8.Diva and Spider.

 茶室のように静かなレストランの一室で、二人の外国人が向かい合って食事をしていた。片方は、仕立ての良いスーツが似合う金髪碧眼の男だ。若くは無いが、衰えを感じる要素は微塵も無く、目の前に置かれた塗り椀の中で湯気を立てる鏑蒸しに目を細めた。その様子にニコリと微笑んだのは、向かいに腰掛けた少女だ。

せいぜい二十歳未満の金髪碧眼の姿は絵画に見る天使のようだ。同じように椀を開けて香りを楽しみ、箸をつけた。

「日本はどうだったね?『スパイダー』」

「Excellent.」

にこ、と微笑した顔は、知っている人間ならば別の名前で呼んだに違いない。

だが、その人物に比べると奇妙な気配が漂う。声はやや低く、顔は確かに少女なのに、優雅な内に潜むのは熟年の男性的な落ち着きだ。運ばれてきた帆立や海老などの海鮮が紅葉と共に乗った料理も、美しいと褒める一方、若い娘のように写真を撮ろうなどとはしない。ゆったりと椅子に腰掛け、クリアな日本酒を嗜む仕草は、スーツの男と大差ない。

「リリーは、楽しい休暇を過ごせたのか」

問い掛けも雄々しい雰囲気が漂う“少女”に、男は思案顔で唇を歪めた。

「どうかな。彼女次第ではないかね……辛い過去と初恋の人間に会いに行くなど、どうにも哀愁が付いて回りそうじゃないか」

「だが、ミスター・アマデウス……貴方は許可した。本件に関わらずとも良いものを」

「ステフが可愛がっていた少女の頼みだ、聞いてやるのが親心というものさ」

「親心? フフ……『死神』が仰るには、生ぬるい言葉だ」

素知らぬ顔でグラスに口をつけた男を眺めながら、含み笑いを落としたグラスの中身を、スパイダーは緩やかに回した。

「日本を騒がせて、トオルは怒っていないのか?」

「此処を予約してくれたのはトオルさ。彼が怒っているのなら、この素晴らしい料理に毒が入っているかもしれない」

「それは困る。こんなに旨い毒を出されたら、土産に毒を買わねばならない」

皿は、鮮やかな絵画が消えた額縁のようになっている。互いに和やかな笑いを浮かべ、改めてグラスに口をつけた。

「心配いらない。トオルは強かな男だ。彼は彼で、今回の件を別の目的に利用している。どちらかというと、ハルが怒りそうで怖いね」

「さすがは死神の秘蔵っ子、子守りに一万ドルでは満足しないか」

「そこがハルの難しいところさ。金をむしり取るのは好きだが、金自体はどうでもいいんだ」

「貴方が泣いて謝る方が効くんじゃないか」

「うーむ、うちのスタッフに泣き方を教わっておこうかな」

満更でもなさそうなぼやきをしつつ、次に出てきた肉の皿に嬉しそうに相好を崩す。程よい香ばしさを纏ったレア・ステーキには、塩やワサビ、黒胡椒が慎ましく添えられ、焼いた松茸や蓮、長芋などが芸術品のように並べてある。

「本当は、フライクーゲルにも会いたかったんだが」

「ハルに? そうか、伝えておこう。君がそう言ったと知ったら驚くかもしれない」

「自己紹介したことが無いからね」

顔を合わせたことはあるが、名乗ったことはない。彼はきっと、ステファニーが抱えている大勢のスタッフの一人だと認識しているに違いない。

「……ステフは、彼を怖がっていたからな。私が関わるのも嫌だと言っていた」

「そうだったね。彼女とも、一度会わせたきりだ」

「『アマデウスは、おぞましいものを作った』――よく言っていたよ。彼女は貴方の事が好きだったけれど、マグノリア・ハウスの件だけは蔑視していた」

「お互い様さ。TOP13は皆、核以外の脅威を持っている。ステフが生きていたら、僕は今もあの頭脳に怯えた筈だ」

綺麗な紅色を見せた柔らかな肉を、のんびりと箸でつまんでアマデウスは言う。

「――貴方には及ばないよ、ミスター・アマデウス」

優雅に口に運ばれる肉を見つめながら、物静かに少女は言った。

「リリーを“盾”に使うなど、誇り高き彼女は思いつかない」

「盾。はて……何のことかな」

穏やかに微笑む顔は、如何にも優しそうな皺が寄り、急に好々爺の気配がする。

一方、少女の目には鋭い光が差したように見えた。

「……ステフは、貴方の援助に感謝していた。理解者として尊敬もしていた。私も、貴方が表で行う事業には頭が下がる。彼女の死後もその約束を守り、スタッフの身の振りようを手配し、彼女の社の引継ぎをサポートし、リリーを全米一位に育て上げた。身内の誰よりも、彼女を理解した行いだ」

しかし、と――少女は音もなくグラスを置いた。男を見据えた青い瞳には、恐怖とも畏怖ともつかない何かが揺らぐ。この世のものではない何かを見るような目で、少女は静かに口を開いた。

「ステフは……マグノリア・ハウスの子供は、“全て”死すべきと警告していた。その意味がわからない貴方ではないと思うが」

吐息が聴こえるのではと思う程の静寂に、食事の音が微かに響く。

「貴方にとってそれほど……『フライクーゲル』は重要な人物なのか」

最後の一かけらを名残惜しそうに口に入れ、男は旨そうに澄み切った酒と共に流し込んだ。

「ハルには、やることが有るんだ」

ナプキンで口元を拭ったアマデウスは、にっこりと微笑んだ。

「スパイダー、私は、大切な友人の遺言をないがしろにするつもりはないよ。さりとて……手塩にかけて教育した子供の願いも叶えてやりたいじゃないか。それがわかる筈の君が口を出すようなら、それなりの手段を講じねばならない」

少女は瞬かぬ青い目で男を見つめた。

男は微笑を浮かべたまま、その視線を逸らさない。

ほんの数十秒だが、悠久が流れたような緊張感の末、少女は細い息を吐き出した。

「……わかった。例の二人の件が済むまでは、静観しよう」

「それは何より」

――よく言う。

たかが殺し屋一人、歯牙にもかけぬ存在でありながら、対等に扱うことで、真意を匂わせない。本来は、煙るほどの策謀に満ちているのに、そうと理解しているこちらさえも容易に出し抜くのだ、この男は。

溜息ひとつこぼして、繊細に盛られた肉をひと口に噛み砕いた少女に、アマデウスはニヤニヤ笑った。

「お味は如何かな?」

「旨い」

「では、聞かせてもらおう。スターゲイジーの伝言を」

ぐいと唇へナプキンを滑らせ、少女は頷いた。

「海兵隊の件、スターゲイジーは欧州を睨むと。彼のイギリスを始め、ドイツ、フランス、スペイン、何れにも解雇の動きが有ったそうだが、当事者の行方は不明。ブレンド社は捜索を続けると」

「ほう……そうかね」

「ミスターの見解とは異なるな」

「その方が助かる。奴があちらを見てくれれば、私は私の方に集中できる」

「アジアをトオルと彼に任せて、か」

「さて、彼らは私の部下ではないからねえ……」

向かいのグラスと自らのそれに手ずから注ぎながら、アマデウスは口元を歪めた。

「何にせよ、我々の意志は『世界が滞りなく回ること』に尽きる――共に励もう。紅き才女に乾杯」

グラスを掲げた男に、少女――否、男は同じように掲げた。



「はい、わかりました。どうも」

電話を切ったハルトを、怒りを通り越して幾らか呆れた様子のアンバーが見た。

車の中だ。いつもの十条のセダンではなく、介護施設の送迎などに使われるワゴンだ。室月の指示を受けた清掃員クリーナーが運んできたそのハンドルにでかい溜息が吐かれた。

「……あー……クッソ……寿命が縮んだ気がする……心臓に悪い……」

「ハルちゃん、さららさんは?」

助手席に座った未春は、こっちの心境などからきしといった様子だ。ハルトはハンドルにもたれて、吉報にうんざりと顔をしかめた。

「無事。怪我もない」

「で?」

「…………」

「で?」

ここ最近で最も厳しい詰問に、逃れるようにハルトは片手を上げた。

「二回言うなよ……俺に凄んでも無駄だぞ。さららさんは承諾してる。周りが四の五の言う事じゃない」

「監禁なのに?」

「……聴こえてんなら、聞くな」

発案者を名乗り出たら殺される気がして、ハルトは首を振った。

「大体、お前だってこのままで良いとは思わないだろ? いくら、さららさんの見た目が若いからって、子供を持つなら早い方が良……」

「誰が、誰の子供を持つって?」

間近で完全に座った目で訊ねられ、ハルトはその目を見つめ返すしかできない。

怖すぎる。

同意とやらは、さららよりも先に未春に必要だったのでは?

