第8話 やっぱり今のクマじゃ、嫌?

「………ちょ、クマさん?」

「んぅ……なに? ユキト」

「何で僕の隣で寝ようとしてるんですか?」

「? 一緒に寝るんじゃないの?」

「いやいや、床にクマの分の布団敷いたよね?」

「あれはベッドから落ちた時、痛くないように敷いてるんだと思ってた」

「僕そんなに寝相悪くないからね! ってか、マジでそう考えてたの?」


 やっぱり、クマとの会話はどこか嚙み合わない。


 ……まぁでも正直、ベッドに入った時から何となくこの展開は読めていた。


 ――どうして、クマがここまで執拗に僕を誘惑してくるのか……いや、多分本人は誘惑しているなんて欠片も思っていないのだろうけれど。


 これは多分、僕のせいだと思う。


 幼い時から、僕はクマを手放さなかった。学校へ行く時も、寝る時も、家族と出かける時も、いつも僕の手の届くところにクマを置いていないと落ち着かなかった。そして、事ある毎に顔に押し当てて肌触りを感じ、においを嗅ぐことが習慣になっていた。

 そんな僕の変態的な癖が災いし、クマは美少女になっても、縫いぐるみだった時と同じ感覚で僕にくっ付くようになったのだろう。その距離感は完全にバグってるし、無防備だし、肌と肌を重ねるスキンシップは会話と同義。キスは軽い挨拶のようなもの――

 そんな風に、クマはとても一般的とは言い難い、かなりズレた思考感覚を僕と過ごす中で身に付けてしまったのだ。


 ……そして、もしそんなクマが人間になったら、一体どうなると思う?


 人間になってもまだそんなズレた感覚を持ち続けていたら、きっと人間性を疑われるだろう。他人なら誰にでも肌を重ねようとする淫乱女だと思われてしまうかもしれない。

 でも、クマをこんな風にしてしまったのは、それまでクマを安全毛布みたいに扱ってきた僕に責任がある。


 だから、僕がクマを正してあげないと。

 そう決意して、僕の体に回してこようとするクマの腕を振りほどいて起き上がり、言葉を切り出した。


「なぁクマ、そうやって僕に抱き付いたりして、離れたくない気持ちは分かるけどさ。こういうの、世間的に見てあんまり良くないっていうか……クマももう人間になっちゃったんだし、人間の常識も少しは覚えた方がいいと思うんだ。……だから――」


 どうしてだろう。自分の中で正しいと思うことを言っているはずなのに、やけに言葉の一言一言が重く感じる。なかなか喉から出て来ない。

 それでもどうにか声に出して言葉を続けて……


「だから、もうあまりこんなことはしないように――」


 そう言いかけ、ふと顔を上げてクマの顔を見た。


「………ユキト。やっぱり今のクマじゃ、嫌?」


 ベッドの上に座ったクマの表情には影が差し、頭にある丸い耳は力無く垂れ、その目線は僕を外れてベッド横の床に落ちていた。


 その表情を見た途端、きゅっと心臓が押さえ付けられたように痛み、胸が詰まった。

 それ以上、言葉が出なくなった。


「この体になった時から、ユキト、ずっとクマのことを避けてばっかりだったから。学校にも連れて行かなかったし、夜も一緒に寝てくれないから、きっと今の姿のクマが好きじゃないのかな? 体大きいばかりで、かえってユキトに迷惑なのかな? って……」

「べ、別にそんな意味で言った訳じゃ……」

「この新しい体のせいで、ユキトがクマのことを嫌いになるくらいなら……」


 俯いたクマの目尻から、一筋の涙が垂れた。


「――ずっと、縫いぐるみのままで居た方が良かった」


 呟く様に静かに吐かれたその言葉は、僕の胸に容赦なく、深く突き刺さった。


(コイツ、僕のことを考えてそこまで思い詰めていたのかよ……)


 僕はとうとう居たたまれなくなり――


「……!? ゆ、ユキト……?」


 気付けば体が動いて、正面からクマを強く抱き締めていた。


「そんなことない! 今の姿も、僕的には全然アリだと思う!」

「………本当に?」


 抱き締めたクマは、腕の中で小さく震えていた。

 きっと、持ち主である僕に嫌われるのが怖かったのだろう。

 クマにとって、自分とずっと一緒に居てくれた主人から嫌われることほど恐ろしいことは無い。縫いぐるみである以上、持ち主に嫌われたら、もう捨てられるしか道はない。クマにとって僕に嫌われることは、すなわち死ぬことと同義なのだ。


 そんなことも知らないで、僕は……


「ごめんクマ……寂しい思いをさせちゃって」


 ギュッと、クマの体を強く抱きしめる。白銀のサラサラとした髪の毛から、懐かしいにおいがした。


「クマは生まれた時から、僕の心の支えになってくれてた生涯の恩人だってのに、そんなお前に酷いこと言っちゃって……本当にごめん! クマの気持ちを考えもしない僕が馬鹿だったよ」


 ――と、今更誤ったところで、クマに与えた傷が癒える訳もない。

 あぁ……僕って、いつもこうやってやらかした後に反省してばっかりだよなぁ。


 何度も同じ過ちを繰り返す自分に呆れて、そんなことを思っていると……


 スッ……


 気付けば、クマの腕が僕の背中に回されていた。

 まるで母親に抱かれているような、包み込まれる感覚。柔らかく、温かく、そして優しい感触が肌に伝わる。


 まるで童心に帰ったような気分の中、耳元で天使クマの囁き声が聞こえた。


「……やっぱりユキトは、こんな姿になってもクマのこと、ちゃんと思ってくれてるんだね。……嬉しい」


 それから、クマは僕の頬にそっと唇を押し当てて、こう続ける。


「クマ、ユキトとこれからもずっと一緒に居る。ユキトと同じ人間になっても、クマはずっとユキトのものだから」


 そう言われて、僕は人間――美少女となったクマとの、運命的な何かを感じた。

 ……いや、これは運命というより、むしろ諦めに似た感覚なのかもしれない。


 きっとクマは、何があろうとも僕を離さない。

 そして、多分僕もクマを離せない。

 僕ら二人は、決して切れない赤い糸で繋がれているということを、改めて分からされた。


「……分かった。僕の負けだよ」


 こりゃもう完敗。僕は反論の余地も無かった。


 僕はクマと顔を見合わせた。これから長い間、僕のパートナーとなるであろう相棒の顔は、気のせいか、少しばかり笑っているように見えた。



「……じゃ、おやすみと、これからもまたよろしくって挨拶のチュー、しよ」

「えっ? いやあの、僕まだちょっと心の準備が――」

「ほら、おいでユキト……」

「うぇ、マジでやるの!? まってまって、ちょ、あ~~~~~~~~っ!?♥」


 その晩、僕は眠れぬ夜を過ごすことになった。

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