第3話 僕の部屋に同居人ができました

「でも、こうやって自分からユキトに抱き付くことができるようになって、嬉しい」


 相変わらず無表情のまま、クマはそう言った。


 よくよく考えれば、クマが縫いぐるみだった頃は体の自由が効かなかった訳だし、人間の体を手に入れたことで本当の自由を手に入れたという意味では、嬉しい出来事なのかもしれない。


 けど、クマが人間になったことでまた色々と新たな問題も出てくる。


 まず衣食住の問題だ。当たり前だけど縫いぐるみはご飯を食べないし、住む場所もいらないし、服はいつも母親の縫い付けていた小さな布マント一枚で事足りていた。

 それが人間の姿になれば、いくらクマであるとはいえ普通にご飯も食べるし、着るものも住む場所も必要になる。


 とりあえず住む場所については、当分の間はこの部屋に居てもらうしか方法は無いし、ご飯を作る材料も二人分買わないといけない。食費がかさむけどそこは仕方がないとして……

 衣服はどうしよう?


「え、服? 服なんて無くても、クマは平気」


 本人はこんなこと言っておりますが、お前は良くても僕が困るのだ。僕の部屋をいつも全裸で歩き回られたら、僕の理性が飛ぶ。


「だって、これまでずっとマント一枚だけだったし、もっと昔は首にリボンとよだれ掛けを付けてるだけだったから」


 なるほど。で、縫いぐるみの時は薄着だったから、人間になってもそれでいけると?

 いやいや、風邪引くし頼むから何か着てくれ。

 てか、裸のクマによだれ掛けだけ付いてるって、よくよく考えるとなんかエロいよな……


 終いには、女体化したクマによだれ掛けしか付けていない破廉恥極まりない姿まで想像してしまい、慌てて毒された妄想を掻き消す。

 ……危ない危ない、もう少しで脳内CPUが焼き切れるところだった。


 でも、女性ものの洋服とか下着とか、男子の僕が買いに行くのは恥ずかしいし、女性のコーデとかスタイルとかよく分からんし、かといってずっと裸にパーカー姿で居させる訳にもいかないし……


 どうしようかとあれこれ迷っていると、クマは僕の肩に手を回したまま、胡座あぐらをかいている膝下にもそもそと腰を下ろしてきた。

 目線を下にやると、パーカーから今にも溢れ出そうな上乳と谷間が見えてしまい、色々とヤバい。


「あの、どうして僕から離れないの?」

「分からない。……ユキトの温もりをもっと近くで感じてたいから、かな? これまでもそうだったみたいに」


 そんなこと言われて、じわじわと染み入るような恥ずかしさを覚えると同時に、縫いぐるみだった頃の姿を思い出し、今膝の上に座ってるのは僕のクマ、僕の持ってたクマなんだと何度も念じるように自分に言い聞かせた。


 でも、かつての縫いぐるみとは見た目や大きさはもちろん、重さも質感も感触も、何もかもが異なっていて。

 人間になったクマと出会ってまだ一時間ほどしか経っていないこともあり、正直彼女が元々あのクマだって未だに信じられない気持ちもある。


 でも……それでも、やっぱり彼女は僕のクマなんだな。と思わせる、縫いぐるみだった頃の名残も残っていた。


 それは、ふわりと漂ってくる彼女のにおい。あと、抱き付かれた時に感じる妙な安心感。

 まるで、大昔からずっとこうやって抱かれていたような、懐かしい感覚。


 気付けば僕は、クマのサラサラした白銀の髪を手に取り、鼻に近付けてすんすんとにおいを嗅いでいた。


 はぁ……こうしてると、何だか凄く気分が落ち着くなぁ……


 などとぼんやり思いながら、ハッと我に帰る。


「ごっ、ごめん!」


 慌ててクマの髪を離した。

 なな、何を考えてるんだ僕は⁉︎ 女の子の髪の毛触ってにおいを嗅ぐとか、これもう完全に変質者確定じゃないか!


 自分のしたことが紛れもないセクハラ行為であることに後から気付き、後悔の念が怒涛の波となって押し寄せてくる。

 ……あぁ、僕はなんてことをしてしまったんだ。神様お許しください、やましい気持ちなど決して無かったんです! 本当です!


 心の中で必死に神様へ慈悲を乞うていると……


「どうして謝るの? もっと触っていいのに」


 クマが自分の髪を手に取って、僕の顔元にファサ、と被せてきた。

 途端に鼻腔いっぱいに広がる、クマのにおい。


「ちょちょ、やめてよ!」


 思わず振り払おうとした時、上げた手がベッド横にあった目覚まし時計を弾き落としてしまう。

 床に転がった時計の文字盤が目に入り、僕は「あ」と思わず声を上げた。


「やっば! 学校遅刻する! 早く着替えなきゃ!」


 気付けば、朝のホームルームまであと三十分しかなかった。人間になったクマと一悶着していて、すっかり登校時間のことを忘れてしまっていた。

 学校までは十五分もあれば着くと思うけど、まだパジャマ姿のままだし、今日の授業の準備もできていない。今から用意してギリギリ間に合うかどうか……


「ユキト、学校行くの?」

「そう! いつも校門に立ってる生徒指導の先生が厳しくってさ。ホームルームの始まる五分前には門を閉めちゃうんだ」


 慌ててタンスの中から制服のシャツとズボンを引っ張り出して着替えを始める姿を、隣でぼーっとクマが眺めている。


「なら、クマも連れて行って」

「はい?」

「昨日まで、学校行く時はいつもクマも一緒に連れて行ってくれてたから」

「そ、それも縫いぐるみだった時の話だろ。あの時は小さかったから上手く鞄に収まってたけど、人間の体になったお前をどうやって学校に連れて行けばいいんだよ? 下手したら不審者扱いされるぞ」

「大人しくしてるから、お願い」

「ダメ! この部屋で大人しくしててくれ」


 少し言い方がキツかったかもしれないけど、こうでも言わなきゃ、僕が居ない間に何をするか分からない。

 それに、パーカー一枚のその格好で外に出られても困る。

 駄目だと押し切られ、クマは少しムッとしたような顔をしていたが、ようやく諦めたのか、少ししてからこう答えた。


「……分かった。ユキトがそう言うなら、ここでずっと待ってる」

「よし、いい子だ」


 まるで主人に懐いてくるペットをしつけているみたいだ。

 妙な気分を抱きながらも、僕は鞄に教科書やらノートやらを詰め込んでバタバタ玄関に向かう。


「ねぇ、ユキト」

「何? 急いでるから早く!」


 靴を履いて部屋を出ようと扉を開けた時、クマが僕を呼び止めた。


「……行ってきますのチューは?」

「行ってきます!」


 バタン!


 口元に指を当てて誘ってくるクマの言葉は聞かなかったことにして、僕は乱暴に扉を閉めてアパートを飛び出していった。

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