第四章 救えない者
1.亜月の糸
亜月は『SOH’s』を後にし、繁華街の駅近くにあるカフェに来ていた。あのカラオケ店のある街だ。
手紙は生れて初めての衝撃を亜月に与えた。重りにつながれたまま深い海に沈んでいくように、あっという間に何も見えなくなり、何も聞こえなくなった。
これは本当に自分に向けられた言葉なのか。何かの冗談だろうか。
しばらくはまるで現実感のない小説でも読んでいるような気分だった。けれど事実は暗雲のようにあっという間に心を覆い尽くした。
これは私に届けられた手紙なのだ。誰かが私を殺したいほど憎んでいるんだ。
『SOH’s』でラブレターだと颯真に見せびらかした自分の声が頭の中でリピートした。本当のことを言えば、あのとき手紙を書いた相手のことなど頭になかった。私はただ颯真に妬いてほしかっただけだった。この浅はかさがいけないのだろうか。私はそうやって今まで他人を傷つけてきたのだろうか。私に向けられる憎しみには気づきもせずに。
窓際の小さな丸テーブルに置いたカフェラテから、暖かな湯気と香りが立ち昇っている。店内は洒落た音楽と陽気な声で溢れ、どの客も楽しげだ。亜月はテーブルの上で手を組み、表の通りをぼんやりと眺めた。
手紙を読んだ直後は意識が揺らめいて自分でもよく覚えていない。そんな混沌とした頭でも、私は向こうの世界で待っている颯真へ電話をかけた。それは無意識と言ってよかった。颯真に電話をする、メッセージを送る、颯真の名前を呼ぶ――それら全ては私の体に記憶されたものだ。手紙の内容に颯真はがっかりしたに違いない。手紙を見れば相手のことが書いてあると期待してた彼を失望させてしまった。だけど颯真は大丈夫だと言った。たとえそれが慰めの言葉にすぎなくても、私の心は少しずつ凪いでいった。だから電話を切った時、私は自分でも驚くほど冷静だった。人目の多い場所へという颯真の言葉を考えた時、真っ先にこの場所を思い浮かべた。
颯真は私の助けを必要としている。彼が何をしようとしているのかは分からない。だけど私にできることがあるとすれば、考えられる場所は『SOH’s』かあのカラオケ店だ。ここからならカラオケ店に行けと言われれば、すぐに走って行ける。もし『SOH’s』に戻ることになっても目の前から電車に乗ることができる。
亜月は熱いカップを両手で包んだ。手のひら全体に熱が広がる。その痛みを受け止めるように亜月は目を閉じた。
2.颯真の糸
『SOH’s』に向かうバスの中で颯真は片時もスマホから目を離さず、まばたきする間も惜しむように画面を見つめていた。
颯真はファミレスを出る前、あのユーザ名でSNSを検索した。ヒットしたユーザは二人。一人は食べ物や旅行先と思われる風景写真をたくさん載せていた。もう一人のアカウントに投稿はなかった。
颯真は二人目にメッセージを送った。
『写真の彼女について話をしよう』
少々乱暴だが仕方がない。もし手紙の男がこのメッセージを見れば、必ず反応してくるはずだ。そのタイミングを逃すわけにはいかない。だが亜月が話していた通り、やはり手紙を持ってきた男にこれといった身体的特徴はない。ではあの殺人鬼は何者なんだ。俺は二人の男を追いかけているのだろうか? そんな時間が残されているだろうか。そもそも俺にそんなことが出来るのか。
やがてバスは『SOH’s』近くのバス停に止まった。メッセージに対する反応は無かった。
こっちの世界では亜月はここへ来ない。だが手紙の男はそれを知らない。まだこの辺りにいるはずだ。そう簡単に諦めはしないだろう。俺のメッセージに返事がきたら、すぐにここで会うよう提案する。
なかなか悪くない考えだと思った。
相手は白いパーカーを着ていたと亜月は言った。それならば周囲を探してみようか。それとも予定通り店の中で待っていたほうがいいだろうか。
しばらく思案した後、颯真は店で待つことに決め入り口に向かった。
その時――
颯真は思わず足を止めた。心臓が胸の内側をドラムのように叩き、強烈な痛みが体の真ん中に走った。
店を過ぎた先にある街路樹の下、そこにあの男がいる。炎、煙、悲鳴、切り裂かれる友人。その向こうに浮かんでいたあの影。
腿が痙攣し足を前に出すことができない。異様に背が高く、細いあの男がこちらを見ている。着ているている服も全てあの時と同じだ。全身を覆う場違いなレインウェア。
「な、なんで」颯真は口の中で呟いた。
ここに現れるのは手紙の男のはずだ。そうでなければならない。なぜなら今日は過去なのだ。過去がひとりでに書き換わるなんてあり得ない。では今見ているものは一体何だ。
突然、フードの下で男の口が耳まで開いた。
颯真の首筋が凍りついた。
あいつが、俺を見て笑った。
男はフードを深くかぶり直すと、颯真に背を向け脇道に消えていった。颯真はその場から動けないまま男が立っていた場所をじっと見つめた。そうしてどのくらい時間が経ったのか分からない。不意に呪縛が解けた颯真は走り出し、角を曲がった。しかしそこに男の姿はなかった。颯真はよろめき、膝に手をついた。
あの長い男が目の前に現れた。それなのに何もできなかった。怖かったのだ。
だが今、颯真はそれ以上に困惑していた。
手紙の相手はどこに行った? なぜあの男がいる? ここで何をしていた? なぜ俺を見て笑った?
「大丈夫ですか?」
声をかけられ颯真は顔をあげた。スーツを着た男が不安そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」颯真は会社員に礼を言い体を起こした。
皮膚全体の感覚がぼやけているようだった。耳の奥で海鳴りのような音がする。そんな体を引きずるようにして颯真は『SOH’s』のドアを開けた。
「おや颯真くん、いらっしゃい」
板波の大きな声が出迎えた。颯真の意識と感覚は現実に引き戻された。
「どうも」
「どうした。何かあった?」
颯真の顔を見た板波は即座にそう言った。颯真は首を振りいつもの席に座った。すぐに板波が水の入ったグラスを持ってきた。
「亜月ちゃんと待ち合わせかい?」
「いまそこに」颯真は窓の外に並ぶ街路樹を指さした。「変な男が立ってませんでしたか? 背が高くて、すごく細くて……」
「男?」板波は颯真の指す方に顔を向けた。「いやあ気づかなったけどなあ」
「そうですか……」
板波は心配そうな目で颯真を見た。「それがどうかしたのかい?」
「いえ、別に」
「トラブルか何か?」
「いえ、そういうわけでは」
「そうか。なら深くは聞かないけど」板波は言った。「困ったことがあったらいつでも話してくれ」
「ええ」
「前にも言ったけど、僕は父親みたいな気持ちでいるんだ。気持ち悪いと思うかも知れないけど、何かあれば頼ってくれ。息子にしてやれなかったことを、颯真くんにはしてやりたい。と言うより、させてほしい」
颯真が俯くとテーブルに雫が落ちた。
板波はそこから目を逸らした。
「これは単なるおじさんの自己満足だと思ってくれ。だから気兼ねなく言ってくれよ。きっと何かの役には立つ。それにさ、いずれ娘もできそうだしね。こう見えて張り切ってるんだ。子供が二人になるってね」
板波は笑った。
颯真は下を向いたまま「ありがとうございます」と言った。心からそう言った。
「コーヒーでいいね」
板波はカウンターに引き返した。
颯真はテーブルの上のナプキンを取り、目元を拭った。
少ししてコーヒーが運ばれてきた。板波はカップを置くと、今度は何も言わずに立ち去っていった。コーヒーの香りがしびれた体をほぐしていく。
長い男は俺を見て笑った。あいつは俺を知っているのか? この店のことも? 全ての前提が崩れていく。
颯真はカップに口をつけた。
カラオケでは敦裕に咲世、そして亜月を殺そうとした。もちろん最終的な狙いは亜月だ。そこに俺は入っていなかった。このことがきっかけとなり、三人が映る写真と敦裕のSNS、そして手紙の男へとつながっていった。だからこの考えは間違いないはずなんだ。
ではどうして眼中にないはずの俺を見て笑った?
颯真はこめかみを押さえた。考えが堂々めぐりを始めている。
あの男が初めて俺の顔を見たのは、敦裕たちが殺されたあの通路だ。それより前、つまり今この時点で俺の顔を知るはずはないんだ。知るはずが——
颯真の手がカップを握ったままぴたりと静止した。
ある考えが立ち昇った。それは水蒸気のように形を持たないまましばらく頭を漂っていたが、やがてはっきりと像を結んだ。
店の前にいた長い男は、カラオケで敦裕と咲世を殺した男そのものだ。
颯真は確信した。
爆発が起きた時、あの男は俺の目の前にいた。亜月は俺の後ろでうずくまっていた。その亜月と俺の間に時間の亀裂が入った。その結果、亜月は向こうの世界に、俺はこちら側に落ちた。あの男と共に。
颯真はカップを静かに置くとテーブルの一点を見つめた。
あの大きくひらいた口は、あいつがここでもう一度同じことをしようとしている合図なんだ。そして今度の狙いは三人ではない。火の海の中で殺すべき人間がもう一人いることを知った。『SOH’s』に来たのはそれを確かめるためだ。そしてあいつも気づいた。四人目の人間もまた、元の世界から落ちてきた存在であることを。
今いる世界で、今夜何が起こるのかを知っているのは自分だけ、そう思っていた。だからあの男の先回りをして止めることができるのだと。それが両方の亜月を救える希望だった。だがその拠り所がなくなった。あの長い男もまた記憶を持っている。
亜月と手紙の男は『SOH’s』で初めて交わり、長い男と俺たちはカラオケで初めて交わった。だが今、俺と殺人鬼はここで出会った。亜月は来ない。手紙の男もいない。今日というシナリオが大きく変わり始めた。もはや未来の記憶は当てにならず、俺があいつの裏をかくことは難しくなった。いや、むしろ圧倒的に不利なのは俺のほうじゃないか。あいつは俺たちの顔からこの店のことまで知っている。俺はあいつについて何も知らない。
奴は一体なんだ。
手紙の男は一体どこへ行った?