「……とにかく、俺に当たるな。押し問答はさららさん本人か、室月さんとやれ」

「…………」

今度は未春が沈黙した。わかっているのだ。駄々っ子とて、コイツは大人だ。

毎日、一挙手一投足を見守っている彼女が、何を考えていて、本当はどうしたいのか、わかっているし、心配もしているのだ。

「……どうせなら、殺し屋じゃない方が良いのに」

「お前が言いたいことはわかるよ」

だが、これが適切ではと思っている自分も居る。

どんな植物にも適切な場所がある――アマデウスが方々から貰ってくる植物の世話をしながら、ジョンはよくそう言った。多くは滅多に花が咲くことのない観葉植物だが、彼らもある条件下で花が咲くことがあるという。

一つは、その植物が十分に成熟し、子孫を残そうとして咲く場合。

もう一つは、自身の成長に限界を感じ、最後の力で子孫を残そうとする場合。

後者の場合は咲いた後に枯れてしまうことが多い為、傾向があるのなら、環境を見直した方が良いとジョンは言った。足搔くような咲き方をさせるのは気の毒だと。

適材適所というなら、彼の傍は悪くない。

「……さららさん、引っ越すと思う?」

急にしおらしい呟きに、ハルトは「多分な」と答えた。

「勘違いするなよ。さららさんはお前を見捨てるわけじゃない。俺も偉そうに言える口じゃないが、家を出たって、家族は家族だろ」

「……うん」

ふと、室月の言葉を思い出した。


――型枠にはめると申しましょうか……決められたシナリオに乗せるというか……

――一度、その計画の一部になれば、生涯そうなのではないかと。


未春にとって、あの家は……各自決められた椅子が並ぶ食卓は、型枠なのかもしれない。有るべきものが抜けてしまうと、ぽっかりと残された空間が、喪失感を強調する。それも、コイツの為なのだろうか。

死による喪失感は、偽装とはいえ穂積と実乃里で経験済み。今度は祝福を必要とする別れ。これが、十条が未春に求める経験値の一つだとしたら……

「ハルちゃん」

「……ん?」

「気が付いたみたい」

振り返るのは、後部座席だ。放り出されていた男が、身を捩った。起き上がろうとしたようだが、結わえてある両手首の所為で上手くいかなかったようだ。

ごろりと横倒しになったまま、恨みがましい視線だけがこちらに向いた。

「Nice to meet you……ようやく会えたな、Mr.unknownアンノウン

ハルトの声掛けに、フラムと名乗っていた殺し屋――否、“殺し屋と名乗っていた男”は、薄い色素の目を瞬かせ、顔に掛かった髪をうとましげに吹き上げた。

睨み据えたフロントガラスに見えるのは、ひどく薄暗いコンクリートと鉄骨だ。何処かの駐車場らしいが、人や車が往来する気配はない。かといって無音というわけでもなく、何処かでタイヤのこすれる音や、車体が動く音が聴こえた。

「Where are we?」

「一般の立体駐車場だ。茶番に付き合ってやったんだから、怖い顔するなよ」

溜息混じりの殺し屋に、男は拘束された両腕を少し浮かせて首を振った。

「お互い様だ、フライクーゲル。君の相棒のおかげで私はこの有り様だ」

ちらと一瞥したハルトは、意地の悪い笑みだ。

「悪いな、unknown……文句はアマデウスに言ってくれ。あんたに貧乏クジを引かせたのは、あの人だろ?」

幾らか気の毒そうに告げると、男は肩をすくめ、ようやく人間らしい苦笑いを浮かべた。

「unknownはよしてくれ。私は――……」

「おっと、もう演技はやめてくれよ、 “ブロードウェイ”」

男が瞠目し、視線に込められていた熱は瞬く間に引いてしまった。

「……気付いていたのか、フライクーゲル」

「申し訳ないが、俺は全く。未春こいつの話を聞いて、ようやくだ」

そう。

フレッド・ピアソンこと、フラムという殺し屋はアマデウスが抱える演技専門の清掃員、ブロードウェイ団員だった。

「言われなけりゃ、俺は最後まで気付かなかったと思う。相当な腕前だ。殺人鬼ドルフの頭がイカれてるのを差し引いても、あんたをフラムと信じ込んでいたからな」

「嬉しいが、腑に落ちない。そちらの彼は、どうやって気付いた?」

教えてやれよ、という視線に、未春はぼそりと答えた。

「心臓の鼓動」

「鼓動……?」

「そんなに心臓バクバクさせた殺し屋、会った事ないから」

男は肩をすくめて、吐息と共に目を閉じた。

「異常聴覚……そうか。疑う余地も無い。顔は平静を保ったつもりだったんだが」

実際、そうだったのだろう。しかし、殺し屋を前にした心拍数――早鐘を打つ心臓の鼓動までは誤魔化せなかった。

「落ち込むなよ、ブロードウェイ。あんたは完璧だった。相手が悪かっただけだ」

ハルトの賛辞に、急に若く見え始めたブロードウェイは、照れ臭そうに顎を引き、鼻に皺を寄せた。

「……ピオ・ルッツだ。君に言われるのは光栄だよ、フライクーゲル」

「未春、あれ取ってやれ」

のそりと後部座席に半身を伸ばした未春が、魔法のように現れたナイフで拘束を解いてやると、うっ血したそれをさすりつつ、偽の殺し屋は溜息を吐いた。

「ドルフとエタンセルは?」

「ドルフは殺してないが、拘束して治療中。エタンセルは死んだよ」

「……では、本作戦は成功だ。……良かった」

どっと疲れた溜息を吐く男は、相当なプレッシャーと戦っていたものらしい。か弱い笑みを浮かべると、更に年齢は若返って見えた。

実際、殺し屋のフリをするのは相当難しい演技だろう。規律や細かなルールに溢れた軍人よりはいいかもしれないが、制服なぞ無いし、銃を携帯しているだけでは一般人と大差ない。特にクリスの部下は総じて爆弾に精通している為、その分野の知識も必要、且つ、今回は使用を求められている。無論、フラムの細かい言動や趣向、同行する同僚のこと、その関係性まで熟知しなければならず、バレた際にはその上司にまで飛び火しかねない危険なミッションだ。

「そっちの目的達成はめでたいだろうが、こっちも腑に落ちないことが山ほどあるんだ。あんたをお家に帰す前に、付き合ってもらえるか」

「……いいとも、フライクーゲル。ミスターには、こうなることも事前に聞いた」

ハルトがハンドルに向けて舌打ちした。きょとんとしたピオに、未春が気にしないようにという顔で軽く頷く。

「今回、そっちの目的は」

「大きく三つだ。一つは、ドルフとエタンセルの処分。ドルフは戦闘不能になれば良し、エタンセルは確実な殺害デリートが求められていた」

「オーケー……想定内だ。二つ目は」

「二つ目は、日本で増殖した詐欺広告の元を始末する、ゾンビ狩り。これにはかつて熱心だったステファニー・レッドフィールドの殺し屋『スパイダー』が担当した」

頷いたハルトが促すまま、ピオは答えた。

「三つ目は、小場という警察官を左遷、又は退職させること」

イレギュラーの正体に、ハルトだけではなく未春までもが小さな溜息を吐いた。

同時に考えていただろう。間違いない。これは、『日本一のクズ』の計画だ。

「ドルフに聞いて何となくわかったが……クリスは、エタンセルの処分に困っていたらしいな」

「そう聞いている。南米支部では手に負えず、対人戦闘のスペシャリストとして十条に依頼した。しかし、当初……本人は家族サービス中だと断ったそうだ。そこでクリスは彼と懇意のアマデウスに相談し、説得を頼んだ」

「おかげさまで、最悪のトライアングルができちまったわけか」

クリスは身内の始末、アマデウスはゾンビの始末、十条は邪魔な警官の始末、三者三様、お互いにカードを出し合い、シャッフルすることで勘の良い殺し屋を騙し打ちにした。

「本物のフラムはどうしてるんだ?」

「さあ、僕は知らない。本国でのリリーの誘拐騒動の際、ミスターが捕縛したそうだけど……僕が呼ばれた時は、もう普通に同席していたよ。充分、本人から観察の機会を貰ったしね」

つまり、誘拐騒動も、捕縛というのもフェイク。

協力的である点だけでも、フラムはアマデウスとグル、恐らく、クリスとの橋渡し役だ。アマデウスと堂々と接触し、偽物と入れ替わる為の作戦だ。用件はドルフとエタンセルの処分について。

この手間一つとっても、ドルフはともかく、エタンセルは相当手強い相手だったのだろう。楽な通信手段を用いなかった点、老獪な殺し屋は彼ら独自のネットワークにも目を光らせていたのかもしれない。たとえ、毎日顔を合わせる仲でも、警戒を怠らない身内の殺害は難しい。と、なると何故、本物のフラムではなく偽物を作戦に組み込んだのかという話になるが……今回の件で、被害に遭った人間がその答えだ。

「あんたが来たのは、狙いが小場だったからだな?」

「ああ。FBIのフリをして、彼を欺く。君の上司の依頼だ」

小場が誘拐される計画上、殺し屋がFBIを演じるのは無理がある。故にブロードウェイと交代した。

どうやら十条にとって、小場は思った以上に面倒な害虫だったらしい。

真っ正直、且つ真っ当な警察官である彼には、悪党として付け入る要素がなかったのだろう。末永のお墨付きである以上、殺せば勘繰られ、ミスを誘発すれば何処から探られるかわからず、上司の山岸が責任を問われて異動となるのも避けたい。最も良いのは、本人の意志で辞職、或いはミスによる遠方への左遷――とにかく、DOUBLE・CROSSの近辺から遠ざけること。ただ、これだけ真面目な男となると、スキャンダルはおろか、ギャンブルやアルコールまでもが遠く、酔った勢いや借金は不自然だ。

しかも、さららに真剣に恋をしてしまった以上、下手なハニートラップなど効きはしない。でかいミスをしようにも、比較的、平和な部署。小場お得意のウッカリやおっちょこちょいで左遷や退職が生じるほど、安定がウリの公務員は厳しくない。

「それにしてもFBIってのはぶっ飛んだ話だな。言ってて恥ずかしかったろ」

呆れた調子のハルトの問いに、ピオも肩をすくめて苦笑した。

「十条は本人よりも彼の身辺を把握して、今回の作戦を立案したんだろうね。本人からも聞いたが、小場が警察に憧れたのは、FBIが活躍する映画だそうだ。念のため、僕も観た。フィクションも多かったけどね」

後はそれらしく振る舞えばいい。

ピオはそう言うが、仮にもファン相手に見抜かれずに済む技量は目を瞠るものがある。あまりに映画に忠実では、かえって変だと思われるだろう。

この調子だと、『ブロードウェイ』には本物のFBIという人材も居そうだ。

「ああいう純粋な人間を騙すのは後味が悪い。彼が道を踏み外さないのを祈るよ」

ハルトは苦笑いを返した。

散々に騙した側の祈りで、小場が立ち直れるかは怪しいものだ。

恐らく、偽FBIの“顔”となったフラムはピオとの面会以降、顔も素性も変えているに違いない。ドルフは即日処分こそ免れたが送還される為、今後の生死を問わず、小場と出会うことはまず無い。騙した相手が二人とも消えてしまっては、仮に二人を撮影したり、音声を取っていても何の証明にもならない。

