9.Red Genuine.

 意識が戻った瞬間、優一は跳ね起きようとして絶句した。

見覚えのない暗い室内、同じベッドの上で寝息を立てていたのは、さららだ。

密着こそしていなかったが、ひどく慎重に身を起こし、辺りを見渡す。

やはり覚えはない。

此処は何処だ。気を失った工場跡地でもなければ、自分の部屋でもない。無垢の木に囲まれた、温かな雰囲気のベッドルームということしかわからない。

「……ッ……」

立ち上がろうとしたが、不意に脳を揺らす感覚に優一はよろめいた。

……そうだ。何か字を読まなくてはならない。あの殺し屋は自害したが、間接的とはいえ死因を作っている以上、解消が要る。頭痛と胃痛が綯交ないまぜになった感覚でうろついた視線がベッドサイドに止まった。サイドテーブルにきちんと角度を合わせて置かれていたのは、文庫本と、ガラスコップに水が一杯。

ひと目で室月の仕業とわかったが、予告もなしに知らぬ場所に連れ出すなど初めてだ。十条の指図だろうか。

さららの存在に困惑しながらも、同じテーブル上の照明を点け、文庫を開いて目を通す。『読字』のキリング・ショック解消法は読めさえすれば雑誌だろうと、レシートや取扱説明書だろうと何でも良い。ただし、同じ箇所を繰り返し読んだり、何度も同じ内容を読むと効果が薄くなる為、文庫本が扱いやすいのだが。

「……」

しばし、ベッドに腰かけてオートマチックに読み進め、優一は胡乱げな顔をした。

普段、室月が持ってこないジャンルだ。

ジェイン・オースティン作の『高慢と偏見』。著名な本作は世界的に有名な恋愛小説でもある。優一は眉を寄せて、イギリスの富裕層らの恋愛模様を読んだ。キリング・ショックは早めに薄れてきたが、代わりにこの状況に対する不審感と苛立ちが沸々と沸いてくる。オイルヒーターが付いた室内は静かだ。

外では強い風が吹くのを感じるが、周辺はもとより同じフロアにも、足下――階下にも、人の気配や物音はしない。

足音を立てないように立ち上がり、ドアに手を掛ける。鍵は無い。閉じ込められているわけではなさそうだ。短い廊下を渡った先は吹き抜けとなり、階下が見えた。

壁も階段も木製の典型的なログハウスは、ご丁寧に煉瓦に囲まれた薪ストーブまで置いてある。落ち着いた雰囲気のソファーが囲むテーブルには、ワインクーラーにボトルが入り、グラスが二つ。

此処まで用意周到なのは室月以外あり得ないが、一体何を考えて……

掛かっていた上着を羽織りつつ、優一は嫌な予感に顔をしかめた。玄関が二重構造。

オイルヒーターに、ログハウス、ストーブに二重構造の玄関。

まさか、此処は――……

玄関ドアを開いた優一は、勢いよく吹き付けたブリザードに唖然とした。眼前は真っ暗だったが、真っ白でもあった。暗闇の中、玄関からの光に照らされたそこには、道も見えないほどの雪が腰より高く積もっている。しばらく呆然としていたが、煽られそうになるドアを閉じた。

気配に振り向いた先で、さららが片腕で片腕を押さえて立っていた。

切ないような困ったような顔つきを見て、優一は額を押さえて呻いた。

「これは……十条さんの仕業か?」

「……たぶん、違うと思うわ」

「違う?」

他に誰がこんな茶番を仕組むのか。

咎める程の視線に戸惑いつつ、さららは肩をすくめた。

「トオルちゃんなら、もっと簡単な方法にするんじゃないかしら……」

言葉に詰まる優一に、さららは手の込んだ室内を振り返ってから苦笑いを浮かべた。

こうも吹雪いていては已む無しと脱出を諦めた優一は、コートを掛け直しながら呟いた。

「……まさか、盗聴器など無いだろうな……」

ぼやくようなそれにさららは目を瞬き、ちらりと周囲を見渡す。

しばし見つめ合い、殆ど同時に室内を物色し始めた。嫌な共通点だが、お互い見慣れた物体だ。優一は多数仕掛けられた経験者、さららは男運の悪さから室月父子や十条の講釈を受けている。あからさまな機器として存在することもあるが、小さな電化製品や備え付けの家電に隠れていることが多い。電源タップが無いか、電卓、時計はどうか。引き出しを開けたり、棚の裏を見たり、ベッドの下やボードを確認し……一通り、家宅捜索を終えた二人は、リビングのテーブルで向かい合った。

ワインクーラーの傍らに、成果を置いて。

「本当に有るなんて、ちょっとショック……」

ソファーに足を抱え、さららは憂鬱そうに呟く。

優一は発見されたブツに心底呆れ顔だ。

「まあ……全部が全部では無さそうだが……」

電源こそ生きているようだが、やけに古いものが二つと、真新しいものが一つ。

いずれもベッドルームで発見された上、物のタイプは異なる為、別々の人間によって仕掛けられたものかもしれない。ベッドはクイーンサイズ。カップルで使用することが前提のログハウスでは、過去によからぬ考えで仕掛けた人間が居てもおかしくはない。叩き壊してやりたいところだが、電池を外して二重ドアの向こうに放り出してやると、さららが害虫駆除でも終えたような溜息を吐いた。

「全く、修司も何考えてるのかしら」

「仕掛けたのが室月なら、君が心配だっただけだと思うが……」

「仮にそうなら、修司らしくないし、失礼よ」

「……?」

「だって、優一さんがどんな人か、修司はよく知っているでしょ」

訂正の言葉を言いあぐねた優一が押し黙り、さららは壁に掛けられた時計を見上げた。夜の八時。雪が降っているのもあるだろうが、静かだった。仮に盗聴器をそのままにしておいても、つまらない録音になったに違いない。冷蔵庫のモーターが奏でる低音さえ聴こえる。優一はまだ微かに疲労でぼんやりする頭で考えていた。此処で一晩過ごすのは仕方が無いとして、このソファーに寝るのは避けられまい。布団がもう一組あるのか怪しいが、上着で乗り切れるか――……

などと思案していた刹那、グゥゥ……と、鈍い音がした。

さららの顔がひきつり、優一が反射的に明後日の方に視線を逸らす。

「……聴いたでしょ」

「……いや……」

「うそ! 貴方が聴こえないわけないじゃない!」

全くだ。

シラを切ろうにも、スプリングの性能を知っているさららには無意味だった。かといって、はっきり聴こえましたとは言い難い。顔を赤くしたさららは、恨みがましい目付きで優一の腹部を睨んでいる。コイツの腹も鳴けばいいと思っているらしい。