颯真は向こうの世界のスマホを握った。
困った時はいつだって亜月のところへ行った。特に答えを求めていたわけじゃない。疲れたら横になるように、ただ亜月のそばに行った。けれど今はできない。こんなことを話せば、亜月は俺のことを心配するに決まっている。それなのに手を触れることさえできない。そんな苦しみを与えたくない。いまだって十分苦しんでいるのだから。
颯真はそっとスマホをテーブルに置いた。
点灯した画面を見た颯真は、充電量が40%であることに気がついた。
リュックから充電ケーブルを取り出し、テーブルの脇にあるコンセントにつないだ。が、すぐに首を傾げた。充電が開始されない。ケーブルのせいかと思い、念のためもう一台、こっちの世界のスマホに差し換えてみると、正常に充電が開始された。
向こうとつながるスマホには充電することができない。
考えてみればおかしな話だった。爆発の衝撃で俺は時間を滑り落ちてここにやってきた。ここで同じ人間として再び時間の順流に乗せられた。この世界に存在する唯一の「自分」として。身に着けているもの、住んでいる部屋、外を歩く人たち、みんなそうだ。この世に一つだけしかない。
しかしこのスマホだけが二台存在している。
「そうなのか」
理解したわけではないし、まして納得したわけでもない。人を弄ぶこの馬鹿げた時間の悪戯が今度は何をしようとしているのか、それをただ冷静に認知した。
一つの世界に同じものが二つある。似たものだとか同じ製品だとか、そういう意味ではない。もっと根源的な意味での同じもの。つまり一台は――向こうの亜月とつながるこの一台は、決してここに存在してはならないものなのだ。だからこのスマホは煙のように消え失せてしまう代わりに、その「意味」を奪われようとしている。この世界に対して何の影響も与えず、また影響を受けることもない、そういう存在になろうとしている。今のところ機能しているが充電することはできない。バッテリーが切れたとき、これは何者でもなくなる。存在しないのと同じになり、そして時間の流れからこぼれ落ちていく。
颯真は時計を見た。太陽が西に傾き始めていた。
3.亜月の糸
午後の日差しが街に降りそそいでいる。
亜月はテーブルに並べた二台のスマホを見つめながらカップを持ち上げ、それが空であることを思い出した。
あと何時間かで約束の時間になる。そうすれば私はこっちの颯真に言ったようにカラオケに向かう。それが約束だから。向こうの颯真は何をしているのだろう。あれから連絡はない。何かあったのだろうか。電話をしてみようか。
亜月は強く頭を振った。
何があったとしても颯真はいま必死に何かをしようとしている。その邪魔をすべきではない。私はここで待ち、自分にできる精一杯のことをする。ここにいる私が支えてあげなければ、向こうにいる颯真は誰を頼れるというのか。もちろん向こうにだって私はいる。どちらの私も颯真への気持ちに変わりは無い。このたった一晩の記憶がもどかしい。向こうの私にこの記憶をぜんぶ渡してあげたい。そうすれば今すぐに一緒に立ち向かえるだろう。
亜月はこぼれ落ちた雫を周りに見られないようにそっと指ですくった。
ふと板波の顔が浮かんだ。あの人なら颯真の力になってくれるかもしれない。荒唐無稽なこの話を信じて彼を助けてくれるかもしれない。
板波は颯真のことを息子のようだと言っていた。いつだったか、十五年ほど前に一人息子と妻を事故で亡くしたのだと話してくれたことがあった。多くは語らなかったし、こちらからもそれ以上は聞かなかった。すると板波は奥からフォトスタンドを持ってきた。親子三人の写真だった。板波の隣で微笑む妻、その間で少し緊張した面持ちの子供。息子が十歳の時の写真だと彼は言った。亡くなる少し前の姿。生きていれば私たちと同じくらいの年齢だ。颯真に似てるねと私は言った。似てるかなと颯真は不思議そうに言ったが、板波が嬉しそうに笑っていたのを覚えている。
本当だったら今日は日曜日。遅くまで寝ていた私たちは『SOH’s』に行き、三人でコーヒーを飲み昨夜のことを笑いながら話す。そんな日だったかもしれない。
一体私は何をしてしまったのだろう。あの手紙に書いてあったように、私は誰かに恨まれている。それなのに憎悪を向けられる当の私は何もできず、ただここに座っている。
誰でもいい。どうか颯真を助けてほしい。
亜月は向こうにつながるスマホを両手で包むようにして見つめた。
そして充電が半分をきっていることに気づいた。
4.颯真の糸
用事があると言って出ていった颯真のカップを洗いながら、板波はカウンタ―の隅に立ててある写真を見た。亡くなった妻と息子が笑いかけている。
時が傷を癒してくれることは確かだ。今ではこうして妻と子の目をしっかり見ることができる。だが心の痛みと同時に記憶も持ち去ってほしいと思うときが今でもある。あのときの電話の音、病院の匂い、妻と息子の冷たい肌の感触。それは永遠に剥がれ落ちることのない記憶として残っていくのだろう。事故から数年の間は写真を見ることもできなかった。二人に責められているようで、長いあいだ背を向けてきた。どうして二人だけで行かせてしまったのだろう。助けてやれなかったという後悔、そして二人に不幸な人生を歩ませてしまったという罪の意識が、来る日も来る日も魂を押しつぶした。
颯真が店にやってきたのは、あれから何年経った頃だろうか。
特に目を引くところがあったわけではない。しかし窓際のテーブルで一人コーヒーを飲むその若者が妙に気になった。普通はしないのだがコーヒーのおかわりを持って声をかけてみた。若者は少し憂いを帯びた目を向けて礼を言った。
それから彼は足繁くこの店に来ては美味そうにコーヒーを飲んでいった。その度に小さな会話を繰り返し、次第に新しい暮らしや見えない将来への不安をぽつりぽつりと聞かせてくれた。高校の時から付き合ってる彼女のことも教えてくれた。彼女は自分と付き合っていて楽しいのだろうか。自分などではなくもっといい男と付き合ったほうが彼女のためではないだろうか。そんな真っ直ぐな悩みを聞くにつれ、もはや自分には果たすことができないと思っていた息子との語らいをそこに見出した。そんな素敵な彼女なら会ってみたいものだ。そう言うと颯真は照れたように笑った。彼女のことが好きでたまらない、そんな表情だった。
しばらくして颯真は亜月を連れてやってきた。可愛らしくて聡明な彼女は、彼の話によく笑い、自分の話にも真剣に耳を傾けた。素敵な彼女と、ちょっと気弱で誠実な彼。とてもお似合いだと思った。
それ以来、店に来るときはいつも二人だった。デートの邪魔をしないようにと思いつつ、ついつい会話に混ざってしまった。そのうち友人二人も紹介された。なんとも賑やかな二人だった。心に灯がともったように温かくなった。
父親みたいな気持ちだと言ったこと、それは正直な思いだった。感傷的な親子ごっこなどではなく、彼の力になりたいと本当に思った。亜月を紹介された時、また自分にも家族が出来たのだと感じた。写真の中から笑いかける妻と子に、素直にそう言えた。
お前たちを忘れるのではない。僕たちの家族が増えるんだ。僕たちが作りたかった賑やかで明るい家庭を、一緒に作っていけるんだ。
***
『SOH's』を出た颯真は近くの派出所に向かった。
信じてくれる、くれないではない。できることが限られているなら全てをやるしかない。それに他に助けを求めるあてもない。
派出所の前にはスクータータイプの小型の白バイが一台停まっている。颯真はその前で呼吸を整えると、引き戸を開けて中に入った。
カウンターの向こうに座っていた警官が顔を上げた。わりと年配のベテランといった感じだった。優しそうな眼差しの奥に、胸の奥まで見透かすような冷たい光が見えた。
警官は椅子から立ち上がり、穏やかだがどこか威圧的な笑顔を見せた。
「どうしましたか」
颯真は腹をくくった。
「あの、これから少しおかしなことを言います」
警官の顔が曇った。それは怪訝な表情というより、警戒の色に近かった。
警官はデスクを回り込み、カウンターを挟んで颯真と向かい合った。
「どういう意味ですかね?」
颯真はリュックから身分証を出すとカウンターの上に置き、警官の方に向けた。そして名前、住所を言葉で伝えた。警官は少し驚いた顔をしたが、とりあえず身分証に目を落とし確認した。
「君が誰なのかは分かりました。それでおかしなことと言うのは?」
颯真は身分証をしまうと警官の顔に目を向けた。
「あの、多分すぐには信じてもらえないと思うですが、決して嘘ではないんです」
警官は口を軽くへの字に曲げた。「それはこちらで判断しますので」
颯真は細く息を吐き下を向いた。「まあ、そうですね」
「まずはお話を伺います。ですがその後のことは現時点で何もお約束できません」
警官は冷たく言い放った。
颯真は頷いた。
***
突然派出所に入ってきた青年は、自分で予告したように奇妙な話しをして去っていった。話は放火殺人に関するものであったが、著しく論理性を欠いていた。青年を引き止めなかったのは身分がはっきりしており、心神耗弱などの兆候も見えなかったからだ。無論、医学的な検査をしたわけではない。だが二十年警察官をやってきた東多は自分の感覚、特に善と悪とを嗅ぎ分ける嗅覚を信じていた。
青年の話はこうだ。
