第六章 届かない地平線

 事故発生の連絡が派出所に届いた時、東多は耳を疑った。発生時刻、発生場所、対象車両の特徴、事故の概要はあの青年が言い残していった内容とあまりにも類似点が多い。いや、認めるしかない。彼はあの事故を予言した。一体なぜそんな真似が。疑問が頭の中で渦を巻いた。超能力? 未来からやってきた? 彼は何者だったのだ。

 しかし何よりも東多にとって重要だったのは、彼が残していったもう一つの話だった。事故のほうは予言通りに起こった。とするともう一つの話はどうなるのだろう。あの馬鹿げた大量殺人の話は。未来人などを信じ始めたら警察の活動は成り立たない。だが人の目に宿る心を見逃さないこと、予兆を摘み取ること。自分が職務に対して守り抜いた最後の誠実さ。

 東多はいま取るべき行動を考えた。それは警察官としての判断を超え、制服を纏った自分という人間が進むべき道に等しかった。どこに正しい道があるのか、成すべきことは何か。思い返してみれば、これまで大事な決断からずっと逃げてきた。その結果が今の自分だ。今度は自分で選ぶ。それが正しかったか間違っていたかは後の評価に過ぎない。

 東多は自分の取るべき行動を考えた。それは警察官としての判断を超え、制服を纏った自分という人間が進むべき道に等しかった。どこに正しい道があるのか、成すべきことは何か。思い返してみればこれまで大事な決断からずっと逃げてきた。その結果が今の自分だ。今度は自分で選ぶ。それが正しかったか間違っていたかは後の評価に過ぎない。

 だが答えはすでに出ていた。

 事故現場にはすでに緊急車両が到着し現場の収拾に当たっているという。東多は派出所に詰めている後輩に自分の決断を話した。すでに報告書を読んでいた後輩は驚き、あんな話しを信じるのかと目を丸くした。それには答えず、東多は椅子を蹴るように立ち上がった。慌てて引き留めようとする後輩にここを頼むとだけ言い残し、東多は派出所を飛び出した。

   ***

 非常ベルによる通報と東多からの要請により何台もの緊急車両が到着し、ビルは赤色灯で囲まれていた。交差点ではダンプカーによる事故、近くのビルでは放火殺人未遂。警察だけではなく街全体が混乱の渦に飲み込まれた。

 その場で応急処置を受けた颯真に、東田はこのまま救急車で病院に連れていくと言った。颯真はその前に少しだけ一人にしてほしいと東多に頼んだ。どうしても電話をしたいと。東多は救急隊員と何かを話した後それを了承すると、ブルーシートで目隠しされた一角に颯真を連れて行った。歩道の石垣に腰を下ろした颯真に救急隊員が毛布を貸してくれた。後で聞きたいことがたくさんある。東多は颯真の肩を優しく叩いた。颯真はうつむいたまま頷いた。

 颯真は毛布の端を引き、胸の前で合わせた。目を上げると東多が他の警官、おそらくは現場の責任者に何かを説明しているのが見えた。

 あんな話を信じてくれた東多にまだ何も言っていなかった。多分、他の人間は誰も信じないだろう。あの人にもこれから迷惑をかけることになる。できるだけのことをしなくては。

 颯真はポケットに手を入れ、元の世界で使っていた愛用品を手に取った。

 バッテリー表示は赤くなり、もうほとんど残っていない。

 裂けた時間をもとに戻す方法なんて分からない。そんなこと考えている時間もなかった。もし二人で、いやみんなで考えることができていたら何かが見つかっただろうか。不安と心配事ばかり、だけど大きな声で笑っていられたあの世界に、戻ることが出来ただろうか。後悔がないと言えば嘘になる。だけど俺は精一杯やった。自分にできることを全力でやった。そう言っても許してもらえるだろうか。

 颯真は亜月の名を押した。コールゼロ回で亜月は出た。

「颯真」

 心地のいい声だった。桜の花びらを巻き上げた、あの風のように。

「うん」

「終わったのね?」

「終わった」

「もう大丈夫なんだよね?」

「そうだよ」 

「あの人は?」亜月は少しためらうように尋ねた。

「死んだ」

 颯真は最後に見た男の顔を思い出した。あのとき男の胸にあった思いはなんだったのか。弟の手紙について言ったこと、あれは間違いなく自分の本心だ。弟は亜月を好きになったというより、誰かを好きになりたかったのではないかと思う。誰からも必要とされていない存在だとしても、自分は誰かを必要としていたい。それが生きる意味を与えてくれる。誰かを好きでいることが自分の存在を証明してくれる。だから彼は亜月に精一杯の恋をした。相手が名も知らぬ女性であっても、最後の手紙はその人に届けたかったのだろう。