「……お腹、空いた」

誰かのようにぼそりと呟き、さららはキッチンを振り返った。

「修司のことだから色々有るわね、きっと」

すっくと立ち上がり、冷蔵庫やらを物色し始めたさららは、しばらくしてひょいと顔を覗かせた。

「勿体ないぐらい色々あるわ。優一さん、食べるでしょ?」

「いや、僕は……」

「あ、食欲ない? 私は間食していたけど……最後に食べたのはいつ?」

非常にわかりやすく黙してしまった男に、勘の良い女はじろりと目を細めた。

「いつ?」

「……今朝」

しかも、カロリーバーを口に突っ込み、栄養ドリンクで流してパソコンに向かい合うという不摂生のお手本のような食事だった。真実を言ったら引っ叩きそうな顔のさららは、ぷいとキッチンに消えると、道具をガタガタ引っ張り出す音を立て、紙袋をがさごそやり、包丁がまな板を叩く音を立て始める。手伝いを申し出る間もない。

すぐにスライスされたサラミやハム、チーズを乗せた皿や、カラフルな野菜のピクルスが詰まった瓶を持って戻ってきた。スプーンやフォークをてきぱきと並べ、細いバゲットを景気よくザクザクと切り分け、真っ赤なワインを注ぐ。

「今、スープを煮てるから、先に乾杯しましょう」

グラスを持ってにっこりされると、優一は後に引けなくなった。

満たされた赤い色に、赤い浴室がフラッシュバックして微かに戸惑ったが、幸い――指は震えることなくグラスを受け取った。乾杯した後で、ワインの銘柄がボジョレー解禁日に優里が持ってきたワイナリーの物だと気付いた。

赤。心の何処かで避けていた赤。

――クソ。あいつら……寄ってたかって……

愚痴が出ないように食事を押し込んでいると、斜め前から忍び笑いが漏れてくる。

「あ、ごめんなさい。未春に似てるから、つい」

「似てる……何処が?」

ショックを隠し切れないような男の顔に、さららはぷっと吹き出す。

「美味しいのか、よくわからない顔で食べてるから」

不器用な男が返事に迷う間、女はキッチンに引き返している。野菜がごろごろと入った湯気を立てるスープを運んでくると、自身の分を美味しそうに食べた。楽しそうな様子を見ると、随分と変わったように感じた。以前は常に何かに怯えているような、遠慮をしているような様子だったが……十条の影響だろうか。

「優一さん」

「……ん?」

「私のこと、避けてるでしょう?」

途端、変なものを飲み込んだように優一が咳込んだ。さららはグラスに唇を付けた状態でじっと見つめている。やけに、赤が目に付いた。

……キリング・ショックが残っているのかもしれない。

「私、何度も連絡したのに」

「……そ、それは……」

「居ないってわかってるのに、ハンドレッドの本店にまで行っちゃったのに……」

自身がチーフ・デザイナーを務めるブランド名に信じ難い顔をすると、さららは見つめていた赤をぐいと呷った。ダン!と勢いよくグラスを置く。

「……もう……!」

さららはソファーに膝を持ち上げ、傍らのクッションをやにわに掴むと、顔面突っ伏してひどく細く喚いた。

「言っちゃった……恥ずかしい! 黙ってるつもりだったのに……!」

豹変に唖然とした優一が声を掛けようか掛けるまいか迷うと、クッションを抱えたまま、がばりとさららは顔を上げた。

「どうして?」

「……は……?」

「……会いに来なくたって、メッセージくらい、返して欲しかったの!」

アルコールのせいだろうが、潤んだ目に僅かに怯む。

――いや、待て、落ち着け。此処で態度を和らげたら、何の為に無視していたかわからない。お前は悪党だろう、悪党らしくやれ。突っぱねろ。

「……返す義務はない。君と僕は本来――……何の関係性も無いだろう?」

さららは穴が開くかと思うような目つきでこちらを見つめていたが、クッションを抱えて俯いた。

「……皆、そうやって私をけ者にするんだから」

恨めしそうな語尾を微かに震えさせたさららは、小さく鼻をすすり上げてそっぽを向いた。「除け者」の意味が引っ掛かるが、悪印象は与えたようだ。

だんまりを決め込むつもりの優一がグラスに口をつけた時、さららは義弟の一人のようにぼそりと言った。

「……そうよね、貴方たちはプロの殺し屋だけど、私は只の人殺しだもの。暴走トラックみたいな人殺しは迷惑なんでしょ……」

危うくワインを吹き出しかけた男が目を剥くが、さららはぶつぶつとクッションにぼやいている。

「きっと私、その辺のヤクザより殺してるし……実の妹も殺すなんて、鬼か悪魔、最低のクズじゃない、クズよ……クズ、クズ、クズ……」

――ちょっと、待て。

優一は内心、青ざめた。まさか、さららは絡み酒なのか?

酒を飲んだ状態に立ち会ったことはないが、室月はそんなこと一言も言っていない。

――いや、あいつ……黙って……?

混乱と焦燥に落ち着かなくなってきた辺りで、さららは呪いのような「クズ発言」をぴたり取り止め、クッションを抱き抱えたまま、すっくと立ち上がった。しかし、顔は酔っているのか、虚ろな顔付きでふらふらと歩き出す。

「……ど、何処に――……」

てっきりトイレにでも行くかと思いきや、スリッパを危うい足取りで引き摺りながら、玄関を向いている。これには優一も泡を食った。慌てて肩を押さえると、さららはぎろりと振り向いた。

「なに?」

「何って……何処に行くつもりだ?」

サッと女の片手が玄関ドアを指差す。

「そと! もう帰る!」

優一は天を仰いだ。……恐ろしい悪酔いだ。誰だ、此処に酒を置いたのは。

室月、お前なのか? それとも優里か? 十条か? 十条だな?

「……今夜は無理だ。戻ろう。少し休めば落ち着く」

「……誰の所為だと思ってるの」

女の悪態に微かに胸が軋むが、何とか宥めて部屋に戻した。

ところが、一度ついた火はなかなか鎮火しないものらしい。茉莉花まりかのように物を投げたり暴力を振るうことは無かったが、さららは鬱憤が全て自分にカウンターするのか、更に飲もうとして止められ、片手で自分の頬をばしんばしん叩いて止められ、テーブル上のフォークは触る前に取り上げられた。最終的には悔しそうに歯噛みし、ソファーの隅にうずくまり、クッションに顔を埋めて動かなくなってしまった。