今夜、繁華街のカラオケ店で放火殺人が行われる可能性がある。沢山の人が殺されるが、本当の狙いは自分の友人三人だ。犯人はSNSで友人と知り合いになったが、あることがきっかけで自分が侮辱されたと思い込み、友人たちの殺害を目論んだ。それが今夜実行されるので、現場で取り押さえてほしい。
青年に訊きたいことは山ほどあり、また一方で聞く価値のない話だとも思った。
その犯人とは誰なのか、なぜ君は犯人の計画を知っているのか、という当然の質問を投げかけたが、青年は前者に対しては分からない、後者に対しては話せないと答えた。
何度訊いても答えは同じ。肝心な部分については知らない話せないばかりだった。ただ犯行の内容については妙に具体的で生々しい。まるで小説の朗読を聞いているかのようだった。青年が一通り話し終えたところで、東多はため息を漏らしながら呆れたようにペンで紙を叩いた。
さてどうしたものか。
しばらく思案していると、青年は「もう一つだけ」と付け加えた。その放火殺人とは関係ないが、今日の夕方、そのカラオケ店の近くにある交差点でダンプカーが事故を起こす。怪我人が複数出るので注意するようにと。それから交差点の名前とおおよその時刻を告げた。君は未来から来たのかとからかうように尋ねたが、青年は寂しそうに笑うだけだった。
会話の最中、多少不安げな目をすることはあったが、特に錯乱した様子はなく礼儀正しく応答する青年のことを、東多は不思議そうに見ていた。警察官として今まで話しをしてきた誰とも違う。東多の頭にあるどんなタイプにも分類することができなかった。青年の話に信用すべき要素はない。しかし彼の目には一定の正しさと熱量を感じた。そのことが一層、東多を困惑させた。
結局簡単な記録を作成し、青年の電話番号を控えてそのまま帰すことにした。席を立ち素直に帰ろうとするその背中に、何かあればまたここに来るようにと声をかけた。青年は振り向き小さく頭を下げた。青年を見送り席に戻った後も、東多は正解を探した。警察官として間違った判断だったろうか。犯罪予防の観点から上の判断を仰ぐべきだったかもしれない。だが自分の嗅覚はそれを否定した。彼に必要なのは尋問や勾留ではない。
東多は書類に目を落とした。
この記録について自分は何か言われるだろう。勝手な判断だと罵られるかもしれない。お前ごときの嗅覚など笑わせるな、と。
東多はガラス戸越しに通りを眺めた。
この歳でいまだに巡査、そして派出所勤務。そのことに不満があるわけではないが、これ
でも若いころは階級へのあこがれもあった。当時行動を共にし、指導してくれた巡査部長がいた。いわゆるエリートコースに乗っている人ではなかったが、正義の執行者として任務に誇りを持ち、常に堂々と胸を張っている警察官だった。いつしか自分にとってその背中が目指すべき目標となっていた。
ありたい自分の姿と社会的な地位、あるいは経済的な余裕は、時として競合する。
決して屈しない巡査部長の信念と態度は事あるごとに上司や所轄のお偉いさんの癇に障った。そうした空気は周囲の同僚にも伝播し、やがてそれは村八分の様相を呈してきた。そうして巡査部長はどこにいても一人冷たい雨に晒されるようになった。降り続く雨の中、誰よりも強靭と思われた心にいつしか錆が浮き始めた。錆は誰からも見えないところで徐々に広がり、そしてある日、折れた。
自分が追いかけたその背中が最後に教えてくれたのは、理想とは光り輝く宝石に過ぎないということだった。美しい石が放つ光に人は惹かれ心を奪われる。美しく妖しく光る。ただそれだけだ。その光の先には何もない。むしろ災いを産み落とす。
最後に見送ったその背中は痛々しいほど小さく、一度も振り返ることなく雑踏の中に消えていった。幼いころから抱いてきた憧れ、強く優しい警察官になる夢。それが風に巻かれた煙のように透明に変わっていった。そうして憧れも夢も失くしたのに、自分はまだここにいる。巨大な仕組みに迎合することもできず、かと言って全てを捨ててしまうこともできなかった。
東多は記録紙の上に記された青年の電話番号を指でなぞった。そして彼がもうここに来ないことを祈った。そのまま家に帰り、温かいベッドでぐっすり眠るんだ。明日になれば全て上手くいく。彼は善人で、ちょっとした思いつきからここに来て空想物語を聞かせていった。話す相手は誰でもよかった。孤独を嫌う若者の衝動的なストレス発散。そうに違いない。そうでなければならない。
東多は背もたれに寄りかかった。
「さて、どう説明するかな」
***
小さな子供を連れた夫婦が会計を済ませると、板波は大きく伸びをした。店の中に客は一人も残っていなかった。ティータイムから夕飯までの時間、こうして店内が凪のように静まり返ることがある。
テーブルから食器を回収しながら、板波は颯真のことを思った。今日は明らかに様子が違っていた。何かがあったのはすぐに分かった。隣に亜月がいなかったことも気がかりだ。いったいどれほどの問題を抱えているのだろうか。
板波は蛇口を開けスポンジを泡立てると、丁寧にカップと皿を洗っていった。そしてもう一度写真を見た。止まった時間の中で微笑む妻と息子。
どんな問題でもいい、行くべき道がどうしても見つからなかったら、その時は僕とこの店を思い出してくれ。
洗い物を終え蛇口を止めた時、突然目の前が暗くなった。驚いて顔を上げると、店内の明かりが全て消えていた。
板波は足元に気を配りながら店内を横切り、窓から外を見た。夕刻となった通りではすでに街灯が点灯している。周囲の建物にも変わった様子はない。停電はこの店だけのようだった。前を歩く一人がふと立ち止まり店の中を覗き込んだ。その通行人は突然明かりの消えた店を不思議そうに見ていたが、すぐに目線を戻すと足早に去っていった。
板波は念のため入口に鍵をかけてから、急いで調理場に戻った。スマホの光を頼りに引き出しから鍵と懐中電灯を探し当てると裏口のドアに向かった。
店の裏はすぐ目の前を背の高いブロック塀で仕切られていた。塀と建物の間には大人一人がやっと通れるだけの細い隙間があり、下には砂利が敷かれている。
板波は慎重にドアを開けた。勢いよく開けるとドアが塀にぶつかり傷をつけてしまうからだ。
陽は暮れかかり、店と塀の間はすでに暗くて何も見えない。
板波は懐中電灯のスイッチを入れると、暗い隙間に体を滑りこませた。砂利を踏みしめながら少し進むと、その先にブレーカーボックスがあった。ポケットから鍵を取り出しボックスを開けようとした時だった。
「ん?」
ボックスが半開きの状態になっていた。明かりを当てて顔を近づけてみると、蓋が大きく湾曲し波打っていた。特にグリップの周辺は金属が破れ、捲れあがっている。
板波は破れた扉の淵に指をかけると、恐る恐る手前に引いた。
「なんだこれは」
ボックスの中を見た板波は思わず声を出した。そこには力任せに引き千切られたと思われる基盤やコードが無残に垂れ下がっていた。何者かが意図的にやったことは明らかだ。
板波は身震いした。
と、何者かが砂利を踏む音がした。裏口の方からだ。
板波はボックスの蓋を閉じ、音のした方に懐中電灯を向けた。だがそこには開いたままの扉以外、何も見えなかった。
確かに今、足音がした。誰かがこの裏手にいた。強盗か? 姿がないということは、すでに店の中に入ったということだろうか。とにかくまずは通報しなくては。
急いでポケットに手を入れた板波は小さく舌打ちした。引き出しから懐中電灯を取り出した時、スマホをそのままキッチンに置いてきてしまった。強盗が店内に入ったとすると、スマホを取りに戻るのは危険だ。このまま通りに出て助けを求めたほうが安全かもしれない。
裏口の扉とは反対方向に向かおうとした板波は足を止めた。
それでいいのか。レジの金くらい全部くれてやる。だが店を荒らされるのだけは耐えられない。妻と息子を亡くしてから細々と、しかし大切に守ってきた店だ。この場所を荒らされてたまるものか。修理すればいいという問題ではない。床の傷、壁の染み一つ一つに短かった家族の思い出が刻まれている。そしてこれかも増やしていくのだ。
そう考えていた時、足元に長さ1メートル半ほどの板切れが放置されていることに気づいた。昨年、外壁の塗装を行った際に業者が忘れていったものだろう。それを見た板波は一計を案じた。こいつで裏口のドアをふさいでしまおう。ここは狭い隙間だ。ドアノブの下に板を差し込み、反対側をブロック塀の根元でおさえれば、ちょうど心張り棒のようになり、中からドアは開かなくなる。そうしておいて警察に通報する。正面の入口には鍵をかけてきた。サイレンの音を聞き裏から逃げようとしてもドアは開かない。急いで正面に回っても鍵を開けるのには時間がかかる。となればあっという間に御用だ。
このアイデアに満足した板波は木の板を拾い上げると、足音を忍ばせて裏口に近づいていった。どんなにゆっくり足を運んでも、砂利はその役目を果たすのだと言わんばかりに微かな音を立てた。一歩進んでは耳をそばだて、中の様子を伺った。なんの動きも感じられない。さらに一歩進む。強盗は今頃、入口近くにあるレジを物色しているのかもしれない。
自分のアイデアのおかげで平静を取り戻した板波はさらに前に出た。ブレーカーの壊し方といい、ずさんな進入方法といい、素人の強盗だろう。いや、素人だからこそ危険だとも言える。ここは慎重にならなくてはならい。
