7.Match.

「本当に行っていいの?」

夕方、下校途中に現れた倉子は、相好を崩して喜んだ。

走って来たのか、微かに息を切らし、そろそろコートが欲しい季節にマフラーを巻いているだけの制服姿は、若いエネルギーに溢れて見える。リリーは彼女とすっかり仲良しで、姿を見ると立ち上がってハグするぐらいだ。

仲睦まじい倉子の問い掛けに、ハルトは頷いた。

「ハルちゃんも行ければいいのに」

「俺が行けないから、ラッコちゃんに頼むんだ。ガヤちゃんとリッキーだけじゃ、リリーが退屈するだろ」

「そういうことなら任してよ。瑠々子るるこが勝手に教えてくれるから、けっこー詳しいよ」

瑠々子とは倉子の友人だが、対極的なタイプの『イマドキ』女子である。どちらかというと、一途に自分が好きな動物を愛し、流行に振り回されないタイプの倉子に比べ、瑠々子はトレンドをいち早く察知し、自らに取り入れるオシャレ好きだ。

つい最近まで、同級生からイジメを受け、不登校となった挙句、加害者の殺害を未春に頼もうとした彼女だが、今は落ち着いて登校しているそうだ。倉子は独自の倫理観――人間に理不尽に苦しめられる動物を思うような気持ちで彼女に寄り添い、全く異なる性格ながら、確かな友情を築いた。

本当は、この友人にはリリーのことも知らせてやりたかったようだが、さすがに殺し屋が関わるとなれば危険と判断し、懸命に口チャックを貫いている。

未春のファンである瑠々子が来店する際は、事前にリリーに隠れるように指示するなど、細かな配慮を欠かさない。今日も早速、表紙に「東京」とバカでかく書かれた雑誌を調達してきたようで、リリーと向かい合わせに座り、雑誌を捲り始める。写真と情報がぎっしり詰め込まれた目がチカチカするカラーページを眺め、スマートフォンで確認したりしている姿は、何年も過ごした友達に見えた。

――こういうのが、普通の『友達』なのかな。

ごく自然にできる倉子に感心していると、リリーの細い指が一つのページを軽快に叩いた。

「原宿か」

「うんうん、リリーらしいね。渋谷もお隣だし、イイと思う」

原宿は、ファッションを中心に日本のストリートカルチャー、サブカルチャー、ポップカルチャー云々を牽引してきた街の一つだ。かつては政治や制度に反発したヒッピーなどが闊歩するカウンターカルチャーの聖地に始まり、特殊なデザインマンションが建てられた先駆けの地でもある。徐々にデザイナーの住まう独自の若者文化の発信地となり、ロリータ・ファッションや、世界共通語となった『Kawaiiカワイイ』文化を始め、キャラクター雑貨店やコンセプトカフェなどが林立した。

外国人観光客はもちろん、海外セレブにも人気が有り、渋谷や表参道が隣接する為、訪れる年齢層は幅広い。

「リリー、行きたいお店ある?」

「Let me see……」

幾つかピックアップした後、リリーはちらりとハルトを見てから倉子に向き直った。

「……あのね、クラコ、お願いがあるんだけど……」

リリーが尚もハルトをチラチラ見ながら遠慮がちに言い出すと、倉子は気にも留めていなかったろう男を一転、しっしっと追い払った。ハルトが肩をすくめて引き下がると、倉子は内緒話の恰好でリリーに向かい合う。

「お願いって?」

「……私、制服が着たいの」

「えっ、コレ?」

思わずブレザーを摘まんだ倉子に、リリーはこくりと頷いた。

「できれば、アナタと一緒に」

「そっか……ん~……あたしのコレだけだし、借りると返すタイミングがあるからなー……同じのじゃなくてもいいかな?」

頷いたリリーに「ちょっと待ってね」と告げると、倉子はさららの所に駆け寄った。

程なくして戻ってくると、グーサインを出した。

「さららさんが着てたの有るから貸してくれるって!」

「Wow! I'm so happy!」

手を叩いて喜ぶリリーに、倉子はニコニコしてから首を傾げた。

「でも、どして? 最近まで着てたんじゃないの?」

「No……アメリカのスクール、制服じゃない。ジャパンの制服、とてもクール。これを着て、クレープを食べるの、憧れなの」

「そういえばそっか……ちょうど変装になって良いかも……ん? でも、クレープなんだね? あたし、原宿はパンケーキなのかと思ってた」

リリーが目をいっぱいに見開き、ぱちぱちと瞬きした。

「……Pancake?」

「うん。一時間くらいの行列ができるお店がいっぱいあるよ。ふわっふわのとか、生クリームがいっぱい乗ったのとか……」

「ええ? 今ってクレープじゃないの?」

きょとんとする歌姫に代わって、悲鳴のような驚きを口にしたのは盆にカップをふたつ運んできたさららだ。カップを受け取って嬉しそうにお礼を言った倉子は、甘い香りのラテをふうふうやった後に首を傾げた。

「さららさんは、クレープのイメージあるんだね」

「いまハルちゃんに聞いたけど、竹下通りでしょ? 私は断然、クレープ。タピオカだって違和感あるくらいよ。流行の変化って早いわねー……」

「そなんだ。今はアイス屋さんも多いよね。綿あめも有名だよ」

ページを捲った倉子が示す、レインボーカラーの巨大な綿あめに、さららは「こんなに食べられるの?」と苦笑し、リリーもカップを手にくすりと笑った。

「あたしは何でもいいよ。リリーが行きたいとこ行こ!」

「Thank you. It’s gonna be fun」

「うん、楽しみだね! クリスマス近いし、きっと飾りつけも綺麗だよ」

楽しそうな女性陣を後目に、物言いたげにハルトをつついたのは未春だ。

「ハルちゃん。これ、どう思ってんの?」

ずいと差し出す彼の端末に映っていたのは、夕刻に出たニュースだ。つい先ほど、新大久保で起きた火災ということだが、またしても雑居ビルのワンフロアが燃えただけで、死傷者はゼロ。先の爆発と同様に、突如、爆発音がしたというが、犯人の姿はなく、燃えたのは稼働していないフロアだったという。

「ま、連中だろうな」

「こっちも?」

別に映し出したのは、昨夜のニュース。こちらは中野区の雑居ビル。何しろ派手な爆発なのでテロを疑う報道も出たが、やはり死傷者が居ない、犯行声明もない、目立った被害もない辺り、トップニュースにこそなれ、事の重大性は曖昧だ。ビルそのものの損害の話をしようにも、未使用のうらびれたフロアである。持ち主にとっては災難だろうが、そもそも管理自体が適当であり、控えめに見ても、古くて薄汚れた廃墟のような建物だ。

「ビルに恨みでもあるんじゃないか」

「トオルさんみたいなとぼけ方はやめてくんない?」

「お前こそ、あの人と一緒にすんのはやめてくれよ。最初の一件がダミー企業だった時から気になってたが、派手に三件やってくれりゃ、もう十分だ」

訝し気な顔になる未春に、ハルトは自分の端末画面を示した。

「室月さんに、リリー来日後の殺人事件、或いは死者が出た事件を集めてもらったんだが、最初の爆破の日に一件、今日までに二件、覚えのある遺体が上がってる」

「これ……事故か自殺じゃないの?」

未春が首を傾げたのは無理もない。

一件目は、都内在住の四十代の男が自宅の洗面所でドライヤーのコンセントから感電死とある。事故と捉えられた為、テレビでトピックされる報道には至っていない。

二件目は、つい昨日、都内在住の三十代の男が酔って川に転落したと見られ、水死体で発見された。こちらも日頃から飲酒量が多い事や周囲にトラブルがない点、財布や携帯電話が一緒に発見された点、事件に繋がるような目撃情報がないことから、警察は事故の見方を強めている。

三件目も、都内在住の三十代男性。こちらは少し変わっていて、趣味のサーフィンをしていた最中に溺死。この時、海岸付近では季節外れの雷が鳴っていたため、感電による気絶が原因ではという見方もあるらしい。

「この三人全員、別々のIT企業に勤務、又は経験者。会社同士に繋がりはないし、本人達が連絡を取り合った痕跡はない。だが、三人とも『TAKE』を使用していたのに、別の秘匿性が高い通信を使っていたそうだ」

アンバーが瞬く。この殺人がBGMの仕業なのは暗にわかったが、だから何だというのか。

「?……関係者がこいつらを殺るのと、爆破に何の関係があるの?」

「目くらましだ」

「目くらまし?」

オウム返しにした未春に、ハルトは頷いた。

「クリス自身、この役を受け持ったことは過去何度かある。例えばだが、一人の遺体が見つかる事と、市街地で起きた爆発で百人規模の死傷者が出たら、どっちがマスコミの注目を集めると思う?」

ピンと来たらしい。一人が要人だとしても、爆破という派手な犯罪は目を引く。死傷者が不特定多数なら、自分たちも無関係ではない世論はヒートアップする。マスコミが好むタイプの問題提起や議論に発展できるし、建物が吹っ飛ぶ絵面はインパクトがある。

「謎なのは、クリス側がこの役に徹する理由だ。過去のクリスは取引上の行動らしいが、今回動いてるのはクリス本人じゃない。まあ、『クリス本人』なんてものが正体不明だから変な言い方になるが……仮にアマデウスから報酬を得るとしても、それなら殺人鬼タイプの殺し屋は同伴しない方がいい筈だ。他に人材が居ない可能性もあるが、シークレット・クリスに限ってそれは無いだろ」

