第五章 惹かれあう情念

1.颯真の糸

 敦裕に電話を切られた颯真はざわつく胸をおさえるように空を見上げていた。

 街が夜に変わっていく。

 やがてまた俯くと、向こうの世界へと続くスマホを手に取った。バッテリーの残量が30%に変わっていた。

 切れてしまう。何もできないままに。

 颯真は奥歯を強く噛み、目の奥から込み上げてくるものを堪えた。

 ここから二人の亜月を救うと決め、休む間もなく走った。たとえ誰一人信じてくれなくても、今日の記憶を持つ自分ならなんとかできるはず。あの狂った殺人鬼を止めることができるはずだ。そうやって懸命に奮い立たせた自信を嘲るように、同じように記憶を持ったあの男が現れた。儚い自信はもろくも壊された。

 手紙の男には迫りつつあった。そいつがどこで俺たちを知り、何を知ってるのか、それがようやく分かりかけてきた。だがこっちの世界ではまだ姿を現していない。

 長い男のことは何も分からないが既に会っている。人殺しは長い男の方だ。あいつはどこへ行ったのか。この俺がだと理解した以上、もはやカラオケには誰も来ないと分かっているはずだ。

 そうした場合、あの男は亜月と俺の居場所が分からない。

 だが咲世の勤め先は分かる。知った長い男が向かうとすればそこだ。

 敦裕は咲世といるのだろうか。だとしてもなぜ電話を切ったのだろう。これ以上馬鹿げた話に付き合う気はないということだろうか。やはり俺の話など最初から信じていなかったのだろうか。今いる世界で助けを求めることができるとすれば敦裕だけだった。それなのに本当のことは隠し、ただ信じてくれと言うだけだった。俺は敦裕にことを信じきれなかったのかもしれない。全てを話せば一笑に付され、もしかしたらこれまでの関係も壊れてしまうかもしれない。だから言わなかった。そんな人間を信じてくれるはずがない。

 薄氷のような希望が溶けていく。もう足元を支えるだけの厚みは残っていない。

 亜月のためなら何でもする覚悟はあるのに、何をすればいいのかが分からない。誰も教えてくれない。教えてくれ、あいつはどこにいるんだ。

 颯真はおかしくもないのに笑った。これじゃまるで一人だけの目隠し鬼だ。

 そのとき電話が鳴った。こっちの世界の電話だ。画面には「敦裕」の文字が。

「敦裕!」電話に出ると思わず大きな声を上げた。急に声を張り上げた颯真に何人かの通行人が視線を投げた。

「大丈夫か? いまどこにいる」

 受話口からは何も聞こえない。颯真は反対の耳を塞ぎスマホを強く押し当てた。

「なあ、聞いてくれ。さっき言おうとしたことなんだけど、その人殺しが向かいそうな場所が分かったんだ」

 返事も相槌もない。

 もう一度大きく呼びかけようとして颯真は息を止めた。言葉を唾と一緒に飲み込み、代わりに小さく問いかけた。

「……敦裕?」

「違うよ」

 全身の皮膚が波打った。

 聞いたことのない男の声。いや違う。今のは声とは呼べない。言葉に何の感情もなく、ただ口から発せられただけの音。

「『敦裕』じゃない」

「だ、誰だ?」颯真は自分の体を包むように背中を丸めた。

「分かってるだろう」

 そう、分かっている。お前が誰なのか。

「どうして敦裕のを持っている?」

「それも分かるだろう」

 顎が震え、歯がカチカチと鳴った。瞼から涙がこぼれた。「どうして……」

 電話の向こうからふっと笑い声が聞こえた。「昨夜、殺したはずだったんだけどな」

「やっぱりそうなのか」

「今日、あの店の前ですぐ気づいたよ。お前は、昨夜のお前だ」

「だったらなんだと言うんだ。どうして俺たちを殺すんだ。あんたが誰なのか知らないけど、あのSNSに関係があるんだろ? あのことで俺たちのことを恨んでいるんだろ。言葉が行き過ぎたことは申し訳ないと思うし、あいつも反省してた。だけど……だけどあれはよくあるトラブルだ。名も知らない者同士がネット上で出会えば、そういうこともあるだろう。たったそれだけのことでおかしいだろ、こんなこと!」

 颯真はまくし立てた。敦裕のことを思えば今さら遅いということは分かっている。だが責めずにはいられなかった。

 男は黙っている。

「少なくとも……彼女はなんの関係もない」

 亜月は本当に何も知らないんだ。そもそも彼女は原因ですらない。

 長い沈黙が流れた。男の声も、存在すらも感じなかった。

 電話の向こうには本当に誰かいるのだろうか。自分はすでに精神を侵されていて、ありもしない音を聞き、いもしない男に話しかけているのではないか。自分で作り出した狂人に追い詰められ、そして追いかけている。そんなもの、一生捕まえられるはずがない。全力で自分の影を追っているだけ。疲れ果て壊れていく。狂人とは他の誰でもない。

 その時、颯真の頭にふと別な考えがよぎった。

 あの爆発によって俺は死んだのかも知れない。目の前の世界は人が死ぬ間際に見るという走馬灯に過ぎないのではないか。走馬灯はその人の一生を映すというが、俺の場合は最後の一日だけだ。しかも実際の昨日とはまるで違うし、ましてや懐かしい思い出でもない。生涯最後の日が生涯最悪の日だなんて。そんな皮肉、笑えもしない。こんなものを見せてからあの世に送るつもりなのか。だったらもう十分だ。こんな酷い映画はすぐに止めてくれ。何も文句は言わない、いますぐ楽にしてくれ。

 だがそんな考えを男の声が打ち砕いた。

「女は、昨夜の女ではないんだろ?」

 その声が颯真の意識を鷲掴みにして現実へ連れ戻された。颯真は何も言えなかった。

「家から出るな、とでも言ったか?」男は続けた。「隠したつもりだろうが、すぐに見つかる」

 思った通り、今のところ亜月の居場所までは知らないようだ。とは言え、与えられた猶予はそう長くはない。

「あと二人もすぐに見つかる」

 二人? 亜月と俺?

「咲世は……」

「男といる。一緒に箱に詰めて送っておいた」そう言うと男はくつくつと笑った。「送料はこっち持ちだ」

「二人とも殺したのか」

「それに知らない女と警備員も」

「一体お前は――」

「ああ、それから店の男も」

「店……」

 心配そうな板波の顔が浮かんだ。

 いつも気にかけてくれた。口にしたことはなかったが、板波がいてくれることでどれほど心が安らいだだろう。あそこに行けばいつでも自分たちを心配してくれる人がいる。それがどれだけ心強かったか。

「どうして……なんも関係ないだろ」全身の力が抜け、感覚が遠のいていった。「もういいだろう、許してくれ」

 この場で膝をついて許しを請いたかった。相手が誰だとか、理由が何だとか、もうそんなことはどうでもいい。額を地面にこすりつけ、唾を吐かれても何とも思わない。

「人殺しの仲間は人殺しだ」

 男は数学の公理を説く教師のように言った。

「待ってくれ。人殺しってなんだ。人殺しはそっちだろう」

「最初にやったのはお前たちだ」

「なんだと?」

 麻痺していた神経に電流が走っていく。そんなことがあるものか。最初に敦裕がきっかけを作ったことは確かだが、まさか俺たちが人を殺したなんて馬鹿なことがあるものか。

「ふざけるな」颯真は言った。「俺たちが誰を殺したっていうんだ」

「弟だよ」

「弟?」颯真は男の言葉をなぞった。得体の知れない二人の男がいる。一人は奇妙なまでに長く細い殺人者、もう一人は亜月の前にだけ現れた手紙の男。

「手紙を持ってきた、あれが弟なのか」

 男は答えない。

「殺したってどういう意味だ。昨日、いや今日の昼、彼女に手紙を渡しただろう」

 正確に言えばこっちの世界では渡せていない。亜月は本屋からまっすぐ家に帰ったため、弟が亜月に会うことはない。だが向こうの世界では、手紙は確かに亜月の手に渡った。どちらの世界も同じ時間軸で進んでいる。俺たちが弟を殺したなんてあり得ない。

「手紙?」男は聞き返してきた。

「そうだよ」颯真は元の世界で亜月に渡された手紙のことを男に伝えた。「分かるだろう。俺たちはあんたの弟を殺すことなんてできない」

「手紙、か」

「それに、第一、なんで俺たちがあんたの弟を――」

「自殺した」

 颯真の体は水を浴びたように一気に冷えた。

 手紙の男が自殺した? 