板波はドアの前まで来るとそっと中を覗いた。静かだった。しばらくそうしていたが、何かが動いたり声が聞こえたりすることはなかった。顔を引き、開いたままの扉をそっと閉めようとした時、板波は小さな声をあげて目を剝いた。
扉の下から靴の爪先が見えた。
暗い中ではあったが、間違いなく靴の先だ。
誰かがそこにいる。
板波は半歩あとずさった。
その瞬間、扉が激しく板波の顔面を叩いた。鼻の骨が乾いた音をたてて潰れた。板波は尻もちをつくとそのまま仰向けに倒れ、砂利石に後頭部を打ちつけた。痛みと衝撃で気を失いそうになりつつも、かろうじて意識は踏みとどまった。
顎を引き自分を突き飛ばした何者かを見ようとした。わずかな光を背に、黒く塗りつぶされた影がそこに立っていた。その姿の異様さに板波はたじろいだ。見たこともない背の高さ、そして異様な細さ。
長い影がゆらりと動き、砂利が音を立てた。
板波はうつ伏せになると人が行き交う通りを目指して手を伸ばした。叫ぼうとしても声が出てこない。砂利を掻き分けるようにして体をよじり、もがき、這った。
影が片足を振り上げ、板波の腰を踏みつけた。板波の体は大きくのけぞり、口からうめき声が吹き出た。痛みのあまり呼吸が止まり、もがく力すら奪われた。影は動きの止まった板波の背中に馬乗りになると、大きな包丁を振り上げた。板波は地面に爪を立て、力の限り引き寄せた。だが何本かの指から爪が剝がれただけで、目指す場所には少しも近づけなかった。
包丁が肩甲骨の間に振り下ろされた。刃は根元まで一気に吸い込まれた。それから二回、三回と、包丁は機械のように反復運動を繰り返した。巨大な刃によって破られた肺は小さく萎み、板波の声は奪われた。内臓から溢れ出た血が食道をかけ上がり口から流れ出た。
全身の力が溶けるように消えて行く頃、男は板波の髪を掴んで頭を引き寄せた。顔が後ろに倒され、首が弓なりに反り返った。その無防備に晒された顎の下に刃が当てられた。
***
派出所を出てからしばらくあてもなく歩いた。
警察は何もしてくれないだろう。最初から予想はしていたが、一抹の期待もどこかにあった。今はただ出口の見えないトンネルの前に立っているようだった。
警官が怒りださなかっただけましか。
颯真は歩道の手すりに腰を掛け、疲れ切ったようにスマホを見つめた。
またパーセンテージが減っている。向こうの亜月に延びる細い蜘蛛の糸。
もちろん電源を切っておくことも考えた。だが次にまた起動できるという確信がもてなかった。充電されることを拒み、この世界での意味を終えようとしている存在であるなら、二度と再起動なんてできない気がした。画面の明るさを抑えるなど思いつく対策はした。だがそれは僅かな延命措置に過ぎず、やがて必ずバッテリーは切れる。その瞬間に蜘蛛の糸が切れる。
悪いことなど何もしていない、それなのにどうして糸を切られてしまうのか。
颯真は遠く空を見上げた。西の空にはまだ日の名残りがあった。
二つに裂けた世界。そのどちらにも自分がいる。どちらに生きる自分も、亜月を想う気持ちに変わりはないだろう。あの日から育み続けた想いは。
あれは桜が咲いた後の肌寒い日だった。
一年かけて決心した俺の頭の中は、朝から告白の台詞でいっぱいだった。授業の内容などこれっぽっちも入ってこない。一日中落ち着きなくペンを回し、足を揺さぶり、シミュレーションを繰り返した。やがて最後の授業が終わると、トイレに籠って何度も鏡をチェックした。どれだけ眺めたところで顔の形は変わらないのだが、髪の毛一本のほつれがどうしても気に入らなかった。
その日は水曜日で亜月は図書委員の仕事があった。放課後に図書室へ行き、本棚の整理や清掃、貸し出しカードの確認を行う。図書委員の仕事は今から二時間。そのくらいの下調べはとうに出来ている。その時刻になれば校舎の中に残っている者は多くない。
トイレを出た俺は、万が一にもクラスメートに出くわさないよう校舎を出た。そして校庭の隅に腰を下ろし、運動部の練習をぼんやりと眺めた。緊張のせいで、寒さも空腹も感じなかった。
時間が経つにつれ、校庭を走る影がだんだんと長くなっていった。この一年の間に交わした会話など数えるほどだ。もともと話が得意な方ではないし、聞き上手というわけでもない。イケメンと言ってくれたのは生涯で母親だけだ。
そして風景が赤と黒で染められた頃、西日を背にした生徒たちは幻想的な影絵となった。
やけに大きなチャイムが鳴り響いて我に返った。
それは夕闇の中でぼんやりしていた頭を醒ましただけではなく、好きな女に告白することの重大さを思い出させた。
そんな俺があいつに告白する?
俺は怖気付いた。
振られたらこの先つらいぞ。卒業まであと一年あるんだぞ。お前はその空気に耐えられるのか? それに本格的な受験勉強を前に彼女を混乱させたら悪いだろう。入念に準備した告白の台詞にかわり、頭の中は言い訳でいっぱいになった。
ひたすら図書委員が終わるのを待ち続けた挙げ句、結局俺は勇気を出すことができなかった。時計を見ると、図書委員のほうはとっくに終わっている時刻だった。やがてこのまま帰ろうと決めた俺は力なく立ち上がり、腰に付いた芝生を払った。だがそこでカバンを教室に置いたままであることを思い出した。何に浮かれていたのかと、ほとほと情けなくなった。俺は溜息をつき、仕方なく重い足で校舎へ戻った。
一年間思い続けた相手に告白することを諦めた。今日何もできなかった俺は、この先もきっと何もできないだろう。消えてしまいたいほど恥ずかしくて、もう二度とこの想いに向き合うことはしないと心に誓った。何年かけてでも忘れよう。それがお互いのためが。
階段を上がり廊下を引きずるように歩いた。死んでしまいたいとさえ思った。
そして教室のドアを開けたとき、そこにいるお前を見たんだ。
誰もいない夕焼色の教室で、お前は一人で座っていた。
その時の俺の気持ちなんて、きっと分からないだろう。
振り向いたお前は「まだいたんだ?」と笑った。俺はかろうじて「うん」と答えた。
「カバンを忘れたまま帰ったのかと思って心配したよ」お前はそう言って机の上に放っておかれたままのカバンを指さした。
図書委員の報告書を書いていると言うお前を見て、俺は心を決めた。
イチかバチかだっていい。運命なんて言葉は照れくさくて言えないけど、導かれるようにして二人の時間は交差した。あの夕焼けの教室で起きた偶然は、お前のこと以外なんてどうでもいいと俺に思わせた。多分、初めて好きになった瞬間からずっとそうだったんだ。そして告白した。練り上げた台詞なんてどこかに吹き飛んでしまい、ただ自分の心のまま懸命に伝えた。
それから一緒に帰った。帰り道に何を話したのかあまり記憶がない。覚えているのは首の回りがやけに熱かったこと、そんな自分を笑うかのように空には蒼い三日月が光っていたこと。あの三日月は今も瞼に残っている。
あのときの気持ちは今だって少しも変わらない。
そんなこと、お前は知らないだろうけど。
5.亜月の糸
ケーブルもコンセントも正常なのに充電ができない。
亜月はスマホを固く握った。
このバッテリーが切れたとき、向こうの世界へと続く橋もまた消えてしまうのだ。
昨晩――ここでは今夜――の記憶以外、元の世界と何も変わらない。おとぎの国でもないし、どこか知らない星でもない。ここは確かに私が生きていた世界で、私は私のままでここにいる。この世界にいる颯真だって同じ。たった一晩の記憶を共有できないだけで、何も変わりはしない。どちらも私の大好きな颯真。そしていつも私を大事にしてくれる颯真。
あの日、あの教室で、颯真は私に告白してくれた。
すごくびっくりした。思いがけない展開だった。まさかと思いながら私はどうしていいか分からなくなり、颯真と同じようにしばらく固まってしまった。窓から差し込む夕焼けに颯真の顔が照らされた。顔も体も固くなっているのが分かった。きっと勇気を振り絞ったに違いないと後になって思った。
しばらく私たちは黙ったままだった。と言ってもどのくらいの時間そうしていたのか分からない。ほんの数秒だったような気もするけれど、もっと長かったかもしれない。他人が見たらさぞかし不思議な光景だったに違いない。
自分の耳が真っ赤になるのがわかった。そして私は照れながら頷いた。そんな私を見た颯真の顔は可愛いを通り越して可笑しかった。その後またカバンを持たずに帰ろうとするから、私はお腹を抱えて笑った。颯真も笑った。私たちは誰もいない教室で声を出して笑い合った。
それから私たちは初めて二人で帰った。妙な距離感で肩を並べ、一緒にバス停まで歩いた。バスの中ではお互い何も喋らなかった。乗客もみんな黙っていた。席が空いてもなぜか二人は立ったままだった。ただじっとバスのエンジン音と自分の鼓動だけを聞いていた。
やがて私は「じゃあね」って小さく言って先にバスを降りた。振り返ると、彼は恥ずかしそうに手を振っていた。私も手を振り返した。颯真を乗せたバスが発車した後も、私はそのテールランプが見えなくなるまでずっと手を振り続けた。
その夜さっそくお母さんにバレた。
