第2話   その前に…

 蓮は明らかに戸惑っていた。この女は一体何者なのだろう。幽霊でないとしたら、未来からやって来たメッセンジャーなのだろうか。映画の見過ぎだな、と蓮は一人で苦笑した。

「何を笑ってるの?」女は怪訝そうな顔をして、蓮の顔を覗き込むようにして訊ねた。

「いやいや、こっちのことさ」蓮は少し気まずそうに言った。女は一通り部屋の中を見回して、

「そう!ならいいけど、もう少し部屋を片付けた方がいいわね。あなた、恋人も今はいないけど、もう少しでできるんだから」と言って優しく微笑んだ。

 第一印象とは少し違う微笑みに、蓮は何か嬉しくなった。それに恋人もできるという。蓮は女に、何となく好感を持った。

「ほ、本当か?めっちゃ嬉しいな」

「本当よ。但し、それには条件があるけどね」

「何?条件?」

 蓮が不思議そうな顔をすると、女は、さも可笑しそうに含み笑いをしながら、

「そうよ。言ったでしょ。あなたが私と一緒に来てくれるならね」

と言った。

 蓮は、暫し沈思黙考していたが、突然、思い切ったように、

「よし!行ってやろう!どこへでも行く!」

と、力強く拳を突き上げてみせた。


 女は、流石にちょっと面食らった様子で、

「そ、そうなの?意外とあっさり決めるのね…」と苦笑いを見せたが、すぐに真顔になって、

「わかったわ。じゃあ早速行きましょ」と言って、にこっと笑った。

「じゃあ準備するからちょっと待って」蓮は何をその「本来いるべき世界」に持っていこうか考え出した。

「ええと、着替えとタロットカードと、麻雀牌と…」

 蓮が独り言ちていると、女は、

「え?着替えの次の優先順位がタロットカードと麻雀牌なの?」と、呆れたように言った。

「ああ、どんなときも人間には娯楽が必要だ」

「ま、まあいいけど、重いでしょ。知らないけどね」

「麻雀牌はめっちゃ重いな。そんなに遠いのか?その、オレが本来いるべき世界は」

「そうね。まあ、遠いと言えば遠いし、近いと言えば近いかも」

 女が謎めいた表現を使ったので、蓮は少々混乱した。

「ん?どういうことだ?それ」

「行ってみればわかるわよ。私の言ってる意味が」

 女は、再び妖しい微笑みを見せて、真っ直ぐに蓮の目を、穴の開くほどじっくりと見詰めた。


 蓮は、自分の思惑を見透かされるようで、落ち着かなくなった。女は、また詰め寄るように、蓮に近付き、

「さあ、じゃあ行くわよ」とだけ言った。

「よし、行こう!」蓮もえらい乗り気である。


 と、女は、やおら大袈裟な仕草で天井を見上げて、

「そうだ!その前にあなた、ちょっと散歩でもしてきなさいよ」と、やや大きな声で 蓮に命令した。

 

この一言に、蓮はまた驚かされた。と同時に、この理不尽な要求に、些かの憤りのようなものを感じた。

「なんでだよ!今すぐ行くようなこと、さっきまで行ってたじゃないか」

「気が変わったのよ。散歩の後で行きましょ。私はここで待ってるから、近所を一回りしてきなさい」

「うん…。絶対に行くんだろうな。行く行く詐偽とかじゃないよな?」

「何よ。そっちこそさっきまで行くことをかなり渋ってたみたいだったのに」

「いや、よく考えてみたら、めっちゃ行きたくなってな。俺が本来いるべき世界って、どんな世界なのか、凄く興味が湧いてきた」

 蓮は、明らかに希望に胸を膨らませている様子で、声を若干、上擦らせて言った。

「あははは。面白いわね。まあ、いいから行ってらっしゃい」

「でも、なんで散歩なんか?散歩はいつでもできるし」

「あなたがこれから行く世界は、この世界とは似て非なるものよ。そこを深く理解するために、あなたの今の世界を一回、再確認する必要があると思ったの」

「そうなのか。じゃあ行ってくる。絶対に待ってろよ。いなくなってたら、許さないからな」

「あはははは!本当に面白い人ね、あなたは。最初はつまんなそうな男だと思ったけど、少し見直したわよ」

 女は、見違えるほど可愛らしい笑顔を見せて、蓮に軽く接吻をした。

「うわっ!びっくりした!何だよ!嬉しいなあ!」

 蓮は大袈裟に飛び退いてみせた。

「あはは!可愛いわね。中学生の反応みたい」

「いや、最近、ご無沙汰だったので…つい本音が」

「これは保障よ。私はここで待ってる。信じて」

「わかった。心から信頼する」

 蓮は首が千切れそうなほど、首を縦に振って答えた。

「男って本当にちょろいわね。まあ、行ってらっしゃい」

「わかった。五分で行ってくる」

「そう言わず、三十分くらい回って来なさい。ここへ帰ってきたら、この世界とも、お別れなんだから。悔いのないようにね」

 女は、意味ありげな笑みを浮かべて、そう言った。

「そうか。ただの散歩だと思ってたけど、そう言われると重大な任務みたいな気がしてきた。じゃあ行ってくる」

「はい、どうぞ楽しんで来てね」

 蓮が部屋のドアを閉めるとき、女は、一瞬、悲しそうな顔をしたように見えた。

 蓮にはそれが何を意味するのか、全く以って見当も付かなかったが、とにかく今は散歩することが自分の重要な任務である。

 蓮は自宅のあるマンションの正面玄関を出て、辺りを見回した。



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