第4話   現状からの脱却

 蓮はその後も近所をぶらぶらと回ったが、その中で悟ったのは、現在の自分には、腐れ縁や、馴れ合いの人間関係しかない、ということであった。蓮は自宅のマンションへと続く、少々勾配のきつい坂を上りながら、

「俺はこのままじゃいけない」と自分に言い聞かせていた。冬の陽射しが、並木道の街路樹の間から心地良く差し込んできて、彼は自分のこれからの未来に、漠然とした期待を抱いていた。


 坂を勢い良く駆け上がり、マンションの正面玄関のナンバーキーを物凄い速さで押した彼は、郵便ボックスの中身を確かめるのもそこそこに、エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押した。

 あの女は、果たしてまだ部屋にいるだろうか。一抹の不安が、蓮の胸に去来していた。エレベーターは静かに三階に止まる。蓮は、急いでエレベーターを降りると、部屋の鍵を忙しない様子で、やや乱暴に開けた。


 部屋はがらんとしていて、あの女の姿は、どこかへ消えていた。蓮は狐に抓まれたように、呆けた顔で、その場に立ち尽くしていた。

「おいおいおいおいおい!おい!」

 蓮は、思わず大きな声を出してしまった。あの女は、一体どこへ行ったのか?訳が分からない。自分は白昼夢でも見ていたのだろうか。思えば、ここのところ、働き詰めで、ろくに休息も取っていなかった。ひょっとすると疲れで、幻を見たのかもしれない。何てことだ。アホらしい。


 蓮は、ひとつ溜息を付いて、あの女の美しい顔や、やや潤んだ瞳などを思い出していた。

「はあ…。いい女だったなあ…」

 蓮は我ながら情けない独り言を口にした。そのとき、蓮の後ろの本棚の方から、

「フフフ…ありがとう」と、忘れもしない、あの女の声がして、蓮は振り返った。

「待ってたわよ」女は、悪戯な微笑みを浮かべて、一歩一歩蓮の方へと歩み寄って来た。

「待ってたって…本当にどぎまぎさせるね。人をからかって楽しいのか?」

 蓮がそう言うと、女は一瞬、憂いに満ちた表情を見せ、

「ごめんなさい。あなたが可愛かったから、ちょっとからかいたくなっちゃったの」

と、申し訳なさそうに言った。


 蓮は何だか、この女が気の毒になった。彼は、

「いやいや、謝ることはないよ。俺も言い過ぎた」

 彼がそう言うと、女は少し彼の顔を見上げて、その唇にまた軽く接吻をした。

 蓮はまた驚いて飛び退き、

「うわわわわわ!またやられた!」と、大きな声を出した。


 女は如何にも可笑しそうにクスっと笑って、

「フフフ。本当にあなたって面白い人ね」と言った。

 蓮は、苦笑いを浮かべながら、まんざらでもない様子だった。


 女は、少し真顔になって、

「これは神社で言うとお礼参りみたいなものよ。分かる?」と言った。

「お礼参り?どゆこと?意味わからん」

 蓮は、女の顔を穴が開くほど凝視して、やや間抜けな表情で呟いた。

「さあ、茶番はここまでよ。出掛けるわ」

「出掛ける?俺の本来いるべき世界ってやつにか?」

「うん。見たいでしょ?あなたの本来いるべき世界を」

「ああ、見たい。見たいよ!」

 蓮は女に新しい世界について聞かされたときから、その世界のことが気に掛かって仕方なかった。それは俗に言う「パラレルワールド」なのだろうか?希望に胸は膨らむ。


 ぼーっと考えていた蓮の袖を引っ張り、女は蓮を窓際に移動させた。

「さあ、行くわよ」

「え!もう?えーっと、着替えと…タロットカードと…麻雀牌と…全部持ったなと…」

「本当にその所持品でいいのかしら。とても不安だわ」

 女は、さも心配気に、そう言って見せた。

「ところでさ、どうやって行くんだ?その世界に」

「知りたい?ちょっと怖いかもよ。最初は」

「怖い?ハハハ!俺は怖くないぜ。日頃の行いがいいからな」

 蓮は極力、テンパっているのを隠すように、できるだけ余裕の表情を作って言った。


 女はまた、悪戯な表情に戻って、

「大丈夫よ。可愛いわね」とニヤニヤしている。

 蓮はいい加減に痺れを切らして、

「もうわかったよ。早いとこ行こうぜ」と言いながら、冷蔵庫にあった清涼飲料水を取り出し、一口、口に含んだ。


「さあさあ、どうやるんだ?デロリアンみたいのに乗っていくの?ドラえもんのタイムマシンみたいなやつ?」

それを聞くと、女は可笑しくて堪らないといった顔をして、

「こうやるのよ」と言って、蓮に一歩近づき、

「行くわよ」と、言うが早いが、蓮を窓の方向に思い切り突き飛ばした。


「あ!あああああ!」

 蓮は文字通り、死ぬほど驚いたが、時すでに遅し、彼は窓を突き破って、部屋の外へ吹っ飛ばされた。

「うわあああああ!助けて!」

 蓮は真っ逆さまに地上へと落下していった。真っ青な大空が鮮やかに見え、蓮はひたすら悲鳴を上げていた。

 彼はその空を見ながら、

(こんな綺麗な空は見たことがない。空って、こんなに青かったっけ)と、普段考えもしないことを思っていた。

 

 彼はその美しい大空に見惚れながら、ゆっくりと地面に向かって落下していった。

 静寂が辺りを包み、時間はまるで止まったかのように、全てが鳴りを潜め、蓮は意識が遠のいていくのを感じていた。


 


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