10.Happily ever after?

 光一つ入らない一室で、三人の男が巨大な液晶画面を前にバカでかいソファーに一定の距離を置いて座っていた。背後の分厚いカーテンを押し開ければ、曇り一つ無いガラスから大都会のビル群と真っ青な空が見える筈だが、彼らの関心は目の前の画面一つだ。一人は、高級スーツに身を包んだ金髪碧眼の壮年の欧米人。もう一人も欧米人だが、ラフな黒の上下に身を包み、髪や髭は薄く、細いフレームの眼鏡を掛けている。最後の一人は黒髪の日本人だが、他の二人に劣らぬ高身長と長い手足をし、ジーンズに黒いセーターというくつろいだ格好だった。

彼らが見つめる画面には、薄暗く広大な工場地が広がり、バカでかい銃撃音が響き渡っている。工場の其処ここから続々と現れてくるのは人型をした異形の化け物だ。

ゲームによく見るゾンビのようにも見えるが、従来の鈍間なそれとは異なり、動きは素早い。後から後から湧いて出てくるそれを、黒服のコンバットスーツを着た男たちが、アサルトライフルや拳銃、ナイフを武器に次々と屠っていく。

〈トオル、左から回れ〉

吹き飛ぶ血潮や激しい轟音鳴りやまぬ画面から、機械のように冷静な指示が響いた。

はーい、と呑気な声が応答し、一人の男が目にも止まらぬ早業で化け物の間を通り抜ける。瞬く間に道が通り、上部から殺到する化け物は確実な狙撃が撃ち落とす。

〈アマデウス、トオルの前を片付けろ〉

「君に言われなくてもやるさ」

鼻を鳴らすように応じた声の直後、ひときわバカでかい三頭が正確な射撃で沈黙する。倒れた先にどっしり構えていたそれの首がたちまち飛び、目的の場が空く。

〈アルフレッド、隙間に仕掛けろ〉

無言で空間に飛び込んだコンバットスーツが数秒屈みこみ、素早く退いた瞬間、画面を壮絶な光と炎が覆った。画面の外まで響くのではと思われる爆音に、彼らの前に置かれた横長のコーヒーテーブルの上で、世界的な炭酸飲料の瓶とミネラルウォーターのボトルが揺れた。周囲にはポップコーン、ナチョス、チップスにナッツが並び――否、半ば以上減り、無造作に散らばっている。

画面に出たwinの文字に、三人がそれぞれにハイタッチを交わした。

彼らが握りしめていたのは、銃器でもナイフでも爆弾でもない。揃いの黒いコントローラーだ。

〈Congratulations. 新記録だ。なかなかやるじゃねえか、It boys.〉

居合わせたのは三人に対して言うのは、切り替わった画面の中でにやついた顔を浮かべる男だ。ラグビー選手のような体格の欧米人は、筋肉で盛り上がったように見えるシャツを纏い、ストローイエローの髪と髭をしている。

「君は一体いつの生まれなんだね、スターゲイジー」

古びたスラングを吐いた画面の男に笑い掛けたのは金髪碧眼の男だ。コントローラーを置くと、椅子に寄りかかって足を組む。

スターゲイジーと呼ばれた男は、口元に蓄えた髭を野太い指で撫でた。

〈お前と変わらん筈だがな、アマデウス〉

「ジョークにしておいてあげよう。西側が概ね大人しいのは君の手腕だろうから」

〈お前に褒められるのは気色が悪い。ブタが飛ぶな〉

すかさず投げ返してくる返事に軽く肩を上下させると、アマデウスは隣に座っている眼鏡の男を振り返った。

「アルフレッド、どうだった? このバイソン紳士とのゲームは?」

何やら画面越しにがなり立てる男を眺めながら、細いフレームの眼鏡を掛け直した男は、サイボーグか何かと思うようなひどく硬質の笑みを浮かべた。

「面白いですね。良いデータが取れました」

〈ほれみろ、アマデウス。専門家が言うんだ、俺はお前より上手い〉

「誰も君が上手いとは言っていないと思うがねえ。なあ、トオル?」

「僕に振らないで下さいよ。ゲームぐらい仲良くやって下さい」

人の良さそうな笑顔を浮かべた日本人はコントローラーを置いて、瓶を呷った。

〈トオル、日本の裏は片付いたのか?〉

自分もクリスプをボリボリやりながら尋ねる画面の男に、トオル――十条とおるはキャラメルポップコーンを摘まんで頷いた。

「スターゲイジー、聞かなくてもご存じでしょ?」

〈まあな。俺のスタッフは優秀だからな〉

イイから言えよという顔に、苦笑した男はリスのようにもぐもぐやってから口を開いた。

ひじりグループの株式や施設の所有権は掌握できました。高額物件はアマデウスさんとアルフレッドに押さえて貰いましたし、一部は小牧に譲ったので、一応、これで一段落です」

〈ようやく日本を押さえたか。俺は歓迎するぜ、クレイジー・ボーイ〉

こちらはどう見てもペールエールの瓶を掲げて笑う男に、十は「ありがとう」と炭酸飲料をひょいと持ち上げた。画面越しに乾杯する両者を、アマデウスが呆れ半分の笑顔で見、アルフレッドは口元を押さえて笑みを浮かべている。

「それで、スターゲイジー……そろそろ、ゲーム大会の目的を喋ったらどうだね?」

アマデウスの言葉に、髭の紳士は瓶を豪快に呷ってから答えた。

〈クリス・ロットの遺体、出たぜ。……おっと、『元の』な〉

「出ましたか。感謝します、スターゲイジー」

礼儀正しく会釈した『今の』クリス――アルフレッドだが、無論、これは死者をおもんばかってのことではない。画面の紳士も、気のない様子で首を振った。

〈感謝には及ばねえ。俺のスタッフはイカれてるんでね、墓――じゃあねえな、埋めて隠してあったもんを暴くとこまで調べてきた。だいぶ爺さんだったが、微量の毒物が出たぜ。予想通りの他殺体だ〉

「神をも恐れぬ行動力に敬意を表しよう。おかげで我々は備えができる。その勇気有るスタッフは、君のところのベテランかい?」

賛辞を贈るアマデウスに、スターゲイジーは胡散臭そうに眉を歪めつつ唇は笑った。

〈ラッセルはもういい歳だ、穴堀りなんざやらねえよ。イカれてんのは、前に拾った若造さ。全く、ひと頃のジジイ共は育て方がなってねえ〉

首を振ったスターゲイジーは、髪を弄りながら決まり悪そうに目を逸らした。

〈想像がつくだろうが、クリスの武器庫の中身は行方不明のままだ。……俺はこれ以上の調査は無駄だと思うが、お前らはどうだ?〉

アマデウスはすぐに目を閉じて頷き、アルフレッドは溜息混じりに眼鏡を直し、十は肘掛けに頬杖ついて微笑んだ。

「ブレンド社なら、とは思いますが無駄でしょうねえ……僕なら、さっさと分けて隠すか、交換しちゃいます」

〈俺もだよ、トオル。いくらクリスが耄碌もうろくしていようが、TOP13をアッサリ殺して武器庫をすっからかんにする……そんな芸当をやる奴が、もたくさしてる筈がねえ〉

「そうですね」

無機質に同意したのはアルフレッドだ。細いシルバーフレームの眼鏡の奥で、殆ど光らない目が微かに持ち上がる。

「フラムのリークが嘘だとしても、クリスの身内で彼を殺れるほどの殺し屋は、エタンセル、ドルフ、フラムの三名しか確認されていません」

いくらシークレット・クリスといえど、頭数の多さと質は比例しないということだ。

爆弾の精度が抜群なら、仕掛ける人間は“ある程度”のレベルで良い。何なら、定刻にスイッチを押せる知能があればサルでも構うまい。だからこそ大勢の偽物を抱えられたし、安易に捕まった場合も惜しくはない。

「強いて言えば、この三名はクリスにそれぞれ恩が有りましたがね」

今回、リークしてきたフラムは、クリスの死を最初に察知した人間だ。彼はドルフと幼なじみだったらしく、相棒をよく知るが故に説得を諦め、アマデウスを頼った。

確かに、ドルフがクリスに傾倒していたなら、ボスの他殺体には納得できず、他のTOP13や殺し屋を疑って、誰彼構わず喧嘩を売るとも限らない。エタンセルに至っては、クリスが一種のブレーキだったというから、クリス自身もまた、自分に自信を持ち続けた人物だったようだが――自然に枷が外れた場合の危険を考慮し、日本に誘い出す措置をとった。

