猫のいる生活(3)
その後、クラフティは午後七時過ぎに寝ついてしまった。
起きてる時はあんなに入るのを嫌がった段ボール箱の中、くるんと丸まって寝息を立てている。
寝顔は人間と同じようにしっかり目をつむっていて、自分の小さな前脚を腕枕にしていた。すうすうと寝息まで聞こえるのが何だかおかしい。
「……寝顔も可愛いね、クラフティ」
真琴はその姿を覗き込んで、嬉しそうににこにこしている。
今日は店が休みだから、俺達も日付が変わる前に床に入った。クラフティのことはどうしようか迷ったけど、夜中に目を覚まして誰もいなかったらかわいそうだと思い、ダンボールごと寝室へ運び込むことにした。
今は俺達の布団の、枕元にいる。
段ボールを運ぶ間も、クラフティは全く目を覚まさなかった。
「きっと疲れてるんだろうね。知らない人の家に来て、神経使っただろうし」
彼女はしみじみと言ったけど、俺としては若干異論がなくもない。
クラフティと来たら神経を使うどころか、自由気ままに過ごしていたようにしか見えなかった。『借りてきた猫』なんて言葉があるからてっきりお行儀よくしているかと思いきや、そういう猫ばかりでもないのかもしれない。
もっとも、そのお蔭で俺達も猫のいる生活を楽しめたとも言える。
「明日には帰っちゃうんだなあ、寂しいな」
何度も何度も繰り返しながら、真琴は名残惜しげに眠りに就いた。
俺は首の後ろに貼った大きな絆創膏の違和感から、彼女ほどすんなりとは眠れなかった。
明かりを消して真っ暗になった部屋の中、横を向いて片肘をついて、真琴とクラフティの寝顔を交互に眺めて過ごした。どっちも安らかで、気持ちよさそうで、そしてずっと眺めていても飽きないくらい可愛かった。
傷の痛みはそれほどでもなかったけど、二人――正確には一人と一匹の寝息だけが聞こえる静けさの中、懐かしい胸の痛みが蘇ってきた。
子供の頃の俺がどうしてペットを欲しがったかと言えば、夜を一人で過ごしていたからだ。
父さんと母さんは夜遅く、日付が変わってもまだ店にいることが多かった。
もちろん放ったらかしにされてたわけじゃない。夕飯は父さんが作った賄い飯を母さんと一緒に食べたし、夜寝る時間になるとちゃんと着替えたかどうか、歯を磨いたかどうか見に来てくれた。でも真夜中に目が覚めた時、家の中に誰もいないと、やっぱり寂しかった。
そういう時、他に誰かがいてくれたらいいのにって思った。
だから俺は猫を飼ってみたくなった。
金魚ならいいって父さんは言ったけど、金魚じゃ起きてるか寝てるかもわからない。呼べば返事をしてくれるような、寂しくならない誰かに傍にいて欲しかった。一人っ子だったから余計にそう思ったのかもしれない。
大人になって、一人暮らしをするようになって、一人の夜が当たり前になった。
するといつの間にか、そういう夜の寂しさのことは忘れてしまっていた。
でもふとした時に甘酸っぱいような、切ないような記憶だけが蘇ってきて、大人になったはずの俺を何とも言えない気分にさせる。胸が詰まるような、締めつけられるような不思議な感覚だった。
こうして寝つけない夜、あるいは夜中に目が覚めた時、すぐ傍に誰かがいる生活は幸せだ。
少なくとも今は、必ず隣に真琴がいる。
真琴は布団から片手だけを出し、こちらを向いてすやすや眠っている。
目をつむり、くるんと内向きの髪が頬にかかり、唇はうっすらとだけ開いていた。いい夢でも見ているんだろうか、少しだけ微笑んでいるようにも見える。
俺は手を伸ばし、彼女のその手を軽く握った。俺よりも小さくて、指がほっそりしていて、すごく柔らかい手だ。昔、この手に心臓ごと掴まれたことがある。
今は俺の方から握ったりもできるけど。
俺は真琴と手を繋ぎ、どうにかして眠ってみようと目を閉じた。
そうしたら、案外とすんなり寝入ることができたようだった。
翌朝、クラフティの飼い主である田中さんは駅からタクシーを飛ばして駆けつけた。