爆破事件との因果関係も問われるかもしれないが、小場は付いていっただけで犯行には関わっていない上、今回の移動に使っていた車は既にディックが解体中。

煙草さえ吸わない彼と、入手困難なレベルの爆発物は到底結び付かず、証拠不十分ということになるだろう。

まあ、彼の性格からして、左遷の沙汰に対して辞表を出すかもしれないが。

結果、十条はノータッチで気の毒な警官を遠ざけ、殺人鬼の始末も片付けたわけだ。

「ん? じゃあ、エタンセルを呼び出す情報を流したのは誰なんだ? 十条さん本人か?」

「指示は十条だろうが、そこには調査会社ブレンドが入った」

「ブレンド社? イギリスの?」

ピオは軽く頷いたが、ハルトは唖然としてしまった。

脳裏に浮かぶのは、アマデウスと顔を合わす度、白い歯を剥き出して小学生じみた口喧嘩をするラガーマンのようなビジネスマン――ボス・スターゲイジーの姿だ。

「一体……今回はどういう風の吹き回しなんだ? 故人のステファニーはともかく、TOP13が四人も関わって……」

「ミスターの話じゃ、スターゲイジーは既に自分から調査員を送っていたそうだ。ここ最近の日本の動向を気にしていたとか」

「自分から……そうか……“らしい”と言えば“らしい”か……」

ボス・スターゲイジーは自身の調査会社ブレンドを通じ、表裏の幅広いジャンルの調査を行う。つまり、この会社は世界中の情報に精通しているし、そうであらねばというプロ意識が高い。最近の日本では、裏社会の重鎮が死亡し、南米の麻薬組織だったロスカ・カルテルが武力抗争を起こし、北米関係と思われる謎の元兵士との戦闘など、盛り沢山にも程がある騒ぎだった。事の顛末がややこしいのは十条の所為だが、麻薬組織と兵士の件はイレギュラーである。ブレンド社としても、アマデウスに喧嘩を売るような正体不明の武装勢力は見過ごせないのだろう。そこに来て、今回の件は北米と南米がタッグを組んだ。

マグノリア・ハウスの件でも協力関係にあった二つの勢力に対し、スターゲイジーの介入は「コソコソするな」と釘を刺す意味もあるかもしれない。

「ブレンド社からは、誰が?」

「サトウ・アンと名乗った若い女性が。日系人のようだったけど、少し違う血が混じっていると思う」

ピオの苦笑いに、ハルトも笑うしかない。ひどいネーミングだ。

スターゲイジーはアマデウス同様、日本贔屓。豆を甘くする習慣のない英国では好まれない餡子が大好きという変わった男で、羊羹ようかんはアフタヌーンティーに毎日出ても良いと言っているらしい。

「エタンセルは勘のいい爺さんだったからね……おまけに好戦的だ。いくら清掃員が優秀でも、ボロが出たら言いくるめる前に殺されるし、殺し屋を使えば戦闘になるかもしれない。だから敢えて、十条はスターゲイジーに頼んで“本物”のブレンド社の社員から情報を流してもらったんだ。それなら疑う余地もないし、社員を殺せばスターゲイジーの怒りを無駄に買う。彼が戦いたかったのは、十条だけの様だったから」

結果的には、その悲願をそっくり無視したわけか。

「僕らの方には、君たちの所の清掃員が付き添ってくれた。ミスターが気に入っている、トリックスターだ。僕もアメリカで顔を合わせている」

軋るような笑い声が聴こえた気がして、ハルトは顔をしかめた。例によって不在のように静かな未春も同じ顔つきだ。

「スターゲイジーの部下なら、あいつが居なくても上手くやるだろうに。なんで付いていった?」

ピオは思案顔で首を捻る。

「急な変更が生じたから、話の食い違いに対応するため……そう聞いた。結局、彼は一言も喋らなかったが、電話で済ませなかったのは小場の気分転換だったらしい」

「急な変更?」

「当初の予定では、エタンセルの始末は、君か、ブレイド・ウォーカーがする筈だったんだ。それをギムレットに変更するって」

「……はあ……――なるほど、『心当たり』ってのはそれか……」

あの室月が、優一の表の仕事状況を知らぬ筈がない。恐らく、多忙だった彼をエタンセルの実力と天秤にかけた上で、彼の体力を一気に奪う絶好のタイミングを計ったのだろうが……こちらは楽をさせてもらったものの、本当に忙殺しかねない計画をなに食わぬ顔をして実行に移す辺り、室月もなかなかの痴れ者だ。

「それにしても、例によって回りくどいやり方になったな。リリーが来日したのが全く別の話なら、そう言ってくれりゃいいのに」

ぼやいたハルトに対し、ピオは軽く首を捻ってから首を振った。

「そうでもないと思うよ、フライクーゲル」

「は?」

「だって僕らは……『スパイダー』に関しては、知っていたつもりで騙されていたんだから。僕の認識では、君たちの所に行ったのが『スパイダー』で、“彼”の影武者が『リリー』だと思っていたんだ。何かワケがあると思うけど」

ハルトと未春は顔を見合わせ、互いに胡乱げな顔になる。

「何がどうしてそうなるんだ……?」

「仕方ないだろう? 『リリー・クレイヴン』は、『スパイダー・リリー』と瓜二つなんだ。よほど親しい人でも、並べて見分けはつかないよ」

「……なんだと?」

「その様子だと、君は“彼”の顔と名前が一致しないんだね? フライクーゲル、君とは面識がある筈だ。ステファニーの葬儀で、手紙を読んだ子だよ。僕も報道で見た」

「手紙?……って……いくらなんでも十歳くらいにしか見えなかったぞ。奴はあの頃、例のハッカー集団も殺ってた筈だ。あんな子供じゃ……――」

言い掛けて、嫌な予感に行き着いた。

ステファニーの表の関係者には、障害者が多かった。それはBGM側でも同じ。

車椅子の者や義足を付けた者にも殺し屋が居た。その大勢が参列する葬儀の席上、堂々と手紙を読み上げ、周囲の涙を誘った細くしなやかで、小柄な……あれはリリーそっくりの“少女ではなく”――……

「そう、子供じゃないし、女性でもない。彼は当時から、れっきとした大人の男さ」

ピオの言葉で、更に記憶が鮮明になってくる。あの葬儀には、子供も多く参列していた。彼らも多くは障害を抱え、彼女が支援していた施設や学校、病院に通う子供たちだった。スパイダーは、――当然、違う名前を名乗り、彼等の代表として別れの手紙を読んだ。全体に線が細く、透けるような白肌と淡い金髪の彼は女の子にしか見えず、喪服を纏って尚、天使か妖精と囁かれていた。

小人症しょうじんしょうの一種だそうだよ。原因の病までは公表していないし、整形もしているそうだけど、実年齢は君よりも上。ステファニーの遺言を守り、今はアマデウスの傘下に居る」

ハルトの頭に、あの時、『スパイダー』の髪を飾っていた白い花飾りの名が甦った。

アマデウスが偉そうに講釈した花の名は、英名をリコリス・ラジアータ。

白いものはアルビフロラとも呼ぶが、いずれも蜘蛛スパイダーに似たその形状から、別の名を持つ。

「『スパイダー・リリー』……そうだったのか……」

日本では彼岸花ひがんばな曼殊沙華まんじゅしゃげの名でお馴染みの赤い花だが、季節になると群れ咲くその蜘蛛のような百合は、彼女のオフィスにも飾られていたそうだ。旺盛に咲くわりに数日と保たず、しかし来年はまた咲き誇るこの花を彼女は好んでいたらしい。

「影武者だったのは、スパイダー・リリーではなく、リリー・クレイヴンの方……どうりで郊外で暇を持て余すわけだ……」

「僕はリリー・クレイヴンについてはよく知らないんだが……彼女、殺し屋でも、清掃員でもないよね? ステファニーが重用していたから、アマデウスが引き取ったそうだけど」

「重用したからスパイダーに似せたんだ。なるほどな……彼女の願いを聞いた神が、ステファニー……本当に、苦しんでいた人の神ってことか」

「……? どういうことだい?」

「いいんだ、ピオ。これは今、首を突っ込む話じゃない」

かぶりを振り、ハルトは残りの質問に切り替えた。

「じゃあ、スパイダーの傍にはもう一人、リリーの代わりが居たんだな」

「多分ね。ただ、リリー・クレイヴンが活動する予定は無かったから、もう一人の影武者はそれほど似ていなくても良かったんじゃないかな」

『アポロ』からでも適当に一人置けば済む話か。

ふう、とハルトは溜息を吐いた。転がされるのは慣れているが、心的疲労感は慣れても変わらない。

これではっきりした。

殺し屋の始末に、リリーは全く必要のない駒。それなのに何故、このタイミングで来日したのか。ただ日本に来たいだけなら……或いは、想定される用件で来たのなら、殺し屋が集結する場など避ける方が良いに決まっている。

それを何故、全てを知るアマデウスが許可したのか。

――リリーに確かめるしかない。可能なら、アマデウスにも。

だが、その前に。

「じゃあ、最後にもう一つ。今回の件でアマデウスはどれだけ……いや、何で『儲けた』?」

ピオは不思議そうな顔をしたが、言葉に詰まったのは隠せなかった。

「さあ……僕は何も聞いていない」

「そりゃあ無いな、ピオ。今回、アマデウスは前金に一万ドル出した。リリーの滞在費と報酬にしては気前が良すぎる。クリス側が殺し屋の処分費用に大枚はたいたとしても、殺ったのはウチの支部だから、アマデウスに大金は入らない筈だ。小場に掛かった費用は、 目的の上では十条が払う立場。そして、北米から参加したのは『ブロードウェイ』のあんたとスパイダーだが、スパイダーはアマデウスにとっても私的利用だし、あんたの取り分も別に払うに決まってる。あの人の性格からして“ゾンビ”の稼ぎをくすねるような真似はしないだろうから、これじゃマイナスにしかならない……が、他に参加している部下も見当たらない」

