猫のいる生活(2)

 飼い主から連絡があったのは夕方五時過ぎだった。

 その時、俺達は玄関の三和土の上にダンボールを置き、タオルを敷いて、その中にクラフティを座らせてやっていた。だけど人懐っこいクラフティもダンボールの中は気に入らないらしく、すぐに乗り越えようとしては箱を真横に倒してしまう。そして屈んでいる俺や真琴の膝の上に乗ろうとする。

 散々試して諦めもついて、これは気の済むまで抱っこしてやるしかないかと二人で顔を見合わせていたら、ちょうど電話が鳴ってくれた。


『すみません、うちの猫を拾ってくださったそうで……!』

 電話をくれた田中さんは若い男性のようだったが、随分と慌てた様子だった。

 それもそのはず、社会人である彼は現在出張中で、この市内にはいないのだという。おまけに一人暮らしで頼れる家族も近くにはおらず、今朝は寝坊をして大慌てで家を出たので、猫の所在にまで気が回らなかったそうだ。

『本当はすぐにでも引き取りに伺いたいのですが、帰りが明日の朝になりそうなんです。お会いしたこともない方にこんなことお願いするのも申し訳ないのですが……』

 あまりにも恐縮しきったそぶりだったので、すぐ傍で通話を聞いていた真琴が囁いてきた。

「一晩くらいなら預かれるよって言ってあげたら? 昔飼ってたことあるので面倒見れますからって。ご飯、いつも何食べてるか聞いといて」

 そこで俺はその旨を伝え、飼い主には更に恐縮され感謝もされながらキャットフードの銘柄を聞き出し、戻り次第引き渡すことを約束して電話を切った。


 そして通話が終わると真琴は俺にクラフティを手渡し、人懐っこい猫のように笑った。

「じゃあ私、ご飯買ってくるから。播上はお留守番しててくれる?」

「え、俺が? いや買い物だったら俺が行くよ」

 俺は慌てたけど、真琴は小首を傾げて続ける。

「だって播上、人間のご飯には詳しくても猫のご飯はわかんないでしょ?」

「まあ……それは確かにそうだ」

「だから留守番お願い。近所のスーパーだから、すぐ帰ってくるよ」

 そう言い残して、真琴は車のキー片手に部屋を出ていき――。

 慣れない俺と、めちゃくちゃ馴れて今も俺の膝に登ろうとしている猫だけが部屋の中にいる。

「まさか今になって、猫のいる生活を送るなんて思わなかった」

 座ったまま、猫を腕に抱えてから呟く。

 するとクラフティは、はしばみ色の瞳をくるくるさせて俺を見上げた。

 こうして見ると愛嬌もあってなかなか可愛い奴だ。うちの奥さんほどじゃないけど。


 にしても、二人きりでずっと黙っているのも間が持たない。

「お前、いつもどんなご飯食べてるの?」

 俺は声に出してクラフティに尋ねた。

 クラフティは真琴が置いていった毛糸玉に気づき、俺の膝の上に乗ったまま、それを小さな前足で一心不乱に構っている。俺の問いに答えるそぶりはない。

「猫用の料理なんてあるのかな……」

 二言目は完全に独り言だった。


 飼い主の田中さんは普段食べさせてるキャットフードの銘柄を教えてくれた。

 真琴はそれを聞いただけでどんなものか大体わかったようだったけど、俺にはさっぱりだった。スーパーでそういうコーナーの前を通りかかったことはあるから、サクサクしたスナック菓子みたいなものや、ツナ缶みたいな商品があることだけは知っている。

 真琴は『播上は猫のご飯はわかんないでしょ?』なんてことを言っていた。それも事実ではあるものの、料理を愛する者としては若干プライドを刺激される言葉だ。

 そもそも市販のキャットフードだって食材を調理、加工してあるものじゃないのか。だったら猫用の手作り料理もあってしかるべきだろう。

「……調べてみるかな」

 ふと思いついた。

 寝室として使っている奥の部屋にパソコンが置いてある。昔みたいに始終パソコンと向き合う機会はなくなってしまったけど、調べ物をする時や印刷物を作る際には今でも使用することがある。

 俺は膝からクラフティを下ろし、奥の部屋へ行こうとした。ところがそのふにゃふにゃした胴体を掴んで床に下ろしたところで、毛糸玉に夢中だったはずのクラフティが、うなあっ、と声を上げた。