「ハルちゃんが言う通りなら、あいつらの狙いはこの三人だったってこと?」

「恐らく。だが、殺ったのは別の人間だと思う。さっきも言ったが、この手口には見覚えがあるんだ。お前、スパイダーって殺し屋知ってるか?」

首を振った未春に対し、ハルトは微かに声のトーンを落とした。

「俺も顔は知らないが、スパイダーは少し前に死亡したTOP13のステファニー・レッドフィールドが抱えていた殺し屋だ。奴が関わった遺体は、殆どが水に浮いた状態、或いは風呂なんかの水場に頭を突っ込んだ状態で発見される。死因は溺死が多いが、殺害方法は電気だ」

「電気が出る蜘蛛なんて居たっけ?」

妙な所が引っ掛かったらしい未春に、ハルトは面倒臭そうに首を捻った。

「うーむ……名前の由来は聞いた気がするが覚えてない。静電気を使う蜘蛛が居るとか何とかは言ってた気がするが、『スパイダー』の意味はそれじゃなかったような……気になるならお前のクズ叔父に聞いてくれよ」

わかった、と聞く気が無さそうな声で了解すると、未春は本題に戻ってくれた。

「溺死扱いの二件も、感電が原因ってこと?」

「そう思う。ウチは清掃員が何も無かった風に遺体を片付けるパターンが多いが、パフォーマンス……要は見せしめにする場合もある。ステファニーは穏健派な分、自分が出資する障害者支援団体や病院が被害に遭うと過激な報復に出る性格だったから、ハッカー集団の遺体がプールにどっさり沈んだこともある」

このハッカー集団は各企業や医療機関などのサイトをハッキングし、使用不能に陥らせ、復旧と引き換えに身代金を要求するというサイバー犯罪の典型集団だったそうだ。うまいこと私腹を肥やした中心人物の豪邸でのパーティーが狙われ、男女三十人近くが水死体で発見された。当の遺体を処理したのは一般業者なので、さぞや重労働、吐き気の催す作業だったに違いないが、報道は大いに盛り上がった。

「アマデウスが言う通りだとすると、今回死んだ連中はゾンビ――詐欺広告の産みの親だろう。それなら、ネット犯罪を嫌っていたステファニーの部下が出張ってもおかしくはない」

「じゃあ……リリーのことは?」

「そう……それなんだよな。俺たちの気を逸らす為なのかと思ったが、この仕事に対しては無意味だろ。むしろ一言断ってくれた方が、余計な気を回さずに済む。クリス側がこの仕事に難色を示してたんなら別の話だが、ネット犯罪はクリスにとっても邪魔な存在で、連中の狙いは同じゾンビの筈。日がなスマートフォンを弄ってるリリーは、SNS更新か、音楽関係のサイトチェックぐらいしかしていないし、犯罪に関わる様子がない。俺はこの件とリリーは別で、最初の誘拐はパフォーマンスだと見ている」

「それ、誰に向けたパフォーマンス?」

「さあな。俺たちなのか、今回の件を牛耳ってる誰かなのか、死んだ奴らの仲間か」

「だからハルちゃんは、リリーを見ていなくても大丈夫だと思うの?」

頷いたハルトを、未春の胡散臭そうな目が見る。

「……そうやって、手っ取り早く釣るつもりだろ」

ぼそりと呟いた一言に、ハルトは虚を突かれた顔をしたが、すぐに首を振った。

「な、無い……! 大体、出掛ける話だってせいぜい知ってんのは室月さんぐらいだ。仮に十条さんに筒抜けたって、さららさん達の前で下手なことはしない筈だ」

そんなことは当然なので未春は頷いた。ハルトがさららや倉子らを同伴させたのは十条避けらしいとわかったが、懐疑的な視線はそのままだ。

「もう一人の殺し屋は、心配ない?」

「スパイダーか。大丈夫だろ……こいつの狙いが最初からリリーなら、三件の仕事をやる前にやる方がいい。わざわざ存在表明して警戒させる意味はないよ」

合点はいったようで、未春は二、三頷いた。

「今回って、俺たちが表側に居る感じだね」

アンバーが見つめる先では、リリーと倉子、さららが女子トークで盛り上がっている。ハルトも頷いた。

「確かにな……秋菜の件にしろ、取って付けたような話だ。リリーは楽しそうだが……最近のセレブって、こういう庶民的なことが好きなのか?」

せっかくの長期休暇だ。ジャパンが好き、というのが本当だとしても、仮にもアメリカン・ドリームを叶えた全米一位の歌姫だ。普通は京都や北海道などの人気観光地に行くか、高級エステや高級アパレル店を巡って好きなものを買い漁るとか、敷居の高いレストランや和食の店で本場の味を体感する――などが普通ではあるまいか?

「さあ、知らない。ハルちゃんの方が詳しいんじゃないの」

バカ高いウィスキーの味を知り、高級車をポンと取引材料にする男は何故か眉をひそめた。

「……それよりハルちゃん、俺、リリーのことで、気になってることがあるんだけど」

物静かな言葉にハルトは一瞬、言葉に詰まった。またネチネチした文句が飛び出すのではと身構えた男に、未春はあくまで冷静な口調で言った。

「声が、違う気がする」

「は……?」

「だから、声。喋ってる声や、歌ってる声も聴いたけど、欧米人の声に聴こえない」

「ちょっと待ってくれ。それ……どういうことだ?」

「わかんないから相談してる」

「……気付いたのは、最近か?」

「最初から何となく違和感は有った。CDの声とも、ちょっと違ってたから」

「どんなふうに?」

「同じ人間の声だけど、響き方が違う。歌ってる声とCDは強い音に感じる」

その回答に、倉子の言葉を思い出した。


――リリーの声はハスキーで、お腹に響く感じがする声。ダイナミックな感じ。


普段のお喋りはその歳の女性らしい声だ。会話でパワフルな声を出す必要はあるまいが、彼女は部屋で発声練習をしている。ハルトには壁を隔てた分、声の子細な情報までは聞き取れないが、外の音まで聴こえてしまう未春は別だろう。

「なんで今まで言わなかったんだよ……」

「他の事が気になってて忘れてた」

あっけらかんと出た言葉に、ハルトが少々胃でも痛むような顔をしたが、その視線はリリーと未春を往復し、やがて俯いて顎を撫でた。

心当たりが、無いわけではない。

未春が言うところの『何となくの違和感』はこちらにもある。

初対面の反応、避けられたピーマン、熱いものを上手く飲む仕草、デリカシーという言葉の使い方。そして、スパイダー。

「お前が言う通りなら……もしかして……」

視線の先では、白人系女性らしい天使のような顔がくすくす笑っている。



 決行の朝、ガヤちゃんこと保土ヶ谷が駆ってきた車に、頼んだ当のハルトは、まさか出てくると思わなかった厳つい姿に唖然とした。

「すっげ……日本でハマー見たの初……」

ハマーH2――既に生産終了しているフルサイズSUV車は、軍用車に似たバカでかいボディを黒光りさせていた。タイヤだけでも巨大であり、車体は地面よりかなり上に位置する。どう見ても日本の道路に不向きな車は、ヤシが植わる国道16号には妙に似合っていたが、どうりで普段の保土ヶ谷が店に徒歩で来るわけだ。

「いつ見てもかっけーなー! ガヤちゃんの車~!」

「だろ? リッキーはわかってる」

年齢が近い所為もあるのか、目を輝かせる力也と保土ヶ谷は気が合うらしい。

「これ、ガヤちゃんのなのか?」

「はい。十条サンに免許取得祝いにもらったのがコレです」

「あー……さては、入手先はディックだな?」

「そうです。どういうわけか防弾ガラスなんで、特注のタイヤしか付けられません」

只でさえ重い車に防弾ガラス……相変わらず意味不明な改造をやりたがる男だ。

どっしり構えた車体は保土ヶ谷にこれ以上無い程似合っているが――こんなところにも十条、か。感慨深げな男たちに対し、倉子は膨れ面だ。

「全米の歌姫を乗せるのに、こんなんでいいのおー?」

歌姫どころか、此処にいる人間でぴったりなのは保土ヶ谷ただ一人だ。彼はフンと鼻を鳴らし、腰に手をやった。

「うっせーな倉子は。頑丈で安心だろーが」

「I'm ok.」

さっそく一触即発の二人はともかく、リリーはアメリカで見る車種なので見慣れた風だ。さららに借りた紺色のブレザーを着て、金髪を焦げ茶色のボブのウィッグに隠した彼女は、遠目には女子高校生そのものだった。

「本当は、電車の方が近いのよねえ」

面子に合わせてくれたのか、珍しくジーンズ姿でぼやいたのはさららだ。ふっくらした印象のグレーのニットコートを羽織り、ブレザー組のマフラーを「寒くない?」と整える様は、保護者そのものだ。