「ミスター・ジョンが居たけど」

「おいおい、知ってるだろ、あいつは基本、一般的な月払いを受け取るだけの秘書。その枠以上、奴が稼いでくることはない」

ピオは困り顔で首を振った。思ったより、この男はとぼけるのは不得手らしい。或いはその素直さが、殺し屋をも騙したか。

「俺はわかってることを確認するのは嫌いなんだが……今回、お前らが爆破したビル、全部が駅に近いよな。しかも、どのビルもダミー企業が勝手に使っていて気付かない雑な管理。寂れた界隈じゃないのに、儲かってるようには見えない。この管理者――遡ると、土地の持ち主はひじりグループに辿り着くんじゃないか?」

ピオは後部座席にもたれて、足元の隅を見つめている。

「『I'm busy』でお馴染みのアマデウス本人が外国を訪問する時は、自分の目で確認したいことがあるか、本人が必要な手続きがある場合、又はその両方だ。死んだ悪党の土地を買う……有りそうだが、あの人が買うだけとは思えない。他の誰かに仲介するならわかるが」

「……日本の土地を斡旋するのは、それほど儲かるものなのかい?」

「中国に売り飛ばせば儲かる。が、そんな真似はしないな。俺にはセレブの心当たりはあまり無いんだが、……あの人の滞在ホテルで外国人を見たな。IT企業家っぽい黒服の男だ。そういや、スターゲイジーも日本に拠点を欲しがってなかったか?」

やれやれと言わんばかりに、ピオは両手を掲げた。

「参った、フライクーゲル。君はキャッシュにうるさいとミスターから聞いていたが、その通りのようだ」

「……一言多い」

顔をしかめたハルトだが、未春は小さく笑ったようだった。堪忍したピオは席にもたれてリラックスした顔で足を組んだ。

「そう、その通り。ミスターはここひと月ほど、十条と一緒に聖グループ関連の土地や持ちビルの買収と売却を行っている」

グループというだけに、聖家の関連企業は数十規模。BGMと関与のない企業の方は理事が消えただけ、聖彩せいさい学園も変わりなく運営されているが、裏の企業はそうはいかない。実質的に指揮していた聖 茉莉花まりかは既に故人なので、十条や室月、茉莉花になりすましていた明香の協力によって組織解体が進められ、残せるものは十条や小牧こまきグループが預かった。

一方で、にわかに始末し難い高すぎる土地や、放置されていたビルなどの一部には、アマデウスや他のTOP13が手を挙げた。爆破のターゲットに選んだのは、ダミー企業の追いだしと話題性を得るためだ。こういう事件があると、この場を急に刷新するよりもやり易い上、死傷者は出ていないので嫌なジンクスは付いてこない。

変化に慎重な日本人事業者も、壊れたビルを前に途方に暮れていたところに、出資するから新しくしたいと言われれば、有難いと食いつくのが相場だ。

「今回、爆破した三棟もその他の土地も多く買い取った。君が言うように、中国を入れたくない意図もある。この辺りは、十条やスターゲイジーと意見が合ったようだ」

「だろうな」

「君がホテルで見た男はたぶん、『TAKEテイク』の創業者のアルフレッド・ヘスだろう。そもそも、ミスターは彼が『TAKE』を立ち上げる際の支援者だ。今回も彼の新しい事業の為、仲介をした。これにスターゲイジーも一枚噛んだってわけ。サトウはアマデウスとは会っていないが、アルフレッドとは面会したそうだ。悪党の橋渡しをするんだから、一代億企業は強かなもんだよ」

「……当然だろ。そいつの正体は恐らく、クリス・ロットだからな」

ハルトの何気ない一言に、未春とピオが目を瞬かせた。未春はいつもの無表情だが、ピオの方は途端、嫌な汗が噴き出たような顔をしている。

「『TAKE』の創業者が……クリスだって?」

「ああ。『今は』って言った方が正しいと思うが」

ネット環境の整備に執心な点だけでも、クリスの正体はネット・ビジネスに関わる人間だ。

しかし、いくらネットワークの邪魔者だからといって、日本の個人を狙うのは些か突飛に思われる。犯人が特定された状態なら、殺害という究極的な制裁に出なくても、脅し、或いは取引という手段で大人しくさせることは不可能ではない。

実行した理由は、彼らが『TAKE』上で荒稼ぎをし、表向きの警告を無視したから。

無関係ならともかく、クリス自身が『TAKE』の創業者なら、「おかんむり」なのは頷ける。TOP13は、自分のテリトリーを侵されることを極端に嫌う傾向が有る。比較的、穏健派のアマデウスさえ、自分の管轄にドラッグが入り込めば主犯格を徹底的に潰す。全ての障害者を家族のように考え、手を差し伸べることを望んでいたステファニーも、彼らを害する者は殺してきた。そこに来て、過激派のクリス・ロットとくれば、極端なやり方が出てもおかしくはない。

……いや、“おかしくない”ように“敢えて”過激にやった。

「多分、“今後の”クリス・ロットは、IT企業の実力者が交互に名乗るだろうな」

「どういうこと?」

「エタンセルが殺されたからだよ」

まだピンと来ないらしい未春に対し、先に顔を上げたのはピオだ。

「もしかして……正真正銘のクリスが、死んだから……?」

「へえ、鋭いじゃないか、ブロードウェイ。……きっと、エタンセルは本来のクリスの顔を知る唯一の存在だったんだろ。だから消された」

「クリスが引き継がれてるのに、なんで消す必要があるの?」

「それだよ、未春。『クリスが引き継がれていないから』殺されたんだ。どうりでTOP13が何人も集結してるわけだよ……コイツは『乗っ取り』だ」

ようやく未春が腑に落ちた顔になる。

何のことはない、今回の計画の全貌を見れば明らかだ。

目的そのものは、南米の行き過ぎた殺し屋の始末、ゾンビ狩り、小場の左遷。

しかし、順序はアマデウスこと北米からスタートし、殺し屋の始末をしたのは日本、ゾンビを狩ったのは今は北米所属の殺し屋、小場を左遷に追い込んだのは北米の清掃員。渦中に居る筈の南米は狩られにやって来ただけであり、クリス・ロットとしての姿は、それらしき爆破以外、何処にも見当たらない――にも関わらず、計画的に事は済んだ。

「元のクリス・ロットが正体を明かさなかったのは身体面か何かに事情があったのかもしれないが、長年、効率的に利用してきた正体不明が仇になったんだろ。死んだ理由は老衰か病か……他殺かもわからないが、それを掴んだ奴、まあ恐らく本物のフラム――こいつがアマデウスにリークして、今回の計画に行き着いた。クリスを都市伝説的な存在のままにしておけば、正体不明のまま、実権のみを掌握できる。後続をIT企業家にやらせるんだ、今後は爆発を控えて、ネット上の怪物にでもしておく気だろうな」

爆発などという派手な手段をやらせた最大の理由は、クリスの存在を誇示しておくため。クリスがエタンセルを煙たがっていたというドルフの話からして、彼が死亡したのは今よりもっと前の話かもしれない。フラムが『乗っ取り』に手を貸したのは一見、裏切りにも思えるが、あの土地柄では正解だろう。クリスの死が公になれば、爆破の天才が君臨していたことで押さえていた些末なギャングや麻薬組織が何をするかわからない。先のロスカ・カルテルの暴動は無関係かもしれないが、彼らを撃滅したのは、クリスが何も言わないことを怪しまれるのを防ぐためでもあるだろう。

「フライクーゲル……それが本当なら、今回関わったTOP13はこの事を……」

「知った上での作戦だろ。TOP13達は、土地の争奪戦をしてるわけじゃない。面倒な土地を管理するって奴が出て、文句を言う奴は居ないんじゃないか。あのスターゲイジーが肯定派なら、騒動にはならない筈だ」

ピオは片手で顔を覆い、拭う様にしてから深く息を吐いた。今さら、大謀略に付き合わされたことに気付いたのだろう。

「短期間に、二人も減ったのか……」

「そうだな。……まあ、どいつもこいつも人間だ。いつかは死ぬ」

素っ気なく言うハルトに比べ、ピオは蒼白な顔つきで首を振った。

「さすが、フライクーゲル……落ち着いてるな。彼らが13人を保ってきたのは、争いにならない為の予防線だと聞いてる。誤解する人間が出てくる可能性があるんじゃないのか」

「あんた、清掃員のわりに思慮深いな」

呑気に感心したような口調のハルトだが、顔は笑っていない。

「俺たちが心配したところで時間の無駄だよ」

「そうだが……クリスの死亡が、自然死という保障はない。もし、例の……――」

言い掛けて、ピオは押し黙った。こちらを見た男の目が、氷のように冷たい。

「あんた、“あいつら”のことを知ってるのか」

「……う、上辺だけだよ。万一、今回の件に介入した場合を警戒して、ミスターが教えてくれた……」

「ったく……あの人はお喋りだな……長生きしたけりゃ、あいつらのことは口外しない方がいいぞ」

「君は……彼らを殺したがっているって、聞いたけれど……?」

「俺の希望は、なるべく苦労せずに、あいつらの死を確認することだ」

そう呟いたハルトの目を見て、ピオはもう二の句は出なかった。油断していたら、歯や肩まで震えたかもしれない。

何故、今の今まで気付かなかったのか?