「そういえば、フラムはスターゲイジーが雇うんでしたっけ?」

呑気な調子の十の言葉に、画面の男は顎髭を撫でて頷いた。

〈おう。ドルフも回復次第、ウチで貰うぜ。ハルが例のしょうもねえオモチャを取り上げたそうだからな。どっちも別の部署に置くが、バレたら殴り合いでもしてもらうさ。これは俺の英国紳士的な対応というやつだ〉

「スターゲイジーの海賊行為はいいとして、クリスの死は内部犯ではないのかね?」

再び喚く画面をそのままに、アマデウスの言葉に頷いたのはアルフレッドだ。

「『クリスの身内ではない内部犯』は居たかもしれませんが」

煮えきらぬ口調で呟くと、現在のクリスは再び神経質そうにフレームを弄る。

「徐々に毒を盛るなら、一般人に金を掴ませてもやれます。盛った本人もそれと知らずに、薬として飲ませることも可能。或いはクリス本人が薬と信じて飲んだか……」

「確かにねえ……歴史上には、長期間少しずつ飲ませて殺した事例もある。我々も気を付けたいものだ」

〈お前やトオルは、毒より砂糖中毒で死にそうだけどな〉

髭を撫でつけてニヤニヤ笑っているスターゲイジーに、アマデウスは不敵に笑い、

十はにこにこしたまま新たな糖分を喉に流す。

〈さて、俺は仇討ちなんぞやらんが、売られた喧嘩は買う方だ。武器の行方は知らんが、殺った奴の調査は続ける。お前らのとこにも顔出したら宜しくな〉

「日本でお墓を暴くのはやめて下さいよ」

満更ジョークでも無さそうな十の言葉に、画面の男は声を立てて笑った。

〈俺からは以上だ。お前らは何かあるか〉

問い掛けに、軽く片手を振ったのはアルフレッドだ。

「何も。先程も申し上げましたが、スターゲイジーのお陰でスムーズな世代交代ができました。日本の協力含め、感謝します」

〈いいってことよ。ところで、あんたは何人目のクリス・ロットだったか〉

「明言は避けましょう。同時期に数名居ることもありますので」

〈フフン、言い方は大事だな〉

本当にバイソンの一種のように鼻息も荒く笑い飛ばし、スターゲイジーの目は、端でにこにこしている十に向いた。

〈トオル、お前は?〉

「んー……イギリスの人って、カツが乗ってないカレーも『カツカレー』って呼ぶって、ホントですか?」

呑気に出た場違いな質問に、画面の男は目を上部にぐるりと回し、アマデウスとアルフレッドが肩を揺らして笑った。

〈腹でも空いたか、クレイジー・ボーイ〉

「いやあ……最近、甥っ子のカレーが恋しくって」

〈お前らしいね。甥っ子とやらは、俺の愛しのハルと仲良くやってるって聞いたが〉

「そりゃあもう。そういえば、スターゲイジーはハルちゃんのファンでしたっけ」

今、思い付いたような十に、アマデウスがひょいひょいと片手を振った。

「トオル、こいつはハルのストーカーだよ。名前に『ゲイ』って入ってるだろう」

〈しつこいぞ、アマデウス。そのゲイじゃねえ……第一、ゲイを差別するんじゃねえよ。俺の国じゃ、法が認める純愛なんだからな〉

「おお……そのツラで言われると寒気がするね。ハルには尻に注意する様、きつく言っておこう」

そのアドバイスだけで発砲事件が起きそうだが、現在の上司はおっとり笑った。

「お二人は相変わらず仲良しですね」

「嫌だなあ、トオル……私に不気味なパイの名を持つ友人は居ないよ」

〈臓物砂糖漬けのアメリカ野郎は黙っていやがれ〉

口を開けば子供の喧嘩が勃発する二人に、居合わせたもう二人は笑った。

「では、お開きにするかね。そろそろ私は約束の時間だ」

「私もです」

「あ、僕が片付けますから、お二人はお先にどうぞ」

時計を確認する二人の欧米人に、十がヘラヘラと笑った。「それは悪いよ」などと言いながら、アマデウスが扉の向こうに控えているジョンを呼ぼうとするが、先にスターゲイジーが片手を上げた。

〈いや、ちょうどいい、トオルは残れ。話がある〉

「はい?」

〈そういうわけだ、お前らはとっとと解散しろ〉

「そうかい? トオル、君も尻には気を付けるんだよ」

その場に居たらパンチが出そうなスターゲイジーに片手を振り、アマデウスは出て行った。続けて、アルフレッドも軽く会釈して去っていく。彼らに陽気に手を振り、十は画面の中でむっつりしている紳士を仰いだ。

「何ですか、スターゲイジー?」

腕組みして座った紳士の様子は、先程とは違っている。にやけ笑いを引っ込めた男は、思案顔でストローイエローの髭を撫でた。

〈ハルのことだ〉

「スターゲイジー、気持ちはわかりますけど個人情報はちょっと」

〈お前まで下らねえジョークを言うな。俺は知りたけりゃ、ハルのスリーサイズまで自分で調べられる〉

微かに緊張が解けた顔で笑うと、大柄な紳士は軽い溜息をこぼした。

〈……お前、ハルの出自は“自分でも”調べただろ?〉

「ええ、もちろんです」

〈そんなら教えてやろう。GreatグレイトSmithスミスは生きているかもしれん〉

十は返事をしなかった。ただ、画面を見つめる目が微かに細められた。

〈アマデウスのガキどもの捜索中、俺の部下がリビア付近で噂を聞いた。あくまで、噂程度だ。あの爺さんを見たわけじゃねえ〉

「リビアですか……ハルちゃんには聞かせられない国ですね」

〈ああ。あいつにとっちゃ、トラウマの国だ。やっこさんはハルを知ってるのかも怪しいからな……偶然かもしれんが、この国の位置からしてキナ臭え。無論、他国にも噂は有る。例の元・海兵隊の裏に爺さんが居るかは五分五分ってとこだな〉

「ハルちゃんの同期かもしれないってことですか」

〈わからん。軍に働きかけられる悪党は居ても、軍を動かせる悪党はそれほど多くない。お前も知っての通り、TOP13は国家間戦争には加担しねえ。俺らの中に元・軍人は居ても、現役は居ない。退役軍人を集めてパーティーしようなんて奴は居るわけねえな〉

十は炭酸飲料片手に頷いた。アマデウスやスターゲイジーが日本人の自身と親しくするのは日本に軍や核兵器が無い為でもある。国際法上、自衛隊は軍隊として扱われるが、その任務はあくまで国の安全を保つための防衛だ。自衛官に清掃員は存在するが、言うまでもなく彼らが隊を私的に動かすことはできない。

行方不明のハルトの同期は二人。どちらもTOP13に匹敵する危険な才能を持っているが、マグノリア・ハウスに居た時代が長い彼らが、軍隊を動かすほどのパイプを作る時間が有ったとは考え難い。

「グレイト・スミスは、稀に見るナマケモノだと聞いていますが」

〈そうとも、爺さんは伝説のナマケモノだ。アマデウスは、生きているとしたらどっかの南の島かリゾート地でのんびりしてるって言うが……そうでなくても八十かそこらだ。サイボーグでもなけりゃ、自分で動いちゃいねえだろう〉

