第7話   混沌

 蓮は、できるだけ急いで自宅のマンションに戻らなければいけないような気がしていた。あの女に、この何かおかしな世界の概要について尋ね、狂った世界の全体像を掴まなくてはならない。そう思うと、気が急いてきて、彼は少し足取りを速めた。

 スマホのマップを見つつ、地理の分かり易そうな大通りを歩いて行くと、さっきからの曇天が、更に雲行きを妖しくして、ぽつりぽつりと小粒の雨が降り出した。彼は傘も持っていなかったので、この小雨が強さを増すまでに、何とかマンションに帰り着こうと、小さな決意を固めていた。


 何処からか、あの狂気じみたアップビートの音楽が聴こえてくる。蓮は何だか妙な胸騒ぎを覚え、気は焦るばかりだった。

「ねえ、おじさん」

 ふと背後から声がして、蓮は反射的に振り向いた。見ると、年の頃は8、9歳ほどの子供が、彼を不思議そうに見上げていた。


「ん?何?何か用か?」

 蓮はかなり狼狽した様子で、子供に問い掛けた。子供は七五三のお祝いみたいな半ズボンのスーツを着ていて、見た目には男の子か女の子か判別に困るような、中性的な顔立ちをしていた。

「お母様!やっぱり蓮おじさんだよ!こんな所で何してるの?おじさん」

 子供は不意に大きな声で、母親に声を掛けたようだった。声から推察するに、やはり男の子のようだ。紅顔の美少年、といった品のいい顔立ちからは、良家の御曹司、といった風格が、幼いながらも漂っていた。


「晴斗、なあに?大きな声を出して。はしたないですよ」

 子供の声に答えた母親らしき女が、何処からか姿を現した。その顔を一目見て、蓮は飛び上がらんばかりに驚いた。

「さ、早苗!お前、何やってんだ?」

 女は蓮の行き付けの風俗店のホステス、早苗だった。早苗とは先程、「元の世界」の道端で出くわし、互いに憎まれ口みたいなことを言い合って別れたばかりであった…はずだ。


 だが、今、蓮の視界に入っている女は、早苗とは似て非なる女のように見える。早苗は、いや、早苗に酷似した女は、留袖の着物を品よく着こなして、蛇の目の和傘を粋な手付きで携えている。唇には、ほんのりと紅を差し、その表情にもどことなく気品を漂わせていた。

「蓮さん、お久しゅうございます。お元気そうで何よりです」

 女は、静かに一礼して、蓮に向かってにこりと微笑んだ。蓮は面食らった様子で、

「あ、ああ…。お久しぶり」

とだけ答えた。


 一体どうなっているのだろう。先程の三浦といい、この早苗といい、まるで別人である。二人とも、「元の世界」で見る下卑た言い回しや、仕草は微塵も見当たらない、意識の高い人間になっているようだ。本当に信じられない。この驚くべき変貌ぶりに、蓮はやっぱり俺はパラレルワールドに入り込んだのだと、心から納得せざるを得なかった。


「早苗…さん。あなたはその…何のお仕事をされているんでしたっけ…?」

 蓮は恐る恐る、早苗に尋ねてみた。早苗は、何を言っているのかというような表情で、

「え?私は以前からずっと、書道教室を主宰しているじゃありませんか。お忘れになったのですか?蓮さん」

 早苗の口からは信じられないような言葉が出てきて、蓮は更に衝撃を受けた。あの早苗が、書道教室の主宰?そんな、そんな馬鹿な。あのアホで下品で、性格も最低の早苗が…信じられん…。


 自分の現在の境遇にようやく気が付いた蓮は、ふと心細くなった。こんな設定も、人間関係も全く異なった世界で、果たしてこれから自分は生きていけるのだろうか。増してや、自分自体は以前と全く変わっていない、自堕落で、意識の低い自分である。どうしよう。こんな意識高い系ワールドに迷い込んでしまって、こんな自分ではやっていけないに違いない。ああ、元のくだらない世界に戻りたいなあ。


 考えてみれば、本当に身勝手な話である。自分の現状に勝手に幻滅して、勝手に理想の世界を妄想し、そして今、その理想が現実になってみると、勝手に怖くなってしまっている。本当に身勝手だ。


「早苗さん、私のことをどう思います?現状として」

 蓮は愚にも付かない質問を早苗にしてみた。早苗は、眩いばかりの満面の笑みで、

「蓮さんはいつだって素敵ですよ。いつも優しいし、温かくて、穏やかで…私には理想の人です」

 早苗からは思ってもいない言葉が返ってきた。蓮はこの言葉にも、酷く仰天して、自分でも、もう何が何だか、訳が分からなくなってきた。でも、何だか悪い気はしない。我ながら節操のない男だ、と蓮は思った。


「そうか!ありがとう!早苗さん!いつも感謝してるよ」

 蓮はいつになく殊勝な言葉を早苗に掛けて、これまたいつになく優しい微笑みを浮かべた。

「ふふふ、蓮さん、こちらこそありがとう。私、蓮さんのこと、前から…」

 そう言いかけて、早苗はふと、はにかんだように微笑んだ。

「えっ…早苗さん…そんな…」

 蓮は久々に、甘酸っぱいような感覚を覚え、若干どぎまぎした。これがあの、小憎らしくて下品な早苗だろうか…か、可愛い…。


 蓮はいずれにしろ、一回マンションに帰ってあの女と話をしなければならないと思った。この世界の真の姿、本当の意味を知りたい。蓮は心からそう思うようになっていた。兎に角、この早苗は可愛い。今、それだけは確かなことであった。何とか、真相を見極める。蓮はそう決意した。


「じゃあね、早苗さん。また会いましょう」

 蓮はそう言って、

「はい。またね。蓮さん」

と、にこやかに微笑む早苗に、暫しの別れを告げた。


 


 

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百億年の孤独 朝比奈有人 @EugeneAsahina

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