夕飯を終えて部屋に上がろうとする私に向かって急に「なにかあった?」と訊いてきた。別に、と答えると「彼氏でもできたの?」ってさらりと言った。もちろん私からは何も言ってない。驚いて振り返ると、お母さんは穏やかな目でこっちを見ていた。なに言っているの、と吐き捨ててそのまま二階に上がったが、見透かされてしまった恥ずかしさで思わず枕に顔を埋めた。
すぐにノックの音がしてお母さんが部屋に入ってきた。お母さんはベッドに腰をかけて私の背中をやさしく撫でた。
「どんな人なの?」
「だからなに言ってるの」と枕に向かって言ったけど、心の奥では話したい気持ちで一杯だった。だから結局すぐに話してしまった。お母さんは背中を撫でながら黙って聞いてくれた。なんだか心がふわふわして、ぼうっとして、ベットに入った後も一晩中微熱にうなされていたような気がする。明日どんな顔で颯真に会えば良いのか、それを考えると眠れなくなってしまった。
私はいつでも颯真の横にいたい。颯真はあまり自分のことが好きではないみたいだけど、意外と抜けている性格も、空回りする優しさも、ずっと好きのまま。少し細いその背中を見失ったことは一度もない。それは颯真も同じだという自信が私にはある。これからもこうして生きていくのだと思う。ずっとそうして生きていきたいと思う。
亜月は頬杖をついて窓の外を見た。真面目な顔付きで足早に過ぎていく人、楽しそうに腕を絡めた恋人たち、前を走る子供を追いかけていく親。
颯真は『SOH's』に行ったかな。
亜月は板波のことを考えた。
6.颯真の糸
警官の態度に落胆する必要はない。予想通りの結果だっただけ。あれは単にやっておくことの一つにすぎない。
颯真の汗ばむ手を握りしめた。
自分が有利な立場にいないことがわかった今、なんとしてでもあの背の高い殺人鬼、せめて手紙の男の居場所を突き止める必要がある。とはいえ長い男がこれから何をしようとしているのか見当もつかない。だがそれは向こうも同じだ。俺が記憶を持ったままここにいる以上、獲物である四人が前回と同じ行動をとらないのは分かるはずだ。だとすると、あの男は次に何をするだろう? 向こうは俺達のことをいくつも知っているようだが、俺が知っていることは数少ない。どこに糸口があるのか。
颯真は考えた。
二人の男はどうしてカラオケや『SOH’s』のことを知っていたのか――ノックできるドアは今のところそれだけだ。きっと何かを見落としている。それは馬鹿馬鹿しいくらい単純なことなんだ。
歩道を往く人の数が増えてきた。街には沢山の人がいて、絶え間なくすれ違っていく。目を上げればそうした人々の顔が見える。着ている服の色が、靴が分かる。だがあの人たちは誰なのか、どこから来てどこへ行くのか、それを知る由はない。当然だ。赤の他人の行動など分かるはずもない。では、知りもしない人たちの向かう先を知るにはどうすればいい?
颯真はうなだれて自分の足元を見つめた。
それは本人に尋ねでもしない限り分からない。もちろん尋ねたところで教えてくれるわけもない。誰が好き好んで自分の素性を教えたりするものか。自ら進んでプライバシーを曝け出すなんてそんな真似を……
颯真が急に顔を上げた。前を歩く通行人が訝しげな目を向けた。
自分から進んで知ってもらう……自ら人に晒していく……
颯真は背中を突かれたように手すりから腰をあげた。そしてポケットからこっちの世界のスマホを取り出すと、SNSのアプリを立ち上げた。
***
咲世が敦裕のメッセージに気づいたのは、夕方の休憩の時だった。
「なんなのよ、もう」
がっくりと肩を落とす咲世の顔を後輩の女子社員、彩音が心配そうに覗き込んだ。「大丈夫ですか?」
事務室には二人しか残っていなかった。どの社員も土曜はたいてい早めに切り上げる。さっさと家族のもとへ帰宅する者もいれば、連れだって飲みに行く者もいる。会社も土曜はノー残業を推奨していた。
咲世はふくれっ面を隠そうともせず唇を突き出した。
「今夜中止になった」
「ああ、彼氏さんとデートでしたっけ?」
「そう、彼の友達とその彼女も」
「ダブルデートってやつですか」
「まあそんな感じ。もう、久しぶりで楽しみにしてたのに」
「何かあったんですか?」
「それがさあ」咲世はスマホの画面を見ながら首をひねった。「何言っているかよく分からないんだよね、あいつ」
「えっ」彩音は手で口をふさいだ。「よくわからない言い訳をしてデートをキャンセルしてきたんですか? それってヤバくないですか?」
「どういう意味よ」咲世が鋭い目を向けた。
「別な人と……いえ、んな訳ないですよね」彩音はさっと目を逸したが、すぐにまた咲世の顔を見た。「違うんですよ。咲世さん、前に写真を見せてくれたじゃないですか。ツーショットのやつ。あれ見て、彼氏さんカッコいいなって前から思ってたんですよ」
「え、そお?」咲世はまんざらでもなさそうに顔をほころばせた。
「もちろんです! だからモテるんだろうなって。だけどさっきのは冗談です」
「まあ、あいつの場合見た目はいいけど、中身はねえ」
「またそんな。せっかくのカラオケ、行けなくて残念ですね」
「なんでカラオケって知ってるのよ」
彩音は呆れたように眉を八の字にした。「自分で書いてたじゃないですか。ちゃんと読んでますよ、私」
「あらそうなの? なんだ、バレてたか」
「当たり前です。どこのカラオケに行ってるのかだって知ってますよ」
咲世は居心地が悪そうに体を揺すった。「そうだったわね」
「もう少し気をつけて下さいね。あんまり無邪気に公開してると危ないですよ」
「分かったわよ」
「だけど咲世さんのSNS、コントみたいですごく面白いから大好きです」
「だったらフォローしなさいよ」
「了解しました」
彩音は書類の入った封筒を手に取ると、いそいそとその場を後にしようとした。その背中を咲世が呼び止めた。
「そういえば倉庫の検品って終わった?」
彩音は振り向き、封筒を軽く上にあげた。「これ置いたら行ってきます」
「ああ、だったら検品は私がやるから帰っていいよ」
「とんでもない、私がやりますよ」彩音は顔の前で手を振った。
「いいよ。わたくし急遽暇人になりましたので」
「でも……」
「それ置いたら帰りなよ。あんたこそ用事があるんでしょ」咲世は意味ありげににやけた。
「残念ながら女友達ですけど。私、咲世さんみたいにモテないので」
「なんか腹立つわね、あんた」
彩音は舌を出した。
「いいから帰りな。お疲れ様」咲世はそう言って自分のデスクに向き直った。
彩音は申し訳なさそうに礼を言うと、自分の鞄と書類を抱えて部屋を出ていった。
誰もいなくなった事務室に咲世のため息が聞こえた。
***
彩音は隣にある企画部門の部屋に入ると電気をつけた。当然のように誰も残っていない。
書類を責任者のデスクに置くと、その上に「よろしくお願いします」と書いた付箋紙を貼った。今日中にと言われていた書類だが、時間は指定されなかった。
「零時までは『今日』ってことで」
彩音は付箋をポンと叩いた。そして鞄を斜めにかけると電気を消し、部屋を後にした。
実際、咲世の申し出はとても有り難かった。今夜は学生時代の女友達数人と飲みに行く約束をしており、どうしても遅れたくなかった。気のおけない友人と久しぶりに飲むのをずっと楽しみにしていたのだ。
付き合っていた彼氏とは二ヶ月前に別れた。咲世は早速新しい男ができたと思ったようだが、今もってフリーのままだ。それはそれで気楽でいい。彼氏と別れたことは特に隠す気もなく、そんな話題が出れば自分から喋っていた。そのため中にはお節介を焼いてくる人もいる。だが今は自分の時間を自分のためだけに使うのが楽しい。女友達との時間もそうだ。いずれ人恋しくなった頃にまた次の相手を探せばいい。その気になれば彼氏なんていつだってできる。できるに決まっている。
そういえば現在フリーであることはあちこちで喋っているが、それなら自分と付き合ってくれという話は、まだ誰からも聞いていない。手近なところで手を打つ気はないが、どこか納得できない。
彩音はエレベータに乗り一階のボタンを押した。
ここはいくつもの会社が入る雑居ビルだった。各フロアに入居している会社はそれぞれセキュリティを施しており、外部の人間が執務室に入ることができないようにしている。言い換えればビルの中には誰でも入れる。入口の横に警備員室はあるが、特に入館者のチェックをするわけでもなく、どちらかと言うと困った時の相談先といったところだ。
なんとなく全てが古臭いビルだった。
内装は綺麗に塗り直されているが、建物自体はだいぶ年季が入っている。災害時に耐えられるのだろうか。時折そう思うこともあった。年休は気軽に取れるしフレックス制度もある。ワークライフバランスは申し分ない。給料についてはともかく、会社の待遇に特に不満はなかった。だが転職するなら今度はもう少し洒落たオフィスの会社がいい。
エレベータのドアが開いた。普段のこの時間ならホールには煌々と明かりが点いており人の出入りもあるのだが、土曜日は様子が違う。ビルの利用者が少ないため照明は間引かれていて、人の姿は全くない。利用者が少ないと言うより、ビルの中で稼働しているのは自分たちの会社だけだった。
古く薄暗いビルの底には陰鬱な空気が溜まっていたが、彩音にとっては慣れた光景だった。
エントランス向かいエレベータを出たところで、彩音はふと前方に目を止めた。