「スターゲイジーは、僕にその話をして、どうしろと?」

〈トオルよ、俺はお前の実力を高く買っている。どうするかは、お前が決めろ。この話を聞かなかったことにするのも自由だぜ〉

「ずるいなあ……僕は耳が良いって知ってるでしょうに」

目尻に皺を寄せて笑った十に、画面の男もニヤリと笑った。

〈俺が知る上で、この件を知ってるのはアマデウスだけだ。英国紳士は親切なんでね……爺さんと因縁がある奴には教えてやった〉

「やっぱり仲良しじゃないですか」

〈腐れ縁だよ。俺も奴も、殴り合える仲間の殆どは墓の下だ〉

「僕はちょっと羨ましい」

〈ハハ……お前とやり合える奴はそう居まい。殴るだけならいつでもやってやるぜ〉

「カボチャを割ったと噂の拳と? 遠慮しときます」

ぼさぼさの黒髪を搔いて首を振ると、十はちらりと鋭い目を持ち上げた。

「――グレイト・スミスが残した言葉は、何でしたっけ?」

〈 『世界が滞る日が待ち遠しい』 〉

怪物の名を呟くように言うと、男は太い指を画面に向けた。

〈トオル、用心しろよ。アマデウスがハルを日本にやったのはお前の為だけじゃねえ〉

「ありがとう、スターゲイジー。また一緒に遊びましょう」

〈おう、ハルに宜しくな〉

気さくな調子で歯を見せて笑ったのを機に、画面は切れた。

一人残った室内で、十はごちゃごちゃとしたテーブルを見渡して小さく溜息を吐いた。

「持って帰ったら、穂積に怒られそうだなあ……」



 妙な事は、二度起きるとは言うが。

マライアの『恋人たちのクリスマス』が流れる飲食店の一角で、亀井勝巳は唖然としていた。以前、変な聴取にやってきた男が、今度は警察手帳ではなく、ライブチケットをかざして現れるなんて誰が想像できただろう。

しかもチケットは、若手に大人気のリリー・クレイヴン。勝巳も彼女のSNSはフォローしている。思いもよらぬ嬉しいサプライズの筈だが、素直に受け止めるには怪しすぎる話は、事のあらましを聞いて尚、謎だった。

「ど……どうして貴方が俺を誘うんです?」

驚愕と不審に混乱が混じる勝巳に、あの熱血警察官は恥ずかしそうに頭を搔いた。

「先日のお詫びと言いたいところですが……リリー本人の希望なんです」

まだあれから少ししか経っていないのに、警察官の様子はどことなく変わっていた。

彼は最初に先日の非礼を詫び、自身が犯罪者に利用され、亀井秋菜をテロリストと勘違いしていたこと、実際は、彼女は彼らに狙われていたリリーの友人だったが為に動向を探られていたことを“正直”に告白した。

「姉が……リリーの友達? いや、それも信じられませんが……小場さんもリリーと知り合いなんですか……!?」

「えっと……俺――じゃない、私は知り合いではなくて……――」

DOUBLE・CROSSの話題に及んでも、勝巳は信じ難いと首を振るしかない。

確かに、あの店は郊外では珍しい洒落た風貌だが、F市にそんなセレブが現れるとは思えない。

勝巳を誘った理由も、この警察官の勘違いで余計な手間を取らせた為、とは言うが、例の聴取なぞ、リリーのビッグネームに比べたらどうと言う程のものではない。

「……貴方、ほんとに警察官なんですか?」

何度目かの疑わしい視線に、警察官は何やら照れ臭そうに頷いた。

「あ、はい、まだ。……でも、間もなく退職します」

「え、退職?」

「はは、私のことはいいんです。それで……如何でしょう?」

「そりゃ……行きたいですけど……コレ、詐欺とか宗教じゃないですよね……?」

至極まともな問い掛けに、無理もないと小場は苦笑した。

「大丈夫、ご一緒します。私は当日はまだ警察官ですし、貴方の身の安全はしっかり守らせて頂きます」

どんと胸を叩いた男を不安げに仰いでから、勝巳は何の変哲もないチケットを見下ろした。

リリーのライブは初だ。彼女の活動はアメリカが中心で、ライブ配信は有ったが、日本での公演は一度もない。最初の公演がシークレットというのは、名のあるアーティストでは異例のことだろう。……姉ちゃんが聞いたら、羨ましがるだろうな――……

今、何処に居るのだろう。

「あの……結局、小場さんは姉の行方は御存じないんですよね……?」

「……はい。申し訳ありません」

素直に頭を下げられると、怒る気も失せる。机に額がつきそうな男に顔を上げるよう促し、勝巳は残念のような、ほっとしたような溜息を吐き出した。

遺体が見つかったニュースを見る度どきりとしていたが、いずれも姉ではなかった。

あの当時、遠くに行ける程の資金もなく、目立つ容貌の姉が何故見つからなかったのか、いまだにわからない。本当は捜索なんてこれっぽっちもしていないんじゃないか、本当は父や母が殺して埋めたんじゃないか、嫌な想像ばかりし続けて、結局は自分も探しに行かずに姉を忘れようとしていた数年間。

あの……いつも憂鬱そうな姿を、何とか頭の中から追い出そうとして、追い出せぬまま、目の前の男から久しぶりに名前を聞いた。テロリストなんぞに関わっていなかったのは良かったが、名前が出たきり幽霊のように姿が掴めないのは不気味だった。

もしかして、リリーは姉の行方を知っているのだろうか……?

「わかりました……そこまで仰るなら行きます」

何かに背を押されるように、勝巳は頷いた。その周囲では、店内も窓の外の街も、クリスマスの装飾が輝いている。どうせ、クリスマスに予定もない。

奇跡が必要だったのは、七年前。その後の七年も、クリスマスなんてろくでもない気持ちを増長させるだけだった。ケーキが有るとか、御馳走があるとか、それらしいレシピやお菓子、テーマパークの限定イベント、家族や恋人が集まるイルミネーションの様子……そういうものが連日、目に飛び込む度、自分の孤独や劣等感に苛まれた。恋人が居たことも有るには有るが、行方不明の姉の話になると、自分の感情がうまくコントロールできなくなる。詳しく聞きたがる声にも、心配してくれる声にも、放っておいてほしいと思ってしまってつっけんどんになる度、失敗してきた。

「……俺、本当は……姉が見つかるのが怖いんです」

輝くツリーの飾りを見つめながらぽつりと呟いた勝巳が焦って顔を上げると、小場が穏やかな顔でこちらを見て頷いていた。

「すみません、変な事言って……」

「いいえ、ちっとも変じゃありません。ずっとお一人で悩んで来られたのでしょう、先日のお話を伺って、よくわかりました」

「あの時は……失礼なことを――……」

「いえ、とんでもない。私の方が失礼でした。貴方の気持ちを考える前に、自分の正義を優先させたばっかりに、不愉快なお気持ちにしてしまったと思います」

改めて頭を下げようとする男を慌てて押し留め、勝巳は顔を赤くして縮こまった。

「もし……姉に会えたら……どうしたらいいか……」

何故、この警察官にべらべら喋っているのかわからぬまま、勝巳は誰にも言えなかった気持ちを吐露した。

「姉は、探そうとしなかった俺を……恨んでいるかも……いや、恨まれていなかったら、無かったことにしようとした俺は、会わせる顔なんて……」

「亀井さん、貴方がお姉さんを思っていたように、お姉さんも貴方を思っていたと俺は思います」

勝巳が顔を上げた。熱血警察官から、短期間でカウンセラーのようになってしまった男は、穏やかに言った。

「貴方を見ていればわかります。お姉さんを嫌ってなどいなかったのでしょう?」

躊躇いがちに勝巳は頷いた。言葉足らずで、関りを避けてはいたが……ずっと心配していた。周囲にはそれと気づかれないように、装いながら。

「それを、素直に伝えればいいと思います」

「素直に……」

「家族を思う気持ちは一方通行じゃないと思うんです。全く無関心な人のそれも伝わりますが、ほんの少しでも……思われていたことはわかると思います。お姉さんも苦しかったと思いますが、貴方だって苦しかったでしょう。彼女も、貴方に伝えそびれた何かを後悔しているかもしれない」