あれだけ人懐っこかったクラフティも、飼い主の姿を見た途端、俺達には見向きもしなくなった。飛びつくように飼い主の腕の中へと戻っていった。つくづく猫とは賢い生き物だ。
出張帰りの田中さんはスーツ姿にもかかわらず、クラフティを抱き上げ嬉しそうに笑っていた。そして慣れた手つきで顎の下を撫でてやっていた。
するとクラフティも、聞いたことのないごろごろという声を立てた。
「ごめんな、クラフティ。でもよかったな、いい人に見つけてもらえて」
それから田中さんは俺達に平謝りで詫び、クラフティの世話にかかった費用を謝礼込みで払うと言い出した。
でもこちらとしても大した世話はしてない。何より猫のいる生活がとても楽しかったので、金銭の受け取りはやんわりお断りした。
それならと出張先で購入したという菓子折りを差し出されたので、そちらは素直にいただいた。
代わりに昨日購入したキャットフードを差し上げ、ぺこぺこお辞儀をする田中さんと彼に抱かれて満足げなクラフティを、表まで出て見送った。
そして俺たちは家の中へ戻る。
クラフティがいた痕跡は、もうタオルを敷いたダンボールくらいしか残っていなかった。
空っぽになった箱の脇に座り、何気なくその中を見下ろす。
すると真琴も隣に座ってきて、俺の顔を覗き込んできた。
「播上、寂しい?」
彼女は妙に心配そうだ。眉尻を下げ、どこか気遣わしげにもしている。
そこまで心配されるほど、今の俺は寂しい顔をしているんだろうか。さすがに身を切られるほど、なんてことはないんだけどな。たった一日、二人暮らしが二人と一匹暮らしになっただけだ。
それでも口を開けば本音が零れて、俺は彼女にこう答える。
「まあ、少しはな」
あの猫は、たった一晩いただけだ。
なのに、いないのがちょっと寂しくなった。あの威勢のいい鳴き声が聞こえず、ふわふわの毛並みが見当たらないのが何だか、物足りない。
きっとすぐに忘れる寂しさだろうけど、別れた直後に感傷的になるのも無理のない話だ。
可愛い猫だったな、クラフティ。
俺の答え方をどう思ったんだろう。真琴は少しの間、瞬きもせずに俺を見つめていた。
やがて、すすっと俺の傍にくっつくと、消え入りそうな声で言った。
「にゃ、にゃー……」
クラフティの鳴き声よりも可愛い声だった。
でもって、自分で鳴いといてめちゃくちゃ恥ずかしそうだった。
俺が黙って見つめ返すと、彼女は言わなきゃよかったという顔をする。
「は、播上が寂しがってるみたいだから……」
「そうか、ありがとう」
「何かごめん、めちゃくちゃ外したみたいでごめん」
「そんなことない、可愛いよ」
正直、笑いを堪えるので必死だった。
気遣ってくれたのが嬉しいのは当然だけど、その発想はなかった。確かに真琴は猫っぽいところ、あるけど。
だから俺も、クラフティがされていたみたいに、くっついて座る彼女の顎の下をくすぐってみた。
猫みたいにふわふわの毛並みは当たり前だがそこにはない。代わりに陶器みたいになめらかな首筋を、人差し指で軽く撫でる。
真琴はごろごろとは言わなかったけど、くすぐったそうに目を閉じた。
「にゃー……」
おまけにクラフティに負けず劣らず満足げだ。
俺は彼女をくすぐりながら尋ねる。
「今日の夕飯は何がいい?」
「いいお魚があったら、魚介パエリアなんて食べたいにゃー」
「まだ混ぜご飯ブーム続いてるのか。わかった、いいよ」
「えへへ……播上が優しい旦那さんでよかったにゃー」
真琴は目を閉じたまま、幸せそうに微笑んだ。
一体、いつまで猫のふりをするつもりなんだろう――まあ、たまにはいいか。
自分で言っといて、こんなに恥ずかしがる真琴も可愛いし。
猫のいる生活っていいものだ。
もちろん結婚生活だって、文句のつけようがないくらい、いいものだ。
ランチからディナーまで六年 森崎緩 @morisakiyuruka
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