目の前に居るのは温厚だが油断ならない青年ではなく、冷酷且つ獰猛な殺し屋だ。

「ピオ」

「な……何だい?」

「あんた、今日の宿はどうするんだ」

「え?」

突然、穏やかな青年が帰ってきて、ピオはしどろもどろになりつつ、首を振った。

「まだ……決めていない。ミスターへの報告もまだだし……」

「そうか。報告なんか後でいいからウチに来いよ。腹減った」

「は、腹……?」

「ハルちゃん、店にあっくんも来てるって」

自分の端末を見ながら呑気に言った未春に、エンジンをかけながらハルトは頷いた。

「そいつはいい。あいつにも手伝わせろって言っとけ」

「もう言った」

ぼそりとした声が響くのを合図に、車は走り出した。



 店に入るなり、待っていたのはエプロン姿で仁王立ちの倉子だ。

「……ハルちゃん、おすわり」

余りの迫力に、リリーさえ抱きついてくることなく、離れて見守っている。

店内に満ちていたのは、場違いな野菜を煮る香りだ。店のキッチンで一体何処から拝借してきたのか、やけにでかい土鍋に向き合っているのは保土ヶ谷である。その傍から「おかえりなさーい」と声を上げかけた力也が、修羅場に気付いてハッとし、勘の良い明香に引っ張られて、すすす……と、フェードアウトしていった。

倉子が小さな手で示すのは床だ。傍らのピオが何事かと息を呑み、未春は黙っている。そして、当事者のハルトは意図を察し、大人しく倉子の目の前に正座した。座るや否や、女子高生が勢いよく右手を振り上げる。パン!と店内に乾いた音が響いた。

「……Are you happy now?(気は済んだ?)」

まあまあの威力に頬を張られたハルトが、むしろすまなそうに苦笑すると、倉子はこちらも申し訳なさそうに頷いた。

「……ごめん。ハルちゃんも叩いて」

ふっくらした頬を指差す倉子に、ハルトは立ち上がりながら両手を振った。

「冗談。遠慮しとく」

「じゃあ、ハルちゃん、俺が反対側叩いていい?」

「良いワケねーだろ、バカ……同士討ちはお断り」

断固とした拒否に、未春は小さな舌打ちと共にキッチンに歩いて行く。ハルトはおどおどとやってきたリリーに片手を上げてから、ぽかんとしているピオに振り返った。

「ラッコちゃん、連絡しといた客だ。ピオ、彼女はMs.Kurako Sorai.まあ、うちの陰のボスってとこだが、一流の淑女レディだ。案内してもらってくれ」

倉子がハルトの肩を拳で叩くが、今度は苦笑いだ。先程の鬼の形相は何処へやら、可愛らしくぺこりとお辞儀をして、店内に準備されている席に促した。

「リリー、話がある。上に行こう」

声を掛けられて、ほっとした顔で微笑したリリーが、ちょこちょこと付いてくる。

「Does it hurt?」

「大丈夫だよ」

英語に日本語で答えたハルトは、リビング&ダイニングの椅子を引いてくれた。

紳士的な態度に、リリーは嬉しそうに腰掛ける。彼は自分の椅子に座り、小さく溜息をした。

「さて……何処から話そうか、リリー。……いや、亀井秋菜かめいあきなさん」

「え?」

聞き返したリリーの顔色がサッと変わった。一瞬にして血の気が引いたそれを見つめるハルトは、物静かだが、以前のような冷たさは無かった。

「ハル、何を言ってるの……?」

「君は隠したいのかもしれないが……俺は、俺の為に来日してくれた人に、きちんと礼が言いたい」

「私が……貴方の為にって……?」

「俺が『スパイダー』に殺されないように、来てくれたんだろ?」

「…………」

リリーは黙したまま、ゆるゆると首を振るしかない。歌は上手くても、演技はそうはいかないらしい。

「そっちから言ってもらわないと、俺は正体を暴くみたいな言い方になる。正直に話してくれないか」

各所に見えた、リリーの日本人的な要素。

明香やピオに言わせれば、ボロという奴だ。姿を変えても隠しきれない言動と習慣は、達人の領域に達して尚、油断すれば現れる。

「……わたし……私は…………」

突然、顔を上げるのが恥ずかしくなって、リリーは俯いたまま呻いた。先程まで、腕や胸に飛び込むのも何でもなかった筈なのに、今は顔を見るより早く頬が熱い。

ハルトが顔を窺う様に、そっと尋ねた。

「『NOが二つで断固拒否』。覚えてるか?」

――覚えてるわ。忘れられない思い出よ。

「君は、アマデウスに土産を買おうとしてた“あの子”だろ?」

――貴方も、覚えていてくれたのね。

とどめの一言に、リリーは恐る恐る顔を上げた。

思い出す。ニューヨークの街並み。オシャレで、活気に溢れて、素敵な人が歩いている街。高級店の前で、右往左往していた私。顔の包帯が取れない頃、フードを目深に被り、英語はまだ勉強中。母国でさえ、人に話し掛けるのも、話し掛けられるのも苦手だった私。

「Hello, May I help you?」

あの時、優しい声で肩を叩いてくれた彼は……今、目の前に居るのに。



 はじまりは、ひとつの動画。

勇気の一歩を、信じ切ることができなかったのは自分自身。

称賛する声は、嘘に感じて喜べなかった。

非難や中傷は、本当だと思って落ち込んだ。

会いたいと言った音楽会社は、会ったら露骨にガッカリした顔をした。

ブスだって?

だから何。顔を見せずにやってるアーティストなんて、沢山居るじゃない。

可愛いキャラクターやカッコいいイラストを当てて、さも自分みたいに活動してる人は沢山居るじゃない。

どうして私は、面と向かって失礼なことを言われるの?

本物の私が、見られたものじゃないからなの?

動画を消した。最初の挑戦は、むしゃくしゃして終わった。

そのメッセージが来たのは、翌日だった。


〈どうして消しちゃったの?〉

無視した。

翌日、また来た。

〈もっと聴きたい〉

無視した。きっと、嘘。

翌日、また来た。

〈もう一度、UPして〉

無視した。しつこい。小学生かな?

翌日、また来た。

〈もしかして、デビューする?〉

苛々した。バカじゃない。芸能界はブスはお断りなのよ。

大体こいつ、どうしていつも一言なの。

面倒臭くなって返信した。

「聴いてくれてありがとう。でも、もうやめたの」

今度はすぐに返事が来た。

〈どうして〉

すぐに返事をした。

「才能がないから」

嘘だ。私は才能を信じていた。認められなかったから、やめたくなっただけ。

抗うのに疲れて、逃げただけ。ああ、逃げたい。今はただ逃げ出したい。

素早いレスポンスが来た。

〈才能はある。私は知っている〉

ぎくりとしたが、天邪鬼な私は否定に慣れていた。

「一人の支持じゃ、何も変わらない」

〈いいえ。大衆を動かすのは偉大なる一人。私はそう。貴方もそうなれる〉

「神様みたいなこと言わないで。信じられない。私はやめたの。もうほっといて」

〈それは、ずるい〉

……ずるい? 何故? どうして私がそんなこと言われなくちゃいけないの?

腹立たしくて、再び無視した。

翌日、どうせまた来ると思っていた返信に目を剥いた。

長文だった。

〈私はステファニー・レッドフィールド。スウェーデン人です。貴方に誠意を示すため、メッセージを送ります。まずは称賛を。貴方の動画を拝見し、深く感銘を受けました。素晴らしい歌声です。成功を確信し、次の発表を待ちましたが、反対に動画は消され、貴方はやめると言った。とても悲しく、虚しく思います。貴方が芸術から離れることは、世界にとっての悲劇であり、音楽会の失態であり、最高の宝を埋めておくのも同然です。私は貴方を見つけた以上、放任すべき立場に無いと考え、説得を試みたい。圧倒的な才能が有るにも関わらず、やめると仰るからには複雑な事情があるものとお見受けします。ぜひ、私と会って下さいませんか。全ての成功は、対話から生まれます。全ての失敗は、対話に辿り着かぬが故に起きるのです。私の邸宅にご招待致します。詳しいことは下記に。もし、貴方に動けぬ事情があるならば、何なりとお申し出を。私は生まれつき、自由に動けぬ身です。貴方の状況が如何に悪かろうと、必ずご希望に沿えるものと思います。早いお返事を、お待ちしております〉

下記には、連絡先。メールアドレスと国際電話番号。

しばらく、呆然とした。メッセージを何度も読み返し、ままよ、と思った。

仮にこれが何かの詐欺や悪ふざけだろうと、死のうと思っている人間にはどうでもいいことだ。第一、こちらには取る金もなければ、犯したくなる美も一ミリと無い。


「貴方に会います。でも、私は何も持たない学生です。どうすればいいか、教えて下さい」


そこからは、一言一句のやり取りをした相手とは思えぬほど、ステファニーは素早かった。連絡してきた相手は彼女のスタッフを名乗った。外国人のようだったが日本語で応対してくれた。事情を説明した。途中は少し、泣いたかもしれない。これが嘘や詐欺なら早めに言ってほしいとも。相手は真摯に聞いてくれた。

「全て聞いた後、身一つで待つように言われた。貴方が持っていきたいもの以外、何も要らないって。地元の、何にもない、普通の道路で待ったわ。車が来て、乗った時は死んだものと思った。何なら、これから殺されるのかなって思ったぐらい……」

だが、いつまで経ってもそんなことは起きなかった。

運転していたのは、如何にも賢そうなすっきりした面差しの外国人女性だった。日本語で話し、怪しい素振りや、何処かに外国語で電話をする様子もなかった。

彼女は後部座席の淡いピンクのスーツケースを指差し、「中身も全部、貴女のよ」と微笑んだ。

空港に行くのかと思ったが、彼女は都内の綺麗なレンタルスタジオに入り、着替えとメイクを施した。鏡を見ている内に、どんどん別人になってびっくりした。

航空チケットも、旅費も、食事代もみんな彼女が手配し、飛行機に乗った。

気になったのは、搭乗する際のパスポートだ。海外便に乗るのは初だ。パスを作った覚えなどない。載っていた顔写真は、メイクして出来上がった見知らぬ顔だった。

「何か聞かれても、何も話さなくていいから」

結局、何も起きず、すんなり飛行機に乗った。途中、乗り継いでの長時間のフライトの末、よろめきながら着いたのはスウェーデン・ストックホルム。

空港からして、なんてスタイリッシュで美しく整った街だろう。日本語ひとつ見当たらない中、老いも若きも誰もがおしゃれに見える。あまりに急激な変化と多すぎる情報量に沈みそうになる小娘を、スタッフは優しく案内してくれた。

ステファニーの家は、家というよりもお屋敷だった。門の向こうには大きな木々と芝生が広がり、小石一つ落ちていない滑らかな一本道の先に、アプリコット色の壁をした何とも可愛らしい屋敷が在った。贅沢な暮らしなのかと思いきや、彼女の居住スペースは一般的なマンション程度のコンパクトな空間で、殆どはそのスタッフが住む為の施設や、来客用の部屋、イベントをする為の小規模なホール、レセプションルーム、巨大なスーパーコンピューターの為に作られた部屋だという。

「ステフに会った時……私、呆然としてから……泣いたの。バカみたいに」

どうしてかは、わからない。きんジストロフィーを患う彼女が、大きな車椅子の上で美しく笑ったとき、突然涙がこぼれた。地下牢から助け出されたような……不意に雪山から温かい場所に連れられたような、不思議な感覚に涙が溢れ出た。

「今思えば、許された気がしたの。私のままで、好きに生きていて良いのよって」

ステファニーのほつれがちな長い赤毛は櫛を通され、豊かなロングヘアの合間に細かな三つ編みが施されていた。三つ編みには、白い花のピンがいくつも留めてある。両手足はとても細く、動かすのは困難だという。自分一人では面倒を見切れない肉体を抱えながら、目にはとてつもないエネルギーが満ち溢れていた。

彼女は言った。微かにたどたどしくも、力強い声で。


「Pleased to meet you! Come on, sing it! I'll spread your talent!」

(会えて嬉しいわ! さあ、歌うのよ! 貴女の才能は、私が広める!)