「ガヤちゃん、疲れたら言ってね。私が運転するから」

十条さえ運転が上手いと称したさららは、ハマーも運転できるらしい。ハルトが感心していると、保土ヶ谷が今日もブレないダウンジャケットの胸を叩いた。

「ありがとうございます、さららさん。一日ぐらいどってことないですよ」

「宜しく頼むな」

ハルトの意図を察してか、保土ヶ谷は頼もしく頷いた。

「任せたよ、ラッコちゃん」

むくれ気味の倉子も頷いた。この女子高生はこういう所は実に聞き分けが良い。ハルトと未春は、国道の車を蹴散らさんばかりの勢いで飛び出たハマーを見送った。

「じゃ、俺たちも行くか」

振り返った未春は、無言でハマーの去った方を見ている。

「どうした? まだ気に入らないか?」

「いいんだけどさ」

ちっとも良くなさそうな顔で呟くと、未春は国道を駆けてくる埃っぽい強風に目を細めた。

「俺、交渉とか無理だからね」

「へいへい……そっちが『シャボンくん』なら電話くれよ。俺が出なけりゃ、なるべく穏便に確保してくれ」

「わかった」

不穏な会話をしながら駅に向かう内、ふと未春は「あ」と呟いた。

「コバちゃんはどうすんの?」

「ん? 言った通りだ。顔は見られないように保護。怪我は少ないやり方で――」

「そうじゃなくて。コバちゃんが暴れたら殴っていい?」

あまり許可したくない申し出に、ハルトは渋面になって押し黙る。

「あー……まあ……有り得るか……できれば名乗りたくないし……暴れたら、な」

歯切れも悪く言ったハルトに、未春はヨシと言わんばかりに頷いた。

――全く、こういうところは叔父に似て現金な奴だ。



 ホテルのラウンジは、柔らかな光で満たされていた。床から天井に達する窓ガラスの外は日本庭園風に玉砂利や石灯籠が据えられ、透き通った赤へと変わった紅葉が見える。ゆったりとしたベージュのソファーに腰掛けた女は、自身が持っていた薄いファイルを閉じると、テーブルの向こうへ差し出した。

「以上です。ご質問がありましたら、どうぞ」

向かいに腰掛けていた老紳士は付いていた杖を脇に、ファイルを受け取って頷いた。

「大変、有意義です。ミス・サトウ」

サトウと呼ばれた女は、ナチュラルな色を引いたルージュでニコリと微笑んだ。

グレーのパンツスーツにローヒールの黒いパンプス姿は華やかさこそ欠けていたが、目立たぬ有能さは“この仕事”と思えば百点だ。

「お役に立てたのなら、光栄です」

「いや、助かりました。さすがはブレンド社。正直に申しますと、此処は何かとのんびりしたお国柄。もう少々掛かるかと思っておりました」

「仰る通りです。本契約よりも手続きに時間が掛かる国ですね。我が社のボスも、滞在時には紅茶が山ほど要るとよく申しております」

女のそつのない返答に、老紳士はファイルの中を確認しながら鷹揚に頷いた。

「アマデウスには、気付かれておりませぬでしょうな?」

「彼は国外では傍観者オブザーバーです。気付いていても、直接的な不利益以外には関与致しません」

事実のみを述べるように女は言った。両足を揃え、背筋を伸ばした姿勢は、最初から崩れる様子が無い。確かに、と老紳士は頷いた。対する女は優雅に微笑むと、小首を傾げた。

「むしろ、異を唱えるのは同僚のお二人の方ではありませんか?」

「ハハ……有り得ますな。なに、踊らされるのも経験です。これを糧に成長すればいい。将来があるというのは羨ましいものです」

「まだお若いですわ。この国の若者の方が、背筋は曲がっていますもの」

「おや、それは大変だ。よもや“彼”はそうではありますまい?」

「さあ……“彼”が本性を表わすことは、ごく稀なことなので……」

女の笑みが妖しくなる。

「先に申し上げた通り、“彼”の活動が久々に見られたのはひと月ほど前の事です。それ以前も活動はしていますが、羽虫を潰すようなもの。普段は何をするにも鈍臭く、へらへらと笑って過ごす男なのです」

「――しかし、本性は生身で戦闘ヘリを落とす」

老紳士の言葉に、女は無言で頷いた。

「素晴らしい。それでこそ、あなた方に金を積んだ甲斐が有るというものだ」

「とんでもない。まだ何も起きていません――油断なさいませぬよう。では、私はそろそろ失礼いたします」

女は立ち上がると、なめらかな繊手を差し出した。

「ご帰国の際、また手配に伺いますわ」

「感謝します」

握手を交わすと、女は飾り気のないビジネスバッグを肩に颯爽とホテルを後にした。

残された老紳士は、陽に鮮やかに燃える紅葉に目を細めた。

「良い国だ。美しく、静かであり、強者には事欠かない――」



 クレープ店の周囲は、パンケーキのような行列ではないにしろ、賑わっていた。

休日の竹下通りは、動くのもままならないほど混雑する。只でさえ狭い道だ。特に人気のある飲食店の前では数名並んだだけでも通行を妨げてしまう。

とはいえ、楽しそうな観光客や、はしゃぎ気味の若者たちが、そんなこともそっちのけで写真やお喋りに興じるのが、この場所のセオリーでもある。押し合いへし合い、甘い香りが漂う場は、寒風など物ともしない活気に満ちている。ストライプの庇の元、ショーケースにずらりと並んだ模型サンプルは六十はあろうか。

生クリームにアイスクリーム、イチゴにバナナ、チョコレートにキャラメル、チーズケーキ――期間限定品にはさつまいもや栗もある。もはや迷わせる為の演出かと感じるような店頭では、流行りのポップスをBGMに、誰もが楽しそうにどれにしようか視線を彷徨わせる。

「こういうの、ひとしきり迷って、結局いつものになっちゃうのよねー」

さららの言葉に頷く倉子は、「イチゴは外せない」と言いつつ、隣のリリーと一緒にショーケースから視線が離れない。

「買ってもらえると思うと、返って悩む……」

「ラッコちゃんは律儀ねー」

「違いますよ、さららさん、倉子はどれが一番得か悩んでるんすよ」

脇から口を出した保土ヶ谷を倉子がじろりと睨む。

「甲斐性ナシは黙っててくんない? 奢ってくれるのはハルちゃんなんだから」

申し合わせたように、さららが両手でひょいと翳すのはハルトのクレジットカードである。

「ブラックカードじゃないんスね」

余計なことを言い出す力也に、さららが苦笑する。表向きは一般的な稼ぎのハルトが、ブラックカードを持っていたらおかしいに決まっている。

「他に持ってるのかも」

「あ、ですよね。センパイがカード一枚なわけないっスよね。俺一番高いのにしよっと」

「リッキーのが現金じゃん~~!」

そのやり取りに、リリーが伊達眼鏡の下、マフラーにすっぽり覆われた口元で笑う。

「リリーも遠慮しなくていいのよ」

「OK.」

めいめい、好きなクレープを手に脇道に逸れて写真を撮りながら頬張っていると、周辺に流れるBGMにリリーが振り向いた。

「リリーの曲だよ!」

倉子が嬉しそうに言う。


That kid's dad is a heavy smoker(あの子のパパはヘビースモーキー)

But walk with that child on your shoulders(でも あの子を肩に乗せて歩いてる)

That child's mom is not good at spelling(あの子のママは綴りが苦手)

But that child's snack is homemade cookies (でも あの子のおやつは手作りクッキー)

My mom and dad's story?(私のパパとママの話?)

It's rude to ask such a thing(そんなこと聞くのは野暮だわ)


That girl's girlfriend has the best smile in school (あの子の彼女は学校一のスマイル)

But she's laughing in your face(でも あなたの顔も笑ってる)

That girl's boyfriend has the best grades in school(あの子の彼氏は学校一の成績)

But he makes fun of you behind your back(でも あなたを陰でバカにしてる)

Are you talking about me?(私の話かって?)

Do you like wet stories?(湿っぽい話がお好みかしら?)


Don't be fooled by adults, good children (大人に騙されちゃダメよ良い子ちゃんたち)

A true ally listens to you(ホントの味方は あなたに耳を傾ける)

Really kind people don't talk about money (ホントに優しい人はお金の話はしないわ)

True love quietly watches over you(ホントの愛はそっと静かに見守るわ)

Take courage, sisters and brothers(勇気を出してシスター&ブラザー)

The red truth will tell you(赤い真実が教えてくれる)

Remember we are ours(思い出して 私たちは私たちのものよ)

If it's still a tough night(それでも辛い夜なら)

Listening to my voice(私の声を聞いていて)


「やっぱり、デビュー曲の『Red Genuine』が一番好きだなあ」

テンポの良い曲に、クレープ片手の倉子が呟いた。隣で自分の曲を口ずさんでいたリリーが、同じようにクレープを頬張ってから微笑む。

「嬉しい。私も一番、思い入れ、ある曲」

倉子はつられるように笑ったが、窺うように肩をすくめた。

「……これ、リリーの作詞だよね? 何か……辛いことがあったの?」

気遣う調子の問いかけに、リリーは悪戯っぽく笑って首を振った。

「湿っぽい話、好きじゃないでしょ?」

「イエスだけど……話した方が元気になれるよ。困ってるなら、力になれることがあるかもしれないし……」

「アリガトウ、クラコ。私を見つけてくれた人が居るから、もう平気よ。それに、今はあなたみたいなファンが沢山居てくれて、とてもハッピー。そうじゃない人の為に歌えるのも、ハッピーよ」

「そっかあ……カッコいい……あたし、ずっと応援するね、リリー」

「アリガトウ」

にこにこ笑い合う二人の様子を微笑ましく見守るのはさららだ。

「若いって、良いわねー……」

「え、さららさんは若いよ! ねえ、リリー?」

「Sure.」

「ありがと。気を遣わせちゃった」

楽しそうな女性陣を眺めるような位置で、物解り顔で頷くのは力也だ。

「女の子ってイイッスねえ……」

「急に何だよ、リッキー」

保土ヶ谷が呆れた調子で笑うと、力也は真面目な顔付きで、とっくに無くなったクレープの包装紙を片手に腕組みする。

「だってさ、ガヤちゃん、男があんな集まって笑ってても可愛くないじゃん。やっぱ女の子って凄いと思うんだよ。リリーの歌も、リリーが歌うから響くんじゃん」

「……そう気楽なもんじゃねえだろ」

答えた保土ヶ谷の声は浮かない。訝し気な顔になる力也に、保土ヶ谷は冷えた空気を煙草みたいに吹かして言う。

「大変だと思うぜ。見た目にうるせえ世の中だから。やり過ぎると、倉子のダチみてえに叩かれるだろ。誰でもリッキーみたく、素直に受け取ってくれりゃいいんだけどな」

「ああ~……そういや、そうだよなー。ガヤちゃんはセンパイみたいに気が付くんだな」

「ハルさん? へえ……あの人、こういう話もすんのか」

「するする。センパイはすごく色んなことが見えてるんだよ。聞いたら教えてくれるけど、いつも押し付けないんだ。これは自分の意見だからって感じで、断ってから話してくれる」