 我愛する、故に我あり。

 自分の人生を引き算で生き抜こうとしたのは兄の過ちだ。

 だが弟の最後の証を踏みにじったことは、自分たち全員の大いなる罪だ。

 だが、真実は誰にも分からない。やはり弟は恨みに身を焦がして死んだだけなのかもしれない。

 しかし、と颯真は思う。

 あの時、ライターを弄ぶ男の手が一瞬止まった。あれは弟の心に思いを馳せたのだ。殺すことも死ぬことも忘れ、弟を思ったのだ。

 颯真はそう信じることが出来た。

「辛かったでしょう」

「……そうだな」

「頑張ったんだね」

「うん」

「すごく頑張ったんだね」

「うん」

「ありがとう、颯真。ありがとう」

 亜月の言葉は砂漠に落ちた一滴の水のように煌めき、染みこんでいった。自分に対する審判は時間が下すだろう。だが今はこれで十分だ。まるで亜月の腕に包まれているようだ。

「亜月は、大丈夫か」

「大丈夫。さっき病院で手当してもらった。颯真は? 怪我とかしてない?」

「ちょっとだけね。だけどもう応急処置してもらった」颯真は赤く腫れあがった口元をそっと撫でた。

「それならよかった」

「ああ」

 沈黙が流れた。

 二人とも時が近づいていることを知っていた。

 伝えなければいけないことが、どんどん胸の内から溢れてくる。それなのに言葉にするのがこんなに難しいなんて。

 そのしじまを亜月がそっと吹き消した。

「そっちのみんなも無事?」

「うん、無事。元気だよ」

 あの兄から聞いたことを颯真は手短に話した。それに颯真が考える手紙の意味と、そこに映る弟の心を伝えた。しかし三人の死については言えなかった。それを言ってしまったら亜月は生涯苦しむだろう。向こうの世界で、たった一人で。

「バッテリーがなくなっちゃう」亜月の声から伝わってきたのは寂しさや悲しさではなく、ただの事実だった。それは諦めに他ならなかった。

 ここには存在しない「今日」、二人は別々の世界で余分な一日を生きた。なぜ自分たちの身にそんなことが起こったのか。それを理解することは到底できない。しかし今ここで恨みごとを連ねる気もない。そんな感情のためにこの一瞬を犠牲にしたくはない。

「もう私たちの世界はつながらないんだね」

 周りの音が小さくなり、亜月の息づかいだけを感じる。

 二人は覚悟した。二つの世界は隣にあるのに決して交わることはない。どこまで行っても近づくことのできない遥かな地平線。その向こうにお互いがいる。

「そうだな」

 電話の向こうから浅く震える息が聞こえる。

「なあ亜月」颯真はスマホを握りしめた。「そっちの俺はたぶん言わないと思うから、こっちの俺が言う。二年生になったとき、クラス替えで亜月を見てすぐ好きになった。だけど言えなくて。それから一年ずっと悩んで、やっぱりどうしても好きで、それであの日、告白した。だけど実を言うとさ、あの日も俺は諦めようとしてた。図書委員が終わるのを何時間も待ってたくせに、振られるのが怖くてこのまま帰ろうと決めた。だけどカバンを忘れちまって。それで仕方なく教室に戻ったら亜月がいた。この偶然は、きっと贈り物なんだって思った。そしたら俺、もうお前のことしか考えられなくなって」

 颯真の目から涙が溢れ出た。

「あれからずっと、今もなにも変わってない。いや、今のほうがもっと……ありがとな、俺と付き合ってくれて」

「ねえ颯真」亜月が言った。「あの時、どうして私が教室にいたのか、そっちの私に訊いてみて」

「え?」

「絶対だよ。絶対に訊いてね」そして亜月は堰を切ったように泣き出した。声を上げて泣き出した。「そっちの私を好きでいてね」

「うん」

「ずっとずっと好きでいてね」

「うん」

「ずっと……」

「約束する。約束するよ」

 二人は黙った。静けさの向こうにそれぞれの思いを感じ、通わせた。

「月が見える」ポツリと亜月が行った。颯真も夜空を見上げた。

「ほんとだ」

「あの日も、帰り道に月が出てたよね。颯真、覚えてる?」

「当然だろ。綺麗な三日月だった」

「うん」

「月はいつでも昇っている」そして夜道を照らし、道を教えてくれる。あの時の三日月は宝物のように心にしまってある。

「知ってるよ」亜月の優しい声がした。

 その言葉を聞いた颯真は決心した。

「亜月」

「……うん」

「もう、切るよ」

 バッテリーを使い果たして切れるなんてまっぴらだった。二人をつなぐものを誰かに切られるなんて我慢できない。

「おっと、それから」颯真は明るい声を出した。「近いうち、そっちの俺から大事な話があると思う。覚悟だけしておいて」

「そうなの? 分かった。心の準備をしておく。もう出来てるけど」

 二人で笑った。

 いつものように、あの春の日から続く毎日と同じように。

「じゃあな、亜月」

「じゃあね、颯真」

 二人は同時に電話を切った。

 颯真はしばらく画面を見つめていた。夜風が吹き抜け、腫れ上がった頬を冷やしてくれた。この風が吹くたびに思い出すのだろうか。風の冷たさで傷が沁みると思い出すのだろうか。

 スマホをポケットにねじ込み、この世界のものに持ち替えた。

 明日は明日の風が吹くのなら、この痛みもいつか変わっていくのだろう。

 さて、こっちの亜月になんて説明しよう。

 そんな心配が頭をかすめたが、とにかくすぐに亜月の声が聞きたかった。今すぐ光の速さで飛んで行きたかった。あの地平線は越えられなくても、亜月はここにいる。この先もずっと隣りにいる。

 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた。

 だが颯真は振り向きもせず電話をかけた。

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ホライズン 瀬山 将 @manash

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