「……再会できると、決まったわけじゃないですけどね……」

些か自嘲気味に勝巳は苦笑した。視線の先の星のライティングが滲む。そんな捻くれたことでも言わないと、わけもなく泣けてしまいそうだった。

「お会いできるよう、祈ります」

その場しのぎではないと感じる言葉に、祈る神を持たない青年は頷いた。

この警察官と会ったのは、乗りかかった奇跡かもしれない。

今さら、神が気まぐれを起こしたとは思えないけれど。



「先生、これ、クリスマスなので」

未春が差し出した不織布にリボンを掛けたプレゼントに、守村は手を叩いて喜んだ。

今年はカーディガンにした。こじんまりした自分の部屋で広げた守村は、嬉しそうに体に当てている。

「まあ、すてき。高そうねえ……いつもありがとうねえ」

軽くて暖かいものが良いというさららのアドバイスの元、選ばれた淡いベージュのそれは、品の良い雰囲気の守村にはよく似合っていた。

「それと、後であっくんが来るかもしれません」

明香は今日、ライブの打ち合わせの為に店に来ている。

未春が出る時はリリーとマンツーマンで向かい合い、一切の悪ふざけを排した真剣な顔で最終チェックをしていた。

終わり次第、来ると言っていたが、あの調子で間に合うのだろうか。

守村は誰の事かわかったのかわかっていないのか、にこにこと頷いて首を捻る。

「そお……何か用意しておけば良かったわねえ……」

用意も何も、彼女の部屋にはキッチンがあるわけでもなく、買物に行くことも殆どない。ベッドや棚、テレビがある個室は狭いというほどでもないが、病室にも似た雰囲気が気になり、入居後にさららに協力してもらってカーテンやインテリアを整えた。

彼女が座っている椅子は店で用立てたもので、十条がプレゼントしたものだ。

ハンス・ウェグナー作のCH78「ママ・ベア・チェア」という椅子は、大きな背もたれが特徴のシンプルな女王の椅子といった風だ。実際、一人掛けソファとしての価値もかなりのもので、彼女には秘密である。布団はそろそろ買い替えてもいいかもしれない、などと未春がぼんやり思っていると、不意に守村が口を開いた。

「未春ちゃん、この前のおともだちとは、うまく行った?」

「……?」

――おともだち。

思案してから、はたと思い付いた未春は頷いた。守村は手を合わせて微笑んだ。

「良かったわ。そう思ったのよ。この間より元気そうだったから」

この間来たことがわかっている。今日の彼女は調子が良さそうだ。

「ご心配お掛けしてすみません」

「まあ、そんなこと謝らなくていいのよ。未春ちゃんが元気なら、先生嬉しいわ」

こくりと頷いた。

「十さんとは、うまくいってる?」

また、同じ問いだ。再び、未春は頷いた。守村の心配の種になるのが居たたまれず、常に頷いているのだが、安心できないのか、適当さを見抜かれているのか、何度聞かれたかわからない。守村は承諾かもわからない頷きと共に体を揺らし、両手を前に身をすぼめ、窓からレースカーテン越しに差すほのぼのとした光に目を細めた。同じ方を眺めていると、不意に彼女は口を開いた。

「未春ちゃん、先生ねえ……子供が居たことがあるの」

「……えっ、子供?」

振り向いた未春に、守村は窓の方を見つめたまま、頷いた。

昔に戻る時のきりりとした調子ではない。シャボン玉のようにふわふわしていておぼつかない時の守村だ。

……妄想、だろうか。

守村は独身の筈だ。子供はおろか、施設に居た頃から現在まで、夫らしき人物が訪ねてきたことなど無い。現に、身寄りがないから十条が此処を手配し、面倒を見ているのだから。

「……お子さんは、今どうしてるんですか?」

思い切って訊ねてみた未春に、守村はおっとりと首を振った。

「なあんにも知らないの。自分の子なのにねえ……息子ってことしか知らないの。赤ちゃんの時に別れちゃったから……」

赤ん坊の、時。

未春は少しだけ胸が詰まるのを感じた。自分も、母親の記憶は無い。血縁者であるのを明かされた後、十が写真を見せてくれたが、母親である十条春未はるみと入婿である父親の十条高義たかよしの姿を見ても、格別の感慨は湧かなかった。未春は春未に似ていると叔父の十は言ったが、母は笑顔の多い明るい印象で、顔立ち以外は似ていないと思った。一方、大人しく物静かな雰囲気の父親はどことなく近いと思ったが、顔は似ていない。

守村のような人物が、子供を捨てる筈はない。相手が連れて行ったのだろうか?

「先生、旦那さんはどうしたんですか?」

訊くのが躊躇われたが、守村がこの話をするのは今だけかもしれない。認知症は、最近のことよりも昔のことを鮮明に覚えていることが多いが、引き出しそのものを失念すれば出るものも出なくなる。

「エディは、アメリカに帰ってしまったわ」

エディ? アメリカ? 妄想にしては飛躍した話に、未春は顔をしかめた。守村の調子は、うわの空にも見えたが……具合が悪い様には見えない。

「アメリカって……国際結婚だったんですか?」

「結婚はしていないの……」

わずかに恥じ入るような声が小さくなる。未春は椅子の傍らに膝をついて耳を傾けた。彼女は秘密を話すように、とても小声で答えた。

「終戦後の当時は、よく有ったのよ。一緒にアメリカに渡った方も居たけれど、言葉も文化も違うでしょ。自由の国に心地よさを感じた人も居たでしょうけれど、ジャップって呼ばれて嘲られたり、嫌われたり、家を借りるのも断られたりねえ……ご苦労なさったでしょうねえ……」

終戦。ジャップ。未春にも徐々にわかってきた。

第二次世界大戦後、敗戦した日本には米軍が駐留し、戦後の統治に当たった。

横田基地は連合国軍に接収された基地で、現在は在日アメリカ軍司令部、同空軍司令部、アメリカ第五空軍司令部が置かれている。F市に残る商店街は、軍人相手に商売していた繁華街の名残りで、市内に居酒屋が多いのもこれに由来する。

戦後の日本では、在日米軍と日本人女性が関係を持つパターンは決して少なくはなかった。大抵は基地の近くで働いていた者同士、交流することで親睦を深めたようだが、敵国の意識が残る時代、国際結婚もまだまだの世相である。家族に認めてもらえず諦めたり、勘当されたり、駆け落ち同然でアメリカに渡る人もいれば、夫だけが帰国してしまって残された妻子が路頭に迷うこともあった。

この話が本当なら、守村は後者であり、戸籍上の結婚もない状態だったのだろう。

「先生は、お子さんとは一度も……?」

「子供は、両親に取られてしまったのよ。私もまだ若くって……育てて貰えたのは有り難いのかもしれないけれど……私は勘当されちゃったから、会えなかったの。こんなお母さんだから、名乗り出るのもかわいそうだと思って……」

……そうだろうか。

自分なら、守村のような母親が会いに来てくれて悪い気はしない。

いや、育ての親に全く違う母親像を言いくるめられていたら……子供はひどい母だと思うのだろうか。十が、実の姉である春未を美化するのとは逆の意味で。

「じゃあ、息子というのは……?」

「両親が亡くなったのを知った後、一度だけ……見に行ったことがあるの。家から出るのを見た時、すぐにわかった。結婚していてねえ……お相手は素朴でかわいらしいお嬢さんで、お腹は大きくて。なんだか、胸がいっぱいになっちゃって……声を掛けられなかったのよねえ……」

未春は、小首を捻った。ずっと会っていなくても、遠目に見て我が子とわかるものだろうか。お相手という女性も、彼の妻である保証はない。

「ひどいお母さんよねえ……でも、私が育てなかったから、立派になったのかもしれない……」

守村は受け取ったばかりのカーディガンを抱き締めるように手繰り寄せた。

「俺、会いに行きましょうか?」

何気なく訊いた未春に、守村はきょとんとしてから、ころころと微笑んだ。

「いいのよ、未春ちゃん。もう、住んでいたところは随分前に無くなってしまったから。今は何処に居るのか……」

「……そうですか」

終戦後の守村の息子となると、五十代後半から六十代以上か。

生きている可能性は高そうだが、何十年も前の話となると、先日の人捜しよりも難しそうだ。孫なら、或いは……

守村は遠くを見つめるように未春を眺め、目を細めた。

「お腹の子が生まれていたら、未春ちゃんぐらいになるのかしらねえ……」

「……息子さんのお名前は、何と仰るんですか?」

ゆたか。……私、人づてに孫の名前も聞いたんだけどねえ……忘れちゃったの。いやねえ、しょうもない頭で……思い出せないことばっかりで……どこかに書いたような気もするんだけど……」

豊。覚えのある人間には見当たらない名だ。未春は追及せずに、小さく首を振った。

この話が本当なら、守村にハーフの息子が居たことになる。その子供ということは、孫はクォーターか。彼女は生涯この辺りに住んでいたようだが、同じ苗字の人物とは会っていない。同級生や同校に、そんな人物が居ただろうか。

