がアレス様のことをどれほど深く愛していらっしゃるのかは、よくわかりました。正直に申し上げますと、今回リアーナ様からお聞き取りした話は、私の方でアレス様にお伝えするつもりでいましたが……」


 ロルカは顎に手を当てて黙考してから、言葉をつぐ


「今のタイミングならば、アレス様は自室にいらっしゃるはず。この際ですから、アレス様に直接返答を聞くというのは如何でしょう?」


「「え?」」


 まさかすぎる提案に、オリバーとリアーナが揃って驚愕を吐き出す。

 もっとも、オリバーの「え?」が恐れが多さがまさっているのに対し、リアーナの「え?」は露骨に喜びが勝っていたが。


「さ、さすがにそれは謹んでお断――」

「是非よろしくお願いいたしますわっ!!」


 固辞しようとしたオリバーの言葉は、力強いにも程があるリアーナの返事によってかき消された。


 こうしてオリバーはリアーナとともに、恐れ多くも第三王子の部屋を訪れることとなった。

 まさかすぎる展開にオリバーが戦々恐々としている内に、三人はアレスの部屋の前に辿り着く。


「さすがにこのまま全員で――というわけにはまいりませんので、リアーナ様とオリバー様は少々お待ちくださいませ」


 そう言って、ロルカは恭しくも控えめに部屋の扉をノックする。


「ロルカです。アレス様に、ご相談したい儀があるのですが」

「ロルカ? ……ああ、お前か。入って構わんぞ」


 扉の向こうから聞こえてくる、二〇代の若者とは思えないほどに落ち着いた声音を聞いて、リアーナが今にも天に昇っていきそうな顔をしていることはさておき。

 アレスの物言いにどことなく引っかかるものを覚えたオリバーが眉根を寄せている間に、ロルカは一人部屋の中に入っていく。



 そしてその数分後――



「お待たせしました、リアーナ様、オリバー様。どうぞ中にお入りくださいませ」


 促されるがままに、オリバーはリアーナとともに第三王子の私室に足を踏み入れる。

 王子にしてはいやに質素な部屋の中央に、金色こんじきの髪と鋭い双眸が目を引く第三王子――アレスが佇んでいた。


 まさか本当にお目通りが叶うとは思っていなかった一方で、心のどこかでこうなる予感もしていたオリバーが、その場で跪拝きはいしようとするも、


「そのままで構わぬ、オルストイ男爵。王族といえどもおれはいまだ若輩の身。人生の先達に膝を突かれるほどの器ではない」


 その言い回しがもう国王どころか覇王じみた器を醸し出している気がしないでもないが、かといってアレスの言い分を突っぱねるのは、それでそれで相手の顔に泥を塗るようなものだと思ったオリバーは、素直にアレスの言葉に従うことにする。


 一方リアーナはというと……憧れの第三王子とのご対面に感極まる以上に緊張してしまったらしく、微妙に顔を赤くしながらガッチガチに固まっていた。

 そんな愛娘に、アレスの鋭い視線が向けられる。


「して、リアーナ嬢。例の噂についてだが……こうして貴女あなたの方から弁解に来た以上、己からはとやかく言うつもりは何もない。そもそも噂自体、そう目くじらを立てるほどのものでもないからな。仮に父上が噂についてお許しにならなかったとしても、この己が責任を持って説き伏せることを約束しよう」


 その言葉に安堵すると同時に、明らかにおかしな点があったことにオリバーは眉をひそめる。


?)


 リアーナは呼び出されて王城に来たというのに、それはさすがにおかしいのでは?――といぶかしんでいたオリバーだったが、突然アレスが、リアーナに向かって跪拝したことに、今脳内に浮かんだ疑問はおろか、度肝すらも吹っ飛んでしまう。


「ア、アレス様!?」


 まさかの第三王子の行動に、さしものリアーナも目を白黒させ、ロルカですらも意外そうな顔をする中、アレスはリアーナに向かって謝罪する。


「すまない、リアーナ嬢。己は貴女の想いに応えることはできない」


 当然といえば当然の返答に、リアーナが「ぇ……」とか細い声を漏らす中、アレスは続ける。


「これは父上にしか伝えていないことであり、相手が別の国の姫君ゆえにお許しを得られた話になるが……己には将来を誓い合った相手がいる。己は生涯、彼女のことを愛すると決めている。だから、彼女以外の女性をめとるつもりは、己にはない」