 亜月から聞いた手紙の内容がよみがえった。

 その弟は、亜月に手紙を渡したあと自ら命を絶ったというのか。それが俺たちを殺そうとする理由なのか。だから弟が自殺したその夜、この男は弟を死に追いやった人間たちを殺すために火を放った。カラオケ店のことは弟から聞いていたか、あるいは一緒にSNSを見ていたのかもしれない。仮にそうだとして、弟が死んだその日の夜に殺しに来るなんて……この兄弟に何があったんだ。

「あづき」

 颯真は身震いした。男が亜月の名前を口にした。

「この女かな」

「な……」

「顔は知っていたんだがね」

「ちょっ……」

「居場所もすぐに分かるだろう。便利なスマートフォンを二台も拾ったから」

「待ってくれ!」颯真は声を上げた。「言ったろう、彼女は何もしていない、何も知らないんだ」

「それは関係ない」変わらず抑揚のない、平坦で乾いた声だった。「あの世で弟に言い訳しろ」

 男が電話を切る気配がした。

「元の世界では」颯真は慌てて呼びかけた。「弟は自殺したのかもしれない。だけど俺たち二人は戻ってきた。こうして今日一日をやり直してるじゃないか。ここでなら弟を助けられる。この世界で手紙は渡っていない。弟はまだどこかにいる。すぐに探して助けよう」

 弟の恨みだと言うならそれで理由はなくなるはずだ。今頃は手紙を握りしめたまま亜月の姿を探していることだろう。すぐに連絡して引き止めることができればそれで終わる。亜月を救うことができる。

「もう死んだよ」男の無機質な声は冷えた颯真の体に風を吹き付けた。

「え?」

「弟はずっと前から心の病気でね。それが最近、好きになった女とその仲間に馬鹿にされ、自殺した」

「誰も馬鹿になんかしてない」颯真は諭すように言いかけた。

「それで自分の首を切ったようだ。

「どういう意味だ」

「我々にとっての『昨日』、あいつは家から持ち出した包丁で自分の首を切った。電話で警官が口を滑らせた」

「……言っている意味が分からない」

「自分で自分の首を切り裂く気持ちが分かるか?」

 颯真には答えようもなかった。

「弟は臆病な男だった。小さくて弱い、一人では生きられない人間だった。そんな人間が自分の首に包丁を当てた時どんな気持ちだったか」男の演説は続いた。「あんな怖い思いはもうさせたくない。だから今回は楽にしてやった」

「楽にした?」

 颯真は頭の中で暴れ回る思考を必死に落ち着かせようとした。

 繰り返していたはずの今日という時系列が、修復できないほど狂っていく。

「あんた、一体何をした……」

「今朝、弟の首を切った」


 自分は誰と話しているのだろう。

 敦裕、咲世、板波を殺害した狂人。いや違う。こいつは人ではない。独りよがりな道理で彼らを殺した獣だ。さっき、この狂った所業は自殺した弟の仇かと思われた。弟への愛情が醜く歪んだ果ての殺意だと。もしそうであったなら、この男の狂気を幾ばくかでも理解できたかもしれない。

 だが現実は違った。こいつはここで、全てをやり直せるはずだったこの世界で、まず最初に弟を殺したのだ。

 もう受け止めることができない。

 正常を保とうとする心が悲鳴を上げた。額に玉のような汗が浮かんだ。関わってはいけない闇がこの世にはある。目を合わせてはいけない邪悪がこの世にはある。

「気が変わった」男の声が聞こえた。「『あづき』を先にしよう」

 彼女の名前に颯真は反応した。

「まて!」送話口にかぶりついた。

「すぐに見つかる」

「だめだ! それだけは」

「お前はもう少し生かしておいてやる。ただ一人、同じ記憶を持つ人間としての情けだ」

「お願いだ、待ってくれ」

「礼はいらない」

 電話が切れた。

 情けだと? 颯真は天を仰いだ。全てが変わってしまった。もはや素手で亜月を救わなくてはならない。

 颯真は、まずこっちの亜月に急いでメッセージを打った。

「電話もメッセージも、俺以外には絶対に応答しないように」

 送信したあと、続けてもう一通打った。

「敦裕と咲世からの連絡も無視してくれ。絶対に答えるな」

 テキストを打つ手が笑えるほど大きく震えた。

 どうしてと亜月は聞くだろう。そうしたらなんて答えよう。俺を信じてくれなんて軽々しい台詞はもう言いたくない。あとで説明すると言えば納得してくれるだろうか。それとも、こんなことを言い出す俺に疑いを抱くだろうか。

「当然だよな」颯真は一人呟いて送信した。

 どれだけ丁寧に説明したところで、いま起きていることの全てを理解するなんて無理だと思う。それが原因で亜月の心が離れていくかもしれない。だがそうだとしても自分には選択肢も時間もない。二人の亜月が助かればそれでいい。そうだよな、俺。

 返信がきた。

「なにかあったの?」

 心配そうな亜月の顔が見えた。

 颯真は「大丈夫」と打ち込んだが、すぐに書き直した。

「大変なことになりそうだ。後でちゃんと話すから言う通りにしてくれ。ごめん。頼む」

 ほんの少しの間をおいて返信が届いた。

「分かった。颯真は大丈夫なの? 危ないことはしないって約束して」

 こっちの亜月は何ひとつ知らない。何が起こっているか、俺が何を言っているのか、想像もできないはずだ。どれだけ不安な思いでいるか計り知れない。それでも亜月は信じてくれる。信じるところから始めてくれる。だけど彼女はいずれは知ることになる。もう二度と四人でカラオケに行くことも、あのオムライスを食べることもできないのだと。

 それを思うと心が鉛のように重くなった。だが今はその鉛を抱えたままでいい。

 敦裕と咲世は亜月の住所を知らない。あの男は二人のスマホを調べ上げ亜月に近づこうとするだろうが、当の亜月さえ反応しなければ時間を稼げるはずだ。だがそうは言ってもスマホの中を見るということは、メールのやりとり、アドレス帳、アルバムの写真、二人の生活の全てを覗いていることに等しい。どこにどんな情報が落ちているかは想像もできない。安心はしていられない。一刻も早くあの男を見つけなくてはならない。

 しかしその前に向こうの世界で待っている亜月のことを考えなくては。

 カラオケ店に火を放った男はこっちにいる。つまり向こうの世界では、出来事はまだ元々の時系列に沿って動いていると考えていい。このことは自分に有利となるはずだ。世界が二つに裂け、今日一日分の未来を知っているもう一人の俺がここにいることを、向こうは知らない。だが手を差し伸べることはできない。

「どうする」

 どうやって未来を利用する?

 颯真は向こうのスマホに指で触れ、バッテリーの残量を確かめた


2.亜月の糸

 二杯目のカップも空になった。

 亜月は目を上げた。街は土曜の夜を楽しもうとする人々で賑やかだ。この通りをまっすぐに行けばあのカラオケがある。何時間かあとには、あそこでまた同じことが起こるのだろうか。やがて颯真が、咲世が、敦裕がやってくる。そうしたら私はどうすべきなのだろう。向こうでは颯真がきっと苦しんでいる。私も一緒に苦しみたい。

 もし連絡が来なかったら今夜は中止し、無理にでも三人を遠ざけよう。それが問題の先送りに過ぎないことは分かっている。だけど今日を生き延びれば明日は何かが変わるかも知れない。明日になれば――

 亜月は向こうにつながるスマホに触れようとして手を止めた。

 画面が点灯したらバッテリーが減ってしまう。もう二度と充電することのできないこのスマホに明日は来るのだろうか。

 と、そのスマホが激しく震えた。亜月はひったくるように取り上げた。

「もしもし!」

「亜月」

 大丈夫? と言おうとしたが息をうまく吸うことができない。

「大丈夫か?」颯真が先に訊いてきた。

「うん」それがちゃんと声になっていたのか、自分でも分からなかった。

「亜月、今どこにいる?」

 亜月は駅の名を答えた。

「カラオケの近くにいるのか?」

「うん、駅の近くのカフェ」亜月は奥歯を噛んだ。「だめだった?」

「いいや、その逆」

「どういうこと」

「やってもらいたいことがある」

 亜月の胸が大きく打った。手のひらに汗がにじむ

「うん」何を言われても受け入れる。颯真が苦しいなら私も一緒に苦しむ。その覚悟はできている。「何をすればいい?」

「イチかバチかなんだけど、もう時間が無いんだ」

 亜月の喉が鳴った。

「うん」

「こんなことさせたくはないんだ。できることなら俺がそこに行って――」颯真の苦しそうな息遣いを感じた。「でも、もう他に方法が思いつかなくて」

 亜月はスマホを握ったまま笑って頷いた。「分かってる」

「ごめんな」

「分かってるってば。言って」

 颯真の深呼吸が聞こえた。

「edenseeker」

「え、なに?」

「手紙に書いてあったやつ」

 亜月は慌てて手紙を取りだした。

「それは手紙の男のアカウントだ。そいつにメッセージを送ってほしい。話がしたいと。そして呼び出すんだ」

「呼び出すって、あの人と何を話せばいいの?」

「いや、話はしない。それに……やってくるのは手紙の男じゃない」

「誰なの」

「兄だ。店に火を放って敦裕たちを殺したのはそいつだ」

「手紙を持ってきた人のお兄さんってこと?」

「ああ」

「どうして? 手紙の人は?」

「手紙の男は……」颯真は一度言葉を止めてからぼそりと言った。「手紙の男は、もう死んでる」

 亜月は何も言えなかった。ただ怖くて悲しかった。昼間のあの人はもう死んでいる? それは私のせいなの?

