10-8「鋭利な盾」
「────ルメと、ニモ?」
相棒『エリック・マーティン』に問いに、ミリアは繰り返して首を傾げた。
その先にこにこと微笑むエリックの、『恐怖さえ覚える切り替わり』を
「あ、うん。これこれ、これのこと」
「────糸?」
後ろの壁。さっと取り出す、巻き糸二つ。
『優等生のエガオ』をかたどりながら、彫刻のようにほほ笑む彼に背を伸ばし、”つぅ────”と糸を張る。
「……ウン。そうそう。ルメが、シルク用の細い糸。ニモが、綿とか普通の生地用の糸。ほら、見える? 太さが違うの。素材も違うの。わかる?」
言いながら、目の前で比べる系二本。
声に、顔に、緊張がにじまぬよう、『いつも通り』に徹する彼女に、エリックの問いが降る。
「…………素材……、触ってみても?」
「どうぞ?」
カウンターの向こうから、真剣に糸を眺め、暗く青い瞳で聞くエリックに『普通に』頷いた。
自分にとっては慣れ親しんだただの糸に、真剣なエリック。
そんな彼に、ミリアは──唇の裏で思惑を飲み込み、顔の筋肉に力を込めた。
『ついさっき』がフラッシュバックする。
刺さるような苛立ちを放つ彼。
それを汲めない自分。
疑問に思っているうちに、彼は瞬く間に
まるで、中の人格が変わったような変化に、ミリアはあの時、返事に迷った。しかし、瞬時に選んだのは《穏便》。ここで怯えるような態度を取ったり、化け物を見るような目を向けるのは、絶対違う気がしたのである。
「…………」
(────気には なるけど)
(…………気には、なるんだけど)
突っ込めない。
「さっき、どうしたの?」とも聞けない。
明らかに彼は怒っていた。
いつもなら文句を言うところも、言わないぐらい怒っていた。
しかし彼は変えたのだ。
一瞬にして、鋭い怒りから、煌びやかな笑顔へ。
こっちの動揺など見ていないと言わんばかりの、これ以上触れるなと言わんばかりの『
しかしそれは『ほん数秒』で。
今、糸を触り比べ確かめる彼には先程の不機嫌も、優等生も見当たらず────
(…………)
口を噤んで、瞳で察す。
緊張を孕んでしまいそうな頬に意識を向け、緩めるように息を吸う。
(…………”闇”)
ちらりと盗み見、ぽつり。
(……”割れそう”)
ガラス彫刻なそれを思い出し、ぽつり。
正直、《優等生のエガオ》でずっと対応されたらたまらないが、彼はそれすら埋没しようとしているように見えて──ミリアは、小さく息を一つ。
彼が見比べている糸を覗き込み、普通の口調で言った。
「シルクは特に、生地自体が繊細だから。糸も同じ素材のものを使って、なるべく穴が開かないように縫っていくの。他にも、用途に合わせていろんな糸があるよ?」
「……へえ。太さも様々だとは思っていたんだけど」
「うん。薄い生地のものに太い糸を使っちゃうと、破れの原因にもなるし、糸穴自体が大きくなっちゃって……みっともないし、そこから穴が広がる原因になるから」
と、ひとつ。
言いながらカウンターに滑らせる、太めの糸を前に言葉を続けた。
「逆に、分厚い生地に細い糸を使うと、糸が負けて切れちゃって、縫った意味もなくなったりして……。…………で、ニモとルメがどうしたの?」
落ち着いた口調で聞きながら、ミリアはさらりと視線を向ける。答えて上がったエリックの顔は──至って、普通だった。
(────あ。ふつうだ。)
何の装備もしていない彼に、気持ちが抜ける。
今、目の前で糸を見つめる彼は、どこから見ても《いつもの相棒》だった。
意識せず息を抜くミリアの前、エリックはというと、困ったように眉を下げ、巻き糸をそこに置くと、
「────ああ……、聞きたくないことかもしれないけれど。……それも、値が上がるんだ」
「うん、知ってる」
「…………そうか。知っていたのか」
「ちょっと前にメーカーさん来たもん。『値上げのお知らせ』~って」
落ち着いた声色の彼に、息つき、肩をすくめ、ミリアはやれやれと首を振りながら唇を尖らせた。
自分の中に漂う、《息苦しい違和感》を無視して。
それらを彼方に追いやるように脳が用意した、『値上げのお知らせ』に話題も思考もスライドさせる。
「…………まーったく、どーこもかしこも値上げばっかで、ヤになっちゃうね~。」
丁寧に『値上げするね』と記されていた文を読んだ時の愚痴が、時を超えて口から洩れた。
ああいう知らせの場合、やれ『原料の高騰により』『情勢を鑑みて』など御託を並べたてるが、結局のところは『値上げします』の一言だろう。彼女自身もそれらの御託は並べるのだが、消費者側に回るとため息しか出ない。
そんな憂いを湛えつつ、ありとあらゆる『値上げしたものたち』を思い出しながら、作業台の上に散らかる道具たちに手をかけると
「仕方ないってわかってるんだけどね? 物価も上がってるし。暮らしが豊かになるとそうなのかなって思うし。でも、こう値上げばっかりだと、ね〜……」
カタンカタンと仕舞われていく道具たち。
空いた作業台に、ミリアのささやかなため息が転がる。
気分はすっかりアンニュイだ。
誰でも・いつの時代でも。
”自分の出費”が地味に増え続けるのは──単純に心がささくれるものである。
そして、そんな不満は聞いてくれる相手がいると、とめどなく、
──────は〜あ……
「……これで税金も上がったら溜まったもんじゃないなぁ~。一体何に使ってんだか。ホント、われわれ庶民の税でお暮しになられている
「…………」
「────あ。」
(────しまった!)
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