百億年の孤独

朝比奈有人

第1話   約束の日

 ある肌寒い冬の日、蓮は自宅の作業場にしている狭い部屋で、真っ白な壁を前にして、独り言ちていた。

「俺の一生はこんなものか。こんなものか。こんなものか」

 窓の外には真っ青な大空が何処までも広がり、聳え立つビル群の間を飛ぶ、一群の椋鳥たちが見えた。

「ああ、下らねえわ。もっとエキサイティングな人生になるはずだったのに」

 稲葉蓮は、現在独身、天涯孤独のwebライターである。一年前、彼には多くの友人と、美しい恋人、そして、可愛いペットのアメリカンショートヘアがいた。

 今日は蓮の36歳の誕生日である。今の彼には、友人も、恋人も、可愛いアメリカンショートヘアの猫もいない。まさしくぼっちの見本みたいな状態であった。

 彼の仕事は、webライターとは言っても、他人の書いた文章を添削したり、或いは依頼されて、文章の作成を代行したりする、所謂、文章作成代行業であった。

 彼は特段、売れっ子ライターという訳でもなかったので、数日に一回、些細な添削の仕事や手紙の代筆、高校生の課題の代行などの仕事が、ぽつりぽつりと来て、そういった仕事を淡々と処理していく、彼のここのところの日常は、そんな日々が続いていた。

 しかし、彼はそんな現状に、一向に満足してはいなかった。それなりの収入にはなる仕事だったが、彼の本当の夢は、今の現実とは、大いにかけ離れたものであったからだ。

「あーあ、つまらん。何もかも。こんな世界、滅んでしまえばいいのに」

 最近の彼は、あろうことか、こんなことを日々、部屋の白い壁に向かって呟くようになっていた。彼はまさしく、「孤独の権化」とも言える人物になっていた。

 そんな鬱屈した日々を送る彼には、一つの座右の銘のようなものがあった。

「孤独こそ最強」

 これこそが彼の心の支えであり、彼の人間性を形作る、大きなバックボーンでもあった。

 「あーあ、つまんねえな」

 窓の外からは、交差点を行き交う人々の歓声と、賑やかな鳥たちの声が聞こえる。

 時計は午後三時を少し回ったところだった。

  もうすぐ師走だと言うのに、蓮の周りには、これと言って浮いた話もなく、楽しそうなイベントの予定もなかった。ただ、日々の雑事を粛々とこなしていく、そんな日常に、彼は本当に飽き飽きしていた。

 未来に希望もなく、かと言って、理想の未来を勝ち取るために、何をしたらいいのかも分からない。蓮の状況は、まさに八方塞がりであった。

 絶望、というものを彼は知らなかった。彼は意外にも、並外れたポジティブ思考の持ち主であった。日々、愚痴を垂れて、何かにイラついているように見えて、真の彼はとても前向きで、ストイックで、ポジティブな人間だったのである。


 ただ、それは周囲の人間にはあまり伝わっていなかった。彼は偏屈で、風変わりな頑固者として、周囲には認知されていた。

 従って、本来ならめでたいはずの誕生日の今日ですら、彼は一人だった。

「ハッピーバースデー、トゥーミー」

 彼は大きな声で、調子はずれのバースデーソングを、自分だけのために歌った。誰も自分の誕生日を祝ってくれない。彼は大いに不満で、少し涙が零れてきた。


 そのときである。

「フフフ、そんなに寂しいの?」

 どこからか、女の声がした。蓮は飛び上がるほど驚いて、部屋を見回した。

 しかし、何処にも女の姿は見当たらなかった。

「だ、誰だ!地縛霊か?」

 蓮は中空を見詰め、怯えた声でそう叫んだ。

「フフ…。どうかしら」

 また声が聞こえた。一体何処から聞こえてくるのか、部屋の中からということは分かったが、それ以上のことはさっぱり分からなかった。

「や、やっぱり地縛霊だな?あの不動産屋、事故物件なんか紹介しやがって」

 蓮はすっかり怯え切っていて。何の意味か、やおら般若心経を唱えだした。

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多事…」

 すると、女は高笑いして、その姿を現した。

 部屋の中だというのに、真っ赤なコートを着て、今どき珍しいロングブーツを履いた、年の頃は30前後の女である。そして、女は驚くほど美しかった。

 女は、長い黒髪を撫でながら、

「迎えに来たわ」と言った。

 蓮は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になって、

「は?どゆこと?」と、気の抜けたような声を出した。

「あなた、今の現実に満足してる?」女は続けて言った。

「お前、日本アムウェイの勧誘か?マルチ商法は大嫌いだ」

 蓮は、何処か間の抜けた回答をしてしまった。

「アハハ、あなたバカなの?私の質問に答えて」

「うーん…。満足はしてないが…」

「でしょう。だから、迎えに来たのよ」

「何処からさ?」

 女は少し含み笑いをしながら、穏やかな口調で答えた。

「あなたの本来、いるべき世界からよ」

 蓮は、その言葉に、何処か懐かしさを覚えた。

「俺の…本来いるべき世界…」

「そう。帰りましょ」

 女は、艶めかしい歩き方で、一歩一歩、蓮に歩み寄った。

 女は蓮の目の前まで来て、耳元に唇を近づけ、囁いた。

「今日は約束の日よ」

 蓮の全身に、電流が走った。鮮やかな映像が、脳裏を過る。


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