「違うんだ!」颯真の叫ぶような声が聞こえた。「亜月のせいじゃない」

 それは本当のことかもしれないし、ただの慰めなのかもしれない。そのことをここで訊く勇気はなかった。ただ颯真は何が起こっているのかを知っている。それによって心が傷だらけになっている。私にはそれが痛いほど分かるから、今はこのままでいい。

「それで、どこに呼び出せばいいの?」

「あの交差点に」


3.颯真の糸

 東多はずっと派出所の外を見つめていた。

 あれからずっと青年のことが頭を離れなかった。報告書など、もはやどうでもよくなっていた。彼をあのまま帰したのは正しい判断だったのか。本当に間違いはなかったのか。自分に対する疑いが晴れない。だがその裏にあるもう一つの思いもまたはっきりしている。彼は嘘をついているようにも、妄想に取り憑かれているようにも見えなかった。まして警察をからかっているとも思えない。突然派出所に現れ、荒唐無稽な話を語りはじめた彼の目は、自分が今まで見てきたどんな眼差しとも違っていた。

 東多は背もたれに体を預けたまま考え続けた。

 犯罪を見つけ出す上でもっと重要なことは、人の目に宿る感情を見逃さないことだ。悪意は必ずそこに現れる。それは新米の時代に教えられたことであり、今日まで警察官としての自分を支え続けてきた信念だ。事実、この信念はいくつもの小さな犯罪を見つけ、摘み取ってきた。それは誰も汚すことができない、東多の誇りでもあった。

 あの青年の目に宿っていたものは何だったのか。

 恐れ、戸惑い、悲しみ、失意、そして諦め……

 彼の眼差しはその先に何を見ていた? 彼は何を求めてここに来たのだ。

 東多は強く唇を噛んだ。

 助けてほしかったのだ。そんな当たり前のことに今さら気づいた。彼の落ちた穴がどれほど深いものなのかは分からない。だがそこから這い上がれずにいる。一人では登れなくても、自分が手を差し出せば簡単に抜け出せたのではないか。自分はなぜ警官になったのか? どうして今でも警官でいるのか?

 何かを置き去りにしてはいないか?

 東田は頭の後ろで指を組み天井を見上げた。古い派出所の天井はあちこちに染みが浮き出ている。いずれは剥ぎ取られ、真新しいもので張り替えられるだろう。汚れは目障りなのだ。その染みに刻まれた時の流れなど誰も気にしない。

 あの天井は自分なのだ。


4.亜月の糸

「交差点?」亜月は聞き返した。

「もう少しすると、あそこでダンプが事故を起こす」

 亜月は思わず口元に手を当てた。

 颯真が言った。「元の世界では、亡くなった人はいなかったけど……」

「わ、私……」

 亜月は戸惑った。颯真の考えはすぐに分かった。あの殺人者を止め、みんなを守るためには先に手を打つしかない。普通に考えればまずは警察にかけ込むところだが、この警察が素直にこの話を聞いてくれるはずもない。それは理解している。理解はしているが……

「私に、そんなことできるの」

「ごめん」颯真が謝った。「こんなことをさせて、ごめん」

 その言葉の裏にある痛みが伝わってくる。こんなに想っているのに触れることさえできない。いつもそばにいたのになぜ大事な時に手を握っていられないのだろう、隣で分かち合えないのだろう。

 亜月は、どうやっても届かない自分の手をきつく握りしめた。

 向こうにいる颯真も同じことを思っているだろうか。

「やってみる」亜月ははっきりと答えた。「やってみるよ」

「ありがとう」そして颯真は続けてた。「ただうまくいくかどうかは分からない。あまりにも危ない賭けだから……もしも失敗したらすぐに警察に行くんだ。信じてくれようとくれまいと、そこで全てを話して」

 それから颯真は手紙の男、その兄である殺人者のことを簡潔に説明した。敦裕のしたこと、言ってしまったこと、咲世のSNSによって自分たちが特定されてきたこと。それが『SOH’s』に弟が現れ、カラオケに兄がやってきた理由であること。

 話を聞き終わった後でも、亜月は誰かを責める気持ちにはなれなかった。

 確かに軽率な言動だったとは思う。でもそれは日常の中で誰もが犯しうる、いえ、すでに犯している過ちなのだと思う。実体を持たない場所を彷徨う実体の無い人たち。今の時代では誰もが同じだ。そこでは全ての感覚や感情は仮想としてしか存在しない。だからあの手紙を読んだ時、私には自信が持てなかった。これは何かの間違いだ、私はそんな人間じゃない、そういい切れる自信がなかった。実感の伴わない空間で、私は常に潔白でいられたのか。それは実世界の中でも同じだ。自分の言葉や行動、考えは正しく、人を傷つけることなどない。毎日の中で振り返ることもしなかったそんな自分だけの「正義」など、幻想に過ぎない。

「交差点に着いたら電話して」

 その言葉を聞いて亜月は画面を見た。残量は20%。

「充電が……」

「分かってる」

 颯真もそれ以上は何も言わなかった。

 二人の間に架かる橋がもうすぐ消えてしまうことを私たちは知っている。

 そしてその先に何が待っているのかはまだ分からない。

「今から、行くね」亜月は言った。

「うん。何かあればすぐに逃げて」

「大丈夫だよ」

 電話を切った亜月はもう一台のスマホに持ち替え、言われた通りにユーザー名を検索した。相手はすぐに見つかった。そして迷うことなくメッセージを打った。

「私が誰だか分かりますね。会って話をしましょう。あなたに伝えたいことがあります」

 颯真の話では手紙を書いた弟はすでに亡くなっている。だとすれば兄として代わりに聞きたいと思うはずだ。弟を死に追いやった女が、弟に何を伝えようとしているのか。

 続けてダンプカーが衝突した店の前に来るよう指示をした。

 颯真が言うようにこれはギャンブルみたいなものだ。仮に指定した場所にやってきたとしても、こちらの思惑通りにいくかどうか。そもそも誘いに乗ってこない可能性もある。ただ、少なくとも兄の方は私を殺すためにこの街に向かっている。あれほどの事件を起こす以上、自分が死ぬことすら恐れていないのだろう。であればまずは女の話しを聞く。殺すのはそれからでも遅くはない。街が騒ぎになろうと警察に通報されようと、カラオケに行って残り三人と決着つける。そう考えることはそれほど無茶ではない気がした。私たちを殺した時点であの人の世界は終わる。その後には何もない。自分の人生でさえも。だから恐れも後悔もない。それが弟への歪んだ愛ゆえであればなおさら。

 亜月は店を出ると、今夜業火に包まれることになっているビルの方角に歩き始めた。

 人の流れも、街の音も、漂う匂いさえも、全てが昨日と同じだった。今日という名の昨日。何もかも同じなのは当たり前だ。ただ一つ違うのは、隣に颯真がいないこと。それは私にとって、この不確実な世界で起こるどんな変化よりも重いものだった。

 大通り沿いを足早に進み、やがて亜月は交差点に着いた。指定した店の斜向いに立ち、人の流れを避けるように街灯の脇に身を寄せた。そこは颯真と二人で事故現場に遭遇した場所だった。

 時計を見た。昨日ここを歩いた時刻よりも十五分ほど早い。混乱がすぐそこまで近づいている街は、少し浮かれているもののいつもと変わらない。

 亜月は事故の様子を思い出した。あの時、パトカーや救急車はすでに到着していた。けれど現場はひどい混乱状態で、具体的な対処はこれからといった感じに見えた。パトカーの到着時間は平均で七、八分と聞いたことがある。とすれば、もうすぐここで事故が起きる。

 亜月はダンプカーが突入するはずの店をじっと見つめた。

 殺人鬼である兄は異様なまでに「長い」男だと颯真は言っていた。人相など知らずとも見間違えたりはしないと。私たちの世界が切り裂かれる寸前、あの炎の中で見た光景を覚えている。混乱した頭ではそれが何なのか理解できなかった。理解を拒んだと言ってもいい。けれど最後に見たあの黒々と伸びる影、私はあれを止めないといけないんだ。

 瞬きの瞬間も惜しいというように亜月は見つめた。

 信号が赤から青へ、そして再び赤へと変わる様を何回か数えた。男はまだ現れない。喉が焼け付くように乾いた。

 失敗したのかもしれない。やはり殺そうとしている相手の前にわざわざ姿を見せたりはしないのだろうか。憎むべき女が弟に対して語る話など、いまさら大した価値はないのかも知れない。そう、これは裁判ではない。弟を死に追いやった人間を理解することに意味はない。痛みと恐怖を与え死に至らしめる。それだけが目的だとすれば、他人の口から語られる事実など興味はないだろう。真実と罪は彼の中ではすでに確定しているのだ。だったら私たちの罪は何だったのか。私たち四人と二人の兄弟はネットの上で交差した。たくさんの人が名前も顔も知らないままに距離を近づける。誰もが痛みを伴わない暴力を弄び、偽りの自由と虚栄に満たされる。しかし感情は実体にのみ宿る。仮想世界の中でも、私たちはこの胸に感情を抱える。それが喜びであったなら、小さな幸せとして大切にしまっておくこともできる。だけど怒りや憎しみは違う。その矛先は必ず誰かに向かう。それはあっという間に伝染し、悲しみが誰かを蝕む。それは決して消えることはないし、薄れていくこともない。コピー・ペーストでまた憎しみを産み落とす。

