天使のハンカチ
涼
退屈と葛藤と救済
「誰か連れ出してくれないかな……?」
僕は、ぼーっと遠い目をしながら、放課後の教室の窓に吐き出した。
僕は飽き飽きしていた。この平凡で、退屈な毎日にも、何かを欲しながら、自分からは何もしない自分自身にも。
『優秀であれ』『立派であれ』『誠実であれ』
と、僕は父に幼い頃から耳にタコが出来る程言われ続けていた。けれど、高校に入って、成績は下の中。誇れるものなど何一つない。自分自身に、飽き飽きしているのに、毎日笑顔で友達と楽しく過ごしているように振舞っている。父親の三原則を守れたことなど一度も……一瞬たりとも、この人生であった事はない。それを分かっていてなのか、いないのか、父親は、僕に期待をし続けている。
『下等な人間ほど、重圧に強い』
……なんてことは無いんだ。僕だって、幼い頃、『優秀であろう』『立派になろう』『誠実でいよう』そう思って、大きくなってゆくものだと思っていた。しかし、今の僕ときたらどうだろう? いくら勉強しても、数式も、過去分詞も、訓点も、㏖濃度も、何一つ頭に蓄えられてゆく事はない。かといって、凄いリーダーシップを取れるような勇敢な男でもないし、友達とのカラオケを優先させるため、部活は風邪気味だから……などと、平気で嘘をつく最低な人間だ。
何が『優秀』だ。何が『立派』だ。何が『誠実』だ……。
僕だけは、その三つの言葉を使う権利は一切ない。
そんな日々に、僕は疲れ切っていた。笑うのもしんどくなるくらいに。……なのに。なのに、どうしてだろう。瞳からはボロボロボロボロ途切れることなく涙が溢れて来た。
「何やってんだ……」
「なんでこうなったんだ……」
「どうしろって言うんだ……」
僕は、誰に尋ねるでもない疑問を口から零していた。
気が付くと、僕は、四階の教室のベランダの手すりに、足を掛けようとしていた。
すると――……。
「人間は飛べないよ」
誰もいなかったはずの教室から、女子の声が僕の背中を引っ張った。僕は慌てて下を見て、目がくらんだ。そして、思わず、ベランダの床に座り込んだ。
「馬鹿だなぁ。
そこに居たのは、同じクラスの、
「私が連れ出してあげようか」
篠崎が言った。僕はその時初めて、最初から篠崎に僕の呟きを聴かれていた事を知った。
「……連れ出すって……どこにだよ……。海とか言ったらぶっ飛ばす……」
「じゃあ、海」
「!」
「ふふっ。嘘だよ。琳太朗くん、少し疲れちゃったんだね。きっと、琳太朗くんは、琳太朗君が思うよりずっと優秀で、立派で、誠実なんだよ。だから、そんなに疲れちゃったんだよ」
僕は、またまた初めて、三原則まで口に出していた事に気が付いた。
そんな事は、もうどうでもよかった。只、篠崎の言葉に、止まらない涙をどうしたら良いのか分からず、下を向いた。『そんな事気にしない』と言わんばかりに、篠崎は僕の顔をハンカチでこすり続けた。
「し……しの……篠崎……俺……鼻水出てる……。汚いから……」
「綺麗だよ。頑張ってる人の涙と鼻水……ついでに、汗も、綺麗って決まってるの」
「……なんだよ……それ……篠崎って変な奴だな……」
僕はつい、笑ってしまった。
「琳太朗くん、祈でいいよ。祈って呼んで」
篠崎……いや、祈はそう言って笑った。その時、僕は、自分の目を疑った。祈りの後ろに、羽根が見えた気がしたからだ。
「……祈って……天使……?」
僕はつい、あり得ないと、見間違いだと、そんなはずないと分かっていながら、つい、そんな言葉が口をまたいだ。そう言った僕を、祈は、僕を……自分より一回りも大きい僕の体を抱き締めてくれたんだ。
そこからはもう駄目だった。止まらなかった。吐き出すのを止められなかった。
「祈……僕は駄目なんだ……。父さんの言うような優秀でも、立派でも、誠実にもなれない……。僕はもう……消えてなくなりたい……」
「……」
「消えたいんだ!!!」
僕はとうとう、ハンカチどころか、祈の制服まで汚して、泣きじゃくった。どれくらいぶりだろう?泣いたのなんて……。泣き叫んだのなんて……。幼い頃、ラジコンがほしくて、デパートで泣き喚いて以来じゃないだろうか?
……トン……トン……。
僕の背中を、祈は優しく落ち着かせるように、祈の静かで、温かな、心臓のリズムと合わせて、撫でてくれた。それ以外、何をするでもなく、何を言うでもなく……。
只々、泣き叫ぶ僕に、胸を貸してくれた。
何十分そうしていただろう。空はもう真っ暗だ。僕はようやく、泣き止む事が出来た。ゆっくり顔を上げると、僕は、また、自分の目を疑った。
祈の姿は、消えてなくなっていた。それと同時に、僕の心にあった鉛のような塊も消えていたんだ。
『消えたい』と言う想いが消えていたんだ。
「…………」
僕は……、誰と話していたんだろう? 誰の胸で泣いていたんだろう? これは誰のハンカチだろう?
僕の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったハンカチだけが、そこに残されていた。
篠崎祈。
そんなクラスメイトは存在しない――……。
天使のハンカチ 涼 @m-amiya
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