「……それからしばらく、ステフと暮らしたの。彼女は誰にでも同じように接する人で、優しいけど、遠慮なんて全くしない厳しい人でもあったわ。思い付いたら行動する感じで、早朝でも真夜中でも呼ぶから大変だったけど……楽しかった」

「急に日本を離れて、寂しくなかったのか?」

「あんまり。……弟だけ心配だったけど……どうしようもないから」

ステファニーは帰るならいつでも手配できると言ったが、帰宅の意志は無かった。

むしろ、彼女が勧める通信教育を受け、英語を叩き込み、ボイストレーニングを受け、基礎練習を繰り返した。

それでも、投げ出したくなったことは一度や二度ではない。できないことを馬鹿にする人は誰一人いなかったが、できないままにしてくれる人も居ない。

食事や習慣に慣れるのも手一杯だったし、ようやく日常会話を聞き取れる頃には、この屋敷に出入りする者の不穏な話が聞こえる不安も出てきた。

「彼女がBGMだという話は、いつ?」

「最初に教えてくれたんだけど……その時は、よくわからなかったの。ステフの屋敷に来る人は、障害が有る人が多くて、変わった価値観の人も多かったから、そっちに気を取られてて……だんだん、気付いた感じね」

自身は殺し屋であった事の無いステファニーは、対峙しても異様な所は無かったという。子供のような癇癪かんしゃくと恐ろしく明晰めいせきな頭脳は有ったものの、暴れることのなかったステファニーと殺し屋は、恐れる程には結びつかなかったらしい。

「きちんと教えてくれたのが、『スパイダー・リリー』だったの」

成人以上の男性と聞いた時、にわかに信じられなかった。思わず口を突いた『羨ましい』の一言に、美しい少女の姿をした彼は少し寂しそうに笑ったそうだ。

「それでも、怖いとは思わなかった。私がにぶいだけかもしれないけれど」

「BGMは、悪党の顔を隠すのが上手いから」

「貴方もね」

そうかなあ、と、ぼやくハルトに、リリーは小さく溜息を吐いた。

「ミスターに話が通ってデビューが決まった時、顔を変えたいって、言ったの。できれば、スパイダーと同じようにって。ステフもミスターも、スパイダーも反対したわ。でも、反対の理由は全部私の為。ものすごく丁寧にリスクと掛かる時間、後遺症や体への影響を説明してくれた。結局、私は押し切って、最初の数曲は覆面アーティストとして活動したの。手ごたえを感じて初めて、リリー・クレイヴンを名乗った」

「ミスターはともかく、ステファニーはよほど君を気に入っていたんだな」

「……それは、私の声が、彼女の理想の声だったんですって……」

時折、お気に入りの暖炉の前で一緒に歌ったという。体力が続かず、一曲を歌いきるのもやっとのステファニーは、秋菜の歌声を羨ましそうにしていたという。

「私が頑張れるのは、彼女のおかげ。経済的なことは勿論だし、ステフが『貴方みたいなステキな声で歌いたい』って……ずっとそう言ってくれたから、頑張れるの。

最初に芸名を考える時、ステファニーの名前を貰おうかと思ったぐらい。断られちゃったけど」

「名前……そういえば、クレイヴンってアメコミの悪役の名前じゃないか?」

「詳しいわね。その通りよ」

「それ、考えたのって……」

「ミスターよ。私が気に入ったの。だって秋菜は、家族も故郷も放ったらかして、自分で自分を捨てた、最低最悪の小娘じゃない。元の私がありのまま歌った方が、もっと強いメッセージになった筈だし、同じ悩みの人の共感を得たに決まってる。だけど、そうしなかった。逃げたのよ。成りたかった私に、元の私が全く居ないことを戒める、良い名前だと思っているわ」

自信に満ちた声に、ハルトは苦笑した。

「さすが、悪党がデビューさせたアーティストだ」

「貴方もよ、ハル。……ステフが亡くなって、来たばかりのニューヨークに気後れしていた私に、声を掛けてくれた」



「アキナ、散歩でもしてきたらどうだい?」

あの日、打ち合わせを済ませるや、ミスター・アマデウスはそう言った。

「……この格好で?」

パーカーに付いた大きなフードを目深に被り、包帯に覆われた顔の目元を恨めしそうに細めた秋菜に、アマデウスは事も無げに微笑んだ。

「その程度で見咎める者は居ないさ。うちのスタッフ証があれば尚更ね」

Singspielジングシュピール社――アマデウスがCEOを務める音楽会社のスタッフ証は、この会社の周辺ではよく見かける。CEOの羽振りの良さも手伝って、周囲の覚えは良い。

「ミスターの会社が、ハロウィンでもやってるのかと思われちゃうわ」

「ハハハ、良いね。来年は皆でやろうか」

満更でもなさそうに笑うと、通年ご多忙の男はデスクのノートパソコンに視線を戻した。

「若い女性が職場に引きこもるのは良くない。どれ、お小遣いをあげよう。甘いものでも食べてきたまえ」

「ミスター、私もう二十代よ」

「わかっているとも。ついでに私にもお願いしたい」

一体何がわかったのか、アマデウスが差し出すのはブラックカードである。苦笑した秋菜は丁寧に断り、気晴らしの散歩に出た。

ニューヨーク・タイムズスクエア周辺は、ビルと巨大な公告の下、人と車に溢れている。テレビで見たことのある景色の中に居るのは不思議な気分だった。飛び交う英語、クラクション、黄色いカバーの信号機、派手な電飾看板、おしゃれなショーウィンドウ、数秒間隔で見かけるイエローキャブ。四方八方を巨大なビルに囲まれて、当たり前のように闊歩する人々。笑い声、歓声、陽気な挨拶、客引き、観光客のお喋り、息遣いと、バスが奏でる軋んだ音や、しょっちゅう響いてくるサイレンの音。

この混沌は、ストックホルムより良い詩が書けそうだと思った。

顔に包帯を巻いた小娘なんぞ他には居ないが、かといってド派手な衣装や着ぐるみのパフォーマーも多く、気にされる様子も無い。

さて、何を買おう。まだアマデウスとの付き合いは日が浅い。

甘いものが大好きなのは知っているが、頭の先からつま先まで高級そうな男にチェーン店を選ぶのは気が引ける。アメリカ的なスイーツが好きなのは知っているが、24時間営業の有名ドーナッツ店は少しリーズナブル過ぎる気もした。

……と、いうかこの界隈は高級店よりも、日本で言うコンビニ感覚のデリやカフェ、フードスタンドなどの気楽な店が多いのだが。

高級ホテルならどうだろう。名店が幾つかあるけど……こんな格好で入ったら止められるだろうか? 高すぎるビルを一人で仰いでいると、なんだか心細くなってきた。

前にスタッフに聞いたチーズケーキでも買って帰ろうか……わけもなく挫けそうになっていると、トン、と肩を叩かれた。

「Hello, May I help you?」

「は、はい……?」

咄嗟にわからずに答えた日本語に、相手は首を傾げた。

「あれ? Japanese?」

意外そうな声に、慌てた。しまった。包帯に覆われてはいるが、目の周りは露出している。その目はまだ青いコンタクトを入れていないが、既に元の顔よりも深い陰影を刻んでいる為、日本人には見えない。

「え、ええと……す、少し混ざってて……ずっと、向こうに居たから……」

「ああ、そうなのか」

どうりで日本語が上手い、と相手は笑った。

そこでようやく、秋菜は相手の顔を見られた。目立つほどの容貌ではないが、落ち着いた雰囲気の青年だ。同世代ほどだろうか。薄着かダウンジャケットの極端な人が多い中、黒いコートにグレーのハイネックセーター、ブルージーンズが軽やかな印象で、ナンパやアウトローには見えない。

「貴方は……日本人?」

「ああ。日本に居た方が短いけど」

苦笑しながら肩をすくめた青年に、釘付けになった。

こんなスマートな日本人、会ったことがない。……もしかして、顔を変えたから――いや、それはない。まだ目元しか見えないし、整形は途中段階だ。包帯をとっても、美人の段階ではないし、現在のフードを目深に被った姿は、よっぽど怪しい。

「あの……何か御用?」

思わず聞いてしまったが、よく考えたら相手の問い掛けは「どうなさいました?」という親切なそれだった。一歩遅れてハッとした秋菜だが青年は気を悪くした風もなく苦笑した。

「いや。なんか右往左往してるからさ、身内が何か困ってるのかと思って」

秋菜が首からぶら下げたスタッフ証を指差し、自分もコートのポケットから同じものを差し出す。

「貴方も――ジングシュピール社の人……?」

「まあ、一応」

そのスタッフ証は、NOが二つ並んだ奇妙な表記だった。視線に気付いたのか、彼はどこか恥ずかしそうに笑った。

「ヘンだよな、これ。苗字が野々なんだけど、断固拒否って感じが面白いって『NONO』にされたんだ」

NOが二つ続くから断固拒否? 秋菜も笑ってしまった。

「笑ってごめんなさい……ええと――……」

「ハルでいいよ。皆そう呼ぶ」

「ハル……」

「君は、エリザベス・ホワイト――凄いな、女王みたいな名前だ」

それはそうだ、アマデウスがデビューまでに使うよう定めた偽名である。一度も出会うことがないだろう偽の素顔の写真が後ろめたくて、秋菜はこくりと頷いてからそそくさとパスを引っ込めた。彼は気にした風もなく、既に傍らの建物を見上げている。