 そこで生まれる罪はどう裁かれるのか。

 亜月は手の平に視線を落とした。

 兄弟の憎悪はここに向けられている。この私に。やがて償いの時が来るのだろうか。

 開いた手の平をきつく握りしめた。

 そうだとしても、今は感傷に浸っている場合ではない。

 重い指で電話をかけるとスマホを耳に当てた。

 コール一回で向こうの世界にいる颯真がでた。

「もしもし」颯真の張り詰めた声が聞こえた。

 亜月は目を上げ、計画は失敗したかもしれない、そう伝えようとした。

 しかしその唇はわずかに開いたところで止まった。自分の名を呼ぶ颯真の声が遠くで聞こえる。

 交差点の向こうに男が立っている。背が高く、異様に細く、全身をレインコートに包んでいる。フードの奥からこちらをしっかり捕らえているのが分かる。

 亜月はゼンマイの切れた人形のように男を見たまま動けなくなった。

 男の赤い口が三角形に開いた。

「いる」亜月は雑踏に消え入りそうな声で言った。

「いる? あいつがいるのか?」颯真が言った。

「うん」亜月は視線を動かさずに頷いた。

「そうか、来たのか」颯真の緊張が高まった。「なら、もう少ししたらそこに――」

「でも、違うの」

「え?」颯真は困惑したように聞き返してきた。「違う? あの男じゃないのか」

「ううん、あの人だと思う」亜月はフードの下にあるはずの目を見つめた。

「じゃあ何が」

「場所が違うの」

 男が立っていたのは斜め向かいの角ではなく、カラオケ店に向かって真っすぐ横断歩道を渡った先だった。ダンプが飛び込むのはあそこではない。

「どうしよう」亜月は頭の中が白く染められていくのを感じた。

 あの長い殺人者は、残忍だが愚かではないということだ。SNSでのやり取りを考えれば、急に女の方から誘いがあるのは不自然だ。そう思ったのだろう。あの人は最初から私の話になんて興味はなかった。ここに来たのは私が何を企んでいるのか、それを確かめにきたんだ。だから指定された場所には立たなかった。きっとそうだ。

 亜月はあのとき颯真と見た現場、そのあとカラオケで読んだネットニュースをもう一度思い返した。そして事故の様子を想像した。

 ダンプカーがやってくる。そして信号が赤になる寸前、スピードを上げて交差点に進入し、右折しようとする。しかし荷台が重くて曲がり切れず、ここから対角線上の角に衝突する。つまりダンプはもうすぐ私の右手からやってくる。だが男がいるのは私の正面。ダンプは私たちの間を猛スピードで通過した後に事故を起こす。

 それで終わりだ。元の世界と同じく、死者は一人も出ない。

「諦めよう」颯真がきっぱりと言った。「まずはその場を離れろ。それから敦裕たちにすぐ店から出るよう電話するんだ。あいつらはもう店にいるはずだ。そしてすぐ警察に走れ」

「だけど、警察には何て言えば」

「弟からの手紙を見せてありのままを話すんだ。とにかくまずは安全なところに行くんだ、すぐに!」

「まって! 颯真は? こっちの颯真には何て言えばいいの」

「俺には――そっちの俺には、カラオケに来ないよう言ってくれ。理由は後で話すと言えばいい。大丈夫、俺は亜月の言うことになら絶対従うから」

「そのあとは?」

「そのあとは……」颯真は言葉を詰まらせた。「また考えればいい。俺たちが持っているのは今日の記憶だけ。明日のことはみんなと同じ、何も分からない」

「そうだよね……」

「さあ、早く離れろ」

 足を踏み出した亜月は誰かと肩がぶつかった。思わず振り返った亜月の目に映ったのは、通りを往くたくさんの人の姿だった。

 亜月はその場に立ち尽くした。

 私が今ここから逃げてしまったら、行き場を失くした憎しみはどこに向かうだろう。私だけでなく、関係のない人々にまで向けられたりはしないか。怒りは行き先を求める。その先には人の数だけ人生があり、心がある。

 それに、今ここでなんとかしなかったら——

 亜月はスマホを耳から離し画面を見た。バッテリーの残量はもう僅かだ。

「颯真が頑張ってきたんだから、私だって頑張る」

「な、なに言ってるんだ」

「颯真、このままでいて」

 このスマホに明日はない。それが何を意味するのかは分からない。いいえ、今は分かりたくない。

 亜月は通話が切れないように画面だけを消し、そっとポシェットに収めた。そしてこっちの世界のスマホを出した。

 これが私にできる最後だ。

 亜月は弟のアカウントに向けてメッセージを打った。

「弟はもう死んだ? 残念ね」

 さらに続けた。

「可哀そうだけど死んだものは仕方がない。話したかったことは警察に話しておく」

 メッセージを打ち終わると、長い男から見えるように送信ボタンを押した。

 おねがい、すぐに見て。

 亜月は男に笑いかけた。

 男がポケットから何かを取り出した。そしてそれを見つめた。

 あの男は自分の歪んだ愛情を殺戮で表現しようとしている。感情の向け方も、向ける先もコントロールできてない。だけどそういう人間ほど奇妙なプライドを持っていることがある。全てを見透かされたような言葉で小ばかにされ、憐れまれれば、彼は腹を立てるに違いない。

 もっと私を憎んで。もっと、もっと。

 亜月は信号を見上げた。ダンプがやってくるはずの通りはまだ青。そう思ったとき歩行者信号が点滅を始め、やがて赤になった。

 亜月は時計を見た。もう間に合わない。

 亜月はもう一度メッセージを打った。

 直進車の信号が赤になり、代わって右折専用の矢印が青く点灯した。

 この信号でダンプはやってくる。

 送信ボタンを押すと、亜月は赤になったばかりの信号に向かって走った——男が今立っている場所の対角線上を目指して。

 最後のメッセージは電波に乗り、光の速さで飛んで行った。

 向かいからやって来た右折車が亜月の目の前を横切った。一瞬ひるんだものの、亜月は構わずに走った。止まるわけにはいかない。その時、亜月の耳元で鼓膜を破るようなクラクションが響いた。顔を向けると大きなワンボックスカーがすぐ目の前に迫っていた。運転席では目を見開いたドライバーが何かを叫んでいる。亜月は脚を絡ませ前に倒れこんだ。膝に激痛が走り、手の平の肉がアスファルトで削り取られた。そのすぐ脇をタイヤがヒステリックな軋みをあげて横切った。地面が揺れ、重い風圧が体を叩いた。亜月は思わず目を閉じた。亜月の体を紙一重のところでかわしたワンボックスは車体を大きくロールさせながら停止した。

 揺れと風が止み、亜月は目を開けた。

 右折矢印が消え、黄色が灯った。

 ワンボックスカーの窓が下がり、頭上から罵声が落ちてきた。まくしたてるように発せられる汚い言葉は、しかし亜月の耳には届かなかった。亜月の意識は交差点の向こうに囚われていた。陽炎のように揺らめきながら近づいてくる、長く細い姿。

 あの男が来る。

 亜月は立ち上がろうと体を起こしたが、手の痛みに耐えきれずその場に転がった。目を向けた先でまた陽炎が大きくなる。その手の先で何かが閃光を放った。いくつかの悲鳴が周囲で上がった。

 来る。あの男が私を殺しに来る。

 亜月の中から恐怖が消えた。

 さあ、来て。

 次の瞬間、男の後ろから巨大な影が盛り上がり、男を飲み込んだ。

 世界から音が消え、全てがスローモーションに変わった。

 男の体が棒切れのように宙を舞った。長い手足が不自然な角度で捻れ、回転するその体を、亜月の目が追った。剥ぎ取られたフードから男の顔が見えたような気がした。男は視界の中でゆっくりと弧を描き、頭からアスファルトに落ちた。そして世界に音が戻った。そのおかげで生卵を叩きつけたように頭蓋骨が砕け、圧力から開放された脳漿が吹き出す音を亜月は聞かずにすんだ。

 ダンプが放ったエアブレーキの音が空高く突き抜けていった。そしてそれが開始の笛であったかのように交差点に絶叫がこだました。悲鳴は同心円的に広がり、人々が不規則に運動する粒子のごとく一斉に動き出した。

 パニックが拡散した。

 亜月は痛む腕を引き寄せて立ち上がり、縦横無尽に走る人の合間を縫って歩道に入った。衝突を避けるため建物の壁に身を寄せるとポシェットからスマホを出した。向こうへの電話は通話状態のままだ。

「颯真」亜月は息を弾ませた。

「亜月!」大きな声のあと、安堵の溜息が聞こえた。「よかった、大丈夫なのか」

「うん。ちょっとだけ擦りむいた」

 手の平の皮膚は削られ、白くむき出しになった組織のあちこちから血が流れ出ている。亜月はその手をすぐに握りしめた。

「それで、あいつは……」

「あの人は」そう言って振り返ろうとしたが出来なかった。「ダンプに……」

「わかった」颯真はその先を言わせなかった。「もう、平気なんだな?」

「うん」

「怖かったな」

「うん」

「ありがとう。本当にありがとう」

 颯真の言葉で、亜月はことの終わりを実感した。

 だけどそれはこっちの世界の話だ。

「颯真は? 颯真はどうするの」

「まあ、こっちは大丈夫」

 声の調子は明るかった。その明るさが逆に颯真の苦しさを運んでくる。

「私にできることはない?」

 こんな言葉はうわべだけの気遣いでしかない。私は何もできない。颯真が私にしてくれたように、私は颯真を助けてあげることができない。それを分かっていてこんなことを言うのは偽善だ。こんなに想っているのに、胸が爆発しそうなほど大好きなのに、これでは適当な嘘で今を取り繕っているだけじゃないか。