おぞましい酔っ払いに文字通り頭を抱えていると、小さな呟きが聴こえた。

「……ごめんなさい」

もう溜息も出ない。

気にしなくていいと言おうとしたとき、さららの言葉が胸を突いた。

「……私が適合しなかったら、良かったのに……」

サッと優一が振り向いた。制止より早く、さららは禁忌を口にした。

「私がスプリングに適合したから、貴方は――……」

「違う……!」

弾かれる様に強い口調で言うと、さららはクッションに頭を預けたまま、のろりと振り向いた。頬はむくみ、赤くなった目からぽとりと涙がこぼれた。

「だって、私が適合しなかったら……利一りいちさんは、貴方にスプリングを使わなかったんじゃないの……?」

千間せんま利一りいち――身体機能向上薬スプリングを研究開発し、接種した九割の人間をバケモノにしてしまった祖父の名に、優一は激しくなりそうになる言葉を飲み込んだ。

「……違う。君が適合したのは一つの成果だが、僕が接種したのは自分の意志だ」

「でも、私が最初の適合者なのは変わりない事実よ」

正論には違いない。同時期の適合者といえば未春が居るが、当時は赤ん坊だった為、その当時では適合の有無を正確に確認できなかった。さららは双子の妹であるうららが非適合だったにも関わらず、適合者となった貴重な例で、スプリングの適合条件に遺伝情報や体のコンディションが関わりないことを示した。

「君が適合しなくても、データ上、危機回避はある程度予測できていた。そうでなくては……犠牲者を出し続けた臨床試験の意味が無い」

疑わしき視線に優一はテーブルへと視線を移し、溜息の尾を長く引いてから答えた。

「どちらかといえば、その手の結果が出るまで死者を出した研究に問題が有る。むしろ、君が適合せずにいたら、余計な犠牲者は更に増えたかもしれない」

すん、と、さららが鼻をすする音がした。幾らか落ち着いて来たらしい。

「僕は祖父に反対されても接種する気だったし、今の体に不自由は感じていない。君の不眠症や十条さんの睡眠症に比べれば、注意を要するだけだ」

事実、スプリングの機能は体ではなく、脳への影響が強いと言われている。

接種段階で、身体機能が最も優れていたのは「亡霊」こと、ヘンリー・マーチだが、彼は適合せず最も弱い未熟児状態の未春が適合したのは当時の貴重なデータだった。

開発者の利一は多くを語らずに逝ったが、姉の優里曰く、スプリングは「ばね」の意味から名付けられた通り、地のポテンシャルを高める。それは普段フルに活動していない脳から強行な命令が出されるようなもので、亡霊に例すると、BGMでの「教育」が脳に与えていた影響が大きすぎた為、唐突な飛躍が容量を超えて決壊したのではと推測されている。

同様に、幼子の方が発狂のレベルは低かった。衝動的な強い破壊行動に至ったのはうららぐらいで、全体の一パーセントにも満たない。また、同時に開発が進められたパーフェクト・キラーの反作用的な効果によって、凶暴性はある程度の抑えが効いた。後日談となるが、パーフェクト・キラーの類似品で非・適合者を適合者に近い状態にした例もある。さららが適合した点よりもこの事実の方が有用性が高く、千間家は優一が適合しなかった場合も損害は低いと見た。リスクが低いと思われる幼少期を選び、仮に亡霊やうららの様に暴れ出した場合も、幼子の方が止めることが楽である。だから、接種を急いだ。

先祖返りの天才と謳われた少年が、十条十を倒すほどの殺し屋になることを望んで。

「優里や室月に何処まで聞いたか知らないが、僕の実家はそういう家だ。跡取りを総出で持ち上げて優秀な人殺しになるのを望むが、死ぬことは考慮しない……本末転倒なんだ。スプリングに関して、君が僕に謝るのは見当違いだ」

そこまで言って、妙に静かなさららの方を振り返った。

「……さらら?」

呼び掛けた先の女は、先程のクッションを抱き締め、細い寝息を立てている。

「……」

ひとしきり髪を搔き、優一はどうにか腰を上げた。意地でも離さないクッションごと、酔い潰れた女を抱え上げ、ベッドルームに運び入れた。殆ど搬入作業のようにベッドに寝かせ、室内の温度を確かめて布団を掛けて、部屋を出た。

いっそ飲み直したいぐらいの気分だったが、リビングに戻るとテーブルの惨状の方が気になり、溜息も程々に片付け、食器を洗った。少しだけすっきりした気になってソファーに身を投げ出すと、電話を取った。

電波は通じる。とんでもない高地では無さそうだ。

〈はい〉

すぐに出た無機質な音声に、疲労と怒りを押し殺し、冷静に訊ねた。

「室月……僕が何を言いたいかわかるか?」

〈はい〉

「そうか。これは十条さんの茶番か?」

〈いいえ。私の独断です〉

「なるほど。覚悟はできてるんだろうな……?」

〈はい。優一さんの業務は済ませてあります。さららを貰って頂けるなら、如何様にも〉

あっけらかんと出た手回しと希望に、優一は顔をしかめて呻いた。

「僕は貰う気は無いと、何度も言った筈だが?」

〈では、さららは傍に居ないんですね〉

「居ない。可能なら、僕は今すぐ此処を離れたい」

〈優一さん、がっかりです。やり直しを要求いたします〉

「……お前、気でも違ったのか」

〈私は至って正常です。どうかしているのはあなた方の方です。互いに惹かれている男女が二人きりの場で一緒に飲んで、どうしてああなるんです?〉

人工知能とでも話している気分になりつつ、優一は舌打ち混じりに声を荒げた。

「おい……いい加減にしろ。他にも盗聴器を仕込んでるのか?」

〈優一さん、さららは普通じゃないんです。一般人にどうにかできる女じゃないんです〉

室月の声は無機質でありつつも、懇願の響きが混じる。実の姉にも等しい相手に恐ろしいことを口走り始めた男は、質問を無視して続けた。

要海かなみが政略結婚に使えないと言ったのは気遣いでもジョークでもない事実です。さららは自分が『やったこと』を思い出していますし、あれは覚悟の上での行動ではない。不安定な気質はそう安易に変わりません。誰かが居てやらないと、またおかしくなるでしょう〉

「だから……何故その相手が僕なんだ!」

ついに我慢が切れて怒鳴ったが、電話の向こうが怯んだ様子は全くない。

〈貴方が一番、彼女の気持ちがわかるからです〉

「そんなに大事なら、お前がやればいい。血が繋がっていないんだ、気にする世間体もないだろうが……!」

〈いいえ、私は彼女にとって姉弟に過ぎない。未春さんも同じです。彼女が人殺しであり、寂しがり屋で不安定で面倒臭い性格だと知って尚、愛せるのは貴方しか居ない。同時に、貴方にも、理解有るパートナーが必要です。まさか一生、私が寄り添うと思っていませんよね?〉

手痛い返しに、優一はなんとか首を振った。

「……短絡的過ぎる。十条さんはともかく、事情を知る男なら他にも――……」

〈ハルトさんのことを仰っているのなら、彼は十条さんよりも不適切です〉

「お前は……彼に、十条さん並に信頼を寄せていると思ったが……?」

〈はい。ハルトさんは十二分に信頼の置ける方です。今回の件でも相談致しました〉

さらりとハルトにも責任を被せ、室月はやや声を曇らせた。

〈ですが、あの人は誰も愛しません。彼が今の外面のままの人間なら、貴方の次に勧めたと思います。しかし、彼の内面は――……〉

自動音声のような言葉が、躊躇いがちに途切れた。禁忌を口にするような響きを以て、室月は言った。

〈極端な言い方をすれば、人間ではありません〉

「……?」

意外な回答だ。彼は先の件で十条のやり方に反発し、真実を話すよう強行した。たかが数カ月過ごしただけの他人である未春とさららの為に、死ぬかもしれない男を相手にするのは、どちらかといえば情に溢れた――人間らしい行動ではないだろうか?