「もしかして、CEOに何か買おうとしてた?」

「ど……どうしてわかるの?」

心を読むように言い当てた彼は、肩をすくめて微笑んだ。

「あの人に菓子を言いつけられて、此処でウロウロする新人スタッフは多いんだ」

そう言って、何でも無さそうに通りの向こうを指差した。

「ミスターなら、高級品より、あの角の先にあるドーナッツが好きだよ。案内しようか?」


夢見心地のように戻って来た秋菜が手にした箱を見て、アマデウスは歓声を上げた。

「お、おおお……君はなんて素晴らしいんだアキナ! ジョン! コーヒーだ、コーヒー!」

既に敏腕秘書は、大柄な体に似合わぬ素早さでコーヒーを淹れに行っている。

心底嬉しそうなアマデウスに、秋菜は気圧されつつも嬉しくなった。彼の言う通りだ。身に着けているのは高級品ばかりで、一流レストランしか行かないと思っていた男が、素朴な印象のドーナッツを子供の様に喜んでいる。

「しかもVacationのじゃないか……! グレーズに、クリーム……シナモンシュガーケーキ……君は実にわかっている!」

「あの、違うんです、ミスター。私が迷っていたら、親切な社員の方が教えてくれて」

「ほう、そのように気の利くスタッフが居たかね。チップを支払わねば」

本当に支払いそうな顔つきのアマデウスは、事の次第を聞くと、ドーナッツを齧りながら顎を撫でた。

「ハルか……ふむ、目の付け所は良いね。しかし、彼は手強いよ。私は薦めない」

「……どうして?」

「彼は誰も愛さないからさ」

「愛さない……?」

芳しいイースト生地から溢れるバニラビーンズ入りカスタードを堪能しつつ、アマデウスは事も無げに言った。

「我々の事業は、君も知っての通りだ。ハルは音楽会社のスタッフではない。私の直属であり、ステファニーにとっての『スパイダー』だ。若いが、実力と実績なら彼より上だよ」

背筋を冷たい風が撫でた気がして、秋菜は身震いした。スパイダーは、スタファニーの最強の剣だ。天使のように可愛らしい姿でありながら、彼女の為に何人も殺していると聞いた。それを超えるということは、彼はそれ以上の殺し屋ということになる。

「でも、ミスターたちのお仕事は……悪い人だけなんでしょ?」

何度か話したスパイダーは気のいい男だった。怒ったところさえ見たことは無く、ステファニーの身の回りを世話するスタッフをいつも労い、遠出をすると、スタッフは勿論、その子供や、支援先の施設へのお土産まで買ってくるような人だ。日本を懐かしむ秋菜に、わざわざ日本の商品を探してきてくれたこともある。本人はよく知らないらしく、日本語が書かれていたからと選んできたカレールーやお茶漬け、なめたけの瓶に小首を傾げ、米が必要だと知った時の驚いた姿はキュートだった。

アマデウスとジョンも同じだ。穏やかで余裕が有り、気配り上手で親切。つまらないことで腹を立てたり、威張ったりすることもなく、嫌らしいジョークも言わない。

「悪い人が居なくなるのは、良い事だわ。それなら、ミスター達は良い人と言えるのではない?」

「アキナ、私が言うのもナンだがね、殺し屋は総じて悪党なのだよ。確かに、我々が悪党を相手にしているのは事実だが、その正邪を決めているのは悪党の我々だ」

「それはそうだけれど……私に優しくしてくれたのは、悪党のミスターたちだけよ」

「おっと、これは一本取られてしまった」

愉快げに笑い、アマデウスは椅子にもたれてコーヒーを飲んだ。

「そうだねえ……君の気持ちはわかる。ハルは愛される男だ。情は有る、ユーモアも有る、優しく紳士的に振る舞えるし、力も才覚も言うことなし、傲らず冷静、いざとなれば頼りになる。うーむ、私に負けず劣らず、理想的な男だ。だが、愛だけが足りない。私と同じように」

ニヒルに口元を歪め、アマデウスはそれこそ愛情に溢れて見える笑顔を見せた。

「アキナ、悪いことはいわない、ハルはやめておきなさい。恋愛はいくらでもして構わないがね。君が大衆に愛される歌姫になろうとも、誰かを好きになったらスキャンダルなぞ恐れず進みなさい。それは君を、もっと輝かせる」

「……もしかして、彼は男性が好き……?」

深読みした娘の一言に、アマデウスが椅子にのけ反って派手に笑った。ジョンさえも目を逸らし、幅広の肩を震わせて笑いを堪えている。

「どうなの、ミスター?」

「ハハハ……君を想って嘘をつくべきだが、ハルに怒られそうだ。それはない。何度か災難に遭って青い顔をしていたからね。モテる男は辛いものだよ」

ゲイではないと聞いて少しだけほっとしたが、秋菜は両の頬を押さえて、彼が美味しいと勧めてくれたアーモンドをちりばめたドーナッツに溜息を吐いた。

「……困ったわ、ミスター。私……夢中になりそう」

「おやおや、さすがはハル。参ったね。ジョンも何か言ってやりなさい」

話を振られた大男は、大げさな咳払いをして笑いを引っ込めると首を振った。

「……アキナ、ミスターの助言は正しい。ハルはやめておけ」

「ジョンまで反対するの?」

「ハルは誰も愛さない」

「彼には、音楽も届かない?」

身を乗り出すような秋菜の問い掛けに、男たちは顔を見合わせた。アマデウスは思案顔でコーヒーを含んでから頷いた。

「――面白い。音楽は数多あまたの奇跡を起こしてきた。その力をハルに試すのは一興だ」

「じゃあ――」

「焦ってはいけないよ、アキナ。ハルは私が育てた。並の実力では心動かされはしない」

「私、最初からやるつもりよ、ミスター。ステフと約束したんだから!」



ポトン、と、蛇口から水滴が落ちる音が聴こえた。苦笑混じりにハルトが首を振る。

「……どうりで、未春じゃなくて、俺に来るわけか」

「初対面は、初対面だったのよ」

悪戯っぽく、リリーは笑った。

「あの日以来、貴方とは一度も会わなかったから。私も忙しかったし、貴方はあまりオフィスには来なかったし……遠くに姿を見たことはあったけれど、その時はもう私、リリー・クレイヴンだったから……」

小さな溜息をこぼして、リリーは微笑んだ。

「……変よね。自信を得たくて可愛い顔にしてもらったのに、貴方に話しかける勇気は出なかった。他の人の前には、メディアでもアーティストでも、平気な顔で出て行けるのに。ちやほやされて嬉しいと思いながら、何となく……他人事みたいに捉えてた。貴方にも、可愛いって言われたいような、言われたくないような……変な気分で」

全米一位をとるために、レッスンやトレーニングに打ち込んだのは良い事だった。

辛くなるとステファニーやハルトの事を思い出し、アスリートのようにストイックで、タイトなスケジュールをこなした。

SNSにこまめな投稿を始めたのもこの頃からだ。流行をチェックし、時には街中に出てリサーチし、上手な写真の撮り方を研究した。

「あの頃、寂しかったけど……ハルに会わなくて良かったと思ってるの。むしろ、『リリー』を好きになられたら……私、今度は『リリー』の顔を憎んだかもしれない。ミスターもジョンも何も言わずに見守ってくれたけど……二人はわかっていたんだわ。顔が変わることは私の意識を変えてくれたけど、私そのものが変わるわけじゃないってことを」

秋菜は秋菜。『リリー』を演じる、秋菜のまま。

だけど、賞賛は全て『リリー』のもの。

「後悔してるか?」

ハルトの問い掛けに、リリーは首を振った。

「いいえ。秋菜が身を以て体験したことは、世界の真実だもの。ステフとミスターが、元の秋菜がありのままで活躍することを望んでくれただけで十分よ。私は、私と同じ辛さを持つ人たちの共感はもう得られないでしょうけれど、圧倒的な見た目で、見た目だけで偉ぶってる醜い大衆を操るの。私にその強さをくれたのは、『リリー』。後悔はしないわ」

ハルトは苦笑い混じりの溜息を吐いた。

「まさか、全米一位の起爆剤になるとは思わなかった」

「そうよ、ハル。貴方は『リリー』を有名アーティストにした立役者」

「……俺のこと、今も好き?」

「好き」

微笑んだリリーは、その気のない者も、うっかり恋に落ちるだろう愛らしさだった。

「だから、来てくれたのか」

「両方よ。ミスターに話を聞いて、すぐに決めたこと。『スパイダー』に、貴方を殺してほしくなかった」

「……やっぱりか。変だと思ったんだ。いくら『ゾンビ狩り』をしていたからって、日本在住の標的を『スパイダー』が狩りに来るメリットが無い」

撃ち損じた等の因縁のある相手ならまだしも、殺害に関しては専門家である必要はない。聞こえが悪いが、この手の悪党の始末は低予算で済む仕事だ。日本では、暴力団でもない限り、一般人が拳銃を所持するようなことはまず無いし、スタファニーの時のような制裁的な措置は不要、経費にうるさいアマデウスが、スパイダーほどの殺し屋を使う案件ではないのだ。

つまり、スパイダー本人に別の目的か、標的が存在する。

今回は彼の思惑に気付いたアマデウスが先手を打った形だろう。アマデウスと懇意だったステファニーが、マグノリア・ハウスにだけは強い難色を示していたのはハルトも知っている。――だからこそ、アマデウスは彼女の葬儀にハルトを出席させた。