 やはり私は罪を負っているんだ。

「なんとかなる。心配ない」颯真の声は明るかった。

「さっきあの人は交差点の真ん中で包丁を出した」亜月はギラリと光る閃光を思い出した。「あの人は何をするかわからない。なりふりなんて構ってなかった」

 私を追いかけてくることを期待して挑発した。だけどあの人は交差点の真ん中で包丁を出した。私を殺すためなら何でもするつもりだったんだ。

「そうだったのか」

「ね、もういいよ。颯真はすぐ警察に行って。これ以上颯真がやらなくてもいいんだよ。すぐに逃げてよ」心の底からそう願った。恐怖がまだ体に残っている。あの人は危険だ。

「ありがとな。でも、実はそうもいかないんだ」

 亜月の胸に鋭い痛みが走った。

「俺は、逃げ出してはいけないんだ」

「何があったの?」

 胸の痛みが増した。

 少し間をあけてから颯真は答えた。「二つの世界には違いがあるんだ」

 颯真は言った。自分の世界にいる男がカラオケに火を放った男と同じであること、男はすでに自らの手で弟を殺していること。

「そんな……」

 歯止めのない狂気に亜月は震えた。

「だけどさ、記憶を持っているぶん、あいつも少しは冷静なんじゃないかと思うんだ」

 颯真はあっけらかんと言った。

「だけど……」

「あいつも俺たちと同じように、二回目の今日を生きている。だから狂気に支配されるだけじゃなく、俺たちを確実に殺すための行動をしてくると思う。それは俺にとっても都合がいいと思うんだよね」

 亜月は言葉を返せなかった。颯真は本当にそう思っているのか、私を安心させようとしているだけなのか。

「だから俺も冷静になって今からあいつを探すよ。とにかく、亜月はもう大丈夫。ありがとう。次はこっちの亜月を助けないと」

 そう言って笑った颯真の声は、なぜか震えているような気がした。

「分かった」亜月は精一杯明るく言った。

「そしたらまずは病院に行けよ。怪我してるんだろ。そっちの俺にもそう伝えて。飛んで迎えに来ると思う」

「うん。知っている」

「もう切るよ。また連絡する」寂しげな声で颯真が言った。

「颯真!」亜月が叫んだ。「あの人は、弟の心を知りたがっている」

 どうしてあの人は私の前に姿を現したのか。私が何を企んでいるのか確かめようとした。もちろんそれもあるだろう。だけど一番の理由はそれじゃない。あの人は知りたかったんだ。交差点で凶行に及ぼうとしたのは、たとえ騒ぎが大きくなり他の三人を殺せなくなるとしても、ここから私を逃がすわけにはいかなかったんだ。どうしても弟への言葉を聞き、弟の心に近づきたいと思ったからだ。

「分かった。ありがとう、助かるよ」

 そして電話が切れた。


5.颯真の節

 颯真は大きく息を吐いた。

 これで向こうの亜月は大丈夫。他のみんなもそうだ。俺自身を含めて。

 残るはこっちだ。

 時計を見た。あの男は敦裕と咲世のスマホを使って亜月につながる情報を漁っているだろう。逆に俺はあいつの居場所について何の糸口も何もない。想像もできない。だからあいつの方から来てもらうしか方法はないのだが、話がしたいと言ったところで応じてくれるはずもない。奴は俺たちのことを知っていて、殺すことに何の躊躇もない。すでに敦裕に咲世、板波まで殺している。今さら俺の話を聞くことに意味などないのだ。さらに言えば、亜月や俺が弟の死に直接関係していないことも分かっているはずだ。分かっていて殺そうとしている。

 ならどうすればいい? あいつを誘い出せる餌はなんだ。奴が抗えないほどの誘惑とは。

 今頃、敦裕と咲世のスマホは雄弁に俺たちのことを語っているだろう。知りたい情報はどんどん手に入る。あとは同情も憐れみもなく殺すだけ。

 その時、亜月の声が聞こえた。

(彼は弟の心を知りたがっている)

 それと同時に一つの考えが浮かんだ。本当にそうなのか自信は持てなかったが、他に考えている暇はない。

 颯真はこっちのスマホに持ち替えた。

 うまくいくかどうかは五分五分といったところだ。これが上手く行かなかったら今度こそ打つ手はなくなる。そうなったら今すぐ警察に走り、もういちど世迷い言を演説する。警察は気が触れた若者の戯言と判断し、留置所に放り込まれ精神鑑定に回されるかもしれない。それどころか、敦裕たちの死体が見つかれば容疑者にされてしまうことだって考えられる。俺は手紙を持っていない。自分の言っていることを裏付けるものが何もない。

 そうなったら亜月はどうなる。

 颯真はスマホの画面を点灯させた。

 やるしかないんだ。イチかバチかだけど。

 そこで颯真は思わず吹き出した。こんな状況なのにたまらなく可笑しかった。

 俺はいつもイチかバチかだ。

 颯真は通話履歴の一番上に敦裕の名前を確認した。

 長いコールの後、電話はつながった。

「彼女の居場所はわかったか?」颯真は間髪入れずに話しかけた。

 返事はない。だが確かにあいつはいる。

「なあ、あんた」颯真は精一杯の冷静を装った。「弟の手紙を知ってるか?」

 さっき電話で話をした時に思った。この男は弟が書いた手紙のことを知らないのではないか。SNSでの出来事を全て知っているこの男が、手紙のことだけは知らない。おそらく弟はこの日、亜月に会いに行く直前にあれを書いたのだ。兄はその内容はおろか手紙の存在も知らない。だが俺は知っている。これが空っぽの引き出しに残る最後の欠片だ。

「知らないんだろ?」

 そう言って唇を噛んだ。男は何と言うだろう。そんなことに興味はないと笑うだろうか。 颯真は待った。電話の向こうからは声も、呼吸の音も聞こえない。しかし颯真はそれを吉兆と理解した。やつは何か考えている。興味を示しているということだ。

「あんたは手紙の存在を知らない、当然何が書かれてあったのかも知らない。そして今朝、あんたは手紙を書く前にその弟を殺してしまった」

 何かの音が聞こえた。何の音かは分からなかったが、男は確実に反応した。

「だが元の世界では違った。手紙は弟の手によって書かれ、彼女の元に届いた。だから彼女と俺だけは知っている。何が書かれていたのかを」

 できるだけ言葉に含みを持たせた。

「弟は高校生か? インターネットを使い、手紙も書く。ずいぶんと賢いんだな」

 手紙の中身、それは弟の心だ。弟がこの世で最後に残した心を、どうしても知りたいはずだ。だってあんたはそのために人を殺したんだろ。

「弟はなぜあそこまで彼女に入れ込んだんだ? そしてなぜ憎んだ? あんたは理解しているのか」

 騙しているつもりはない。あの文章から伝わる「心」を俺は確かに感じた。弟の姿が見えた気がした。憎悪は受け継がれ、悲劇を繰り返す。もしここで男が手紙の内容を聞くだけなら、もはやその狂気を止めることはできなくなるかも知れない。だがあの手紙には心があった。文字の向こうに声があった。だから会わなければならないんだ。会って、話をしなくてはならない。

「あんたにとっては永遠の謎というわけだ。だけど、世の中には知らないほうがいいこともある」

「手紙は持ってないだろう」

 男の声がした。それを期待していたはずなのに、颯真はぎくりとした。

「持っていない。だけど覚えている」

 男は再び黙った。

 手応えはある。あと少しだ。

「弟の心を知りたいか? 自分のことを知る勇気はあるか?」

 自分から言うべきことはもうない。あとはあんた次第だ。

 耳の中に静寂が流れ込んでくる。

 電話を切られてしまう。そう思った時――

「カラオケに行こうか」男の声は平坦だった。

 颯真は頷いた。「いいだろう」

「すぐに来い」

「わかった。でも火はつけるな。誰も殺すな」

「お前次第だ」

 電話は切られた。

   ***

 電車を降りると足早に通りを進んだ。左右に身をかわし、集団の間をこじ開け、時折肩をぶつけては謝りながら、あのときと同じ歩道を駆けていった。隣に亜月はいない。行く先で自分を待つ友人もいない。それでも行かなくちゃならない。

 前方が妙に騒がしかった。人の流れが滞っている。

 あの交差点だ。

 はたして、事故は起きていた。立ち止まっている野次馬の背中をかき分けると、交差点の斜め向こうにダンプの尻が見えた。パトカーや救急車の配置に見覚えがある。飛び交う声にも覚えがある。颯真は交通整理をしている警官の指示を待って横断歩道を渡った。交差点の周りは事故のせいで大変な状態だったが、中心エリアを離れるにつれ、いつも通り人が減っていく。

 やがてビルが見えてきた。カラオケ店の看板が夜空に浮かんでいる。

 颯真は看板を見上げ、少しだけ思いを馳せた。ここにはいない敦裕と咲世、そして板波のことを。向こうの亜月は自分の身と友人、それに俺のことを守り抜いた。なのに俺はこの世界で三人を死なせてしまった。助けられるのは俺だけだったのに、何も出来なかった。

 颯真は首を振った。後悔はあとで気が済むまですればいい。今はまだやるべきことが残っている。

 一歩踏み出そうとしたところで、颯真は足が震えていることに気付いた。見れば指先も自分の意思とは関係なく小刻みに空中を掻いている。

 怖い。逃げ道があるのなら今すぐにでもそれを選びたい。もし時が解決してくれるのならこの場で荷物を下ろし、どこか遠くに行きたい。しかしそれらがありもしない幻想であることを知っている。どうしたって進むしかない。一度は引き戻された時間は二度と止まることはない。使命感? 贖罪? いや、そんな格好良いものじゃない。これはそう、受験の日の朝みたいなものだ。

