第3話 蓮の現在
蓮は、何処から回ろうかな、と散歩の道順を思案した。彼は本当に、たまに近所を軽く一周するくらいの散歩をすることがあったが、今日のあの女の発言の真意も、未だに図りかねていた。あの女は、どうして散歩なんかして来るようにと、俺に言ったのだろう。しかし、彼はこんな風に見えて、意外と悩まない質であったので、まあ、とりあえず公園の方角に歩き出してみようと、一歩を踏み出した。
今日は幸いなのか、天気も頗る良く、澄み渡った大空は、見渡す限りの快晴であった。蓮はまるで小学生が雨の中をはしゃいで歩くように、鼻歌を歌いながらずんずんと歩いた。そのうちによく買い物をする商店街に入った。ここは地元のメインストリートから一本、道を外れたところで、狭い幅の道路に、多くの人が犇めいている。昔ながらの商店街といったところで、今時珍しい、八百屋や魚屋、履物屋や、古びた寿司屋や、菓子屋などが所狭しと軒を連ねている。
蓮はこういった、昭和の匂いを感じさせるような、鄙びた商店街がとても好きだった。幼少期の記憶を、心の底から呼び起こされるようで、どことなく懐かしくて、甘酸っぱい思い出が蘇ってくる感覚が、とても心地良く、気に入っていた。
そのとき、何処からか、
「おお!作家の先生!」という野太い男の声がして、蓮は思わず振り向いた。
見ると、この界隈では有名な変人で通っている、不動産屋の三浦だった。
「三浦さん!作家の先生じゃないから」
蓮は苦笑いしながら、軽く三浦の肩を叩いた。三浦は、いつも蓮のことを、「作家の先生」と呼んで、彼を困らせていた。三浦は、年の頃はもう五十を越えていて、とても掴みどころのない、不思議な人物であった。三浦は、不動産屋という職業に似合わず、非常に人懐っこく、どことなく憎めないところがあった。実のところ、蓮の現在のマンションを紹介したのも、この三浦だった。
蓮が地元を歩いていると、何処から見付けてくるのか、必ずと言っていいほど声を掛けてくるのがこの三浦だったのである。三浦は、いつになく蓮の顔をじっと見詰めて、
「先生、今日はお散歩ですか?いいですね」と切り出した。蓮はこの男が、何となく気に入っていた。三浦は常に低姿勢で、謙虚な物言いをする、不動産屋としては稀有な存在のように思われたからだ。蓮の「不動産屋」という職業に対するバイアスも、かなりの偏見と先入観を含んだものであった。彼はちょっと間を置いて答えた。
「そうなんだよ。この世界も今日で見納めだから、ちょっと回ってみてるんだ」
その言葉を聞いて、三浦は大層驚いた様子で、
「ええっ!ここに引っ越してからそんなに経ってないのに、また引っ越すんですか?」と、素っ頓狂な声を上げた。
「いやいや、これには事情があってね。また戻ってくるかもしれない」
「そうなんですか!なんか一向に話が見えませんが、まあ、そういうことなら気を付けて行って来てください。変な水は飲まないように」
三浦は、かなり面食らった様子で、不可解な餞別の言葉らしきものを口にした。蓮は、とりあえず、
「ありがとう。三浦さんのことは決して忘れないから」
と返しつつ、心の中で「何だ?このやり取り」と、苦笑していた。
三浦との別れを惜しみつつ、更に商店街を進むと、地元の地方銀行の角の辺りに、顔馴染みの風俗嬢を発見した。彼女は名前を早苗と言って、蓮が以前に、足繫く通っていた風俗店の古参のホステスだった。
「おう!早苗!何してんの?」蓮が親し気に声を掛けると、早苗はやや驚いた様子で、
「あれっ!稲葉さん!お久しぶり!」と嬉しそうに声を上擦らせた。
「うん、久しぶりだな。店にはまだ出てんの?」と蓮が尋ねると、早苗は、
「ううん、もう辞めたわ。身体が持たないし、あたしももう若くないからさ」と、ひとつ溜息を付いてみせた。
「そうか。それは残念だな。またいつか行こうと思ってたのに」
蓮は、早苗の顔を覗き込むようにして言った。
「何?相変わらず溜まってるの?寂しい男だね」
早苗は悪戯な笑いを浮かべながら、持っていた電子タバコを指でくるくると回した。
「そうじゃないよ。いつまでもそんな男だと思うなよ。第一、お前とも今日でお別れかもしれない」
「は?何それ?かもしれない、って。ハハハ」
早苗は如何にも可笑しそうに手を叩いて、大袈裟に笑った。蓮はこういう手を叩いて笑うタイプの女があまり好きではなかった。早苗は下品で、教養の欠片も感じさせない女だった。
「何笑ってんだよ、もう。詳しくは言えないんだ」
「あんたもいつまで経っても、まるで子供みたいだね。まあ、男なんてみんな子供だけどね。幾つになっても」
蓮は早々に話を切り上げて先を急ごうと思った。やっぱり俺はこういう世界に別れを告げないといけない。彼は心からそう思い、
「早苗、じゃあ俺はこれで。もう会うことはないだろう」と言って、早苗に別れを告げた。突然のことに面食らう早苗に、蓮は、
「あと、お前、名前が昭和だからな。じゃあ元気で」
と続けて、その場を後にした。
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