「お人好しって奴だな。不思議な人だ。悪党らしくないのに究極悪やってんだから」

「わかる。センパイって……なんかこう……ベルトコンベアの前に座って作業する人っぽいなあって」

「ベルトコンベア? 自動車工場とかの?」

「そうそう。こう……流れてくるものを、指示通りに組み立てたり、壊――……」

呑気に出たおぞましい想像に一瞬、保土ヶ谷が言葉を失ったとき、力也もまた口をつぐんだ。その視線の先で、女性陣に近付く人影に気付いたからだ。

「なんだ、あいつら……」

力也の呟きに、保土ヶ谷も振り返る。リリーを庇う様に立った倉子とさららの手前、如何にも巷のワルといった風の若い男が五人ほど。

口説いているのか、茶化しているのかわからない調子で、体のバランスを左右にやりながらベラベラと話し掛けている。

「オイオイ、連れに何の用だ?」

保土ヶ谷と力也が割り込むように出て行くと、予想外の相手が出てきたのか、微かに男たちに動揺が浮かぶが、立ち去ろうとはしなかった。

「お前らこそ、いきなり何だ……男に用はねえよ。引っ込んでろ」

「あァ? 舐めんじゃねえぞ、ベタな絡み方しやがって」

よっぽどベタなアウトローさながらの保土ヶ谷が言えた口ではないのだが、相手は怯まなかった。こんなことは日常茶飯事とでもいうように、早くも争う姿勢である。

「この人らに何の用だ? イイ趣味してるが、女は他にもわんさか居るだろうが」

にわかにざわつき始めた周囲では、既に誰かがスマートフォンを掲げている。不安そうな人間と面白そうな人間、関わらぬよう行き過ぎる人間、早くも分かれて騒然としている。

「う、うるせえな! 引っ込んでろっつってんだろ!」

言うが早いか、殴り掛かった男の拳を、大きな手のひらでがっちり受け止めた保土ヶ谷はどちらが悪党かと思う面構えで相手を睨んだ。

「ボキャブラリーの無ェ奴だ。余計な仕事増やすんじゃねえよ!」

喧騒を貫く怒号と共に、保土ヶ谷の拳は最初の男を拳ごと押し返し、傍らから来た男を片足が蹴散らす。その様子を冷静な目で見つめたさららが、背後から小声で話しかける。

「ガヤちゃん、私も――」

「いえ、下がっていてください。リッキーも居るんで。こんな連中、イノシシに比べたらどってことありません」

小声で答えた保土ヶ谷が顎をしゃくる先では、力也が一人ぶん投げたところだ。表情こそ緊張しているが、体格では引けを取らない。

「それより、さららさん……こいつら、雇われかもしれない。誰かヤバい奴が近くに居るかも――気を付けてください」

「……わかったわ」

静かな声で答えたさららが、壁を背に下がる。駐車場まではかなり距離がある。倉子はともかく、リリーにそこまでの持久力は無いだろう。無理に走らせるより、人の目が多いこの場で、警察を待つ方が安全だ。幸い、此処から警察署は近い方だ。パトカーが全速力で入ってくることは難しいだろうが、そこは地元警察、対応慣れしていなければ困る。さららが周囲を窺う様にする傍ら、倉子が電話を握りしめてそっとその袖を引いた。

「……さららさん、110番したよ。すぐ来てくれるって」

こちらはこちらで、冷静な女子高生だ。不安げに眉を潜めるリリーの手を握り、きりりとした顔を上げている。

「ありがと。あなた達は私より前に出ないでね」

「うん。――ガヤちゃん! リッキー! ガンガンやっちゃえー!」

拳を掲げて物騒な応援を始めた倉子に苦笑したさららは、ふと――……狭い道路を挟んだ先に居た男に目を留めた。

若くはない。むしろ、此処では違和感があるほどの高齢だ。

スーツに揃いの帽子を纏った英国紳士のような出で立ちで、銅像のように物静かに佇み、長い杖を体の前についている。

目を引いたのは、その男がまるきり喧騒を見ていなかったからだ。

こっちを見ている。――リリー? いや……――

私を、見てる。

さららがそう自覚したとき、その姿は人混みに掻き消えた。

「サララ? What's wrong?」

遠慮がちなリリーの声にハッと振り向いたさららは、寒風に嫌な汗が浮かんだ額を拭った。急に辺りの音が押し寄せる。街頭のポップスに混じって、サイレンが聴こえてくる。

「何でもないわ……大丈夫」

微笑んでそう答えたとき、“すぐ傍”で、その声はした。

「いやあ、お見事です。昨今の若者の評価に迷いますな」

杖を小脇に、両の手で優雅な拍手をした老紳士は、いっそ場違いなほど穏やかな笑みを浮かべていた。

「……どなたかしら」

答えたさららの声は硬い。むしろその声に驚いた様子の倉子とリリーが僅かに後退る。

「名乗るほどの者ではありませんよ、美しいお嬢さん」

「あら、そう……名乗った方がいいわね。“間違い”があるといけないもの」

「お優しい御忠告、痛み入ります――……BGMでは、エタンセルと呼ばれております」

先に息を呑んだのは倉子だ。勘のいい娘はさっと保土ヶ谷らの方を向いたが、その肩にさららの手がそっと乗った。

「私たちに、何の用?」

視線だけは老紳士に据えてさららは言った。厳しい声に、紳士の顔つきは変わらなかった。

「さて――三人もいらっしゃると迷いますが、ええ、そう、お嬢さん。私の用向きは貴女お一人で十分です」

手を伸べられたのは、さららだ。

「そう。良かったわ……ラッコちゃん、リリーをお願い」

「さ、さららさん……でも――……!」

「心配しないで。私は大丈夫。ハルちゃんか未春に電話しておいてくれる?」

「……十条さんじゃなくていいの?」

どこか泣きそうな声で返って来た返事に、さららは振り向いて微笑んだ。

「……いいの。二人に連絡して」

唇を噛んで頷いた倉子に笑い掛け、さららは老紳士に振り返った。

……警察を待つ方が安全かもしれないが、仮にこの男が予想通りの人物なら、恐らく、警察に抑止力は無い。

「場所を変えましょう。此処には警察が来るから」

「お気遣い、感謝します」

律儀に頭を下げた男に従うように、さららは歩き始めた。背後で誰か何か言った気がしたが、目前を歩く紳士のプレッシャーはすべてを掻き消すようだった。



「あれぇ……此処だと思うんだけどなあ……」

ぼやいた小場は、スマートフォンを片手に都心の一角で頭を掻いた。

渋谷区の大通りを外れた路地の奥、人通りこそ少ないが、デザイン事務所やマンション、ギャラリーにインテリアや雑貨のショップ、隠れ家のような飲食店がひしめいている中。

罠を確信しているフラムは厳しい注意を払っていたが、周囲は静かなものだ。

いっそ穏やかなぐらいの日差しに、剥き出しのコンクリート照り映える。若い日本人と外国人の二人組は同じような景色に迷う観光客か、商談に来たビジネスマンにぎりぎり見えるかどうか。

目の前にあるのは、ライブハウスだ。間口は二人通るのが限界であるほど狭く、一見何の施設なのかわかりづらいそれは、地下に向かって広がっているらしい。

罠と知った上で階段を下るのは緊張した。

一方、何も知らない小場はそろそろと階段を下りていく。

こちらが付いていくこと自体、全く気にしていない彼は、違う意味で緊張しているようだ。きょろきょろと見回したところで何も変わりないだろう狭い階段は、長い歴史があるのか、扱いが乱暴なのか古めかしい。鉄製の手すりは腐食し、いつ貼られたものか、何かのステッカーが各所にしがみついている。かろうじて屋根の下にある壁には、所狭しとポスターが貼られているが、雨風で傷んだのか悪戯なのか、擦り切れたり破れたりした様は廃墟のようにも見えた。まさか、映画やゲームのように何か襲ってくることもないが、人が居る気配もないらしい。

小場が恐る恐るというよりは、遠慮がちに下り切り、防音の為だろう、大きな取っ手が付いた重たげなドアの様子を確かめる。

一体、どんな手で来るか。――相手はどちらだ。或いは両方か。十条が来る可能性もあるかもしれない。

“形の上では”招待客ではないフラムは安易に下りることなく、通りや建物の陰を油断なく見つめながら、対策を思案した時だった。

「あ、ミスター・フラム……ドア、開いてます!」

「コバ、注意を――……」

言い掛けたフラムの言葉が終わらぬ内に、小場はドアを重たげに引っ張って中に入った。この男が襲われることはあるまいが、万に一つのことが有っては困る。

改めて周囲を見渡してから、フラムは階段を下った。

たかがワンフロア地下に下りただけで、微かにひやりと気温が落ち、どこかカビ臭い。

ほんの数秒の躊躇の後、ドアを開けた。かなり重い。

「……コバ?」

中は真っ暗闇だった。部屋中に黒が満ちている。小場の姿はおろか、何も見えない。

ドアを閉じないように体で押さえながら、フラムは闇に目を凝らした。外部からの弱い光が舞い散る埃をきらきらと映すが、中はどす黒いままだ。

「コバ――何処に――……」

「だ……誰だ……!?」

小場だ。焦りを含んだ誰何に、返事は無かった。何かがぶつかるような音と、重い物が落ちるような音が響いたが、何が起きているのかは全く見えない。

――小場が襲撃されたのか? なぜ? こちらと間違えたのか?