 颯真は思った。というより自分に思いこませた。

 エレベータの前に立ち、上の矢印を押した。見上げるとエレベータの位置を示す明かりが右から左へ移動していく。やがて「1」の文字が光ると、一息遅れてドアがゆっくりと開いた。颯真は口を開けた籠の中に足を踏み入れ、目を前に向けた。そして止まった。

 籠の正面に鏡がある。そこに映る自分の背後に長い影が重なっていた。

 体中の皮膚がざらついた。思わず何かを叫びそうになったとき、頭の上から声がした。

「入れ」

 体に触れはしなかったが、見えない手に突き飛ばされたように颯真は中に入った。男が後に続き4階のボタンを押した。颯真は体を回し、鼻先にそびえる長い背中を見つめた。視線を下ろすと、男の手に赤いポリタンクが握られていた。

 エレベータのドアが開いた。

「おい」颯真は背中に向かって言ったが、男は振り向きもせずに降りていった。「何をするつもりだ」

 店内には陽気なBGMが流れ、その向こうから漏れ聞こえる歌声と重低音が響いてくる。受付カウンターには若い男性店員が一人立っている。その他に人は見えない。

「いらっしゃいませ」そう言って店員はこちらに顔を向けた。男の風体に少し驚いた様子を見せたがすぐに笑顔を作った。しかし手にしているポリタンクを見ると、その笑顔は怪訝な表情に変わった。

 男はカウンターの上にポリタンクを乱暴に置いた。ドスンと音をたて、タンクの中で液体が大きく揺れた。

「な、なんすかこれ」

 店員はどうしていいのか分からず、男とタンクを交互に見た。男はキャップを外し床に落とした。とたんにガソリンの臭いが立ち昇った。

「おい、なんだよこれ」店員が目を丸くした。

「まて!」颯真が叫んだ。

 男はタンクを横向きに持ち上げると、それを振り回しながらガソリンを撒き始めた。

 強い刺激臭が鼻をつき、目の前にいた店員が激しくむせ返った。

「マジかよ、冗談じゃねえ!」

 そう叫びながらカウンターを飛び出し非常階段に向かおうとした。

 その体を颯真が抱きとめた。

「待ってくれ」勢いに押されて転びそうになるのをどうにか踏みとどまった。

「なんだてめえ、離せ!」店員が暴れた。

「その前に全員避難させてくれ」なおも振りほどこうとする店員を、颯真は渾身の力で締め付けた。「お願いだから、頼む!」

 店員の頭が颯真の額を打った。颯真は短く呻くと手を離し、よろめきながら後に下がった。店員はそのすきに逃げ出そうとしたが、急に振り返るとカウンターの横まで戻り、壁の非常ベルを押した。耳をつんざく音がフロアに鳴り渡った。店員は通路を店の奥へ走り去った。ベルの音を聞いた客が次々に部屋から出てきた。


 通路に出た客たちはすぐに口元を押さえた。充満するガソリンの臭い、その奥で踊るようにポリタンクを振り回す長い男。

 非常ベルの音に客の悲鳴が混ざった。恐怖が恐怖を煽り立て、パニックが破滅的に膨張した。

「非常階段へ!」

 颯真は混乱する客たちに向かって押し込むような仕草で奥へ逃げるよう合図した。

「奥へ、非常階段へ!」

 そう繰り返す颯真に気付いた誰かが非常階段へのドアを開けた。外の空気が通路へ流れ込み、颯真の髪を揺らした。

 客が開いたドアに一斉に走り出した。通路は狭く、ドアの向こうは屋外の非常階段だ。一度誰かが転倒すれば大惨事になる。

「落ち着いて、大丈夫、落ち着いて」颯真は何度もそう繰り返した

 男は最後の一滴まで逃さぬよう、タンクを何度も上下に振った。やがて全てを出し切ったところで空になったタンクを後ろ手に投げた。乾いた音を立てて壁にぶつかったタンクは、床の上で二度三度と跳ねた。

 ゆっくりと振り返った男はポケットからジッポーライターを出した。

 よせ。そう言おうとした時、颯真の頭にある確かな解決方法が浮かんだ。

 フロアに撒かれたガソリンはすぐに気化しフロア中を漂っている。もし男がライターに着火すれば、二人ともあっという間に火だるまだ。そうなれば、自分はもちろん死ぬが、あの男だって生きてはいられまい。つまり、それで亜月は安全になる。ひどい結末ではあるが。

「さて」男が囁いた。

 颯真は男と対峙した。

 こうして互いに姿を見せ、自分の声で話をしている。妙な気分だった。

「手紙は?」

 この期に及んで嘘をつく気はない。自分はそれほど器用に虚構の中を生きられない。

「手元にはない。だけど今日、彼女から聞かせてもらった」

 ガラス玉のような男の眼球が颯真を見据えた。「女に手紙は届かない」

 その通りだ。この世界では手紙を書く前に弟は殺された。目の前にいる兄の手で。

「もう一つ別の世界がある。あんたが起こしたあの爆発、あれは単に時間を戻しただけじゃない。時間を二つに裂いた。そして俺たちは別々の糸<スレッド>を滑り落ちた。俺とあんたはここ、彼女はもう一つの世界にいる」

 颯真は同じ時間軸上を平行して走る二つの世界について話した。今日の記憶を持つのはここでは二人、向こうでは亜月だけ。そして一緒に滑り落ちてきたスマホだけが二つの世界をつないでいる。

「向こうの世界では」意外にも男は口元をほころばせた。「もうお前たちは死んだか?」

「いいや」颯真は少し考えた。そして言った。「だけど向こうのあんたは死んだよ」

「そうか」男はあっさり言い放った。

「どうして死んだか聞きたいか?」

「他人のことはいい」

「他人?」

「他人だろ」

 颯真はガラス玉の奥を覗いた。

「手紙の内容は?」男が平坦な声で言った。

 ビルにいる人はみな避難しただろうか。誰も巻き込まない。亜月の人生を邪魔させない。この男と俺、ここで終わらせる。

「その前に教えてくれ。あんたは……あんたら兄弟は誰なんだ」

 颯真はおかしな感覚に襲われていた。この男とたくさん話をしたい。そう純粋に願っていた。兄のことを、弟のことをもっと聞いてみたい。自分に人生があるように、兄弟にも積み重ねた時間があったはずだ。そして自分たちに向けられた刃(やいば)の意味を知りたかった。

「お前が知ることに意味はない」男の言葉には冷たい壁があった。

「あんたになくても俺にはある。あんたは三人を殺した。俺の大切な人たちを。だけどあんたは俺たちこそが悪だと言う。だから俺にはそれを知る意味がある」

 全てを終わらせる前に理解しなくてはならないことがある。

 男はジッポーの蓋をカチン、カチンと鳴らした。

   ***

 母親が急死して以来、ずっと弟と二人だった。父親のことは顔も知らない。親戚縁者はおらず、施設に入ることでどうにか生きてきた。だが自分の特異な体型のせいで学校では蔑まされ、支援機関の人間からも奇異な目を向けられた。それに耐えられなくなり、中学校を卒業すると同時に働きに出た。無論大した給料ではなかったが、自分の手で収入を得ることで朧気な未来を探し始めた。

 公的な支援を受けつつどうにか部屋を見つけることができた。古くて狭いアパートだった。風呂とトイレはあるが昔ながらのタイル張りで、どれだけ掃除をしても染みついた汚れと臭いはとれなかった。目の前をバイパスの高架が走っているため、騒音に加えて日当たりも悪かった。

 だがそれでもよかった。この薄い壁は、嫌な世間から自分たちの生活を切り取ってくれる。少なくとも部屋の中にいる間は。

 それからすぐ施設に残っていた弟を引き取った。そして二人の暮らしが始まった。

 だが小学生だった弟は、そこで苛烈ないじめにあった。特殊な家庭環境に加え、幼い頃からコミュニケーションに障害のあった弟は格好の餌食となった。だが学校側は何の対応もせず、唯一の肉親である兄はほとんど家にいない。やがて弟は外部とのチャネルを閉ざし、学校にも行かなくなった。保護者として何度も学校から呼び出しを受けたが行ったことは一度もなかった。生きていくために、寝ている時間以外はすべて働いていたからだ。援助は受けていたが、それで十分な暮らしができるわけではなく、弟の進学も厳しい状況となっていった。二人が生きていくためには、いずれ弟にも働いてもらう必要がある。そのためにはまず、他人と接する訓練が必要だと考えた。しかし自分では十分にケアすることはできない。そこで思いついたのがSNSだった。

 金を工面し、中古のパソコンを買い与えた。弟は予想以上にSNSの世界にのめり込み、昼夜を問わず画面にかぶりついた。それで全てを解決できるとは思っていなかったが、誰かとコミュニケーションを取る姿を見るにつけ、間違ったことはしていないと思っていた。しかしSNSという媒体と接するほどに、弟はより一層実世界と隔絶していった。画面に映る文字や思想、価値観は弟を蝕んでいった。