〈ともかく、ハルトさんの非常識に触れている場合ではありません。優一さん、私は十条さんに頼むのは気が進まないんです。一刻も早く、さららと和解してくれませんか〉

「室月……お前な……!」

既に付き合っているような言い方をするな――……言い掛けて、優一は階上を振り返った。

相変わらず、大事なもののようにクッションを抱きかかえたさららがこちらを見下ろしていた。酔いは醒めているようだが、幾らかぼんやりしており、階段を転げ落ちても不思議ではない顔つきだ。

「さらら……」

呟いた刹那、通話は途切れた。即座にエスケープした室月に文句を言う間もなく、とん、とん、と緩いペースで女が階段を下りてくる。足取りはそこまで危うくはないが、何となく目を放したら消えてしまいそうな姿を見守ってしまった。

「……重かったでしょう?」

間近にやってきたさららは恥ずかしそうに言うと、頭を下げた。

「クダ巻いちゃって、ごめんなさい。ちょっと緊張してたの……」

「……別に、構わないが……」

首を振ると、さららは同じ場所に座った。誰かがそこに置いたような着席を眺め、重くなかったと言うべきだったかと思っているとクッションを下ろして溜息を吐いた。

「さっきの電話、修司ですよね?」

「あ、ああ……」

「怒らないであげて。修司なりに、心配してくれたことだから」

「……それは、わかっている」

――そう、わかっている。高校時代から、執事の様に後を付いて回る様になった室月が、並ではない心遣いをしてくれていることは。今回の件が幾らか暴走気味なのは、さららに寄せる不安が追加された為なのも。

「……優一さん、喋ってもいい?」

一転して遠慮がちな声に頷く他ない。ほっとしたようだが、さららの顔は浮かない。

「ずっと独身で居るつもりって聞いたんですけど、本当?」

「優里か?」

頷いたさららに、別のクレーム先にうんざりしつつ、優一は頷いた。

「言った通りだ。あの家は後世に残すようなものではない。僕の代で終わりにする」

「と、いうことは……優一さんの一番の憂慮は、お家のことなのね? ハルちゃんみたいに、恋愛が無理ってことじゃないのよね」

一体、ハルトはこの姉弟に何だと思われているのだろう?

「まあ、そうだが、僕は……」

「じゃあ、相談があります」

そそくさと居住まいを正し、さららはぴっと背筋を伸ばした。

「婿入り、しない?」

「……は?」

「うちに」

「…………は?」

阿呆のような返事を二回繰り返した男に、さららは言葉が通じなかったかといった調子で小首を傾げた。

「修司に聞かなかった? 私、正式に養子になるの。哲司てつじさんの」

室月哲司。修司の実父だ。十条の家族を事故で殺してしまい、彼に生涯をかけて尽くすと決めた男。さららの実家である小牧家とのいざこざで片足を悪くしたが、それでも現役の清掃員クリーナーとして、主に後身の育成に当たっている。彼は若くして妻を失ったやもめでありながら、十条から幼いさららを預かり、修司と共に育てた為、彼女の実質的な父親でもある。

「哲司さんは、歓迎してくれるわ。優一さんは修司のことを苗字で呼んでいるから、同じ名前になると変な感じがするかもしれないけど――」

「ち、ちょっと待ってくれ……!」

何か、おかしなことになってきた。予想外の展開に片手を浮かせて狼狽える男に対し、女は先ほどの鬱は何処へやら、異様に落ち着いた顔付きで目を瞬かせた。

この反応と切り替え……確かに普通ではない。

「無理だ。僕が家を出たら、優里の子供がターゲットになる――」

「優里は、嫁入りしてるから関係ないって」

医師の仕事上、手続きが面倒だからと千間の苗字を使っている優里だが、戸籍上は既に夫の苗字に変わっている。

当然、生まれてくる予定の息子はその苗字になる、が……

「今、答えが欲しいわけじゃないの。わかってほしいだけ」

「わかる……?」

「私がそれぐらい、本気ってことを」

真剣な眼差しを向けるさららの耳元は、ほんのりと赤い。答えあぐねた男は、その透き通りそうな目を見つめ返すしかない。

「それがわかってもらえたなら、いいの」

「……」

「できれば、お互い……元気な内がいいけれど」

「……」

「最近寂しくて、未春とハルちゃんに添い寝を頼みたいぐらいなの、私」

「…………」

――室月……これは、異常なのか? ……僕にはわからない。

誰かが近くに居ない普通の寂しさが、異常行動を取らせるのは僕が悪いのか?

十条さんが、甘やかしたのが原因か? ……いや、全部あの人の所為にして逃げてしまうのをやめた筈なのに、今も逃げ続けているのは誰だ?

茉莉花が倒れ込んで赤く満たされた浴槽の傍に、今も立っている男は誰だ?

「……異常なのは、僕か」

「え?」

「何でもない。……わかった。婿入り云々はともかく、君の気持ちはわかった。……避けていて、すまなかった」

「本当に?」

目を輝かせてぱっと両頬を押さえたさららはみるみる内に赤くなる。それを見た優一の方も慌てて目を逸らした。

「……いや、その……今すぐ、どうということじゃ……」

しどろもどろになった言葉の途中、突如、優一の電話が鳴って二人はぎくりと身を震わせた。天から見ているかのような室月の着信に、溜息を超えて頭痛がしてきた。

「……何だ?」

〈優一さん、貴方は阿呆ですか〉

「いきなり何なんだ、お前は――……」

〈こちらのセリフです。どうして、二人ともまともに好きだと言えないんです?