何かがゆらりと動いた。それが人の姿であることは分かったが、明かりが十分でないため顔は見えない。その影は大きく左右に揺れている。
酔っ払い? 彩音はエレベーターから降りると恐る恐る前に進んだ。いくらなんでも酔っ払いなんか入ってこないよね。
暗がりに同化してしまいそうな影は、どこか不自然な足取りで近づいてきた。やがて間引かれた明かりの下まで来ると、うっすらとその姿が浮かび上がった。彩音は小さく言った。
「警備員さん?」
それが警備員の制服であることに気がついた。警備員は答える代わりに頭を深く前に倒した。それが返事だと思った彩音は安心して近づいた。
「あの、もう一人上に残ってますので」
そう声をかけた時、警備員の頭が今度は勢いよく後ろに倒れた。と同時に、頭に引っ張られた喉の肉が大きく割れ、まるで獲物に襲いかかる獣のように真っ赤な口を開けた。
「え?」
大きく開いたそこから何かが大量に流れ出てきた。
完全に後ろまで倒れた警備員の頭が、肩の裏でぐらりぐらりと不安定に揺れている。
声をなくした彩音の前で警備員はゆっくりと倒れていった。横たわったその体が二度、大きく痙攣した。彩音の形相が変わり、口の中から甲高い金属音のような音がした。激しく歪んだ顔を引きつらせ、耳を塞ぐようにしてその場にへたり込んだ。
動かなくなった警備員の向こうから、別の影があぶり出しのように現れてきた。
彩音が発する金属音が止まった。見開かれた眼球の表面に、長く、大きな影が映った。それは警備員の死体を軽くまたぎ、瞬く間に近づいてきた。彩音は立ち上がり、エレベータに向かって走った。殴るようにしてボタンを押すと、呼ばれるのを待っていた箱は静かに扉を開いた。彩音は半分開いたところで体をねじ込むようにして中に倒れこんだ。勢いあまった彩音の体が壁にぶつかる寸前、斜めがけにしたベルトを強い力で引っ張られた。反動でベルトが首に食い込んだ。グェっ、と声を上げた彩音の体は後ろに巻き取られた。大きな手で鼻と口を塞がれ瞬時に酸欠となった彩音の首を、右から左に包丁が貫通した。
彩音の体がピンと伸び上がり、そのまま止まった。
最後の一瞬、彩音の頭を二ヶ月前に別れた男の顔がよぎった。
***
提案書の修正が終わると咲世はパソコンを閉じ、また深い溜息をついた。
「まったくもう」
あいつは何を考えているんだか。
咲世は天井を仰いだ。
あいつのことだから良からぬことを企んでいるとは思えない。軽そうな男にも見えるが、あれはあれでしっかりしたところがある。というより、私にばれないように悪さをするような真似はあいつにはできない。誠実な男だとは言わないが、要は不器用なのだ。明け方の駅で連絡先を渡された時からそう感じていた。それで何となく興味がわいたので後日連絡した。それから飲みに行ったり歌いに行ったり、何回二人で遊んだだろう。いつの間にか一緒にいるのが当たり前になって、なんとなく付き合っているものだと勝手に思い込んで、今では将来のことまで考え始めるようになった。そんなことを敦裕に言ったら、あいつは引くかしら。そんなことないわね。あいつは私に惚れ込んでるから。まあ、私もそうなんだけど。
考えてみたら、あいつから正式に告白されたことないじゃん。今度言ってやらなくちゃ。目の前に座らせて、改めて告白させよう。
それにしても、何かあったのかしら。
咲世はしばらくぼうっと椅子を揺らしていた。
やがて掛け声と共に椅子から立ち上がると彩音のデスクの上にある伝票を掴んだ。それから事務室の隅にあるキャビネットから倉庫の鍵を取り出すと、キーホルダーの輪に指を入れクルクルと回しながら事務室を出た。
搬入された荷物は地下駐車場の奥にある保管室に運び込まれ、そこで検品を行う。土曜日のように搬入物が少ない場合は、こうして一日分の荷物をまとめて確認することもあった。
咲世はエレベータを呼んだ。ワイヤーを巻き上げる音が微かに聞こえ、一階を示していたランプが動き始めた。咲世は鍵をシャリシャリと鳴らしながら動き出したインジケータを見つめた。他の階に止まることなくエレベーターはリズミカルに近づいてくる。
到着を知らせるチャイムが鳴り、そして扉が開いた。
何の気無しに足を踏み入れた咲世はその足をピタリと止めた。
「なにこれ?」
エレベータの床が赤く濡れている。何かがこぼれ、その上で何かを引きずったような跡がある。少し粘り気のある、赤い何か。
「なんなの? 気持ち悪っ」
咲世は液体を踏まないように籠の隅に立ち、B1のボタンを押した。
地下は駐車場になっていた。入居者専用の駐車場で、停めてあるのは殆どが営業車だった。その地下の奥に保管室がある。エレベータを降りた咲世は薄暗い駐車場を奥へと進み、保管室のドアに鍵を差し込んだ。このビルには複数の会社が入っているが、大きな荷物を扱うのは咲世のいる会社だけだった。そのためこの保管室は事実上独占的に使用しており、管理会社から合鍵も渡されていた。
鍵を回すと鉄扉の内側で金属の跳ね上がる音が響いた。咲世はレバーを下げると体重を乗せ重い扉を押し開けた。
そのとき背後で何かが聞こえた。咲世はレバーを握ったまま振り返った。他の会社は休日であり、ましてこの時間に駐車場を使う人間などいないはずだった。
咲世はしばらく目を凝らしていたが、駐車場には一週間の役目を終えた営業車が並んでいるだけだけで人影は見えない。
何もなさそうだと見ると咲世は扉の隙間に手を差し入れ、すぐ脇にあるスイッチを押した。天井の照明が一斉に点灯し、真っ暗だった保管室を白く照らし出した。中は意外に広く、大小様々な箱がそこら中に積まれている。その様子はさながら子供用の低い迷路といったところだった。ほとんどは咲世の会社のものだが、他にも管理会社が管理している清掃用具や非常用の水、食料も保管されていた。
咲世は中に入り扉を閉めると辺りを見回しながら部屋の中を歩き始めた。荷物は搬入した日ごとにブロック分けされていたが、今日の荷物がどのブロックに積まれているかは、箱に貼られた伝票で確認しないと分からなかった。咲世は伝票を読みながら箱の間を縫うように歩いていたが、やがて足を止めた。
「これか」咲世はその箱の前にしゃがんだ。「ああ、めんどくさい」
発注書のコピーを傍らに置き、首を左右に倒して骨を鳴らした。
「しょうがない、やるか」
咲世が開梱に取り掛かろうとした時、また背後で音がした。咲世は素早く振り向いた。金属を軽く叩くような音だった。周囲で金属製のものはあの扉しかない。咲世はまばたきもせず、食い入るように鉄の扉を見つめた。
外を車が通ったのだろうか。しかし扉を揺らすほどスピードを出すとも思えない。あるいは地上から強い風が吹き込んだのかもしれない。そうだ、そうに違いない。
咲世はダンボールに向き直った。
さっさと終わらせて帰ろう。なんだか今夜は落ち着かない。
咲世はガムテープをはがしダンボールのフラップを開いた。
「今日は少ないからまだマシか」
中に詰め込まれた品物をいったん床の上に並べると、明細を一つ一つ小声で読み上げながら確認を始めた。
また音がした。
咲世は商品を手に持ったまま、もう一度振り向いた。
あの扉が音を立てた。
気のせいに決まっているという心の声を、頭が否定している。確かにあの扉の音だ。
「まさかね」咲世は無理に笑った。
土曜のこんな時間に保管室へやって来る人間などいるわけがない。馬鹿馬鹿しい。やっぱり今日は調子がおかしい。こんなことならあの子を帰すんじゃなかった。
突然、咲世は大きく目を剥いた。作り笑顔は消え、半開きになった唇が震えだした。
「うそ……」
扉のレバーがゆっくりと下がり始めた。
「だ、誰!」咲世はかすれた声を絞りだした。
レバーは下がり続ける。咲世はもう一度大きな声で繰り返した。扉の向こうから返事はない。
扉がわずかに開いた。咲世の頬が小刻みに震えた。
「誰なのよ!」咲世は叫んだ。
隙間からゆっくりと手が入り込んできた。
手は壁を上下にさすりながら次第に長く伸びていく。
咲世の口から呻き声が漏れた。やがて手がスイッチを探り当てた。カチンという乾いた音が保管室に響き、咲世は完全な闇に閉じ込められた。
「ふざけないで!」咲世の声はもはや悲鳴となり保管室にこだました。「やめて!」
重い音を立てて鉄扉が閉まった。咲世は立ち上がりポケットからスマホを出すと、背面のライトを点灯させた。明かりを入口に向け、それから右、次に左を照らした。LEDの光を受けたダンボールたちは巨大な影となって壁に張り付くと、咲世の動きに合わせて激しく部屋中を踊り狂った。
どこかで荷物が倒れた。すぐに明かりを向けるが、光と影のコントラストが強すぎて、そこにあるのがダンボールなのか人なのか分からない。
「冗談はやめて!」
咲世はスマホを振り回しながら、自分を取り囲むように踊る無数の影に向かって叫んだ。心臓が激しく伸縮を繰り返し、保管室の中に飢え乾いた犬のような浅い呼吸音を刻んだ。胸が痛み、意識が遠のいていった。
声がした。あるいはそう思っただけかもしれない。だがきっかけはそれで十分だった。耳の奥で古いフィラメントが切れるような音を聞いた。
もう何も考えられなかった。ぼんやりと浮かんで見える扉に向かって咲世は床を蹴った。