 高校にあがる年齢になっても変化はなかった。学校に行かないのはもちろん、家から出ることすらなく、いつも画面の向こうにいる誰かと話をしていた。だがそれを否定はしなかった。自分が間違っているとも思わなかった。他に方法がないのだ。学校や児童相談所、その他の支援団体は何の役にも立たなかった。彼らはみな通り一遍の回答だけ置いてすぐに距離をおいた。彼らが救済したかったのは弟なのか。それとも自分たちが振りかざす善意なのか。

 やがてそんなことすらどうでもよくなってきた。将来に対する不安など少しもない。期待があるから失望し、傷つく。未来があるから今を怯え、不安に駆られる。そんなもの、自分たちには一つもなかった。そもそも人生などないのだ。産まれて、食べて、ひたすら呼吸を続ける。そうして時間を消化し、時が来れば死ぬ。それを何と呼べばいいだろう。

 あるとき、弟の様子がいつもと違うことに気がついた。これまでにない生々しい表情、体から滲み出る熱を帯びた感情を感じた。最初は言いしぶっていた弟はやがて口を開き、彼が人を好きになったのだと知った。相手は誰なのか、どうやって知り合ったのかと尋ねたが、答えは曖昧ではっきりとしなかった。くだらない冗談だと馬鹿にすると、弟は憤慨して相手から写真をもらったと言った。見るとその写真には三人の若者が写っていた。男が一人と女が二人。弟は女の一人を嬉しそうに指差した。写真は本人からもらったのかと訊くと首を振った。名前を訊いても答えは同じだった。SNS上の他人から写真をもらった。何かおかしいとは思ったが、それ以上尋ねるのはやめた。

 所詮インターネット上のままごとであることは分かっていた。だがそんなことはどうでもよかった。がんばれよ。初めて見る弟の姿に、そんな無責任な言葉を投げつけた。それから画面に向けられる弟の態度が目に見えて変わってきた。情熱や熱意と違う、それはもっと黒いもののように思えた。

 その女と本気で付き合えると思っているのか。心の中では嘲り笑っていた。

 それでも何も言わなかった。弟を傷つけたくなかったからではない。このまま夢中にさせておく方が楽だったからだ。この女を追いかけている限り弟は大人しくなり、煩わしいケアから開放される。

 疲れ切っていたのだ。

 だからこの状態を続けるために後押しをした。その結果弟がどうなろうと気にもならなかった。最初はたまに声をかける程度だったが、やがて二人で一緒になって写真の三人を調べ始めた。パソコンばかりをいじっていた弟はその辺りに詳しく、女のことを知ったSNSから辿っていったり、写真の顔を切り取ったりしながらネット上を探し回った。当の女についての情報は見つからなかったが、もう一人の女を探し出すのにそれほど時間はかからなかった。行きつけの店も、交友関係も、勤めている会社さえも知ることができた。そこから男のことも分かってきた。こんなにたやすいものなのかと馬鹿馬鹿しくなった。しかし肝心な女の素性は中々つかめない。弟は苛立ちを見せ始めたが、こっちはいつの間にかゲームのように楽しみ始めていた。知らない人間の服を一枚一枚剥ぎ取っていくような、そんな艶めかしい感覚に囚われていた。

 だがそれもしばらくの間だけだった。そもそもこんな連中に興味はないし、弟の恋愛ごっこに付き合うのも次第に飽きてしまった。弟の方はというと、毎日爛々とした目で画面を見つめ続けた。体調への心配はあったが、そうしてくれていた方がお互いのためだと思った。それからは言葉をかけることもまれになり、一日二回、食事をテーブルの横に置くとき以外はろくに顔も見ないようになった。

 ある朝、目が覚めてみると弟が昨夜と同じ姿勢のままパソコンの前に座っていた。背中を見ただけでもやつれた様子が伺えた。一睡もせず、一晩中そうしていたのだと分かった。声をかけても返事がないので横から弟の顔を覗き込んだ。大きく開かれた双眸は赤く充血し、そこには感情と呼べるものが何一つなかった。弟を布団に横たえて寝かしつけた。それからすぐにSNSの履歴を追った。そしてなにがあったのかを知った。

 それが何日前のことだったか、記憶はどこか霞んでいる。昨日か、先週か、もっと前だったろうか。

 そして今日の昼、警察から電話がきた。

 何があったのかは聞くまでもなかった。こうなることは分かっていた。どういう形にせよ、弟はいずれ死ぬだろうと思っていた。正確に言えばその日を待っていた。そして今日、決して下ろすことを許されなかった荷物が消えてなくなった。たった一つの苦しみが終わったのだ。喜びも苦しみもない、ただの時間だけがやっと手に入ったのだ。

 どういうわけか、急に赤ん坊だった弟の姿が蘇った。

 母親はほとんど留守で、小さな弟を腕に抱えながら外を見ていた。

 何の意味があるのか。弟の体温を感じながら、頭の中でそんなことを考えていた。

 あれから随分と時間が経った。結局意味などあったのだろうか。弟はあの女に何か意味を見つけたのか? いや、そんなものに価値はない。人の一生は時間の消費でしかない。弟は謹んであの世へ送り出してやろう。そうすれば何かの足しにはなる。それに意味などないとしても。

 警察からはすぐに来るように指示されたが、行くべきところは別にあった。

 それがどこなのかは、もう知っている。

   ***

 男は黙ったまま何も言わなかった。

「弟の死が悲しいのか?」颯真が沈黙を破った。「そんなに悲しいなら、なぜ助けようとしなかった?あんたなら助けてやれただろう」

 颯真は喉から絞り出すように言った。

「お前にそれを言う資格はない」

「俺を憎めばいい。それで終わりにしてくれ」

「あと二人だ」

「彼女は違うんだ」颯真は同じ主張をくり返した。「分かってくれ」

「あの女はセイレーンだ」男の表情は無機質なまま動かなかった。

「弟の仕返しだというなら、それは間違っている。そんなことで誰も救われない」

「仕返し?」男は微かに首を傾けた。

「そうだろ」

「違うよ」男はあっさりとそう言った。

「じゃあ何だっていうんだ」

「手向けだ」

「手向け?」

「別に恨みはない。弟にあの女を送り届けてやるだけだ。弟の肉体がまだ新鮮なうちに」

「恨んでないって……だったらどうして」

「だから、ただの手向けだ。惚れた女を餞別として渡してやる。女を殺して焼いてやれば喜ぶだろうよ。先に何人か届いているから既に賑やかにやってるはずだ」

「そんなことで人を殺したのか」

「だから恨みなんてない。むしろ感謝している」

「感謝だって?」

「どうすれば自由になれるのか、ずっと考えていた。その答えを示したのがお前たちだ」

「なに言ってるんだ」

「元の世界では、お前たちが弟を殺してくれた」

「そんなことはしていない!」

「お前たちのおかげで答えが分かった。そうだ、『殺してしまえばいいんだ』ってね。だから今回は楽だったよ。正解をすでに知っていたから、朝起きてすぐに実行した」

「お前は、狂ってる」

「礼をしないとな」

 男がジッポーの蓋を弾いた。甲高い金属音が尾を引いた。

「そんなことしたらあんたも焼け死ぬぞ」

「そうかな」男はライターのホイールに親指を当てた。「お前の方が非常口から遠い」

 颯真は唇を噛んだ。男の言うとおりかもしれない。もしかすると、炎に焼かれてもこの男は死なないのではないか。そんな気がした。髪が燃え皮膚が剥がれ落ちても、きっと最後まで殺し続ける。この殺戮は誰かのためではなく、己の自由の証だと信じているから。

「お前はここで殺してやろう」男は指の腹でホイールを撫でている。「そのほうがあの女の声を聞かなくて済む」

 颯真は見上げるように男を睨みつけた。

「ほんの御礼だ」男が笑った。

「狂人が」男は颯真の目を見つめ返した。

「お前たちは、自分が正常だと思っているのか?」

 颯真の唇が何かを言おうとして動いた。しかし言葉が出てこなかった。

 男が先に口を開いた。「俺とお前に違いはない。程度の差もない。満月と三日月みたいなものだ。黒く隠したところで実体は同じだ」

 なぜだろう、こんな単純な問いに答えることができない。なぜ自分は正常で、狂っているのはお前だと断言できないのだろう。

 颯真の拳に力が入った。

 いいや違う。俺や亜月はお前とは違う。あの夜に見た蒼い三日月は、絶対にお前とは違う。

「次はお前だ。手紙のことを話せ」

 颯真は握った拳を緩め、ふっと息をついた。「手紙か」

「そうだ。それとも忘れたか?」

 亜月から聞いた内容は脳にべったりと張り付いている。忘れることなどない。この先もずっと。

「一字一句覚えてる。手紙には恨みの言葉が書いてあったよ」

 そして男に手紙の内容を聞かせた。話している最中も男の表情は変わらなかった。フードの下から覗く二つのガラス玉はピクリともしなかった。

「内容はそれだけだ」

 男は何も言わない。

「何もごまかしていない。本当だ」颯真は言った。

「ふん」男は鼻から息を吐いた。「それが弟の心か」

「そうだよ。あんたの弟が最後に残した心だ」

「お前たちに殺された。本人がそう言っている」

 颯真は強く首を振った。「違う、そうじゃない!」

「命乞いは無駄だ」

「なんで分からないんだよ」颯真は拳に力を込めた。爪が手の平にきつく食い込んだ。

「お前はここで灰になれ。女もすぐだ」

「あんたの弟はな」颯真が怒鳴った。「SNSでからかわれただけで死ぬような馬鹿じゃない」

「何が分かる」

「分かるとも」颯真は一歩、足を踏み出した。「俺たちに罪が無いなんて言わない。あいつの、敦裕のしたことは間違っていたし、それを止められなかった俺にも非はある。だけどあんたはどうなんだ」