お互い、照れる歳でもないでしょう! 小中学生ですか? 聞かされる身にもなって下さい!〉

普段の物静かなそれからは想像もできないほど饒舌な男に、電話を握り潰したい衝動にかられながら呆れ声が出た。

「……お前、まさかと思うが酔っていないだろうな?」

〈私は正常だと申し上げている筈ですが。優一さんこそ、踏ん切りがつかないのなら酒の力を借りて下さいませんか〉

「うるさい! 盗聴をやめてさっさと寝ろ!」

ひときわ大声で怒鳴りつけると、電源を切った電話をポケットにねじ込み、目を瞬かせているさららに顔を向けた。何故か顔を見合わせた直後、二人は殆ど同時に立ち上がった。

「君は先に休んだ方が――……」

「平気よ。……私、酔ってなんていないもの」

照れ臭そうに微笑むと、「寝ちゃったのは本当だけど」と呟いて、さららは周囲を見渡した。

「有るとしたら、この部屋ね」

テレビ裏を覗く背を見て、笑いが出た。……悪党め。

見つけ次第、壊してやる。



「本当に、辞めるつもりなのか」

その問い掛けは、厳しくも切なそうに響いた。

警察署の会議室の隅で、小場は向き合った男の貫くほどに真っすぐな視線に怯みながら、膝に置いた両手を握りしめて頷いた。

「はい」

「こんな事件は異例だ。お前さえ口外しなければ、不問にすることも――」

「いいんです、そんな隠蔽いんぺいみたいなこと……末永さんらしくありません」

末永と呼ばれた男は、凛々しい顔をしかめて首を振った。同世代よりも若々しい容貌は引き締まり、隙のない侍を思わせる。若くして警部になった出世頭でありながら少しも驕る事のない男は、勤め始めた頃から何かと目をかけてくれた先輩でもある。

「真面目で正直なのはお前の良いところだが……柔軟性が無いのは良くない」

「はい! すみません……!」

がばりと頭を下げた小場の首側面には、真新しい湿布薬が貼られたままだ。その姿勢のまま、後輩は言葉を絞った。

「わかったんです……自分が本当は何をしたかったのか。それは警察官という職務ではできないことですが、警察官になったからこそ……わかったと思います」

「私は、お前ほど警察に向いた人材も居ないと思う」

「あ、ありがとうございます……!」

心が揺らぎそうになるのを抑えて、小場は真四角のお辞儀をしたまま言った。

「この話を相談したとき、両親は反対しませんでした。むしろ、安心したって言われて……これまで、心配を掛けていたのも理解しました。自分がそそっかしいのを誰より知っているのは、両親ですから……」

彼の歳にしては年配の両親と聞いている。一人息子が危険な仕事に従事することを気に掛けているのは、末永も知っていた。溜息を吐いた。

「異動でも済むところを、どうしても、辞めるんだな?」

顔を上げた後輩は頷いた。

「はい、後悔はしません」

「そうか……それほど意志が固いなら、止めても無駄か」

憑き物が落ちたようにすっきりとした顔の後輩が頷き、末永も苦笑混じりに頷いた。

「最後に、一つ良いか」

「はい」

「もし、今回の件が……お前に警官を辞めさせるための策略だとしたら、どうする?」

「えっ」

小場は虚を突かれた顔をしたが、すぐに吹き出した。

「嫌だなあ……末永さん。そんなこと、誰が企むんです?」

「例えばの話だ。気にしないでくれ」

「そうですよ……有り得ないです。末永さんのような凄い刑事なら別ですけど、自分はせいぜい、地域を回って注意をするぐらいなんですから」

「小場、それは決して些末な仕事ではない。本当に凄いのは、そういう人間だ」

頑として首を振った先輩に、後輩は照れ臭そうに髪を搔いて首を振った。

「でも……策略なんて……フィクションにしか思えません」

フィクションのような出来事に引っ掛かった男には説得力のない一言だったが、末永は笑わなかった。策略。謀略。そんなもの、にわかに信じられなくても無理はない。

「……そうだな」

――だが、有るんだ、小場。

世界の裏側……いや、表からも見える場所で、死をばら撒く連中が動いている。

不可解なのに成り立つ事件。最後の辻褄だけ合っている死。正義を嗤う数多の何者か。この純朴な青年を巻き込まずに良かったと思うべきか、味方が減ったことを嘆くべきか。

「小場、もし、今後お前が――……」

あのDOUBLE・CROSSや他の場で、妙なものを見たら、教えてくれるか?

そう言い掛けて、末永は言葉を飲み込んだ。

警察を抜けた男が、その闇に踏み込んだら。何の保身も無い正義が、見てはならないものを見て動いてしまったら。

「今後、何でしょうか……?」

身の危険など全く感じていない目を見つめ、末永は言った。

「……困ったことがあれば、相談に来てくれ」

「あ、ありがとうございます」

「元気でやれよ」

「はい! 末永さんもお元気で」

立ち上がって敬礼した後輩に、末永も同じように敬礼を返した。



 さららが帰宅したのは、騒動の丸一日後の夜だった。

店を閉めた後、我が家の高性能センサーが車の音に気付いたのだが、送って来たのは普通のタクシーだったらしい。――そんなこと、いちいち確かめられる身にもなれ。

「……ただいまー……」

何故か神妙な顔付きで帰ってきたので、てっきり失敗だったかと思ったハルトだが、そうではないらしい。つかつか近付いた未春がフライングした為、はっきりした。

「……さららさん、いつ、引っ越すんですか?」

「え?」

肩を掴む一歩手前の問い掛けは、浮気を疑う修羅場のようだ。案の定、さららは上着も着たまま、ポカンとしている。

「何の話?」

「千間さんと住むんじゃないんですか?」

ストレートしか投げない義弟に、腑に落ちたさららが苦笑した。

「未春まで修司みたいなこと言わないで。いきなり同居なんてしないわ」

「『いきなり』ってことは、『いつかは』なんですか」

「もー、白黒ハッキリしないと、私は手洗いうがいもできないの?」

未春が決まり悪そうに退いたので、上着を脱いで洗面所に消えたさららは、目的を済ませると、さっさとリビングにやって来た。疲れた様子で椅子に腰掛け、立ってぺこりとお辞儀したハルトと、足元に来る猫たち、心配そうにしているリリーに順に微笑んだ。

「ごめんね、あの日は不安にさせちゃって」

「私は平気。さららが無事で良かったわ」

すぐに答えたリリーが、ぱっと立ち上がっていそいそとお茶の準備をし始める。

その様子を驚き半分、微笑ましさ半分といった顔で見ていたさららは、ハルトに振り向いた。

「ラッコちゃんから聞いたけど、ビンタされたんですって?」

「ええ。さららさんも叩きますか?」

苦笑混じりに反対側を差し出そうとする男に、さららはにんまり笑った。

「ハルちゃん、私のこと甘く見てない? ラッコちゃんほど優しくないわよ」

拳を握ってみせる彼女に、安請け合いした殺し屋は幾らか情けない声を出す羽目になる。

「……あの、さららさん? ビンタはともかく、パンチは勘弁してほしいんですが……」

現役ボクサー並の破壊力と噂の拳を食らっては、さすがに歯が飛びかねない。

「冗談よ」と笑ったさららはようやく、廊下に立たされているような顔の未春に振り向いた。

「未春、座って」

「……はい」

大人しく自分の席に座った未春に、さららは幼子を見る様に言った。

「まだ一歩進んだ程度よ。『いつかは』というか、『そのうち』」

「……一歩って、どこまで――……」

「未春~……そんなことまで聞いてどうするのよ。お付き合いの手前って言えばわかってくれる?」

ハルトは内心、苦笑いが出た。密室に閉じ込められても手を出さなかったか。

優一の理性の質は聖人の域で決まりだ。

さららは足を投げ出し、宣言するような調子で言った。

「少なくとも、年末年始はあり得ないわ。お互い色々有ったんだし、あちらはお忙しいじゃない。その先の二月辺りは引っ越しシーズンだし、修司が言うほどスイスイいくものじゃないのよ」

