第5話 新しい世界
気が付くと、蓮は元の自分のベッドの上に、横たわっていた。
「ここは…」彼は真っ白な天井を見上げていた。俺は一体どうしていたのだろう。何がどうなったのか…。
そうだ。俺はあの、赤いコートの女に、窓際から思い切り突き飛ばされて、地面に落下したんだった。あの後、どうなったんだろう…。空が何処までも青くて、すごく綺麗だったな…。
ここは俺の部屋のようだ。時間が戻ったのか?蓮は部屋の中を、一通り見回してみた。特に前と変わったところはないようだ。やはり、時間が戻ったのか、或いは全てが幻覚だったのか…。
蓮はゆっくりと起き上がった。頭が物凄く痛い。じんじんと、頭の中心が響くような、そんな頭痛だった。ふと、キッチンの方を見ると、何か、白い液体が床に零れている。
「何だろう?」蓮は独り言ち、近寄って、じっとその液体を見詰めた。匂いも嗅いでみたが、無臭である。とりあえず、近くにあった布巾で、その液体を拭き取ることにした。
布巾を逆手に持って、液体を拭うようにして綺麗にすると、後ろからまた、聞き覚えのある声が聞こえた。
「お疲れ様」あの赤いコートの女の声だった。蓮は何故か、とても懐かしい気がして、嬉しくなってきた。
「やっぱり夢じゃなかった。嬉しいよ」
蓮が思わず、本音を口にすると、女は、
「フフフ。可愛いわね」と笑った。
蓮はもう一度、部屋を見回して、
「なあ、教えてくれ。何がどうなってる?」と尋ねた。
女は、微かに笑っているような、そんな表情を浮かべて、
「そうね。もう来ました」と言った。
蓮はその言葉の意味が、瞬時には理解できず、
「は?どういうこと?」と聞いた。
「どういうもこういうもないわ。もうここが、あなたが本来いるべき世界よ」
女は、晴れやかな表情で、そう言ってみせた。
「え?こ…ここが?」
蓮は、女の言葉が俄かには信じられず、素っ頓狂な声を出してしまった。何しろ、どう見ても以前の部屋と、何ら変わったところはないので、彼は若干の当惑と、疑念を覚えていた。
しかし、確かにさっきまで感じていた苛立ちにも似た感情が、今は湧いて来ない。蓮は、今の今まで、どんなときもずっと苛立ちと焦燥感を抱えていた。それが一体、何処から来るものなのか、彼自身にも分かっていないところはあった。ただ、毎日、何かモヤモヤとしたものに彼は支配され、絶えず苛立たされていた。
そして、それが彼の、隠された闇の部分ではあった。長年のそういった怒りと、憤りの鬱積により、彼はいつの間にか、とても頑固で、偏屈な人物になってしまっていた。
窓の外を見ると、相変わらず空は美しく、吸い込まれてしまいそうな青に染まっていた。さっき、あそこから落ちたんだな、と彼は思い、その瞬間の締め付けられるような、そして、焼けるような胸の感覚を思い出していた。
「一体、何が変わったんだ。何もかもが以前の世界と、あまりに似過ぎていて、面食らってるよ」蓮はこう切り出すのがやっとだった。
女は、それを聞いて、微かな笑みを浮かべ、
「そう思うなら、また散歩に出てみれば?よく理解できるわよ」と言った。
「なるほどな。分かった」
蓮はそう言うと、すぐにドアの方に向かって歩き出した。
「気を付けてね」
からかうような表情で蓮を見送る女を背に、彼は部屋を出た。外の風景に
も特に変わっているところは見当たらなかった。エレベーターに乗り込み、一階へのボタンを押す。グオン、という鈍い音がして、エレベーターは動き出した。
マンションの外に出ると、そこの風景も、以前と特に変わりはないように思われた。蓮はとりあえず、再び空を見上げてみた。果てしなく続く青の世界が、彼の気分を浮き立たせた。彼は幾分かの期待を持って、商店街の方向へと歩みを進めた。
商店街は彼が見たこともないような賑わいを見せていた。何かのイベントのようなものを開催している模様で、この地域の老若男女がほぼ全員集まっているように見えるほどな活気だった。そして、その場にいる全員が妙な振り付けのダンスを踊っていて、その様は何か、異様なものを感じさせた。
みんながみんな、若干アップビートの音楽に乗せ、老いも若きも意味不明なダンスを踊っているので、ふと我に返った蓮は、こういうところが元の世界とは違って、何処か支離滅裂で、まるで夢の中にいるような、そんな世界に来たんだな、と思った。
…待てよ。更に言えば、この世界全てが夢なのではないだろうか。そうかもしれない。むしろ、前にいた世界も、どちらも夢みたいなものであろう。最新の量子力学によれば、俺たちが存在する世界、全てが仮想現実だ、みたいなことが言われているようだし、あながちない話でもないんじゃないかな…。
蓮の思考は、留まるところを知らなかった。元の世界にいたときは頭がいつもぼんやりとしていたが、今はすっきりして、驚くほど回転が速い。蓮の胸は、再び浮き立ってきた。
熱狂する祭りは、終わることも知らず、踊り狂う人々の表情はまるで何かに憑かれたような異様さを醸し出していた。不意に打ちあがった、鮮やかな花火が夜空をどぎつい極彩色に染め、蓮はその狂気の中を、ゆっくりと歩いて行った。
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