F市は十七人に一人が外国人という、全国的にも高い比率の街だ。アメリカよりもベトナムなどのアジア圏の人々が多く、ネパールやインド、ペルーなども多い。ハーフはともかく、クォーターは日本人と遜色ない見た目も多い――……可能なら、彼女がこの話を覚えている内に会わせてやりたいが。

……十は、この話を知っているのだろうか。

「こんにちはー。せんせーい、お邪魔しまーす」

ノックと共に明るい声が響いて、未春も守村も振り向いた。 “彼にしては”遠慮がちにドアを開け、陽気に手を振る明香が立っていた。

彼が誰だか理解したらしい女性は嬉しそうな声を上げ、もう先ほどの話は忘れてしまったようだった。



 イヴの夜。招待席に案内された勝巳は緊張していた。

稼働しているかも怪しい古びた劇場に来た時はどうなることかと思ったが、会場は小規模ながらも綺麗に整えられ、ピアノアレンジのリリーの曲が流れていた。クリスマスを意識した装飾は、リリーが好きな赤とマッチして、曲に合わせて動き出しそうなくらい楽しそうに輝いている。

「うわ、近いですね……!」

一緒に居る小場が正直な感想を呟く。

彼が言う通り、馬蹄型のホールほど立派ではないがアーチを描く会場は、レトロなカーテンの下りた舞台が近くてドキドキした。当たり前かもしれないが、開演を前にさざめいている観客は若者が多い。どの若者も、その辺りで見るような普通の印象だ。彼らはどういう経緯でこのチケットを手に入れて此処に招かれたのだろう……不思議そうに眺めていると、小場の肩を誰かが叩いた。

「コバちゃん」

「ああ、ハルトさん。未春さんも」

何気なく小場が笑い掛けたのは、やや年上と思しき二人連れの男だ。声を掛けて来た方はちょっとスタイリッシュな印象がする程度の普通の男だが、その傍らに控えた長躯の方はついぞお目に掛かったことがないぐらいのハンサムだ。

「今日はありがとな。リリーが宜しくって」

「いやあ、俺は来ただけですし……お二人はどちらでご覧になるんですか?」

「俺らは警備がてら、入り口の方で」

「え、そうなんですか」

手伝いましょうかと言い出す男に、ハンサムな男が無表情に首を振った。

「コバちゃんは此処で見てあげて」

ぼそりと出た言葉は、反論を許さない響きがある。思わず、「はい」と答えたらしい小場に片手を振り、二人は人混みを抜けていく。有名人なのか、単にあのハンサムがなせるわざなのか、周囲の人々は何かさざめきつつ波が引くように隙間を作って見送った。

勝巳が彼らについて問いかける前に、照明がガコンと建付けの悪い音を立てて落ちた。息が止まるような間の中、ずるる、と幕が上がっていく。薄暗いステージにドラムセットやギター、ベースに人影が見えるが、肝心のリリーらしき姿は見えない。

〈Welcome, everyone!〉

何処からか高らかな声が響いた。知る者が聴いたら、明香の声だとわかる。

彼は開演に先立つメッセージを陽気に述べると、会場全体を勢いよく引っ張り込むように言った。

〈では、ご登場頂きましょう! Come on――リリー・クレイヴン!〉

唐突にヒールをリズミカルに打ち鳴らす音が会場に響き渡り、ドラムが打ち鳴らされる爆音に合わせてスポットライトが一息に輝き、ステージ下から小柄な影が飛び出した。真っ赤なドレスの短い裾がジャンプで翻り、真っ赤なヒールで降り立つリリーの声が瞬く間に会場を揺さぶった。あらゆる思考を押し流す攻撃的なボイスに、一瞬で誰もが同じ生き物になったかのように手を振りかざしてリズムに乗る。

一曲目がデビュー曲『Red Genuine.』からスタートしたライブは凄まじい熱狂ぶりだった。最初の音でハートをすっかり鷲掴みにされた観衆は、曲が終わった直後、リリーがマイクを両手ににっこり笑うだけで吠えた。

「Hello. ご機嫌イカガですか?」

日本語の挨拶に、皆が叫ぶ。

「今日は来てくれてアリガトウ。ツラいことも、苦しいことも、全部吹き飛ばしてあげるから、楽しんでいって!」

陶器人形のような指先が作った拳銃ピストルが、観客席に向けて撃たれた。一気に楽器が目覚めたように爆音を奏で、次の曲が始まる。

「……ハルちゃんに向けてたね」

隣でぼそりと言った未春に、ハルトは歌姫を見たまま苦笑いを浮かべた。観客席を一望できる出入り口付近、幸い、無粋な客は一人も来ていない。

さすが、全米ナンバーワン。ネット人気故にそうでもないかと思いきや、彼女のパフォーマンスは一流だ。歌は勿論のこと、ダンスも上手い。明香と打ち合わせしたのは数日しか無かったにも関わらず、よくまあ即席のダンサーと上手くやるもんだ――感心しながらそこまで考えて、ふと……ハルトは明香のにんまり笑った顔が浮かんだ。

「……あいつ……まさか、アメリカで……」

なんて奴だ、と舌を巻くしかない。恐らく、アマデウスからリリーの件をもたらされた直後、彼女のコンサートを散々学習してきたに違いない。ひょっとしたら本人とも会っていたかもしれない男は、今は裏で休む間もなく指示を出しているのだろう。

最前列の辺りには倉子が見えた。瑠々子と二人で曲に合わせて跳ねたり揺れたり忙しい。すぐ傍には力也や保土ヶ谷、久しく見なかった国見も見える。

そして、やや離れた位置ではこちらも久方ぶりに見る長身が見えた。年甲斐もなく楽しそうにぴょんぴょんしている上司は、妻や娘よりもはしゃいで見えた。その男をたまにどつく妻や娘の隣には、さららが立っていた。

「行かなくていいんですか」

ハルトが尋ねたのは、いつの間にか隣に立っていた男だ。

彼は目線だけこちらを見た。鋭い目に、赤やピンクのライトが閃く。

「まさか、君にしてやられるとは思わなかった」

咳込みそうになったハルトの顔を未春が横目で見たが、助け船は出さない。少々ばつの悪い顔でハルトは優一の顔を覗き見る。

「……えーと……上手くいったんじゃないんですか?」

「……おかげで、室月の家にやられそうだ……」

妙な呟きの意味を訊ねる前に、楽曲が途切れた瞬間、彼は音もなく前の席に抜けて行った。ハルトと未春が顔を見合わせた時、ライトが眩いスカーレットに変わり、キラキラ輝くミラーの輝きが会場を覆う。

AlterオルタJourneyジャーニー!』

リリーの楽曲でもベスト3に入る人気の前奏に、会場が沸き立つ。衣装を真っ白なドレスに変えたリリーの髪には、蜘蛛に似た白い花を模した飾りが輝く。

透明感のあるピアノ伴奏が滑らかに導く先のマイクに、彼女の声は滑り込んだ。


憧れていた世界――


日本語!

予想外の歌い出しに皆がざわつき、一呼吸後には歓声が巻き起こった。リリーが日本語で歌ったことは一度もない。

勝巳は不思議な感覚に背筋がぞわりと震えた。


――似てる。


上手くいかないステップ 転げて飛び込んだ

赤い空に星をちりばめて 私だけの女神が輝いてる


――姉ちゃんに、似てる。


白い花を髪に挿した天使 アプリコットの森で微笑むの

後ろは暗闇 前には光芒 下手くそなステップ踏んで

オルタ・ジャーニー 旅はまだ途中

ご親切なミスター 手を貸して スポットライトはピンクにして

オルタ・ジャーニー 旅の先はどこかしら 見えなくても突き進むわ


――姉ちゃんが、居る。


置いてきたものを振り返らずにいたけれど

一度も忘れてないわ これからも忘れないわ あなたがくれた沢山の幸せ

ハイ・ブラザー 元気にしている? 私はまだ旅の途中

ハイ・ブラザー ご機嫌いかが? 私は元気よ!

あなたの元に沢山の幸せが降る様に歌うわ!