正直、いざ引っ越しとなったら、業者が不要な程度に男手は有り余っている上、大型トラックを運転できる人材まで居る……まさか、これも計画の一端じゃあるまいな。

不穏な想像に陥るハルトを余所に、未春の表情は曇ったままだった。

「そうですか……」

「そうよ。クリスマス会もするでしょ?」

「千間さんと過ごしたりは――……」

「皆と過ごさないか誘ったんだけど、断られちゃったの」

さ……誘ったのか。

これには未春さえ少々驚いてさららを見返すが、彼女はどこかの誰かのように呑気に言う。

「お仕事もあるそうだけど、皆が慣れないだろうから遠慮するって」

……彼は此処の連中をヒヨコか核物質だと思っているのだろうか?

「だから24日の件も手伝うわ。私も絶対、生で聴きたいもの」

「良かったな、リリー」

小さい子がやるみたいに慎重にお茶を注ぎながら、リリーは嬉しそうに頷いた。

「あんまり時間が無いけど、場所やセットはどうするの?」

「リリーの衣装やメイクも含めて、全面的に明香に頼みました。あのレトロ劇場に箔が付くとか何とか言って喜んでたんで、しっかりやると思います。劇場の関係者やスタッフはあいつの人選で入りますが、一部のスタッフと招待客には『アポロ』のメンバーと、室月さんに適切な清掃員を選んでもらっています」

明香が率いる劇場型・清掃員の『アポロ』は、若いメンバーが多い。恐らく、喜ぶだろう。入る予定の一般客も、倉子の友人の瑠々子や、ディックを通して呼んだソフィアなど、殆ど知り合いだ。九割が身内で、ハルトと未春が警備を兼ねて常駐するなら、空気を読まないマスコミや迷惑客が紛れようとしても無理だろう。

「すてき。すごいクリスマスプレゼントね」

美味しそうにお茶を飲みながら、さららは微笑んだ。

「そうだ、未春、穂積さんや実乃里ちゃんも誘ったら?」

誰かさんの名前が無いのはわざとだろうか。未春がちらりとこちらを見るので、自分で言えと片手を振ってやった。

「……トオルさんと、三人で来るそうです」

「本当? 良かったじゃない」

全く動揺しないさららに、未春は嬉しくも残念でもなさそうな顔で曖昧に頷いた。

「その『トオル』が、日本一のクズ?」

リリーの純真無垢な問い掛けに真っ先にさららが吹き出し、ハルトも「そうだ」と笑った。未春は、笑うに笑えない様子だったが、二、三頷いて溜息を吐いた。

「……ごめん、リリー」

急に出た謝罪に、三人がぴたりとフリーズして顔を見合わせる。クズの来訪を謝ったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。俯きがちの美貌を覗き込み、リリーは微笑んで、膝に手を乗せて頭を下げた。

「……私もごめんなさい」

ようやく穏やかな様子で向かい合った二人を、優しい目で見ていたさららが、ハルトに視線を向けた。

「ところで、ハルちゃん……コバちゃんは?」

「ああ、さららさんは忘れてなかったんですね」

「あなた達と一緒にしないで。ちゃんと無事なの?」

「無事――」

です、と言おうとして、ふと、ハルトは踏み止まった。そういえば、未春は確か……

「……まあ、無事です」

「ちょっと、ハルちゃん――……」

「いやいや、本当です。医者の世話になるほどの怪我はしていません」

無事でなくては困る。彼にはこの計画の立役者になってもらわねばならない。



 その男が顔を見せたのは、クリスマス・イヴを一週間後に控えた日だった。

閉店後のDOUBLE・CROSSの前を右往左往する怪しい人物に気付いた未春に、引っ立てられるようにして店内に踏み込んだ小場である。

「山岸さんから聞いたよ、災難だったな、コバちゃん」

ハルトが声を掛けた男は、首の側面をさすりながら苦笑した。

……本当に、気の毒だ。

何一つ悪い事はしていないにも関わらず、未春の殴打を食らわされたのだから。

「そんなところ怪我して、痛かったでしょう……」

まだ湿布薬が外せないと見える患部にさららが気の毒そうな視線を向け、ちらりと未春を睨んだが、犯人は涼しい顔で知らん顔をしている。

「いやあ……お恥ずかしい……正直、怪我した時のことは、殆ど何も覚えてないんですよねえ……」

それはそうだろう。未春の一撃も酷かったろうが、彼は連行される際に清掃員に眠らされている。疲れも有ったのか、こんこんと、半日以上は寝ていたらしい。

「大きな怪我じゃなくて良かったんじゃないの」

無表情でいけしゃあしゃあと言い放つのは未春だ。……こいつも忘れてるんじゃないだろうか? 少なくとも、容赦なくぶっ叩いた男が言う事ではない。

「ええ、ホント、そう思います。俺も山岸さんに聞いたんですけど、なんだかご心配お掛けしたそうで……」

「うん、そりゃまあ……心配するよ。知らない仲じゃないんだし」

「本当、無事で良かったわ」

ハルトというより、さららの一言に小場は見るからに赤くなり、せわしく両の手をもじもじさせ始める。

「あの……さららさん、その……先日……お、お誘い頂いたのに、すみませんでした……」

事件に巻き込まれていたと言えば仕方なさそうだが、実際はリリーを選んだ男に、

ハルトと未春は失笑、さららは冷笑こそしなかったが、“全く”気にしていない顔をした。

「いいのいいの、私の方こそ、大変な時にごめんなさい。ウチの皆のクリスマスプレゼントを選ぶのを手伝ってもらおうかなと思っただけだから気にしないで。最近、若い子の好みがわからなくて悩んじゃうのよね」

準備済みの言い訳とはいえ、ごく自然な話に小場の顔は少々引きつった。DOUBLE・CROSSの常連となっていた彼は、倉子や力也とも顔見知りだ。リリーを知っていた点だけでも、感覚的には彼らに近い。

