10-10「入った?」「入った」
場面を切り替えるように、『ひょい!』とタイミングで現れたそれは、見覚えのないもの。差し出す彼女のほんわかした顔を背景に、出されたそれに焦点を合わせて彼は問う。
「……これは?」
「糸通し。こうやって使うの」
「……へえ」
「入った?」
「──…………入った」
「ごめんね、もっと早く渡せばよかったね?」
「……いや、君が謝ることじゃない」
今までのもどかしさが嘘だったようにするすると通った糸に、そこはかとない気持ちよさを感じながら彼は首を振っていた。
原因不明の後ろめたさが消えていく。
ふと、頬で感じる空気が柔らかいことに気づいて息を吸う。
カウンターを挟んでふたり、穏やかな雰囲気に安堵を零す彼の前、手元の小さな絹生地を丸めながら、ミリアは言うのだ。
「ううん、おにーさんが初心者なの忘れてたから。完全にこっちの過失。ごめんね?」
「…………いや。……あー……、糸は、これぐらいの長さでいい?」
「うん、だいじょうぶ。このコサージュ、小さいやつだから、くるくる~って丸めて縫う」
「……こう?」
「そうそう、お花を意識して」
「……花を」
いつの間にか手元を覗き込み、顔を突き合わせ真似をする。
こなれた手つきで見本を繰り返す彼女の隣、苦戦する彼。
柔らかく滑りやすい生地に眉を寄せ針を通す。
そんな手元を覗き込み、ミリアは言う。
「もうちょっと”きゅっ”と! ほどけないようにしっかり。」
「…………君の手本を、もう一度見せてくれるか?」
「こうして、こう。きゅっとする」
「…………こう?」
「引っ張りすぎず、緩すぎず、こう、指で整えながら、こう」
「…………こう、か?」
「そう~~!! ほらぁうま~~い! 出来た! おにーさん、上手い! 上手~!!」
「……………………」
盛大に手を叩かれて、にこにこと笑い喜ぶミリアに、エリックは言葉が出なかった。たかがコサージュだ。手のひらの上で完成した小さな花は、顧客のドレスの一部でしかないし、これが無くなっても生活に困るようなものではないし、そこまで難しいものでもなかった。
しかし、自分でも驚くほど、広がる満足感と、恥じらいを伴う喜びに包まれ、胸が苦しい。
『うまあい!』とか『じょうず!』とか、はっきり言って子ども扱いの褒め言葉だ。26にもなって、こんな言葉を浴びるなんて、恥ずかしいはずなのに。
『馬鹿にしているのか?』と卑屈に取りがちだったのに。
────今、『違う』。
(…………不思議だ)
素直に、嬉しかった。
照れくささもあった。
裏も表もない。
誉め言葉が、響く。
広がる感覚に呆けるエリック。そこにミリアが前かがみで登場し、笑顔でこちらを見上げると、
「ねえねえ。やっぱ手先器用だよね? ボタンつけてた時も『悪くないな〜』って思ったけど〜!」
「──そう? 君には遠く及ばないよ」
ああ、なんだか少し恥ずかしい。
しかし、声が、頬が、心がほころぶ。
──ミリアと居ると、感情が、波打つように、入れ替わっていく。
穏やかになっていく。
そんな『穏やか』に追い打ちをかけるように、ミリアは得意げに笑い胸を張ると、
「ふふん、そりゃ〜プロですから? ボタンつけもできなかったおにーさんに追い抜かれたらたまらない〜」
「──言っておくけど、俺、覚えはいい方だからな? 本気になったらすぐ追いつくかもしれない」
「うわあ、ヤダ〜」
──フフ……!
かました軽口に、『やだ』と言いながら、ケタケタ笑うミリアに釣られて笑う。
────先ほどの苛立ちは、もうどこか飛散し消えていった。
自分自身を操ることができないことや、思ったよりも感情が動くことに、戸惑いも苛立ちも覚えるが(──今は、ひとまず良いだろう)と思えてしまう『不思議』。
そんなリラックスした心は、自然と次の話題を用意するのだ。
「──話を戻すけど、『ボーンの値も上がるのも、もう知ってる』? 糸の値上がりと共に知らせが来てるよな?」
「ボーンも!!?」
それに戻ってきたのは、素っ頓狂な声だった。
先程の柔らかさはどこへやら、秒速で吹っ飛び愕然とする彼女に、エリックは様子を見ながら言葉をかける。
「……それは、知らなかった? 来月から値上がりするらしいんだ」
「…………知らなかった……………………うそでしょ、ぼーん……おまえもか……!」
『やや大きめ』。
声を響かせ、がっくりとカウンターを見つめるミリアに、胸のざわめきを覚え口を閉ざした。
──
しかしそんな心境などつゆ知らず、ミリアは表情を真面目に変え、真剣なまなざしで聞いてくるのだ。
「ねえ、ぼーんってどっちのほう?」
「う、ん? 『どっち』?」
「だから、種類あるじゃん、どっちが上がるの?」
「……種類? ……あー、『S』の方?」
「……えすかぁあああああああ~~~……!」
言うなり頭を抱える彼女。
その内情を理解しようと、彼はさらに踏み込んだ。
「……ミリア? その様子だと、関係あるんだな?」
「うーん……ないこともない、というか。そんなにたくさん使うわけじゃないけど、たま~に必要になるの、『ボーン』って」
問いかけに、しゅんと眉を下げるミリア。
しかしエリックは同意できなかった。
ボーンがわからないのである。
それを、いつ聞こうかタイミングを計る彼の前、彼女は『困った』を前面に出し、悩ましげに両頬を包むと、
「ああもう~………………よりによって『S』の方……! うーん……!」
「ミリア……、その。気を落としているところ悪いんだけど、ボーンって、何?」
「ん? ああ、これこれ」
返ってきたのは、ミリアのけろりとした声。
悩ましげなそれも、困り眉も瞬時に変えて、彼女はカウンターに身を沈め──
────ばいんっ。
「────!?」
彼女が引き出したのは『透明な板』。
その『反動で飛び出したような不思議な音』に。
びよびよびよ! ぼよぼよぼよ!
「…………!?」
エリックは、まともに驚き身構えたのであった。
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