第6話 パラレルワールド
蓮は、踊り狂う人々を掻き分け搔き分け、商店街の奥の方へと進んで行った。ごった返す人々の波は彼を押し流し、あらぬ方向へと導かれるように蓮は来し方行く末を見失った。ここが何処か分からないまま、彼は大勢の人によって流されに流されていった。
人々の熱気と、突然に彼を襲った体調不良により、蓮は少し腹部に違和感を覚えていた。
「ええと…。トイレトイレ…」
彼は早速、近くのトイレをスマホで検索すると、この辺にも使えそうな公衆トイレが幾つか存在するということが分かった。状況は次第に切羽詰まってきたので、蓮はそのうちのひとつの、近くの大きな公園にあるトイレを利用することに決め、まずは公園に急いだ。
早足で歩きながら、蓮は、
「さっき、トイレに行っておけばよかった。しくじったなあ…」
と、独り言ちた。
ものの数分で近くにある、大公園に着いた。見ると、想像していたより、はるかに大きな公園の姿を目の前にして、彼はいよいよ、歩みを早めた。
「やばいやばいやばいやばい」
蓮は独り言を言いながら、公園の中を彷徨った。しばらく行くと、トイレの看板が見えたので、彼は少し安堵した。
急いでトイレに入り、何とか事なきを得ると、蓮はこれからどうしようか、少し考えた。あの女の言う通り、散歩に出たはいいものの、もうかなり家から遠いところまで来てしまった。ここから歩いて帰るのも、非常に面倒臭い。もっと言えば、ここからバスやタクシーで帰るのも、何となく癪であった。
蓮は考えあぐねた挙句、やはり元来た道を戻ることに決めた。そうと決まったので、蓮は早速歩き出した。何処かでお茶でも飲むとか、今日は何となくそんな気分にはならなかった。しばらく元の道を引き返すと、何時の間にか道路工事が始まっていて、工事車両の立てる轟音が鳴り響いていた。
来たときは工事なんかしてなかったのに、おかしいな。蓮はふとこう思って、仕方なく迂回路を歩いて行くことに決めた。ふと道路の反対側の歩道を見ると、また不動産屋の三浦が歩いていた。
「おーい!三浦さん!」
彼は絶対に自分から声を掛けまいと決意していたので、自分でも気付かないうちに大きな声が出てしまったことに、大いに驚いた。
見ると、三浦はこちらの声に気付いたらしく、嬉しそうに大きく手を振っている。
「おー!先生!こんばんは!」
蓮は若干の戸惑いを憶えた。やはりああいうバリバリの不動産業の人間は、基本的に陽キャなんだなと、妙に納得する自分がいた。そうこうするうちに、三浦は大胆にも大通りを強引に横切ってこちら側まで渡ってきた。
「どうもどうも!先生!」
豪快に笑いながら、三浦は如何にも上機嫌といった感じで、何処か酒臭い匂いを放っていた。蓮は、
「三浦さん、随分とご機嫌がいいんですね。飲んでらっしゃるんですか?」と聞いてみた。三浦は、若干赤くなった顔に満面の笑みを浮かべて、
「ええ。そうなんですよ。学校に残った同僚と仕事の話になって、話し込んじゃいましてね。どうせなら飲みながら話そうってことになりまして」
「ふーん…そうなんですね…。って、あれ?学校…って何ですか?」
蓮は何か話が嚙み合っていないことに気付き、すかさず問いを投げ掛けた。三浦ははちきれそうな笑顔を崩さないまま、即座に、
「今日は期末テストの採点作業をやってまして、それで学校に居残りでした」と、思ってもみなかった言葉を返してきた。
「え?」
蓮は思わず間抜けな声を出してしまった。学校?採点?期末テスト?どういうことだ?
蓮が戸惑った表情を見せると、三浦は怪訝そうな顔になった。
「え?どうしたんですか?いつもの仕事ですよ。子供たちのために、できることはやろうと思いまして」
蓮は、狼狽していることを隠す様子もなく、
「え?え?三浦さんって、お仕事は不動産屋さんですよね?」
三浦は、それを聞くと、途端に心配そうな顔をして、
「ええっ…!先生、大丈夫ですか?熱でもあるんじゃないですか?」と声を大きくした。
「私は以前から教師に憧れていましたよ。前にもお話したと思うんですが」
蓮は、狐につままれたような不思議な気持ちになった。彼は少しの間、言葉を失うほど、衝撃を受けていた。
「どうしたんです?大丈夫かなあ…心配です」
三浦は、本当に心配げな様子で、蓮の顔を覗き込むようにして見た。蓮は、
「そ…そうなんですか…。いや、驚きました」と言うのがやっとだった。
三浦は続けた。
「私はこの日本という国の行く末を、心から憂いているんです。この国にはもっとドラスティックな変革が必要です。コペルニクス的な転換と言うべきか、国の在り様を根本から変えていくようなイノベーションが。そのためにはまず、子供たちへの教育から改めなければならないと、自覚するに至ったのです」
蓮は目を丸くして、この三浦の持論の展開を聞いていた。一体どうしたというのだろうか。あの、普段から下世話な話しかしなかった三浦が、今、こうして一端の哲学者みたいなことを言い、俺の前で自らの意見を論理的に述べている。
そうか。ここはもう、俺の元いた世界ではないんだ。言うなれば、パラレルワールド…。かつて俺がいた世界とは、似て非なる世界なんだ…。蓮は、今更ながら、自らの置かれた状況を、心の底から思い知らされたのだった。
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