だがその足は床に散らばった書類の上で大きく滑り、咲世は顔から激しく転倒した。投げ出されたスマホが床の上を滑っていく。顔面と腕に激痛が走り、しばらくはうつ伏せのまま動くことができなかった。両肘が折れているのが分かった。起き上がろうとしても肩から先がまるで言うことを聞かない。咲世は額を床につけた。そして両膝を腹の下に引き寄せると、顔に体重をかけながら上体を持ち上げた。体中を痛みが突き抜け、嗚咽のような悲鳴をあげた。どうにか上半身を起こすと、正座の姿勢で両腕をだらりをぶら下げた。鼻の奥から生暖かいものが下りてきた。だがそれを拭うこともできない。
目を上げると、扉の手前にスマホの光が見える。咲世は立ち上がろうとしたが、両腕が使えないためバランスを崩し尻もちをついた。今度倒れたら起き上がる自信がない。咲世は膝で立ち、光に向かって進み始めた。固い床に押しつけられた膝の皿はあっという間にひび割れた。だがそんなもの知ったことではなかった。青白い光が闇夜に道を示す灯台のように見えた。光に誘われるまま咲世は伸びきった両腕を揺らし、割れた膝で這い続けた。ここを出て助けを呼ぶ。そして警察に連絡してもらい、そのあと敦裕に迎えに来てもらう。両腕が折れたから、しばらくご飯は敦裕に食べさせてもらおう。掃除も洗濯もやってもらわなくては。思い切りこき使ってやる。
咲世は目の前にあるスマホを掴もうとした。けれど腕はぴくりとも動かない。
「敦裕――」
そう囁いた時、後ろから恐ろしい力で髪を引っ張られた。唾液の飛沫を吹き上げて咲世の顎があがり、首が反り返った。髪を掴んだ手を振り払おうとしたが、腕は一切の動きを拒否したまま沈黙し、肩が頼りなく揺れるだけだった。
首に冷たいものを感じた。それは面ではなく細い線として皮膚に食い込んだ。その感触に咲世は総毛立った。
いやだ!
最後に発しようとしたその言葉が声になることはなかった。
***
颯真はSNSの画面から自分の閲覧履歴を表示した。素早く指をはじき画面をスクロールさせていくと、やがて以前見た咲世の投稿があらわれた。颯真はそれをタップした。そこから咲世のアカウントに行き、彼女の過去の投稿を順に見ていった。食べたもの、旅先の思い出、テレビドラマの話、時折挟み込まれる時事ネタ。文字だけの投稿もあれば、写真や動画が添えられているものもある。
しばらくして颯真は小さく悪態をついた。あのカラオケでの写真があがっていた。その写真には敦裕と咲世の二人しか写っていない。ただしテーブルの上にあるメニューの表紙に店の名前が読み取れる。
さらに進んでいくと、二人を『SOH’s』に連れて行った時の写真もあった。店名が判別できるのはもちろん、ご丁寧に「友達の行きつけのお店」と添えられてる。写真の隅には、半分見切れているが亜月の姿も確認できる。
手紙の男は敦裕から手に入れた写真をもとに人物の特定を試みた。自分にはよく分からないがフォロワーから探し始めたのか、それとも三人の顔で検索したのだろうか。そうすることでまず、そしておそらく容易に咲世のアカウントを探し当てた。咲世のSNSは彼にとって百科事典のようなものだったろう。この中に散りばめられた取っ手を引けば、知りたいことの詰まった引き出しが開く。亜月が『SOH’s』の常連であること、今夜はカラオケに集まることも全て書き込んである。
あいつらは考えていたよりもずっと俺たちのことを知っている。咲世の投稿を遡れば他にも多くのことが書いてあるだろう。だとすると四人を殺すために次は何をする? 考えろ、よく考えろ。自分ならどうする?
颯真はあちこちに考えを散らしながら、さらに画面を送った。そこで一枚の写真に目を止めた。オフィスの中だろうか、女性が二人並んで写っている。自撮りした写真だ。一人は咲世、その隣には同じような年頃の女性。二人はカメラに向かってVサインをしている。
そこには首から下げた社員証が少しぼやけて写っていた。
***
敦裕は咲世の部屋に向かう電車の中で苛立っていた。何度電話をかけてもメッセージを送っても返事がない。仕事中なのは分かっているが、普通なら簡単な返信がすぐに来るはずだった。咲世はああ見えてマメな性格だ。よっぽど忙しいのか、さもなければ何かあったのか。たいていのことなら心配などしないのだが、こんなに反応がないのは初めてだ。
またスマホの画面を確認した。着信を知らせる通知は表示されていない。敦裕は壁紙に設定している咲世との写真を見た。気取った顔をする自分と大きな口を開けて笑う咲世が頬を寄せ合っている。
咲世とはある居酒屋で偶然知り合った。金曜の夜、男同士で飲んでいたその横に賑やかな女性グループがいた。連れの一人が声をかけると話はすぐに盛り上がり、そのまま一緒に飲み始めた。その女性グループの一人が、というより一番賑やかだったのが咲世だ。一組につき二時間までという店のルールにより咲世たちが立ち上がると、自分たちも示し合わせたように会計を済ませ一緒に店を出た。その流れでカラオケに行き、結局始発まで歌った。
帰り際、駅の改札で咲世を呼び止め、コースターに書いたSNSのIDを一方的に渡した。また一緒にカラオケに行きたいから、その気になったら連絡をしてくれ。万が一、まさかそんなことはないと思うけど、万が一興味がなかったらそれは捨ててくれ。咲世は明るい調子で受け取った。本当ならスマホで直接やりとりすればいいのだが、その場で即拒否されるのが嫌だったのだ。紙で渡せばとりあえず持って帰るだろうし、印象にも残る。
実のところ、こういうことはあまり得意ではない。男同士や仲間内で騒ぐのは好きだが、ナンパとなると話は別だ。隣のグループに声をかけたのも他の友達で、自分は何もしていない。嫌いではないが、得意ではない。
次の週の金曜に連絡が来た。咲世からの最初のメッセージは「今夜時間ある?」そしてマイクのアイコンだった。
話し好きで能天気、咲世といる時間には沈黙というものがない。一緒にいると何かにつけ文句を言ってくるが、そこにはまるで嫌味がない。咲世にとっては文句も愛情表現の一つなのだ。会話のテンポや服の好みはぴったり、食べることが好きで歌うことが好き。趣味の合わない部分でさえ、二人なら楽しい会話に変えることができた。
そろそろ一緒に暮らしてはどうかと考え始めていた。まだ咲世には言っていないが、家賃や光熱費を節約すればもっと二人で楽しめるはずだ。
咲世の顔が目に浮かんだ。きっといつもの調子で「それいいかもね」と指を鳴らすだろう。どう考えても笑った顔以外は浮かんでこない。常に朗らかで騒々しい咲世は、いつも自分の心を浄化してくれる。周りの人もそうに違いない。優しい言葉など口にしなくても人の心に触れてくる。彼女はきっと人間の悪意など別な世界の話だと思っているのかも知れない。誰かが自分を傷つけるなど想像もしてないのだろう。
そんな咲世から返事がない。
それに颯真の言っていたことも気になる。
ファミレスで聞いた颯真の話は、正直に言えば全てを信じることはできなかった。しかし颯真はあんな与太話で人をからかうようなタイプではない。妙に生真面目で堅いところがある。そのことを知っているからこそ半分は信じた。残りの半分は疑っているというより、颯真の真意をはかりかねていた。こいつは俺に何を伝えようとしているのか、そして何を話せないでいるのか。必死に訴えていることは十分に分かったが、具体的な危険が迫っているという実感はなかった。ただ目の前にいる颯真を助けたいと思った。なにかを悩んでいることは分かる。だからとりあえず今夜は中止にしようと決めた。四人で楽しくやる機会はいくらだってある。狂人が自分達を襲撃してくるという謎の予告については、今度ゆっくり話をすればそれでいい。颯真は多少混乱しているようだが問題はない。
スマホを握ったまま窓の外に目をやった。敦裕の中でそのように割り切るのは難しいことではなかった。
颯真がファミレスを飛び出していった時は少々焦ったが、あえて後は追わなかった。颯真と知り合ったのは社会人一年目、いや、一日目と言ったほうが正確だ。社会人としての歴史はお前との歴史でもある。颯真とは今でもそんな話をする。まだ学生気分の抜けきらない時分は平日だろうとなんだろうと颯真を誘い出し、毎晩のように飲み歩いた。まだ残業もなく時間は豊富にあった。やがて別々の部署に配属されると、仕事の場所も時間も合わなくなった。それでも互いに連絡を絶やすことはなかった。
これからも颯真はそこにいる。あいつの横には亜月ちゃんがいて、俺には咲世がいる。そう、俺たちは大丈夫だ。
その点について敦裕は気楽に考えていた。さっきまでは。
敦裕は咲世の部屋で彼女の帰りを待ち、夜は近所の飲み屋で一杯やろうと考えて電車に乗った。しかし咲世からは一向に返事がない。車窓から見える景色は褐色に染まっていった。それは美しくもあり、また町が錆びていくようにも見えた。
「まさかね」敦裕は笑い飛ばそうとしたが、胸の裏側にこびりついた妙な予感を剥ぎ取ることができなかった。
もう一度だけ電話を鳴らしてみた。何回目かのコールで電話がつながった。
「もしもし」電車の中にいる敦裕は口元を覆いながら呼びかけた。「咲世、大丈夫か」
しかし返事はない。
「どこにいる? 会社か」敦裕は唾をのみ込んだ。「咲世?」
唐突に電話が切れた。しばらく考えてからリダイヤルしようとしたところで咲世からショートメッセージが入った。
「地下の駐車場」
なぜSMSで送ってきた?