彼女の指示を受けた人間が居るかを刺激する為だ。誠意として見直すか、不敬であると眉逆立てるかを見る為に。……結果は、今回の件で明らかになったわけだ。

大方、詐欺の拠点探しにステファニーのスタッフに依頼をした際、彼らからスパイダーに情報が漏れた――或いは、“流させた”。彼は策に引っ掛かり、協力を申し出、アマデウスは意図を察知してリリーを呼んだ。

ステファニーが日本から呼び寄せるほど愛した歌姫を、彼女の最強の剣の盾に使ったのだ。

「全く、あの人は……クズの極みだな」

「いいの。ミスターは悪くない。利用されたとは思っていないし、『スパイダー』を止められて良かったと思ってる。……みんな、私の大好きな人だから」

恐らく、直接的な説得に行ったのは、ボイス・トレーニングに出掛けた際だ。

あの外出だけが、予定していたと言いながら唐突だったのは『スパイダー』の都合に合わせたからだろう。

「AKINAを名乗ったTAKEのユーザーも、君が?」

「半分ね。あの爆発の写真以外は私が選んだけれど、投稿していたのは別の人。私は指示されたところに画像を送っていただけ」

なるほど。爆発現場を撮影できた人物となると、清掃員の誰か――或いはジョン辺りが投稿者役か。良い歳こいたオッサンがカワイイ写真を投稿していたかと思うと気色悪い……顔をしかめたハルトに、リリーは不安げに肩をすくめた。

「ハル……黙っていたこと、怒ってる?」

「いや、怒ってない。君の勝ちだ。俺が単独になる機会は何度も有ったのに、彼は襲おうとしなかった。君の為に収めてくれたんだろ」

多分、スパイダーは知っていたのだ。

全米一位を獲得する為に、彼女が努力した理由を。ステファニーとの約束を守ろうと異国で励み続けた姿も、好きな相手にそうと打ち明けられず、振り向いてもらうために頑張っていたことを。ようやく胸を張って会いに行こうというその相手を殺すのは、親か兄のように見守っていた彼にはできなかった。

アマデウスの先見の明は悪魔のようだが、今回は安堵せざるを得ない。

仮に『スパイダー』と対峙し、説得ができなければ戦う他ないからだ。マグノリア・ハウスの出身者は死すべきというステファニーの意見には全く同意するが、こちらにはまだ、やる事がある。

今、殺し屋の為に死んでやるわけにはいかない。

リリーはほっとしたように肩を落とし、少し寂しげに微笑した。

「ありがとう、ハル。私、日本に来て良かった」

「本当?」

「うん。こんなにゆっくりしたのは久しぶり。もしかしたら……日本に居た頃も、こんな風にのんびりはしていなかったかも。私はいつも不平不満ばっかりで、両親は怒鳴り合うばかりで、弟は息を潜めてるみたいに静かで……友達も居なかったから」

一体いつからだったのか、卓を囲んでも和やかな会話はなかった。父は仕事以外にも外出が増えてたまにしか帰らず、久々に会っても嫌そうな顔をする。母は秋菜の顔を見る度、一体誰に似たのかと不幸そうな顔をする。弟は気遣うように居てくれたこともあるが、姉の顔を理由にいじめられてからは避けるようになった。

「ハルは小さい頃にアメリカに来たそうだけど……日本に帰って、どうだった?」

意外な問い掛けだったが、ハルトはすぐに首を振った。

「俺は、何も」

「何もって……家族や、友達は……?」

「居ない」

断言するような調子に、リリーは臆した。

全く意に介した様子のないハルトはどことなく未春に似ているが、もっと機械的な回答に聞こえた。家族を置いて外国へ飛び出した自分でも、心残りは有った。戻ってきた時、自分が如何に母国のあらゆるものに飢えていたかよくわかったぐらいだ。

ところが、目の前の青年は何も感じていないようだ。リリーは身をすぼめるように、ハルトの顔色を窺った。張られた頬が少し赤い以外、――否、頬の痛みさえ、過ぎ去ったからどうということはないという顔だ。

「ハル、親戚も居ないの……?」

「ああ。俺の両親は夜逃げして、東南アジアのジャングルでBGMの仕事の巻添え食って死んだ。俺はガキだったから親のことは殆ど覚えていないし、他のことは何も知らない」

「……ミスターなら、調べてくれるんじゃない……?」

「いいんだ」

それは未練など微塵もない調子だった。格別、冷たい声ではないのに、“何も”ない。

……もしかしたら、今、目の前でこちらの首が飛んでも、この青年は変わらぬ顔で座っていられるのでは?

――ハルは、誰も愛さない。

アマデウスとジョンが言った言葉が聴こえた気がした。

証明するように、ハルトが付け加える。

「仮に、親しい友人や親戚が居たとして、『殺し屋です』って名乗るわけにいかないだろ? 表の顔で会いに行けば、今まで何をしていたか勘繰られるし、今の職場に来られるのも面倒臭い。俺は『ブロードウェイ』のような演技は無理だ」

「……そう……」

リリーは頷いたが、納得の行かない顔付きでハルトをちらりと仰いだ。

「……いつか、会えると思うわ」

「……どうして?」

「何となく。……ただ、私、BGMに関わって……自分が、その世界の一部になったのはわかってるの。ハルも同じでしょ? だとしたら……貴方の家族も同じじゃないかしら。上手く言えないけれど……私が顔を隠していたように、名前を伏せた番号で、コンテストにエントリーしているみたいに。生きているのなら、必要になったとき、会うと思う」

「コンテストにエントリーか……言い得て妙だな。何となくわかる気がする」

「会えるといいわね」

何と答えたものかわからずに苦笑した。もし、誰かが存命中であり、「必要な時」とやらが有るとしたら、それは「利用価値」と名が付いた時だ。

「断固拒否しちゃダメよ、ハル。貴方の名前、NOじゃなくて、とっても長閑な字なんだから」

長閑か。ちっとも長閑じゃない人生を歩ませた名前で、長閑に生きている身内が居るかと思うとぞっとしないが、不安顔に頷いた。リリーは何に対してか溜息を吐き、慣れたテーブルに頬杖ついて、キッチンを振り返った。

「ご飯、いつもとっても美味しかった」

「そいつは何より。うちのシェフが頑張った甲斐があるな」

にこりと笑った歌姫は、悦に入ったように頷いた。

「もう、ピーマンは怖くないわ」

「良かったな。今日も、旨そうだよ」

さすがに此処まで香ってはこないが、玄関のドアを開ければ芳しいすき焼きの香りがするに違いない。

「すき焼きなんて、まともに食べたことないかも。嬉しいわ」

「そうか。今日はさららさんが居ないし、男どもがやってるからワイルドだと思うが」

「楽しみ。……さららは、帰って来ないの?」

「ああ……大事な人に会いに行った。君が此処に来たのと同じだ」

「そう……その相手は、“日本一のクズ”ではないのよね?」

純真な瞳で問い掛けられてハルトは笑ってしまった。今頃、あの上司はくしゃみをしているかもしれない。

「日本一のクズじゃあないな……もう少々、見込みがあると思う」

「上手くいくといいわね。私、彼女が若いから、すっかり騙されちゃってたのよ」

なるほど、秋菜の誤算にはさららの外観年齢も有ったらしい。

小場の勘違いと同じだ。さららは三十代だが、大学生と言われてもおかしくない見た目である。誰にでも柔和に接するさららだからこそ、妙に話が合うことに不信感を抱けなかったのだろう。

「でも、ラッコちゃんとも上手くやってたじゃないか」

「倉子が優しい子だから。殺し屋にビンタするなんて、びっくりしちゃったけど」

「これはまあ、仕方ない。俺の読みが甘かったのは事実だしな」

いくら前情報が無いとはいえ、エタンセルの件は楽観視できる話ではなかった。

一歩違えば、さららどころか、リリーに倉子、力也や保土ヶ谷にも危険が及んだ。

女子高校生のビンタで済めば安いものだ。できれば元上司や今の上司は十倍ほど割増して引っ叩いてやりたいが。

「学生の頃、倉子みたいな友達が居たらって思ったけれど……言いっこなしね。

……それも、私の意識で変わったかもしれないことだもの」

自分で作った壁の中で、自分が感じるようにした疎外感。

彼女のそれも、倉子のような友人が居たら、違っていたかもしれない。

「未春は、ストレスだったろ? 随分なファイトだったと思うが」

何が面白かったのか、リリーは吹き出すと、片手を振りながらケラケラと笑った。

「全然。ミハの方がストレスだったはず。私、だいぶムキになっていたから。

だって、美人が現れるのは覚悟していたけれど……あんなハンサムな人と取り合うことになるなんて、完全に予想外。ハルはゲイじゃないってミスターに聞いていたのに、どういうことなの?って」

「なんだ、あいつのことはイケメンだとは思ってたんだな」

もちろん、と笑った。何やら悔しいが、まあそれは事実なので仕方がない。すると、リリーは笑いを引っ込め、申し訳なさそうな顔になった。

「……彼、親が居ないんでしょ。私も似たようなものだから……彼の大事な場所を乱して、悪いことをしたわ」

「……気にしてないと思うよ。あいつも随分、大人げなかったしな」

「ふふ……ハンサムな彼に包丁で刺されたら、スキャンダルになるところだった」

おどけた調子のジョークに同じような笑いがこぼれた。

「でもね、ハルもアメリカに居た頃より、ステキになっていたわよ」

「……そうかな」

「ええ。私が連れ帰っちゃったら、元のハルに戻っちゃうかも。それはイヤだわ」

不意の意図を理解して、ハルトは押し黙った。

ふと、謝罪を口にしかけた唇に、白く細い指がかざされた。

「貴方の優しさはズルいのよ、ハル。女を泣かせたくなかったら、もうちょっと悪党らしくしてくれない?」

苦笑が出た。

「Thank you……Lily.」

ほんの少しだけ、彼女は鼻を啜ったようだが、袖で口元を覆って笑い声を立てた。

「……ハル、ひとつだけ、お願いを聞いてくれない?」

「Please feel free Just let us know.」

お気軽にお申し付け下さいという勿体ぶったセリフに、リリーはくすくす笑った。

「……弟に、会いたいの」

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