「そっ……で、ですよねー……!」

純朴な青年に、こんなに心的ダメージを与えて大丈夫だろうか。この後のサプライズに卒倒しないか不安になりつつ、ハルトは小声で言った。

「コバちゃん、辞めるって聞いたけど……本当なのか?」

「……あ、ハイ。先輩たちは反対してくれたんですが、いい機会だと思いました。多分、ずっと……自分自身が、なんていうのかな、仕事とのズレを感じていたっていうか……それが今度のことでわかったというか……」

「そうなのか? 俺は如何にもな警察官だと思ってたけど」

正直な感想に、小場はちょっと嬉しそうな顔で頭を掻いた。

「ありがとうございます。そういうとこも、俺が失敗したとこなんですけど、嬉しいです。憧れとのギャップだったんですよね、色んなことが」

ピオも述懐していたが、映画のFBI捜査官から始まった憧れが、些末なご近所トラブルや害虫駆除の通報や、報道される警察官の失態云々の文句等々で、だいぶ擦り減っていたのは間違いないらしい。

「警察官を誘拐するって、どういうことだったの?」

「はあ……なんでしょうね、俺もよくわかりません。テロリストって話でしたが、あんまりそういう感じじゃなかったっていうか……」

ひとり言のように言って、彼はふと気付いたらしい。

「あ、その、……一応、報道規制とかがあるので、俺が誘拐されてた話は他の人には言わないで下さいね?」

頷いた面々に、恥ずかしそうに頭を掻いて俯く。

「……彼、もう帰国しちゃったんですよね。もう一度、会いたかったな……」

小場はどこか寂しそうに呟いた。

『FBIを名乗るテロリストに騙された』が小場に与えられたシナリオだ。

フラムとドルフは彼らを追って来た本物のFBI――ではないアメリカ当局に引き渡され、強制送還されたことになっている。無論、茶番である。事後処理としてはだいぶ雑な設定だが、ドルフに関しては大体合っているし、フラムはエタンセルの身分を上書きし、ピオが国内に残る形で人数合わせをした。老人と若者では無理もあろうが、テロリストという設定上、最低限の変装があると見込めば、年齢差の妙は解消できるだろう。

小場の生真面目な性格では怒り心頭も視野に入れていたようだが、フラムと行動した時のことは、存外……良い思い出になっているようだった。

「まあ、その……テロリストだったわけですから、悪人なんでしょうけど……」

ぽつぽつと話す彼は、いつかハルトに『悪党』について聞いた力也に似ていた。

「俺……久しぶりに、誰かに本気で話を聴いてもらったと思うんです……」

はっきりそう言ってから、彼はハッとしてハルトやさららを見渡した。

「あ、あの、違いますよ? 皆さんがそうじゃなかったとかじゃなくて――……」

「わかってるわ、コバちゃん」

さららが笑ってくれたので、彼はほっとした様子で切り出す。

「彼、聞き上手だったんですよね……日本語が上手いのに、日本人じゃなかったからかな? 俺、子供の頃の夢とか、今の仕事に感じてるギャップとか……しょうもない事も沢山話しちゃったんです。いい人だったとは言えないですけど、うん……それもギャップですね。知らないと……普通なんですね。イメージと違ってたなーって……」

日本を平和で安全な良い国と評価したり、警察がその平穏に貢献していると言ってくれたり、アメリカ同時多発テロをきっかけに両親が他界していることを話してくれたらしい。後でピオに確認したことだが、彼はただ一言、『自分はフラムで居ただけ』と答えた。警察官の小場に気を遣ったのではなく、フラムなら何と言うかをありのまま話した結果ということだ。

例の『トオルちゃんメモ』の『シャボンくん』というのもシャボン玉のことで、彼は煙草のように普段から吹いていたらしく、同時にこれがキリング・ショック解消法というのだから、何となく心に傷の有る人物が窺えた。

「……未だに答えが出ないんです。テロで家族を失った人が、テロリストになる理由が」

困ったように笑った小場に、ハルト達は顔を見合わせた。

「あ、いいんです。皆さんに答えを求めるわけじゃないんです。ただ、もう一度……彼に会えた時の為に、考えておこうと思って」

ハルト達は「それがいい」という顔で頷いた。

自論を講釈してやってもいいが、日本の正義に慣れた小場には理解できまい。

テロリズムとは、政治的目的達成を図る為に暴力を振るう事だ。反対派を殺害し、家屋を破壊し、恐怖や苦痛を与え、無理な要求や譲歩、抑圧を迫る。時にそれは思想や信仰を利用し、弱い人々を大義の為の犠牲にする。その行いを否とするのは、善良な価値観だ。ただし、それはテロを起こす人間が、何故そうなったのかを理解した上でなければ、上辺の正義漢に過ぎない。

では、何故、9.11は起きたのか。

端を発するのはその十年近く前の湾岸戦争だと、テロ主犯格は証言したそうだ。

非イスラム教徒が入るべきではないアラビア半島にアメリカ軍が駐留したこと、イスラエルのレバノン侵攻にアメリカが助力したこと、破壊されたレバノンのタワーを見て、同じことをアメリカに報復すべきと考えたこと、そうすることで彼らがレバノンの女子供を殺すのを防ぎたかったこと――……

詭弁には違いないが、これに賛同する者が居たわけだ。

湾岸戦争はどうだろう。

こちらはイラクによるクウェート侵攻後、撤退しないイラク軍にアメリカを中心にした多国籍軍が強制措置を行って起きたものだ。イラクによる侵攻原因は、これより以前のイラン対イラク戦争に対し、クウェートが借款しゃっかんを要求したことからだが、単なる借金問題ではない――……この通り、元など辿りようがない泥沼だ。

9.11の後、アルカイダやタリバンを相手にしていたアメリカ兵は、多くが敵討ちの気持ちを抱いていたという。テロで家族や友人を失い、怒りと悲しみに燃える人々に見送られ、強い母国愛を胸に彼らは“敵”と戦った。テロで家族を殺された人間が、テロの首謀者に憎悪と殺意を抱くのも、人間的な感情だ。武器の恐怖を知り、威力を知り、影響を知った人間が、怒りの矛先に向けて同じものを手に取ろうとすることは、不思議でも何でもないとハルトは思う。

――あの日、殺してしまった男もそうだった。

何かを訴える際、一切の対話を放棄するのが武力行使であり、戦争である。

小場があの件で変わってしまった人間を理解しようとするなら、時代背景と、中東と西洋の信仰について改めて学習した方が良いだろう。

「コバちゃん、これからどうするの?」

心から心配そうなさららの問い掛けに、純粋な瞳を輝かせて小場は答えた。

「実は、人づてに誘われて、子供の支援団体に勤めることになりました。業種は色々有るんですが……主に居場所提供や相談が主な所だそうです。最近、若者の強盗が多いので、どうも治安や運営に不安があるとかで……男手が欲しいらしくて」