すぐには理解ができなかったが、とりあえず返信した。
「どこの?」
「会社」
「なにしてんの?」
メッセージはそれきりだった。
通話もメールもできない状況なのだろうか。会議中? いや、駐車場って書いてあるよな。だいたいなぜ俺を呼ぶんだ。怪我でもしたか。一人では動けない状態にあるとか。まさか駐車場で事故に?
会社は咲世の部屋から数駅のところにある。向かっている方角は同じだ。
「二十分で行く」そう打ち込むと敦裕は送信ボタンを押した。
地図を頼りに咲世の会社に着いた敦裕はビルの壁を見上げ、縦に並んだ突出し看板を目で追った。そして上から二つ目に咲世の会社の名前を確認した。その階にだけ明かりが灯っている。他の階は黒く塗りつぶされた窓が並んでいるだけだった。
「土曜だもんな」
あらためて周りを見回してみた。オフィス街は平日の姿がまるで嘘のように暗く、静まり返っていた。ビルというより生気のない巨大なオブジェが並んでいるだけのように見える。まるで世界から忘れられた場所のように思えて、敦裕は薄気味悪さを感じた。
「あいつ、ここで働いてんのか」
正面に自動ドアが見えた。まだ働いている人間もいるというのに、中は妙に暗い。
敦裕は探るような目でビルを眺めながら正面を通り過ぎ、角を曲がった。少し細い通りを回り込んだところで駐車場の入り口を見つけた。部外者は入らないよう警告する看板が目に入った。敦裕は左右に視線を走らせ人がいないことを確認すると、地下へ続くスロープを下りた。
駐車場の照明は頼りなく、端の方まで明かりが届いていない。一つ一つの駐車スペースは小さく、狭い空間にできるだけ数を詰め込んだような駐車場だ。自分がここに車を停める場面を想像して、敦裕は嫌な気分になった。
ポケットのスマホが震えだし、敦裕の体がびくりと動いた。発信者は颯真だった。
「もしもし」
「敦裕、ああよかった」颯真の安堵する声が聞こえた。「聞いてくれ。嫌な予感がする。もしかしたらあいつは――」
「わるい、今だめなんだ。後でかけ直す」
「いや待って、もしかしたらあいつは咲――」
敦裕は電話を切った。そしてさらに地下を進んだ。冷えた車ばかりが並んでいて人の姿は見えない。辺りには湿ったコンクリートの匂いが漂っていた。
一番奥まできたところで敦裕は咲世の名前を呼んだ。
声は軽く余韻を残しただけで、すぐに暗がりの中へ吸い込まれていった。もう一度呼んでみたが同じだった。敦裕はスマホを取り出し、咲世の番号を押した。
どこかで着信音が聞こえる。あれは咲世の着信音だ。
「咲世」敦裕は大きな声で呼んだ。声は何回か壁に反射し、すぐにまた静寂が戻った。
目を閉じてうつむき、神経を耳に集中した。そして顔を上げると素早く横を向いた。
あの扉だ。
重々しい鉄の扉が向こうの奥に見える。
敦裕は扉に走ると、ノックをしながら咲世の名を呼んだ。中から着信音が聞こえてくる。レバーを握り押し下げてみた。鍵は掛かっていない。敦裕は扉を押し込んだ。
とたんに着信音が大きくなった。
少し開いた隙間から中を伺ったが、そこは闇が広がるだけで何も見えない。敦裕は思い切ってドアを大きく開けた。駐車場から入り込む弱々しい明かりの中に、四角い影がいくつも浮かびあがった。
「物置か?」
敦裕は足を踏み入れた。扉を手でおさえながら内側の壁を探すと、すぐにスイッチが見つかった。ボタンを押すと保管室は光に包まれた。眩しさのあまり敦裕は目を細めた。
中を見渡したが人のいる様子はない。
スマホは目の前にあった。床の上でけたたましい音をたてながら光っている。敦裕はそれを拾い上げ、赤い切断マークを押した。
保管室の中は耳鳴りのような静けさに変わった。
背後で扉が音を立てて閉まった。敦裕は肩を跳ね上げて振り返った。
「びっくりしたあ」
それから気を取り直し咲世の名を呼んだ。だがやはり返事はない。敦裕はダンボールの間を抜けて奥へと進んだ。
突然靴底が滑り、足が横に流された。両腕を回してバランスをとり、かろうじて転倒はまぬがれた。足元を見ると赤い液体が床を濡らしている。
「なんだこれ。ペンキじゃないだろうな」
敦裕は足を取られぬよう気をつけながらそっと退いた。靴は底だけでなく側面も赤く染まっていた。
「マジかよ、最悪」
敦裕は靴を床に擦りつけた。そしてぐるりと首を巡らせた。
スマホがある以上、咲世はここにいたはずなのだが姿はない。スマホを床に放り出してどこかへ行ってしまうなんて普通ではない。やはり何かあったのだ。
敦裕は警察へ電話することに決めた。
そのとき一つのダンボールが目に入った。他の箱は縦横規則正しく並んでいるのに対し、その箱だけおかしな方向を向いている。まるでここへ来た者に自分の存在を誇示しているかのようだった。それに箱の下半分が妙に膨らんでいて、出来の悪い酒樽のような形になっている。
もう一度足元を見た。足を滑らせた赤い液体はモップで刷いたように薄く伸び、箱へと続いている。
体の中を大量のアドレナリンが駆け巡り、全身の汗腺が開いた。
よく見れば箱の下から何かが漏れている。
「嘘だよな……」水の中を歩くような重い足取りで箱に近づいた。
手前で足を止め蓋を見下ろした。スニーカーが箱から漏れている液体を踏み、粘る様な水音を立てた。敦裕はもう一度濡れた靴を見てその正体に気づいた。
「そんな……」
ふわりと床の上にへたり込んだ。液体がズボンに染み込んできた。フラップは閉じていたがガムテープは貼られていない。敦裕は虚ろな目で箱を見つめていたが、やがて表情を変えることなく緩慢な動作で両手を箱に乗せた。
まず前後のフラップを開いた。次に左右のフラップを持ち上げた。
箱の中で仰向けに膝を抱えた咲世と目が合った。
「ああああああ」
理性が音を立てて崩壊し、もはや制御することのできない悲鳴が腹の奥からせり上がった。頭には爆発的に狂気が蔓延し悲鳴を産む。悲鳴はさらに狂気を煽り、駆り立てる。
だが、敦裕の喉仏から飛び出した包丁がその叫びを止めた。
敦裕は目を剥き振り返ろうとしたが、包丁は後ろでしっかり押さえられている。身を悶えながら背後に立つ誰かを振り払おうと望みのない努力を繰り返した。瞬時に大量の血液を失い、次第に腕を上げる力も尽き始めた。やがて敦裕は肩を落とし頭を垂れた。何かを語ろうとするように唇だけが静かに動き続けた。血と唾液が混ざり、口角から糸を引いた。
包丁が引き抜かれ、喉の真ん中に大きな裂け目が縦に口をあけた。そこから体内に残る血液が先を競うように流れ出てきた。
敦裕の瞼がわずかに動いた。
大きな刃が首の前に回された。そして縦に開いた裂け目と十字を切るように、喉を横切った。
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