 そう言って、跪拝したまま、こうべを垂れながら、アレスはもう一度「すまない」と謝罪の言葉を口にする。


 男爵令嬢に対してはあまりにも過分で、あまりにも誠実な第三王子の謝罪を前に、半ば茫然自失となっていたリアーナはただ一言、


「わかり……ました……」


 と、忘れてしまった我以上に、茫とした調子で答えることしかできなかった。



 その後――



 アレスは第三王子としての執務に戻らなければならなくなったため、オリバーたちは部屋を辞することとなった。

 茫然自失としているリアーナを、このまま館に連れ帰るのはどうかと思ったオリバーは、ロルカに頼んで応接間に戻ることにした。


 応接間に辿り着き、中に入って扉を閉めると、ほどなくしてリアーナがポツリポツリと語り出す。


「わかっていましたわ……ええ……わかっていました……。わたくしは所詮、男爵令嬢……。王子であるアレス様と婚約なんて、天地がひっくり返ってもあり得ないことくらい……わかっていましたわ……」


 言っていることは真実だし、むしろ第三王子とエア婚約なんてやらかしたリアーナの方が色々とおかしいことはわかっている。

 だが、それでも、あからさまにショックを受けているリアーナの様子には、オリバーも、ロルカでさえも、痛々しさを覚えずにはいられなかった。


「そんなことよりもお父様……見ましたか? 聞きましたか? アレス様のお素晴らしいお姿を……。お素晴らしい声を……。わたくし如きに跪いて……謝る必要もないのに……本当はわたくしの方が謝らなければならないのに……とても……とても真摯に謝ってくれて……」


 言葉を積み重ねていく度に、リアーナの目尻に涙が溜まっていく。


「本当に……本当に……アレス様は素敵な御方ですわ……それこそ、わたくしが思っていた以上に……」


 そして、


「そのアレス様に……わた……わたくし…………っ」


 もうこらえきれないとばかり、涙が溢れ出す。

 もうたまらないとばかり、父の胸に抱きつく。


 そして、


「……ぁ……あ……あぁああぁぁぁあぁあぁぁぁああぁっ!!」


 完膚なきまでに失恋したリアーナは、声上げて泣きじゃくった。


 さしものオリバーも愛娘にかける言葉が見つからず……今はただ、リアーナの気が済むまで胸を貸してやろうと心に決める。


 そんな二人の様子を、ロルカは見守るように、あるいは食い入るように見つめていた。












 リアーナが失恋してから半月が過ぎた頃。


 社交界において、どうやらリアーナの妄想癖はオリバーが思っていた以上に有名な話だったらしく――親としては頭を抱えたい話だが――第三王子とのエア婚約を真に受けた貴族はほとんどいなかった。

 数少ない真に受けた貴族も、周囲の反応から色々と察して……今日こんにちに至る頃にはもう、エア婚約について噂する者は一人もいなくなっていた。


 こうして、リアーナのエア婚約騒動は終わった。

 終わったからこそ、リアーナは今日に至ってなお塞ぎ込んでいた。


 オリバーは、リアーナの好きな焼き菓子を持って彼女の部屋の扉をノックするも、


「ごめんなさい、お父様。今は気分が優れませんの……」


 アレスと婚約したとのたまっていた時の溌剌さはどこへやら。

 扉の向こうから悄然しょうぜんとした返答をかえしてくる愛娘に、オリバーは悄然とため息をつく。


 どうにかして娘を元気にさせてやりたい。けれどその方法が思い浮かばない――と、懊悩していたオリバーのもとに、長年オルストイ家に仕えている老執事がやってくる。


「オリバー様。貴方様とお嬢様宛に、お手紙が届いております」

「吾輩とリアーナに?」


 眉根を寄せながら、オリバーは老執事から手紙を受け取り、差出人の名前を確認する。


「なッ!?」


 思わず、驚愕を吐き出してしまう。


 差出人の名前は、カルロス・アール・ペンタグラ。

 この国の第六王子でありながら、王位継承権を放棄した挙句、いまだかつて社交界に一度も姿を見せたことがない、謎多き人物だった。


「リ、リアーナ! 吾輩とお前宛に、第六王子のカルロス様からお手紙が届いている! な、中に入るぞ! よいな!?」


 さすがに王族からの手紙を無下にするわけにはいかなかったのか、リアーナは渋々といった風情で部屋の中に入ることを許してくれた。


 リアーナの髪がボサボサになっていたり、目の周りが赤くなっていることには、今はあえて触れないことにしたオリバーは、早速封を開けてリアーナとともに手紙をあらためる。


 手紙の内容は簡潔だった。


 カルロスが、リアーナとの婚約を望む旨を、簡潔に書かれていた。


 あまりにも理解が追いつかない出来事に、オリバーが呆気にとられる中、どこまでもブレないリアーナが微塵の躊躇もなく答える。


「お父様……カルロス様には申し訳ありませんが、この話は断ってくださいまし。わたくしはカルロス様のことを全くご存じありませんし、アレス様に振られたからといって他の王族の方とお付き合いするのも不誠実な話ですし」