 さらに一歩前にでた。

「あんたの弟は、自分の全部が嘘になったと言ったんだ。自分の全てが消えたと。分かるか? 好きになった彼女やその友人に突き放されたと思った時、もう何も無くなったと言ったんだ」颯真は静かに指を立て男に向けた。「つまり、そこにあんたは既にいなかったんだよ」

 わずかに見える男の目が、ほんの少しだけ細くしぼんだ。

「すでに弟の人生に兄はいなかった。だからSNSであんな言葉を投げつけられたとき、思いの全てが嘘になり消えてしまった。嘘しか残らない人生など無いのと同じだったんだ」

「俺たちがどうやって生きてきたか、お前は知らない」

「知らないさ。けど弟がどんな風に毎日を生きてたか、あんただって分かってない。彼はとっくに知っていたんだよ。たった一人の兄が自分を邪魔だと思っていることを」

 男が何かを言いかけた。しかし颯真はそれを許さなかった。

「あんたの言い分なんか聞く気はないね。自分だって苦労したとか言いたいんだろ。そんなことは弟だって分かっていただろうさ。だから何も言えなかった。彼はきっとあんたが好きだったんだよ。だからあんたに悟られないよう、何も気付いていない振りを続けていたんじゃないのか。自分に感心などない、できればいなくなって欲しいとさせ思っているあんたのような人間のそばに、それでもいたかったんじゃないのか」

 弟のことなど何一つ知らない。名前も顔も声も。それでも颯真には確信があった。亜月から手紙の内容を聞いた時に感じた不安、乾き、寂寞。あの時は自分でもうまく説明できなかった。でもそれが何だったのか、今は分かる。

「やがて弟は仮想の世界に心を奪われ、そして心を壊された。何も見えない真っ暗な海に自分から泳ぎだし、いつの間にか足が着かなくなっていることも分からなかった。気づいたときには自力で岸に帰ることも出来ず、一人でもがき溺れていたんだ」

 颯真の頬を知らず知らず涙が伝った。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうしてみんなは死なねばならなかったのか、どうしてこの男は何人もの人間を手にかけねばならなかったのか。

 敦裕は多少口は悪いが面倒見がいい。咲世の能天気な性格はみんなを明るくする。板波はいつでも包み込んでくれる。そして亜月は心優しく頭がいい、世界で一番の女の子だ。俺が言うんだから間違いない。

 もっと前に出会えていたら、違う形で交わっていたなら、何か変わっただろうか。

 悪いのは闇か、それともそこに踏み出す人間か。

「最後に『忘れるな』と書いてあった。その意味をあんたなら分かるだろう。手紙に書かれていたのは怨念じゃない。自ら命を絶たなくてはならないほどの飢餓だ。あれは呪いの言葉なんかじゃない。自分がここにいたことは嘘じゃないという最後の叫びだ。その言葉を本当に伝えたかった相手は誰だ」

 颯真は静かに指を下げた。

「弟を殺したのは、誰だ?」

 ホイールの上を滑っていた男の指が止まった。

 その瞬間颯真は床を蹴り、男の膝に向かって頭から飛び込んだ。

 距離は詰めてあったが微妙なタイミングだと思った。だがこれ以上近づけば警戒されてしまう。やるしかなかった。

 目を閉じ、肩を男の膝に叩き込んだ。両足の関節が逆方向にしなるのを感じた。と同時に男の体が前のめりになり、ふわりと浮き上がった。手から離れたライターが宙を舞った。颯真は男の両足を抱えるようにして、力いっぱい上体を起こした。男の体は上下に回転し頭から床に落ちた。しかし寸前のところで両手をつき、頭部への衝撃を和らげた。

 颯真は振り返り空中で弧を描くライターを目で追った。ライターはスロー再生のようにゆっくりと軌跡を描いて落下すると、床に倒れた男の傍らで小さく跳ね上がった。

「ちっ!」

 颯真は吐き捨てるとライターに向かって走った。だが体勢が悪かったためバランスを崩し、白球に飛びつく野手のように腹で滑りながら手を伸ばした。ぎりぎりのところでライターに手が届くと、それをしっかりと握り立ち上がった。

 その時、男の手が颯真の足首を掴んだ。

「悪いな、勘弁してくれ」颯真は男の頭をもう片方の足で踏みつけた。

 手は離れなかったが少しだけ力が緩んだ。颯真が力任せに足を引くとスニーカーと一緒に男の手が抜けた。よろめきながら剥き出しになった靴下を脱ぎ捨てると、颯真は非常階段へ向かって走った。

 あいつは店の中でガソリンをまき散らした。怪我人はいないが警察が動くには十分だ。そうすれば殺された三人のこともすぐに分かり、あいつは刑務所に行くことになる。

 ドアノブを捻り、体当たりで扉を押し開けた。外の冷気が肌を包み、ガソリン臭の溜まっていた肺に新鮮な空気が流れ込んだ。眼下には街の灯が見える。

 鉄の階段を駆け降りようとしたその時、側頭部に激しい衝撃を受けた。視界が一瞬真っ暗になり、颯真は膝をついた。痛みのあまり意識がかすみ、足元の視界がぐにゃりと湾曲した。こめかみに手を当てると、ねっとりした感触があった。見ると手が真っ赤に染まっている。すぐ横にはスマホが落ちていた。敦裕のものだった。

 店の方に顔を向けた。閉じていく扉の隙間から男の姿が見えた。

 手には巨大な包丁が握られている。

 颯真は手すりに身を預けながら立ち上がり、階段を降りた。

 踊り場まできた時、背後で扉の開く音がした。見上げると夜よりも黒い影がこちらを見下ろしている。長く影の手元に閃光が走った。

 ビルを這い上がってくる冷たい風が颯真の髪を巻き上げ、それから男のフードを揺らした。

 颯真は男から顔をそむけ階段を駆けおりた。だが眩暈と共に足を絡ませ、そのまま転げ落ちた。肩や背中を何度もステップに打ちつけながら回転し、最後は手すりに激突する形で止まった。手からこぼれたライターが金属音を響かせながら暗がりの彼方へ遠ざかっていった。

 階段を踏む音がした。一段一段を確かめるように男が下りてくる。

 颯真は立ち上がり、また倒れ、這いつくばった。背中を強く打ちつけたせいでうまく息を吸うことができない。全身を引きずり、手すりを這い登るようにして体を引き上げると、次の踊り場を目指した。こめかみ、鼻、口、あらゆるところから血が流れ出し、鉄板の上に不規則な模様を描いた。

 ここで死ぬわけにはいかないんだ。俺が亜月を助けるんだ。下に行けばたくさんの人がいるはず。そこまで行けば、助かる。まだ終わってない。

 しかし思うように体に力が入らない。

 そういえば今日一日なにも食べてない。頭の隅でそんなことを思い出した。

 体の底に残る搾り滓のような力で次のステップに足をかけた。

 不意に膝が折れ、踊り場まで一気に落ちた。痛みに痛みが重なり、もはや指一本動かせない。意識が遠のき目を開けていても何も見えない。

 だめだ、まだだめだ。

 突然、後ろから髪を掴まれた。あまりの衝撃に颯真は声を上げた。男ははるか頭上から颯真の髪をつかみ、ものすごい力で上へ上へと引き上げた。抵抗する力はもう残っていなかった。颯真は痛みに耐えるように歯を食いしばり上を見た。そしてそこに恍惚とした表情を浮かべる男を見た。ガラス玉が妖しく濡れ光る忘我の表情。

 男は手首を返し更に髪の毛をひねり上げた。

 颯真の顎が上を向き、喉元が大きく曝け出された。

 男はもう一方の手を颯真の首に回し、包丁の刃を静かに耳の下に当てた。

「一息で切り裂いてやる」男は颯真の耳に息をはいた。「首が落ちるくらいに」

 薄い刃が皮膚に食い込んだ。男の腕に力が入るのを感じ、颯真は目を閉じた。

 何かが破裂する音がした。

 あれは自分の血管の音だ。颯真は他人事のように思った。首の血管が茹でたソーセージを割るように弾けたのだと。顎の下では肉汁のかわりに赤い血がたっぷり吹き出しているだろう。みんなと同じように自分は死ぬんだ。父と母は悲しむだろう。息子のこんな死に様を乗り越えられるだろうか。たいした親孝行もできず申し訳ないことをした。亜月は大丈夫だろうか。一人になってしまうけれど、きっといつか幸せになれるだろう。だってあんないい子はいないから。こんなことならもっとたくさん伝えておけばよかった。だけどもう遅い。死とはどんなものだろう。痛みや苦しみと共にやってくるのか、それとも眠るように包み込まれるのだろうか。

 だがそのどちらもやって来なかった。

 颯真は目を開けた。

 涙で霞むその先に誰かがいる。下の階から両腕をこちらに差し出している。颯真は瞼をきつく閉じ、たまった涙を絞り出した。まばたきをする度にぼやけた視界は次第に像を結んでいった。

「あ……」

 喉の奥で声を出した。

 そこには両手で銃を構えた東多の姿があった。


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