もう一度声を掛けるか、この場を出るか迷った刹那、唐突に背後から突き飛ばされた。

相手の姿を見る間もなく、真っ暗闇に放り込まれ、たたらを踏んで振り向いた先ではドアが閉じる所しか見えなかった。瞬く間に辺りは暗くなり、すぐに飛びついたドアは微動だにしない。此処ではない何処かでバタン!と扉が閉じる音がし、今度はがちゃりと開く音が間近に響くが、何も起きない。

止まっているのは危険と判断したフラムは、コートの中の拳銃に手をやり、のろのろと壁際に寄って進みながら、辺りに注意をめぐらす。慣れたところで夜目は利かない。そもそも光一つない空間では、人間の目など何の役にも立たず、空気の流れも、誰かの息遣いさえ感じない。しかし、遠くはないが間近でもない何処かで、機械か何かをガチャガチャといじくるような音がする。

――襲ってこないのか……?

自分の鼓動ばかりが響く気がした。スマートフォンを取り出せば光は得られるが、相手にも居場所がわかってしまう。相手は一人なのか、二人なのか、戻るか、電源を探すか、別の出口を探すか――……

めまぐるしく思考していた時だった。片足が、何か柔らかいものに触れた。

「……!」

それが床に倒れ伏した小場だと気付いて、声を出し掛けた口を慌てて塞いだ時だ。

バチンッと何かを激しく叩くような音と共に、一斉に電気が点灯した。ストロボのような光源に思わず目が眩んだフラムがよろめく。辺りはライブハウス『だった』と言わんばかりのがらんどうだった。塗装の剥がれ落ちた壁の下には放置されたコードか何かが散乱し、埃が積もっている。そこに、すたすたと歩いてくる人物が居た。黒いコートにジーンズ姿という珍しくもない格好だが、頭にすっぽりとマスクをかぶり、サングラスに黒手袋という異様な出で立ちだった。

「……Who are you……?」

光になぶられる目を細めて、フラムは問い掛けた。

すらりとした長身の人物は質問には答えず、上部の光を見上げて小首を捻り、しばらく眺めていたが――やがてマスクを剥ぎ取り、サングラスも外した。無造作なアッシュの髪が広がり、無表情ながらも整った美貌が露わになる。

「……『シャボンくん』の方だった」

少し都合が悪そうな呟きは、当事者ではなくても意味不明だった。何のことかわからず、いっそう眉間に皺を寄せた男をちらりと見、美青年は尚も呟いた。

「変態叩くだけのが楽だったな……」

何やらぼそぼそと独り言を言う顔が、ファイルのそれと一致した。

「お前は……『ブレイド・ウォーカー』だな?」

その一言に、青年はきょとんとして固まった。

三度ほど瞬いたアンバーの目を見、フラムの方まで目を瞬かせる。妙な沈黙が落ちたが、外国人の方が気遣う様に青年を見た。

「人違いではないと思うが、まさか……他のあだ名の方が好みなのか?」

「あだ名……ああ、……アマデウスさんのそれ、初めて言われた」

やや気だるそうに青年は頷いた。

「それでも何でもいいよ」

不名誉だろうあだ名を気にしていないらしい青年に、フラムは胡乱げな顔をした。

「では……クレイジー・ボーイの弟子で間違いないな?」

「それはやめて」

無表情でピリリと告げられた注文に、出鼻を挫かれたフラムは溜息を吐いた。

「わかった、ミスター・ブレイド。彼を呼び出したのは、君たちの作戦だな?」

「俺じゃないけど、まあ……そうなるか」

何やら不服そうに頷いた青年と、ピクリとも動かない小場を確かめ、フラムは両の手を軽く挙げた。

「彼は、君が?」

「そう。騒がれると面倒だから」

「なるほど。やれやれ……彼は災難だったな。私は君たちと争うつもりは無い」

正論を言ったつもりだが、青年は幾らも動かない表情筋の中、目だけ瞬かせた。

「コバは我々に協力しただけだ。本作戦の目的は既に “九割がた終了している”……後は、“リリー”の仕事が終われば……」

未春は首を捻った。その手元にはいつの間にやら小場を気絶させたものらしきナイフが有るが、片手でくるくると弄ぶ仕草に殺意は見えなかった。

「リリーの仕事って、何のこと?」

頑是ない子供のような問い掛けに、今度はフラムの方がぽかんとした。

「……? アマデウスに聞いていないのか?」

「俺は何も。リリーは何かするつもりなの?」

急にぞっとするような殺気が籠もる声に、フラムは喘ぐように首を振った。

「 “リリー”は、ゾンビを狩る。“彼”はもともと、その専門家で――」

「彼? リリーって女じゃないの?」

「? いや……待て、君が言っている『リリー』とはリリー・クレイヴンの方か?」

他に誰が居るんだといった様子で頷いた未春に、フラムは瞠目した。光に慣れてきた目が訴える痛みにこめかみを押さえながら、忙しく思考した末に顔を上げた。

「……そうか――そういうことだったのか。アマデウス……!」

眉を寄せたフラムに対し、仮面のように無表情な青年は首を捻る他ない。

「……あのさ、何だか知らないけど、俺、交渉には向いてないんだ。あんたが話す気なら、ハルちゃんとしてくんない?」

「ハル……フライクーゲルと?」

「そう」

フラムは難しい顔をしたが、存外早く顔を上げた。

「構わんが……彼は近くに居るのか?」

「居ない。此処に居るのは俺一人だけ。もう一ケ所に行った」

ということは、先程、こちらを突き飛ばしたのもこの男か。

「ドルフの方か……不味いな」

未春を視界に入れつつ、フラムは電話を取り出した。掛けるが出ないらしく、苦虫を噛むような顔になる。

「……困った奴だ」

「出ないの?」

「ああ。君の相棒は殺されるかもしれない」

あっさり言うのは殺し屋らしいが、未春はフラムよりも一段――否、斜め上だった。

あまつさえ、無に近い薄ら笑いを浮かべてのんびり答えた。

「あんな自信満々で殺されたら、ウケる」

「……? 何だと?」

仲間が心配ではないのか、そんな視線を向けられても、未春は何の反応も示さなかった。すたすたと気絶した小場の方へ歩くと、フラムが何か言う前にその背にすとんと腰掛けた。賊がお宝の上に座るような格好に、呆気にとられたフラムが言葉を探す間、未春は退屈そうに電話を耳に当てている。

「出ないね」

ふう、と至極小さな溜息をこぼすと、未春は片膝に肘をついてフラムを見た。

「あんたはどうする? 俺はコレ連れて帰りたいんだけど、一緒に来てくんない?」

「それは――……駄目だ。フライクーゲルと話が付くまでは帰せない」

「あ、そう」

しょうがないな、と、立ち上がった手にはいつの間にか、携帯端末ではなくナイフがある。思わずただ一歩退いてしまったフラムは厳しい顔付きで言った。

「BGMは原則、同士討ちは禁止だ――そちらもルールを破るつもりか?」

「破る事には、ならないと思う」

何気なく発せられた未春の言葉に、フラムは眉を寄せた。

その双眸を、アンバーの両眼が静かに見据える。

「だってあんた、“殺し屋じゃない”だろ?」



 少し前。ハルトが座っていたのは、都内・地下駐車場の階段だった。

地下といっても半地下といった風で、上部にほんの少し光源を確保できる隙間がある。牢獄に見るような光がわずかに差し込むそこは、取り壊しが決まった廃ビルだけに、崩れかけのコンクリート壁や、錆びた針金が露出した柱などが薄暗い中に沈黙していた。“万が一”を考えて選んだ場所は都心に近い割に静かだったが、じっとしていると風邪をひきそうな寒さだ。コートのポケットに手を突っ込み、これで誰も来ないのもツラい――などと思っていると、潜む気配のない足音がやって来た。

一人だと気付いて立ち上がると、トレンチコートを着た大柄な男が立っていた。中南米を思わす浅黒い肌や髭面は、ひと目でフラムではないとわかる。

二メートルほど距離を置いて向かい合い、ハルトは頭を掻いた。

「あー……『かちかち山』の方……コバちゃんの愛は甘かったか……」

「あ? カチカチ?」

「……いや、こっちの話。ミスター・ドルフ、だよな?」

男は厳つい顔立ちを不敵に笑ませて頷いた。

「ああ。あんたは噂のフライクーゲルだなァ。写真より若く見える」

「うう……そのあだ名ホントやめてくれ……同業者に言われんのが一番恥ずかしい……」

本当に赤面しつつ、ハルトが片手を振ると男は愉快げに笑った。

「思った通り、面白え殺し屋だ」

「そりゃあどーも……ところで、連れてった警察官はどうした?」

「コバならフラムと一緒だぜ」

「それならあんたとお喋りする必要は無いな。交渉したい。向こうと合流して――……」

「ハァ? 冗談だろ? こっちはわざわざノッたんだぜ?」

カチッと、男の両手で小さな音がした。ハルトが飛び退いたのは、殆ど本能だった。

「せっかくお知り合いになれたんだ――噂の射撃、見せてくれよ!」

喋る間にも男の手元から吹き上がったのは炎だ。ちょうど、指を鳴らすようなアクションで交互に振られる両手から次々と炎が噴き上がる。声を掛ける間も無く横飛びになったハルトを追い掛ける様に炎が射出されていく。

「ッおい! なんだそのバカな武器は……!」

ベレッタM8000を抜いたハルトは分厚い柱の裏で文句を吐き捨てた。

まるでバカでかいジッポーだ。薄衣のように翻った炎が舐め、コンクリート面の焼ける香が広がる。無論、魔法などではない。ちらと見えた両袖の内側から覗くのは、火炎放射器じみた小型ノズル。そんなところから炎を噴射すれば、いくらなんでも手が火傷するに決まっているが、どうしたわけか男は平然としている。両手にはめている黒手袋の仕事らしいが、考える間もなく炙り出す様に炎が飛んで来る。

「ったく、冗談はどっちだよ……! お前らの標的は俺じゃないだろうが!」

次の柱に引っ込んで怒鳴ってやると、ドルフは炎に目をぎらつかせて唇をめくり上げた。

「そうとも、フライクーゲル! 俺たちの標的はお前じゃあない。だがよ、こっちは地球の裏側から来たんだぜ? ゴミみてえな連中のために!」

――ゴミみてえな連中?