歌うわ 歌うわ 歌うわ――


熱気と歓声が波打つ。強く伸びやかなボイスが魂を掴む。

意味を感じる前に、涙がこぼれた。

「……大丈夫ですか?」

間奏のギター・ソロが響く中、心配そうに声を掛けた小場に苦笑して、勝巳は鼻を啜って目尻を袖で拭った。

「はは、感動しちゃって……来て良かった……ありがとうございます」

「あ、いえ、私も誘って頂いた口なので……」

良かった、と言い掛けた小場が、不意に押し黙った。

「小場さん?」

返事をしない小場を振り返ると、彼は勝巳を通り越したその先を見つめていた。

視界には何人もの若者が居たが、その中にひときわ綺麗な女性が居た。ショートヘアが似合う彼女は同伴らしき女性たちと楽しそうにステージを見つめていたが、その肩を誰かがそっと叩いた。振り返った彼女が、ぱっと明るい顔になる。相手は、すらっとした長躯で、ロングコートを片手に手挟んだ若い男だ。赤やピンクの派手なライトに照らされて尚、涼し気な横顔は優しい表情を浮かべている。その腕を彼女がそっと叩いて笑う。何事か話し掛ける彼女に、身を屈めて耳を傾ける男の仕草は紳士的で、映画のワンシーンのようだった。

小場は、それを見つめている。

二人の会話は、パワフルなドラム音でこちらには届かない。

「小場さん――?」

ずび、と鼻を啜る音がした。小場がゴシゴシと顔を拭い、ばしんばしんと頬を叩いてステージを振り返った。それが合図であったかのように魂を揺さぶる程の音が満ちる中、リリーの声が爆発する。

「リリィーーッ! 最高ォォーーッ!」

目尻に光った物を弾き飛ばす彼の叫びに、こちらを見たリリーが投げキッスをしてくれた。

刹那、彼女は髪に挿していた花飾りをこちらに投げた。

「わ、わわっ……!」

慌てて受け取った勝巳が、日本では赤でお馴染みの白い花を手に呆ける中、歌が続く。拍手とリリー・コールが始まる。手や拳を突き上げて沸く群衆に、歌姫はにこりと笑ってマイクに吠えた。

「Thank you everyone! I love you all! アリガトウ!」



 クリスマス、当日。

「失礼、十条さんではありませんか?」

都心のカフェの一角で響いた静かな呼び掛けに、男はノートパソコンから顔を上げた。その表情は声の主を見るなり、旧友に会ったかのように綻んだ。

「わ、これはこれは……末永警部じゃないですか。奇遇ですねえ」

いそいそと腰を上げた男は、周囲が思っていた以上に背が高い。ひょろ長い手足は灰色のセーターと黒いジーンズに覆われ、更に長く見える。

対して、声を掛けた男はホテルかテーラー勤めのように整ったスーツ姿だ。片手に手挟んだコートといい、如何にも育ちの良さを感じさせる。末永と呼ばれた男は、真面目そうな容貌にほんの微々たる愛想笑いを浮かべて首を振った。

「警部はよしてください。末永で」

「あ、そっか……どこかに容疑者が居るとも限りませんしね」

こちらはこちらで、愛想が服を着て歩いているような男だ。周囲は手狭というほどではないが、決して広々とはしていない。が、人気のチェーン店のこと、ざわめきは勿論、ドリンクを淹れる音や香、豆を挽く機械音、立ち上る湯気とお喋りで溢れた店内は、Wham!のLast Christmasのアレンジ曲が流れ、隣の会話が気にならない程度に活気付いていた。

「声をお掛けするか迷いましたが、お仕事中でしたか?」

末永の問い掛けに、十条はにこやかに片手を振った。

「いえいえ、休憩中です。これは単なる確認作業」

長い指先がノートパソコンをゆったり閉じ、傍らに置かれていたコーヒーと、何も乗っていない皿を指差す。そして何故か、彼の足元には大きめの紙袋が三つも据えてある。ちらりと覗いている中身は、赤や金色のリボンが掛かった箱や袋だ。

「お買い物でしたか」

「いやー……あんまり色々買っちゃいそうなので、一旦、落ち着こうと思って。休憩がてら、ちょっぴり仕事を」

落ち着こうと思って、か。

つい、周囲のざわめきを再確認してしまった末永は、繁忙店の騒ぎに曖昧に頷いた。

「末永さんは、お仕事で?」

「そんなところです。ご一緒しても宜しいですか」

「どうぞ、どうぞ。クリスマスにこんなオッサンと相席で宜しければ」

少しも動じることなく向かいの席を勧め、自分もすとんと席に戻った。

「十条さんは……こうした所には、よくおみえに?」

「そうですねえ……自分の店が有るのに変ですけど、リサーチがてら。コーヒーも、季節で変わるスイーツも好きですが、僕は人が居る空間が好きなので」

「なるほど。よく、人の為に尽くしておられる方らしいご意見です」

「ええ? 警察の方に言われる程じゃないですよ。僕は単なるボランティア好きですから」

「単なる……は、謙遜が過ぎるのでは? 貴方がなさっている寄付金は、個人のそれを遥かに凌駕するものです」

非難ともつかぬ調子の称賛に、十条はおっとり微笑んだ。眼球まで柔く出来ていそうな黒く穏やかな目が細められる。

「あんまり褒めないで下さい。僕が身を切るぐらいで足りれば何よりですけど、全体から見れば、はした金です」

「いいえ、立派なことです。にわかに真似はできません」

「それなら僕は、貴方のようなお仕事には従事できない。貴方も立派だし、クリスマスの今日、此処でサービスを提供してくれる人も立派です。人は役割分担して、助け合って生きるものでしょ?」

「……ご尤もです」

頷いた男の顔は浮かない。以前の触れれば切れるような目は、コーヒーの表面を揺蕩い、どこか憂鬱だ。

「末永さん、なんだか元気がありませんね。お悩みでも?」

「……申し訳ありません。柄にもなく、少々落ち込んでいまして」

「おや。僕で宜しければ聞きますよ」

「ありがとうございます。しかし、せっかくお休みのところに――……」

「構いませんよ。警察だって人の子でしょ。話した方がすっきりするもんです」

そうですね、と末永は物静かに頷いた。

「つい先日、後輩が退職したんです。若くて頼りない所はありましたが、真面目で勤勉な、正義を尊ぶ男でした」

「それは惜しい。事故か何かで?」

「事故……それも一つの表現ですが、嵌められたんです。彼を邪魔者と見なした何者かに」

末永の黒い切れ長の双眸が、十条の穏やかな双眸をじっと見つめた。受け止める側の瞳は闇のように深く見えたが、やや緊張気味に眉をひそめた。

「嵌められたって……これ、僕が聞いて大丈夫な話ですか? その後輩さん、ひどい怪我なんてしていませんよね?」

「ご安心を。怪我はしていませんし、どちらかといえば清々しい顔をしていました」

「……と、仰ると……嵌められたのに、円満退職なさったみたいに聞こえますね?」

不思議そうにする男に、末永は苦笑混じりに首を振った。

「確かにそうですね、すみません。私はどうも、自分の不甲斐なさを、この件の所為にしているようです」

「貴方のように優秀な方でも、そういうお悩みがあるんですねえ……」

「私は一介の警察官に過ぎません。任された責任は全うしたいと思いますが、その先に国民の平穏がなければ励む意味がない。後輩が取り組んでいた仕事は、その平穏に直結するものでした。地道で目立ちませんし、気を遣うことも、身内の失態の槍玉に上げられることも多い。面と向かって詰られたり、些末な通報も数多く有ったでしょう。……彼の純粋な正義がそれに耐えかねたことに、もっと早く、気付いてやるべきでした」

溜息こそこぼさなかったが、末永は憂鬱そうな視線を窓の外に向けた。

そこは、まだ明るい内から店頭イルミネーションが輝き、有名店のショッパーを持った人々が通り過ぎる。老若男女、様々だ。学生らしきカップル、揃いの帽子を被った子供を連れた男女、長年連れ添ったように見える夫婦。その合間に、一人で忙しそうに歩いて行くオフィスレディ、誰かと通話しながら歩いて行く男性、重そうな荷を運んでいく配達員、颯爽と過ぎ去る宅配の自転車――……皆が皆、楽しそうとは限らない景色に目を細める。