「へー……子供の支援か……」

『人づて』という辺りが引っ掛かるが、あの男の『計画プラン』ならもう仕方がない。

「いいわね、ぴったりだと思う。この辺りの施設なの?」

「あ、いえ、都心の方なので、年内には引っ越そうかと思っています。二月近くになると引っ越しラッシュが始まってしまうので、早めに……」

どうやら、引っ越しはさららより小場が先だった様だ。これも一種の強制移送だろうか。

「正直、逃げるみたいで罪悪感もあったんですが……俺には、犯人を追うより、子供を犯人にしない方が合ってるんじゃないかなって。ちょっと情けない感じしますけど……」

「どうして。コバちゃんらしいよ」

ぶっきらぼうに出た未春の言葉はフォローなのか非難なのか定かでなかったが、さららがにこやかに頷いて、小場は照れ臭そうにはにかんだ。

「落ち着いたら、また遊びに来てね」

「は、はい……!」

さららへの気持ちは変わらぬ様子の小場に、ハルトは内心、首を捻った。

はて、“この辺り”を十条はどうする気なのだろう? 都内に居るぐらいなら安易に訪ねてきそうだし、警察官ではなくなっても、末永と音信が途絶えるわけではない。

仮にさらら自身が引っ越しても、彼女は此処で働く気だろうし……

「ハルちゃん、そろそろ紹介してあげたら?」

目が合ったさららに促され、ハルトは小場が心臓麻痺で死なないように注意しながら、かなり小さな声で言った。

「……コバちゃん、テロリストとウチの店の前で会ったって話だよな?」

「はい、そうです。そういえば……彼らは此処に誰が居ると思っていたんでしょうね?」

「アレさ、実は……正真正銘の有名人が居たんだ」

「え、有名人?」

「未春、呼んできてくれ」

頷いた未春が店の階段を上がり、十条家の玄関を開けて呼び掛けた。

中から出てきたのは、天使のような少女だ。今日は誰かの服ではなく、自前のふんわりした短い裾の黒ワンピースにオーバーサイズの上着を引っ掛け、ソールまで真っ赤なハイヒールを履いている。小場は声にならない悲鳴を上げて飛び上がった。

「リ……ッ……リリリ、リ、リリー……!?」

人間、驚くと本当に飛び上がるものらしい。立ち上がり、目玉が飛び出るのではというほど見開き、唇をわななかせ、腰を抜かしそうになりながら机に掴まる。

その様子をスカーレットのルージュを微笑ませたリリーが見下ろし、可愛く片手を上げた。

「Hi, Mr.Koba」

「え、本物? 本物ですよね? な、なななんでリリーが……!?」

釣り上げられた魚のようにバタバタする男を、ハルトもさららも苦笑混じりに見るばかりだ。先にすたすた下りてきた未春に至っては、説明を求めて喘ぐ視線に、にこりともしない。リリーを階段からエスコートしてきたのは、如何にもマネージャーといった風貌の欧米人――言うまでもない、ピオである。しかし、その雰囲気はフレッドともフラムとも違う。髭を剃り、ラフなジャケットにズボンという装い一つ変わった程度だが、小場は全く気付いていない。

いや、単にリリーに気を取られて何も入って来ないだけかもしれないが。

「Mr.Koba, Nice to meet you.」

リリーの膝を折ってのキュートな挨拶に、小場は「気を付け」状態だ。形状記憶合金のように動かなくなってしまった男を見て、リリーが小鳥のように首を傾げた。

「Are you OK?」

「お……オッケー! だ、だだ大ファンですッッ!」

此処は軍隊の駐屯地かと思う反応に、歌姫はクスクス笑った。

「Well……I’m sorry for getting you involved in all of this.」

「う、え……?」

「巻き込んで申し訳なかったってさ」

訳してやったハルトに、小場は心当たりがないのだろう、ポカンとしている。

「あのな、コバちゃん。ウチのお得意さんに、リリーの知り合いが居るんだ」

ハルトは言った。嘘ではない。

「何の目的か知らないが、例の連中はアメリカでリリーを狙っていたんだと。彼女はそのお得意さんに会ったり、打ち合わせなんかの為に来日する予定だったから、パパラッチ対策との両面で、万一に備えた影武者を手配してたんだそうだ」

お得意さんがアマデウスからリリー本人に移ったところが有るが、嘘ではない。

「だが、連中は勘が良いのか襲いやすかったか、都心のホテルの前にこっちを狙った。俺たちは気付かなかったけど、コバちゃんが顔出したおかげで何も起きずに済んだんだ」

大嘘である。

「だけど、代わりにコバちゃんが連中に攫われて、リリーのアカウントを不正利用したメッセージにも騙されたって聞いて、彼女は感謝と責任を感じてるって」

リリーがぺこりと頭を下げてから微笑んだ。

「Thanks so much.」

「そ……そうだったんですか……驚きましたけど……お、お役に立てて良かったです」

「It is my turn to give thanks.」

もう考えずにハルトを見た男に、肩をすくめて苦笑した。

「『今度は私がお礼をする番』」

「えっ! い、いえ……! そんな……当然のことをしたまで……? ですし……!」

まだ情報が完結しないのか、大慌てで両手を振る男に、リリーは笑みを浮かべたまま小首を捻る。傍らのピオに何かヒソヒソと話し掛け、彼が頷いたのを見て、小場の前にちょこんと歩み出る。

「I would love to have you over for concert.」

「ラ……ラブ……!?」

しょうもないワードだけリスニングした男の肩を、ハルトが呆れ顔で叩く。

「違う、コバちゃん……今のは丁寧に言っただけ。コンサートに招待したいそうだ」

「ほ……本当ですか! コンサートなんて盛大なイベントに……!?」

小場の驚き様に、胡乱げな顔をしたのはピオとハルトだ。

音楽イベントは大体、コンサートと呼ぶのだが、コイツは何を勘違いしているのか。リリーは悪戯っぽく笑っている。

「そっか。海外では、ライブって言わないんだね」

聞き取った未春の声に、にこりと笑ったのはリリーだ。ハルトは顎を撫でて呟いた。

「liveだけじゃ、『生放送』だろ……?」

「日本では、音楽イベントのことをライブって言うんだよ」

久しぶりのハルト専用辞書の解説に、視界の端で「なるほど」という顔でピオが頷く。辞書の持主は釈然としない顔をしていたが、興奮に頬を紅潮させている小場に振り返った。

「そうだ、その『ライブ』に関して、コバちゃんに頼みがあるんだってよ」

「俺に?」

「誘ってほしい人が居るんだって。今回、巻き込んだ人間の一人を」

ピオの話からすると、目を瞬く男にとって吉と出るかは不明だが。

……一万ドル使うからには、良い結果を出してもらわねば割に合わない。

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