リリーのことか? いや……誘拐狙いの段階でリリーは殺しの標的ではない。

例の殺された三人のこと? 可能性は高いが、それはスパイダーの仕事と認識していないのだろうか?

「相方はグダグダ進めやがるし、小競り合いもねえ日本のボケ具合には飽き飽きしてたとこだ。ちっとは楽しませろ!」

「楽しむだと? 人の話も聞かねえし、どんな教育されてんだ!」

「教育? オイオイ、フライクーゲル! 俺たちは殺す! それが殺し屋だぜ!」

「やかましい! 殺人鬼と一緒にすんな!」

言い返しながら、ハルトは忙しく思考した。人間が炎を出せる生き物ではない以上、いつかは燃料切れがやってくる。広い場所なら好き放題に撃たせてもいいが、こんな場所でお構いなしに焼かれると何処か崩れるかもしれない。騒動に気付いた人間が来ても困るし、もたもたして一酸化炭素中毒になるのもご遠慮したい。

それに、銃器なら装填数や燃料の検討がつくが、その容量が目視できない上、一発でどれだけ使っているのかわからない。ガス欠がいつ起きるのか不明なのは面倒だ。

かといって、ある程度切れる前に手を出せば、この場を全壊させるような惨事が起きるかもしれない。――できれば、一発で何とかしたいが。

「――かくれんぼが趣味かァ?」

「ッ!」

――コイツ、でかい癖に素早い!――ほぞを噛んで飛び退った肩口を炎が舐める。

文字通り間一髪、髪を焦がす臭いが鼻を掠め、耳元がひりつく。

「おー、おー、逃げ足は小動物並だぜ。大したウサギ野郎じゃねえか」

別の柱に身を滑り込ませ、響く声を聞きながら――ハルトはふと目を細めた。

小動物。ウサギ。ウサギ……? かちかち山……かちかち山って――……

「タヌキの背に……火……」

ぶつぶつ呟いたハルトが居る柱に向かうと、ドルフは片手をかざした。

「噂以下だなァ、フライクーゲル!」

次の瞬間、響いた銃声を聴いたと思った――が、それは直後の凄まじい爆発音が掻き消した。ばらばらと吹き飛んだ何かの破片が散乱し、信じられん――その表情を浮かべたドルフが、両膝をつき、前のめりにどうと倒れた。ハルトは埃なのか煙なのかわからないものを払いながら咳き込み、口元を拭って悪罵を吐き捨てる。

「クソッ……ウサギは俺か……! なにが『かちかち山』だよ、あのオッサン……!」

かちかち山。その言わんとする正体は、正面から狙えない位置――殺し屋が背に隠した薄いガスボンベのことだ。皮肉になってしまうが、跳弾で狙った銃弾の跳返りはまるで火打ち石。

恐らく、防火処理でもした防弾チョッキを着ていたのだろうが――いくらなんでもチョッキの下にボンベは仕込めないし、安易に取り外せないのは緊急時に危険だ。

溜息ひとつ吐いて、近寄らぬよう確認した相手の背に、ハルトは目を瞠った。

たった今、爆破された背は衣服が千切れ、肌が露出していたが――そこは皮膚が歪に盛り上がり、ねじくれた火傷が一面に広がっていた。

多分、古い傷だ。数年前、或いはもっと前――――

「くく……」

男は冷たいコンクリート面に突っ伏したまま、へらへら笑っているようだった。

「フライクーゲル……俺の背を焼いたのは、お前が二人目だぜ……」

「知るかよ。そんなもん背負ってるからだろ……タフな野郎だ」

「おふくろの火より弱かったからなあ……」

聞きたくもなかった一言に、ハルトは舌打ちして脇を向いた。

「……うるせーな。かちかち山なら、お前を殺すのは火じゃねえ、水だ……」

「……さっきから何なんだそりゃ?」

「クレイジー・ボーイに聞いてくれ。俺はあの人のネーミングセンスにはうんざりしてるんだ……」

唾吐き捨ててもいいぐらいの気分で言う中、電話が鳴った。よく見ると着信が数件ある。未春の連絡かと思ったが、相手を確認してハルトは首を捻った。

「……?」

未春の着信は一度きり。それを上回る回数で掛かっているのは――……

「――もしもし?」

〈ハルちゃんッ……!? バカー! なんですぐ出ないの!〉

倉子だ。キンキン響く声から少し離れて、ハルトは頭を下げるように話し掛ける。

「ああ、ごめん。ちょっと立て込んでて……どうしたの?」

〈大変なの……! さららさんが!〉

「落ち着け、落ち着け。大変って何が?」

さてはハッピータウンお得意の流れか? と、ハルトが呑気に思っていた刹那、信じられない言葉が飛び出した。

〈何ゆうちょーにしてるの!? さららさんが、変な外国人のお爺ちゃんに連れていかれちゃったんだよッ!!〉

気抜けしかけた頭に、急激に炭酸を注がれたようにハルトは頭をもたげた。

――お爺ちゃん? 誰だ?

一瞬、ミスター・アマデウスを思い浮かべるが、いくらなんでも女子高生から『お爺ちゃん』呼ばわりは心外だろう。それに、彼はさららとは顔見知りだ。

〈クレープ屋さんの前で、チンピラぽいのが湧いてきて……えーと、ケンカになって、それで……〉

〈代われ倉子、俺が話す――ハルさん、お仕事中スミマセン〉

キィキィ文句を言う倉子から電話を奪ったらしい保土ヶ谷の声に、ハルトは眉を寄せた。

「ガヤちゃん、どういうことだ? リリーは?」

「リリーは無事ですが……すんません、ハルさん……わからないんです。襲ってきた連中は俺とリッキーで何とかなったんスけど、全員その外国人に買収された一般人パンピーでした」

「リリーを狙ったんだよな? なんでさららさんを連れて行った?」

「……いえ、多分、逆です。奴はまっすぐ、さららさんに声を掛けた気がします。きっと、ヤバい奴で――……」

保土ヶ谷の言葉が終わらぬ内にハルトは倒れたままのドルフを振り返り、怒鳴った。

「おい、起きろ! お前ら二人組じゃないのか!?」

血相変えて尋ねる男に、ドルフは痛みに顔を歪めつつも怪訝そうにした。

「……二人だぜ? ボスもフラムもそう言って……」

「年寄りの殺し屋は!?」

「年寄りだと……?」

目に見えてドルフの顔色が変わった。

「エタンセル……! まさかあのジジイ……!」

「エタンセル? どこのどいつだ?」

凄むハルトに気圧され、ドルフは素直に口を開いた。

「……南米支部の古株だ。ボスが爆破しまくってた頃からの……」

「古株……? お前たちの後詰ってことか?」

「バカな……そんな筈はねえよ! ボスは最近合わねえってぼやいてたし、あのジジイの処遇をどうすっか悩んでたぐらいなんだぜ! もう辞めりゃあいいのに、まだ殺し足りねえんだからよ!」

「……」

引退しない殺し屋か。何故そんなものが日本に?

近代から暗躍しているBGMは、決して若い組織ではない。若手が育って来たのは最近のことで、ハルトたちの世代は最も若い部類に属す。アマデウスやクリスは草創期のメンバーである為、古株だと言われているが、その配下や支援者には彼らより上――つまり、第二次世界大戦で“使う予定だった”世代が、殺し屋に引き抜かれている。彼らの殆どは、主に身体能力の衰えを理由に引退、または年甲斐もなく無理をして命を落としている為、現在は前線には居ない。去り方は様々だが、人間誰しも歳は取る。殺し屋からは退いて清掃員に落ち着いたり、人が違ったように表の生活で余生を送るパターンは少なくない。

ところが、稀に居るのだ――常人よりも優れた能力を維持し続け、その誇りと傲りを見誤っている殺し屋が。

「おい、あのジジイはやばいぞ。ボスも何度か始末を考えたが、強くてどうにもならねえ……あんたみたいなスナイパーも殺されてる」

「俺はスナイパーじゃないけど……よくわかったよ、コンチクショウ――ガヤちゃん、一旦切る。リリーたちは店に――ああ、頼んだ」

忙しなく言うと、ハルトは改めて電話を掛けた。

出た相手に開口一番、早口に告げる。

「室月さん、 “あの人”に連絡を付けられますか。はい、今すぐ! さららさんが危ない!」



――エタンセル。意味は火花。

静かに歩きながら、さららは胸に呟いた。

大人しく後ろに付いてくる男は、知らない人間から見れば杖をついた老紳士だった。

折れ目ひとつ見えないモカのロングコートを身に纏い、同色の上品な帽子をかぶっている。顔は皺のある年寄りだが、背はさららよりも高く、杖を持つ腰はしゃんとしていた。

――トオルちゃんメモ……『西洋・座頭市』。

ちら、と視界に杖を入れる。なんのことはない、T字のグリップがある飴色の木製杖だ。しかし、『座頭市』は盲目の剣の達人。彼は目は見えているし、杖が要るほど足弱は見えない。