「同じ目的の為に働いていた仲間が去るのは寂しいものです。その意志が一途であれば尚更。組織にとっても、大きな損失だと思います」

「警察は、同僚を大事になさるんですね。国家第一なのかと思っていました」

それは、擦り傷を掠めるような一言にも聴こえたが、末永は動揺を見せずに頷いた。

「……警察官も、国民の一人ですから」

「仰る通りですね」

とうに冷めているらしいコーヒーをうまそうに飲んで、男は笑った。

「ねえ、末永さん……後輩さんはお元気なんでしょう? それなら貴方は、貴方の信念を貫けばいいと思いますよ。だってほら、大抵のお話では、正義が勝つでしょ? これって、正義だから勝ったんじゃなくて、勝った方が正義になるんです」

十条は目尻に皺を寄せてにっこり笑った。

「貴方が望む平穏が勝たなければ、“誰か”が望む平穏が正義になる。貴方が落ち込んでいたら、後輩さんを嵌めるような“誰か”が図に乗っちゃうんじゃないかな」

「……そうかもしれませんね」

「そうそう、元気を出して下さい。後輩さんの分まで、頑張らなくちゃ」

曖昧な苦笑いを返し、末永はコーヒーを飲んだ。

「聞いて下さって、ありがとうございます」

「どういたしまして」

「そろそろ戻ります。休憩中に失礼しました」

礼儀正しく席を立つ男を見上げ、十条はにこにこと笑っていた。

「いえいえ、お疲れ様です。だいぶ寒くなりましたし、お体に気を付けて」

「はい。貴方も――……」

穏やかに微笑む黒い双眸を見つめてから、末永は頭を下げた。すぐ傍の席で、若い女性たちが限定のドリンクに悲鳴のような歓声を上げる。ホイップクリームに赤いソースとシュガーが掛かるそれに端末をかざす姿を視界の端に、末永は踵を返した。

「いずれ、また」

――いずれ、その暗闇にあるものを。白日の元に引きずり出してやる。



 空港のカフェの一角でくつろいでいた欧米人は、傍らに立つ大柄な欧米人と電子パッドを見ながら何事か話していたが、見知った若者の姿に片手を上げた。

「やあ、ハル」

「どーも」

片手に紙袋だけ提げ、不遜な態度で一礼した元部下を見て、アマデウスはニヤリと笑った。

「リリーの見送りかい?」

「ええ。貴方が居ると聞いたので、一応ご挨拶に」

「ほおー……ハルが礼儀正しいと薄気味悪いねえ」

「だったら、プレミアだか何だかのラウンジに行けばいいじゃないですか。VIPのクセに、なんで一般的なカフェでコーヒー飲んでるんです?」

タダでコーヒーはおろかシャンパンさえ飲めるラウンジに入れる男は、質問には答えずにニヤニヤ笑った。

「今回の件の文句かい?」

「いや、今回の件はもういいです」

向かいに座して首を振った青年に、むしろつまらなさそうにアマデウスは肩をすくめた。

「では、何かな」

「何年か前、オフィスに行ったら、受付のモニカが言ったんですよね……『ミスターのお気に入りのアーティストが散歩から戻らない』って」

「ふむ」

「まあ、違和感に乗った俺も俺ですが……仕込みましたね?」

「今の話に、違和感があるのかい?」

「有りますよ。あのモニカが、『コーヒー奢るから行って来て』なんて言うわけがない。彼女は男に奢るぐらいなら、浮いた金でコスメを買うんじゃないですか」

モニカ・バートンのコスメ好きを社内で知らぬ者は居ない。下手をすると一日の内でもメイクが様変わりする彼女の趣味は、社にさほど顔を出さない上、SNSに疎いハルトさえ知っている。ついでに、ヤンキーズファンの彼女の好みは、がっしりしたベースボールプレイヤーだ。

「ハハハ……人選ミスだったか」

悪びれもせず笑った男は、にやついたまま、椅子にもたれる。

「一万ドルは使い切ったかね?」

「もちろん。リリーの滞在費以外は殆ど、トリックスターにくれてやりました。足りない分は、お宅の秘書に請求した通りです」

一万ドルで足りるわけないじゃん~~と文句を言う明香に、未春の件と合わせてまあまあ恵んでやったので、おかげさまで当件に関してこちらはマイナス決済だ。

「じゃ、ハルの子守り代を追加して支払おう。ジョン」

ちょいちょいと指先を繰る上司に、頷いた男が端末を見せ、頷いたのを合図に操作した。確認したハルトが、そこそこの金額に眉を寄せるとアマデウスは唇だけ歪めた。

「間違いではないよ、ハル。その金額には君のことが大好きな海賊紳士のキャッシュが含まれている。君が倒した男の受け渡し金といったところだが、単なるクリスマスプレゼントかもしれないね」

「スターゲイジーですか……」

あまり受け取りたくない出所に、ハルトは渋面で頷いた。

一体何を気に入られているのか不明だが、あの剛腕に抱き締められて圧迫死するかと思ったのは一度や二度ではない。

「奴め、日本に拠点を欲しがるぐらいだ、近々来るかもしれないねえ……」

「ピオが言っていたブレンド社のスタッフが、管理をするんですか?」

「ふむ……場を整えるだけと私は見ている。日本での運営は女性だけでは難儀だろう」

ブレンド社は世界中のあらゆる場所に拠点を持っているが、その性質は様々だ。

本拠地のイギリスには堂々と本社があるが、国外ではあからさまな事務所は殆ど無く、大抵は飲食店や雑貨店、アパレル店やジムなどに潜んでいる。表向きはごく普通に商売をし、依頼には裏口対応をするのがブレンド社のスタイルだ。

日本では一体何に紛れるつもりだろう。

「尻に気を付けるんだよ、ハル」

「恐ろしいジョークはやめて下さい」

身震いしそうな顔をして首を振ると、ハルトは椅子にもたれて首を捻った。

「ピオが、国内に残ると聞きましたが」

「ああ、『アポロ』の講師としてね。もともと、今回の件が済んだら長期休暇を与えるつもりだったんだが、日本が良いというから。君たちの事が気に入ったのかな?」

「さあ……逆なら心当たりがありますが」

あの日、すき焼きを食いながら、他の連中にはわからぬ会話で明香と白熱していたので、馬が合ったのかもしれない。或いは十条が何か手を回したか。

「案外……銃社会に疲れてんのかもしれませんよ」

「ハルの方が疲れて見えるねえ」

「嫌味ですか」

「どうかな」

「これ、あげませんよ」

ハルトが持っていた紙袋を掲げると、アマデウスはじいっと見つめてから指を鳴らした。

「ハル、それはもしや――」

「さららさんからです。来店しなかったからって気を利かせてくれたんです」

「なんと! 女性の好意を無下にはできない! さあさあ、渡したまえ!」

立ち上がって奪わんとする男に、思わず袋を引いたハルトが慄いた顔をする。

「こっわ……何なんですか、そのドーナッツに対する執念は……!」

「ほう、シナモンとオレンジの香りがする。クリスマス限定かな?」

対岸から身を乗り出して鼻を利かせる男に、嫌そうに袋を差し出す。リリーにも言ったが、本当にドーナッツが好きな男だ。他にも似たようなスイーツは多いというのに、パイやマフィンには此処までの食い意地は見せない。

「嬉しいねえ……後で頂くよ。宜しく伝えてくれ」

鼻歌でも歌いそうな喜び様だ。これだけ喜ぶなら、さららも作った甲斐があるだろう。苦笑いで頷いたハルトに、アマデウスは上機嫌で長い足を組み替えた。

「ハル、リリーの歌はどうだったね?」

「そうですね……さすが、若いのに迫力が有りました」

「彼女の歌、他の若いアーティストと決定的に違うところがあるんだ。わかったかい?」

「違うところ……?」

「愛を歌っていないのさ」

「は……?」

「リリーは君に恋をしていた。愛や恋の歌はありふれているが、それだけに多くの人の共感を呼ぶ。彼らの歌詞は誰かの気持ちであり、誰かの幸福であり、誰かの切なさになり、希望や力を与え、時には寄り添う。リリーは君に音楽の力で呼び掛けようとしていた――ところが、その気持ちを歌わなかった」

「……何故です?」

「私に聞いてしまうのかい?」

からかうように笑ったアマデウスだが、どうせわかるまいとでも言うように答えた。

「歌詞に取り組んでいたのは知っている。女性は勘がいいからねえ。歌うより早く、気付いたのさ……君が何者か。伝わらないとわかったが、他の誰かの為には歌いたくないし、彼女の恋の相手は大衆が共感できる相手ではない。だから歌わなかった。どうだね、彼女にとっての一番の気持ちが無音である――ロマンティックだと思わないか」