 男爵家の当主としては、愛娘には是が非でもこの婚約を受けてもらいたいところだけれど。

 愛娘だからこそ、人生の伴侶は娘自身に決めさせてやりたいと思っていたオリバーは、涙を呑んで「わかった」と返した。


 兎にも角にも、断りを入れる以上は返事は早い方がいい。

 そう思ったオリバーは、老執事に紙とペンを用意させようとするも、いつの間にやら姿が見えなくなっていることに眉をひそめる。


 ならばと声を上げて呼ぼうとしたところで、いつの間にか廊下の向こうにいた老執事がこちらにやってくる姿が目に映り、思いとどまる。

 老執事は、これまたいつの間にやら届いていた、二通目の手紙を携えていた。


 まさかと思ったオリバーは、老執事に訊ねる。


「その手紙も、カルロス様からなのか?」

「はい、その通りです」


 そうして二通目の手紙を受け取ったオリバーは、リアーナと一緒にその内容をあらためる。



 ※ ※ ※


 おそらく、というか間違いなく、リアーナ嬢なら断るだろうと思って、もう一通手紙を送らせていただきました。


 リアーナ嬢。

 よろしければ私と、お茶会友達になってはいただけないでしょうか?


 これは私のワガママになりますが、断られるにしても、私という人間の人となりを知られてからの方が諦めがつくと思いまして。


 お茶会を開くのは、私の方からでも、リアーナ嬢の方からでも構いません。

 どうか、このささやかな願いを聞き入れていただけることを願っています。



 アレス兄上の従僕フットマンをフリをしていたロルカ、もとい、カルロス・アール

・ペンタグラより。


 ※ ※ ※



「はぁ~~~~~~~っ!?」


 リアーナの口から、驚愕と呆れが入り混じった声が飛び出す。

 オリバーはオリバーで、開いた口が塞がらない思いだった。


 同時に、得心もする。


 オリバーとリアーナがアレスにお目通りする前、アレスはロルカの名前を聞いた際に、聞き馴染みのないような反応を示していた。

 そして、お目通りした際も、アレスは「貴女の方から弁解に来た」と言っていた。

 直後のアレスの跪拝で全て吹っ飛んでしまったが、オリバーはその言葉に疑問を抱いていた。


 仮に、リアーナを王城に呼び出したのがカルロスの仕業であり、アレスに対してはリアーナの方からエア婚約について弁解に来たと吹き込んでいたならば、オリバーに疑問を抱かせたアレスの反応や言葉に説明がつく。


(しかし、なぜそのような手の込んだ真似を……いや、それ以前に、カルロス様にはリアーナのやべーところばかりをお見せしたというのに、いったい全体娘のどこを気に入ったというのか……)


 不意に、最近歌劇でよく耳にする「オモシレー女」という言い回しが脳裏をよぎるも、いくらなんでもそれはないだろうと思ったオリバーはかぶりを振ってから、リアーナに話しかける。


「あの時の従僕がカルロス様だったとは、まさかもいいところだな」

「本当にまさかですけど……さすがに、こういったやり口は好きではありませんわ。男らしいアレス様とは真逆もいいところですし」


 本当にどこまでもブレない愛娘に、オリバーは苦笑しながら訊ねる。


「ならば、お茶会の話も断るのか?」


 リアーナは、ゆっくりとかぶりを振る。


「さすがにそのお誘いまでお断りするのは、カルロス様とご兄弟であるアレス様の心証を悪くするやもしれません。ですので、少々気が進みませんがお受けいたしますわ。というか何ですの? お茶会友達って? 王族ならば、もう少し言葉選びというものをですね――……」


 と、ところどころ言葉遣いがおかしい自分のことを棚に上げてぶつくさ言っている愛娘を見て、オリバーは頬を緩める。


 婚約云々はともかく、結果的にリアーナは元気を取り戻してくれた。

 そういった意味では、手紙を送ってくれたカルロスには感謝したいくらいだし、婚約についても男爵家の当主としては応援したいところだが、


(決めるのは、あくまでもリアーナだ。吾輩は一人の父親として、ただその行く末を見守ればいい)


 一人そんな思いを抱きながらも、いまだぶつくさ言っている愛娘を、オリバーは温かく見守った。

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