つまり、この杖の本性は。

――わかりやすいわ、あのメモ。

「日本も随分変わりましたな」

観光客の体で話し掛けてきた背後に、さららは肩越しに頷いた。

男は日本語に明るかった。外観年齢に比べ、とても流暢に話す。アマデウスと比べても遜色ない日本語は、少なくとも、彼が日本語がある環境に長く居た証拠だ。

「……ええ。この界隈は、特にそうかもしれない」

「そのようです。表の通りに在った、青山アパート……そう、同潤会どうじゅんかいアパートと言いましたかな。あのつたを生やした建物は良い雰囲気でした。どうも近頃はギラギラと騒々しい」

「御詳しいのね。日本語も上手」

「いやいや、日本は過去一度、訪れたのみです。師が居たのでね」

老紳士は肩を揺らして笑ったようだった。

「……ところでお嬢さん、お名前は何でしたかな?」

「さらら。貴方は?」

「はて、エタンセルと申しましたが」

「それは仕事上の名前でしょう?」

「それ以外に名乗る意味はありませんので」

「……自信家ね」

振り返ったさららは鋭い目で答えた。颯爽とした立ち姿だが、思ったより年配らしい――やや皺がれた声で、どこか品の有る笑い声を立てた。

「恐縮です。お嬢さんもなかなか勇ましい。お若いのに感心致します」

「それこそ、恐縮するわ……さっきから手が震えそうで困っているの」

「おや、お気の毒に。お手持ちの武器は役に立ちませぬかな?」

「……此処は日本よ。杖を持ったお爺ちゃんをいきなり撃つなんて出来ないわ」

やはり、並の殺し屋ではないようだ。さららの格好だけ見て拳銃の存在に気付くなど、目を皿のようにして見張りをするガードマンでも無理だろう。

ごく普通の女性が、上着のポケットに黒光りするグロックを忍ばせ、手を掛けているなど日本では有り得ない。

「銃刀法とは画期的な法です。その割に、日本はどうも素人の殺傷事件が多い。青少年の犯罪も残酷性が高い。痛ましいことですね」

「貴方が言うことかしら」

「勘違いなさらぬよう。我らはBGM。下らぬ衝動で動く素人とは、流儀が異なります」

「物は言い様ね」

素っ気なく答えたさららの肩を、不意に男は掴んだ。

決して強い力ではなかったが――息を呑む彼女に、男は静かに述べた。

「お嬢さん、そちらではありません――そこを曲がって下さい」

「……」

有無を言わさぬ誘導に、さららは大人しく従った。徐々にすれ違う人間が少なくなり、都心とは思えぬほど侘しい建物が増えてくる。せいぜいカラス程しか見掛けなくなったところで、さららは口を開いた。

「貴方たち、リリーに用があるんじゃないの?」

「リリー? ああ……私は“奴”に用などありませんよ」

「……“奴”?」

女性に対するには妙な言い回しに眉をひそめると、男は笑ったようだった。

「さてはお嬢さん、アマデウスにそそのかされましたか。あの男は昔からペテン師です。TOP13の中でもとびきりの……ああ、そちらにどうぞ」

促されたのは、町工場か倉庫だったのだろうか――湿気に黒ずんだコンクリート製の建物だ。都心の一等地にも、まだこういう場があるらしい。道に面したシャッターの前には工事現場などで見掛けるオレンジのフェンスが立て掛けてあるが、それさえも傾き、立ち入り禁止の看板は錆び付いている。無理に入ろうと思えば通れなくも無いフェンス脇の隙間を抜けると、路面からは囲いで見えない位置に中途半端に開いた鉄扉があった。

「やれやれ、日本は人目を避けるのも苦労しますな」

「……そうね」

男はどうやら、こちらが現役の殺し屋だと思っているらしい。

確かに以前は、十条さえ苦しめるほど特殊な声を出せたさららは「カンタレラ」の名を冠し、例の「スプリング」の最初の適合者だ。副産物ともいえる声の効力は今は無いに等しく、常人よりも力は有る方だが、戦闘となれば素人だ。

扉の前に来て、さららは呼吸を整えるのに精いっぱいだった。此処なら一般人を巻き込むことはあるまいが――いつ殺されてもおかしくはない。

入り込んだそこは、かつて何の施設だったが窺い知れぬほど殺風景だった。

飾り気のない格子窓やコンクリートの壁は、板金や鉄工関連の工場を思わせたが、床面は土が覗き、どこからか舞い込んだ落ち葉が腐って折り重なっている。見渡せる程度のそこに機材や机の類は見当たらず、埃をかぶった瓦礫やロープなどが落ちているだけだった。

「欧米人は、女性とこんなところで話をするもの?」

わずかに距離を置いて、真正面から尋ねる女に殺し屋は穏やかに笑った。

「申し訳ない。若造共が手こずらねば、もっと良い場所を見繕ったのですが」

――若造……フラムとドルフのことか。

ハルトと未春は無事だろうか――さららが考えるまでもない二人の心配をしたとき、殺し屋は杖をついたまま、のんびりと言った。

「まあ、場の良し悪しなど些末なことでしょう。用が済めば、お嬢さんは冷たくなる身」

「……舐められたものね」

もうその頃には、さららは拳銃を掲げている。その構えは、ハルトが見たら褒めたかもしれない――未春の手には馴染まなかった十条のグロックは、彼女の手には収まっていた。しかし、銃口を向けられても、殺し屋は少しも慌てていない。

「先に戦おうとするか。いやはや……日本人にしてはなかなか良い構えです」

「――それはどうも」

口上の半ばでさららは発砲していた。いさぎよさだけでも彼女は殺し屋として十二分の素質がある。ディックに頼んで練習した狙いもほぼ完璧だったが、相手が悪かった。発砲というアクションには、「狙う」、「引き金を引く」という一瞬の隙がある。そして、慣れていない者にはありがちな、発砲音の轟音が生み出す隙。

先の二点をついた殺し屋は、瞬間移動のようにその場から消えると、はっとする女の背後に回り込んでいる。

振り向く前に殺されるのでは――さららがそう予感したときだった。

「……?」

死の瞬間は、ひと呼吸置いても訪れなかった。

殺し屋の方も変だった。確かに回り込んだ筈なのに、どうしたわけか停止したまま、入口の方を凝視している。

そこで初めて、さららはこちらに向かって来る足音に気付いた。コツ、コツ、と――規則的で、しかし、氷を叩くような緊張感のある音。

やがて土を踏む音に変わったその足音に、エタンセルは年甲斐もなく緊張した。

迷い込んできた人間の足音ではない。同業者だとすれば、相当に腕が立つか、自意識過剰のどちらか――わざわざ音を立てて居場所を知らせるなど愚行だからである。一般人なら追い払えばいい――そう思っていた殺し屋だが、思った通り、一般人ではなかった。

誰何すいかの前に、飛来してきた“何か”から、紳士は飛び退いた。

女の傍を離れぬ方が上策と知りながら、離れる他にかわす宛のない銀光が、足元をしつこく狙って幾度も突き刺さる。

針だ。一体何で出来ているものか、細く、鋭い――いくつもの針。

まるでフレシェットか、極小の矢だ。殺し屋が十分な距離をとったところで、針の雨はぴたりと止まった。

「……どなたですかな?」

やや苛立ちを滲ませた問い掛けに、その答えは突き刺すように返って来た。

「ギムレット」

物憂げな表情をした若い男は、コンビニでも行く気でコートを引っ掛けたような出で立ちだった。よく見ると、綺麗に磨かれた革靴や、淡いグレーのセーターやコート、ジーンズに至るまで良いものだとわかるが、当人は徹夜明けのように疲れた顔だ。

「ゆ……優一さん……! どうして……!」

先の事件からすっかり見なくなった男――千間せんま優一ゆういちは、さららをちらりと見て、すぐに紳士へと氷柱つららのように冷えた鋭い目を向けた。

「ミスター・エタンセル。本件はクリス・ロットの指示ではないな? TOP13・十条とおるの意向により、貴殿の帰国を要求する」

幾らか面倒臭そうに述べた言葉に、紳士は杖を前に立ててにこりと笑った。

「誰かと思えば、千間家の御子息でしたか。ご立派になられて気付かなかった」

「貴殿と昔話をするつもりはない。イエスか、ノーか」

「ハハ……生意気な若造よ。Noだ!! 私が欲する者が現れないのは貴様の仕業か⁉」

物静かな老人の拡声器を用いたような声に、さららが身を強張らせ、優一はげんなりした顔で唾吐くように呟いた。

「……うるさいジジイばかり長生きしやがる」

苛立ち混じりに呟くと、優一はだらりと落としていた片手を軽く振った。

袖口から飛び出すように、その手に三本もの長い針が現れる。竹串ほどに細いそれを見た老人は、穏やかな目を吊り上げた。

「ギムレット。私はあの男に――クレイジー・ボーイのテーブルにつくために来たのだ。奴は何処だ? そのお嬢さんが居れば現れると聞いていたが?」

「あの人は来ない。休暇中だ」

老人が頬をひくつかせるのに対し、優一は手元の銀色を指先で弄びながら答えた。

「幾つか誤解があるようだから訂正しておく。……ひとつ、僕はあの人が来ないように仕向けてなどいない。二つ、此処に僕を呼んだのは別の人間だ」

しゃら、と銀色が音を奏で、ぴたり止まった。

「三つ……貴様如き、あの人が来るまでも無い」

刹那、両者が動いた。さららが息を呑む。老人の杖からずらりと引き抜かれた刃が閃き、その合間を縫うように針が襲い掛かる。突くのが主である直刀だが、居合のような構えから振られる一撃は明らかに斬る動きだ。その刃の間合いに入るということは、高速回転する裁断機の中に入るに等しい。臆せず入り込もうとする手足に向け、今にも切り落とさんばかりに刃が襲い掛かる。首や脳天めがけて振られた攻撃を針の曲面がいなして逃れると、重い火花が散った。老人は目を見開いて笑みを浮かべた。