「……俺がそれに共感できるなら、この話は映画にでもなるんですかね」

「フフ……あの美しい歌詞は、いつか彼女の個展の入り口にでも飾るとしよう」

金の話にしか聴こえない話に、ハルトが呆れ顔をしていると、アマデウスは銅像のように立っている部下を振り返った。

「ジョン、ハルにあれを」

頷いた大男が、傍らに置いていたブリーフケースから小さな包みを二つ取り出し、ショップ店員の様に紙袋を広げて入れ、差し出した。

「……まさか、これ……」

「Merry Xmas.ハル。私とジョンから君に」

「げ…………」

とても貰う人間のそれではない態度で袋を受け取ったハルトは、嫌そうに紙袋の中を見た。如何にもプレゼントといった装いの箱は、それぞれ別のラッピングが施してある。

「俺、何もありませんけど……」

「知ってるさ。君がこういうことに疎いのを我々が知らないと思っているのかね?」

「知っててよくやりますね……毎年、毎年……」

毎年気の回らない元部下に嫌な顔ひとつせず、アマデウスとジョンは顔を見合わせて小さく笑い合う。子供扱いされている気がして始末が悪い。

……帰ったら、何か送りつけよう。

先に行きます、と、逃げるように立ち上がったハルトに、アマデウスは静かに問いかけた。

「ハル――最近、トオルから何か聞いたかい?」

「十条さんから? いいえ、特には」

「そうかい」

「……何かあるんですか」

「確信が持てたら教えてあげよう。私以外からもたらされるかもしれないが」

問い詰めるのも面倒になり、頷いて立ち去ろうとする背に、寡黙な秘書が言った。

「ハル、Have a happy new year.」

愛想一つ無い呼びかけに、ハルトは少しだけ振り向いた。

「……You too.」

静かに答えて、立ち去った。



 搭乗ゲートの前は、ちょっとした騒ぎになっていた。

昨夜の打ち上げから行きの車内では楽しそうにお喋りしていた少女たちは、今や玉ねぎを切り刻んだ後よりもひどい。プライベートな来日ということで、気を利かせてくれた空港スタッフが人払いをしてくれたが、パーテーション一枚隔てた向こうには、歌姫に気付いた群衆が、携帯端末やカメラを掲げて人だかりを作っている。

「リリィー……ざびじいよお……!」

涙でぐしょぐしょになって喚く倉子を、リリーもぽろぽろ泣いて抱き締めた。

「Me too……I'm glad I didn't make up……」

「ミートゥウウー……ふえ……?」

最後が聞き取れなかった倉子に、ハルトが屈んで小声で教えた。

「化粧しないで良かったってさ」

「いいよおぉー化粧なんてぇ……しなくたって可愛いもんんんー!」

この世の終わりかと思うほど泣く倉子に、完全につられた力也もべそべそ泣いているし、保土ヶ谷は目頭を押さえ、さららもハンカチが手放せない。平気そうな顔だった明香さえ、先ほど握手した際に囁かれた一言に目を潤ませ、細い手を力強く握り返していた。唯一、日頃と変わらぬ顔のハルトと未春は、非難を浴びぬよう少し離れて見守った。

「あたし、ずっと応援するからね……!」

「アリガトウ、クラコ。友達になってくれて。ホントに、ホントに、楽しかった」

ぎゅう、と抱き合ってから離れたリリーが、ハルトの前にやって来た。

「ハル」

目の前に立つ歌姫は、カジュアルなトレーナー姿で涙に目を腫らしても可愛らしかった。

「I've never loved anyone like this before.」

「……俺には、勿体ないよ」

差し出された手を握って苦笑したハルトに、リリーは思ったより明るく微笑んだ。

「 “貴方も”、家族に会えるのを祈ってる。断固拒否はダメよ。約束」

小指を差し出されて、きょとんとしたハルトを見かね、未春がその片手を引っ張った。

「指切りだよ、ハルちゃん」

「なんだその怖いワードは」

未春は眉を寄せ、説明が面倒になったのか、力技でハルトの小指を引っ張り出し、リリーのそれと絡ませた。

「嘘ついたら針千本飲むんだよ」

「な……なんで……!?」

明らかに動揺する男を、一同が笑った。

「ありがとう、ミハ」

小さな言葉と共にリリーは何かやり切った顔をしている未春を見た。一瞬、気まずそうな顔をした男に、背伸びをして耳打ちした。

「彼を、お願いね」

「え……」

聞き返す前に、ふわり――覚えのある花の香りを翻して、リリーは離れて行った。

スキップをするような足取りで悪戯っぽく笑う様子は、大衆が愛する二十歳前の少女に見えた。

「みんな、ほんとにアリガトウ。Let’s meet again someday!」

愛らしく手を振る姿が、大量のストロボとシャッター音を残して去っていく。



 飛行機を見送った後は、宴か祭の後といった雰囲気だった。

いつも元気いっぱいの倉子や力也が静かなので、一同は何となくしんみりとDOUBLE・CROSSの店内に戻って来た。

相も変わらず豪奢なツリーを見て、倉子が声を上げた。

「あれ……プレゼント置いてある……?」

確かに、ツリーの根本には大小様々な紙袋や箱が置いてある。未春が隣を見た。

「ハルちゃん?」

「え、俺のわけないだろ……」

「サンタさんじゃないんスか?」

力也がドリーミーな事を言い、明香と保土ヶ谷がその背を叩きながらケラケラ笑った。

「じゃあ、さららさんじゃ――……」

当のさららは、プレゼントをひとつ拾い上げていた。その様子からして、彼女の仕業ではないことと、サンタの正体に誰もが気付いた。

プレゼントには一つ一つ、別々のカードが添えられていて、表にはそれぞれの名前が書かれている。上手いがクセのある筆跡は、最も日の浅いハルトでも誰のものかわかった。居合わせた全員のものは無論のこと、スズやビビのものまである。

カードを開いたさららが、唇を噛んで呟くのが小さく聞こえた。

「……バカね、そんなこと……昨日言えばいいのに」

彼女は隣に置いてあったもう一つの宛名を確かめて、それも一緒に拾い上げた。瓜二つの箱は彼に宛てたものだろう。中身は、さららと揃いの何かだろうか。

――本当に、奉仕が好きな悪党だ。

そう思いながらハルトが自身のカードを開くと、いつか歓迎会のチラシに見た懐かしのノリが書かれていた。


〈ハルちゃんへ メリクリ☆ ツリーの飾り付けありがとう。さっすがハルちゃん、パーフェクト! さらちゃんの件ではお世話サマ。おかげさまで、僕は安心して留守にできます。これからも未春と皆を宜しくね☆〉


「ったく……オーナーのくせに留守にし過ぎじゃないのか……?」

先日のライブではぶん殴れなかった顔を思い出して苦笑する。さすがに、妻子の前ではと躊躇ったこちらの気遣いを理解しているのだろうか。

振り返ると、未春がツリーの方を向いて立っていた。片手にプレゼントを抱え、カードを開いた手は彫像のように微動だにしない。

「……なんて書いてあったんだ?」

「…………」

未春は答えなかった。

未春にとっては、これ以上無いほど酷い身内であり、この世の誰よりも愛してくれた相手。命の恩人、育ての親、殺しの師匠、虐待と呼べるあらゆるトラウマを植え、愛情と憎悪をでたらめに――否、多くの目的を持って与えた男。

聞かない方が良かったかなと思ったハルトが身を引こうとすると、未春は顔を上げた。少しだけ笑って見えたのは、気のせいだろうか。

「トオルさん、そろそろ死ぬかも」

「えっ」

只ならぬ発言に驚いたハルトに、未春はカードを寄越した。

「俺の師匠は、穂積さんなんだけどな」


〈未春へ メリークリスマス。僕は家族と楽しく元気にやってます。

穂積と実乃里が会いたがってるから、たまには遊びにおいで。

もうしばらく、さらちゃんを宜しく。ハルちゃんや皆と仲良くするんだよ〉


〈追伸・おいちゃんはお前のカレーが食べたくて狂い死にしそうです〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

BGM 2 ‐Much Ado About Nothing‐ sou @so40

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