ひじりに従うだけの小童だと思っていたが――やるようになったものだ」

以前、不本意に従事した一族の名に、優一は忌々し気に目を細めた。

「黙れ。忙しい時に、骨董品の処分を押し付けられた僕の身にもなれ」

「この私を――骨董品だと?」

「そうだ。貴様のような時代錯誤はさっさと引退しろ。まともな高齢者にも迷惑だ」

「笑わせてくれる……!」

伸べられる刃そのもののように殺し屋は笑った。刹那、滑るように踏み出した一歩から、抜き手も見せぬ白刃が閃いた。並の者ならば、今の一撃で首が飛んでいただろう――ゆらっとよろめくように後方に身を引いていた男は、如何なる怪力かにひしゃげた針一本をぽいと脇に捨てた。

「……癪に障る小童め……」

唇を歪めて呟くと、老人は踏み込んだ。次の攻撃は、早送りしたようだった。

傍で見ているさららでも目が追いつかず、今何が起きたか確認する間に次の攻撃が繰り出されている感覚だ。エタンセルの剣術は西洋剣術ではなく、日本で云うところの居合術や抜刀術に近い。仕込み杖を利用し、胸の悪くなる音を立てて白刃が閃いては消える。但し、消えると言っても瞬くほど短く、刃が描く軌道が目に残るようだ。一線一線が、胴が断ち割れるのではと思うほど鋭く、空を割く唸り声は殺意そのものだった。エタンセル――火花という名は、この剣技が見せる白光の名だろう。

「そこまで動けるなら、別のことをしたらどうだ」

首もとに来た一撃をばかでかい金属音と共にいなして、優一は吐き捨てた。

エタンセルも微笑したが、目元に浮かんでいたのは殺意か、怒りか。安易に挑発に乗らないようだが、自慢の剣がいまだ一太刀も届かぬことは隠しようのない苛立ちを生んでいた。

攻撃を受けて姿勢を崩したかと思うと、ふらりと傾いで凶刃を逃れてしまう。この男の動きを見ていると、あたかも不安定な足場で揺れながら戦っている心地だ。

「……っ……」

――何故だ。

エタンセルは自問した。

攻撃をしているのは自分なのに、焦り、追い詰められるのも自分だ!

「……この私が、歳を感じるなど――」

思わず呟いた老人は、足元を薙ぎにくる長い脚を辛くもかわし、後ろによろめいた。

「いや、エタンセル――貴様は生涯現役だった。それが業だ」

呟いた男は、目前の距離に居た。――が、白光はいっこうに現れない。鞘から引き抜こうとするが、いつの間にか刺し込まれた針が引っ掛かって動かない。

「……き、貴様――」

ねめつける視線に、男は無言だった。手首の軽いスナップから現れる針が、老人の軸足の太腿を貫いた。攻撃と呼ぶには静かに、刺して抜くのみの一撃。瞬く間に溢れ出す血潮が、ズボンを濡らして流れて行く。

「ハハハ……ハハハハハハ!」

得物から手を放り出し、殺し屋は笑った。見た目からは想像もつかない、あまりにも快活な笑い声に聴いていたさららは身震いした。

――これが。

これが……殺しに明け暮れた人間の末路か。なんて凄惨で――激しい主張だろう。

「見事だ!」

老獪は楽しげに吠えた。

「ギムレット、貴様は最後の相手に相応しかった! 誇りに思う!」

それが、断末魔だった。

刹那、ガチンッと無理やり引き抜いたのは己の得物を封じていた針だ。優一が顔色ひとつ変えずに数歩退いて、さららの視界を覆う様に立った。殆ど同時に殺し屋は自らの首の前でその凶器で引いている。首から、笑みに軋る歯の間から血泡が溢れ、立っていたのが嘘であったかのようにどうと後ろに倒れた。満足げな笑みを唇に乗せていたが、見開かれた瞳孔はぴくりとも動かない。近付いた優一は侮蔑の表情を浮かべて見下ろすと、傍らに膝をついてその瞼を閉じた。

「……来世は、間違えるな」

静かに呟くと、信じ難い程なめらかに首から針を引き抜いた。その時になって初めて、さららは気付いた。老人の各所に、縫い針ほどの細い針が穿たれていた。手元の大きい針に隠れ、或いはそれを囮にした攻撃は、微細だが、確実に相手の攻撃を鈍らせていた様だ。

優一はついでのように電話を取り……仕事のように話し始める。

「済んだ。……ああ、五人も居れば足りるだろう。宜しく頼む」

電話を切った男は、立ち上がってさららを振り返った。反射的に身を固くした女に、躊躇いがちに近寄ると、一メートル以上の距離を置いて僅かに屈んだ。

「……怪我は?」

短い問いはどこか慎重で、先程までの声よりも柔らかい。

さららの胸に、あの日――初めて会った日の記憶が甦った。

二人の間に、雨音が聴こえる気がした。前に居るのはあの日、誰も助けてくれない中で、唯一、傘をさしてくれた人。

「……あ、いえ、……大丈夫、です……」

わけもなく衣服を叩き、無意味に髪を弄ったさららは頷いた。遠慮がちに見上げた涼しげな容貌は、あの日のように、見つめるとすぐに脇を向いてしまった。

「出よう。室月が待機している」

慌てて後に従いながら、さららは一点を見つめていた。こちらを見ずに、斜め前方に話しかける男の片手だ。いつの間にやらコートのポケットに突っ込まれているそれを、さららは虫でも留まっているかのようにじっと見つめた。

「あいつが送ってくれるだろうか、ら……」

言い掛けた優一が、らしくもなくぎょっとした。自身の片手にさららが飛びついて来たからだ。飛びつくといっても、腕を組んだわけではない。獲物を見つけた猫よろしく、両の手で男の手首を掴むと、勢いよくポケットから引き抜いた。

「やっぱり!」

唖然とする優一を、きりりとした視線が咎める。その手には、先程の戦闘で受けたらしい裂傷が刻まれていた。指を落とそうとしたのか、根元をわずかに逸れた真っ赤な一本線は、常人なら血が止まらないだろう。未春同様、身体機能向上薬・スプリングに適合している優一は、異常な回復力を有している。既に血は凝固しつつあり、何でもなさそうにする男に、さららはバッグから消毒薬とハンカチを引っ張り出した。

「いや、もう何とも――……」

引き下がろうとする手をさららはがっちり掴み、幾らかむっとした。

「いくらスプリングが凄くても、破傷風にならないとは限らないでしょ?」

「……」

沈黙は正解なのか不明だったが、諦めたように静かになった。何故か勝ち誇った気になりながら消毒をし、絆創膏を貼ってみて、ふと――義理の弟を待った方がまともな治療を受けられただろうかと思う。……それにしても、この手はやけに熱い。先程、戦っていたからだろうか? いや……どちらかというとこれは――……

首を傾げてから窺う様に見上げると、涼し気な輪郭の横顔は脇を向いて動かない。

「……あの、優一さん? 熱が有るの……?」

「……何ともない。……もう良いだろうか」

決して強い口調ではないが頑として言い放つと、大人しく手を離したさららの手前、すっと離れて先に立つ――筈だった。思ったより酔いが回っていた人間のように、ゆらりと傾ぎ、優一は唐突に膝をついた。

「ゆ……優一さん?」

呆気にとられるさららの声に返事らしい返事もできぬまま、がくりと倒れ伏してしまう。

「ど、どうしたんですか? しっかり……――」

「さらら、無理に動かさないで」

不意に降って来た冷静な声に、さららが飛び上がりそうになっていると、声の主は灰色のツナギを着たスタッフを伴って近付いて来た。

「修司……! 良かった、手伝って――」

義弟の室月を認めたさららがほっとする中、彼はまっすぐこちらにやってきて、スーツが汚れるのも構わぬ様子で片膝をついた。他のスタッフは目もくれずに遺体へと向かっていく。

「大丈夫だ。優一さんのこれはスプリングの副作用だから」

「えっ……じゃあ……過労状態ってことでしょう? 大丈夫じゃないわ。早く病院に――」

「落ち着いて。じきに回復する。その前に、さららに聞いてほしいことがあるんだ」

さららは咎める視線で義弟を見た。何を悠長なことを言っているのかという目を、臆すことのない真剣な目が射貫く。

「まず、怪我は無い?」

「……私は、何処も何ともないわ」

「良かった。それなら、よく聞いて」

昔、悪漢から逃亡するときのような義弟の目を、さららは緊張気味に見つめた。

「俺はこれから、二人を監禁しようと思う」

さららが目をぱちぱちさせた。ジョークを語るには澄み切っている目を見つめ、ぴくりとも動かない優一を見、黙々と作業を進める人々を振り返り、改めて義弟を見た。

「一体……何言ってるの?」

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