 下ろすな、ってことだろうか。

「向こう行くけど、お前も来るか?」

 俺は一応声をかけ、それから奥の部屋に足を向けた。

 するとクラフティはたたたっと駆け寄ってきて、俺の足元にまとわりつく。危うく踏んづけそうになってその場でたたらを踏んだ。

「わっ、危ない!」

 こっちが声を上げたってそ知らぬ顔で俺の足にじゃれついてくる。

 爪が伸びているんだろうか、靴下に引っかかって生地が伸びる感覚に、思わず溜息が出た。

「わかったよ、連れてってやるから」

 何だか駄々っ子の相手をしてるみたいだ。

 俺は一旦屈むとふかふかの毛に覆われたクラフティを抱き上げ、奥の部屋へと連れて行った。


 パソコンを置いた座卓の前に座り、クラフティを抱え直しながら電源を入れる。

 検索ワードは『猫、手作りご飯』ってところだろうか。

 入力してみるとレシピを載せたページが出てくる出てくる、思いのほか充実していた。やっぱり愛猫ともなればなるべく手をかけてあげたいと思うものなのか、レシピを載せたサイトにはそういった飼い主心理をくすぐるような文句が並んでいた。大切な家族に愛情たっぷりの手作りご飯で幸せな食卓を――猫と囲む食卓っていうのも楽しそうだ。どんな感じなんだろう。

 レシピの方は意外と言うか何と言うか、肉を使ったものが多かった。猫と言えば魚が好きそうだというのは俺みたいな猫の素人の考えであって、どちらかと言うと鶏肉の方がポピュラーな食材らしい。

 調味料の類は使わず、柔らかく茹でたり潰したりしたところに食べやすくした野菜を足すのが一般的な手作りレシピのようだ。しかしネギのように絶対食べさせてはいけない食材もあるそうなので注意を払わなくてはならない。おまけに猫も食物アレルギーを持っている場合があるらしい。


「猫にもアレルギーがあるのか」

 思わず呟いた後、膝の上のクラフティを見下ろす。

「お前、自分にアレルギーがあるかって……聞いたところで答えられるはずないよな」

 クラフティは何も言わずに俺を見上げている。

 これが人間相手なら、事前に申告してもらうことでメニュー変更などの対応もできる。でも猫は当たり前だけど自分から申告なんてできない。それでなくても預かりものの猫なんだからおかしな物を食べさせるのはよくない。

「じゃあ作ってやるのは無理だな。残念だ」

 俺がそう言うと、クラフティは耳をぴくぴく動かした。

 何となく不満げな表情にも、差し許すと言いたげな顔つきにも見えたけど、どちらにせよその内心は知りようがない。


 それでもしばらくの間、俺はいくつかのレシピサイトをはしごして猫の手作りご飯を調べた。

 これまで知りようのなかった猫の食生活は非常に興味があったし、人間相手に作るのとは勝手が違うところも面白かった。


 一方のクラフティは絵に描いた餅には全く興味がないようだ。

 写りのいいレシピ画像には目もくれず、やがて俺の膝にも飽きたのか、後ろ足で立ち上がるようにして俺の肩に登ろうともがきはじめた。

「何だよ、高いとこが好きなのか?」

 木に登って下りられなくなる猫の話を聞いたことがあるけど、クラフティもどこかに登りたいんだろうか。タンスの上なんかは危ないから勧められないけど、俺の肩の上くらいならまあいいか。

 そう思って、その毛深い背中に手を置いて、軽く持ち上げてやった。

「ほら、登れ」

 クラフティはじたばたしながらも俺の肩によじ登った。

 最近衣替えをした俺はクルーネックのシャツを着ていたから、クラフティが肩に乗るとふわふわの毛皮が直接首に触れ、くすぐったかった。床屋の羽毛はたき、感触としてはあれに近い。それでいてぽかぽか温かくて、肩がずっしり重くなったにもかかわらず何だか心地がよかった。

 俺の肩に乗るほど小さいのに、ちゃんと生きてるんだな。

 当たり前のことを実感して温かい気持ちになる。

 気がつけば自然とこいつに話しかけてしまっているし、俺はクラフティと過ごす時間を思いのほか楽しんでいるみたいだ。やっぱり今でも飼うわけにはいかないけど、猫のいる生活も悪くないかもしれない。

 和む心に口元も綻ぶ俺を、しかし直後、謎の激痛が襲った。

「い、いててて! ちょっ、爪、爪食い込んでる!」

 クラフティは俺の肩の高さに満足せず、俺の首の後ろにも登ろうとした。当然、奴の爪が俺の首に刺さる。めちゃくちゃ痛い。

 慌てて引き剥がそうとしたけど意外と鋭いクラフティの爪はがりっと皮膚の表面を引き裂き、俺はパソコンの前で猫を抱きかかえたまましばらく悶絶した。

 猫のいる生活、やっぱり大変かもしれない。


 真琴は三十分ほどで買い物から戻ってきた。

「ただいま! さ、クラフティ、ご飯だよー」

 飼い主の田中さんから聞いたクラフティのいつものご飯は、かりかりと硬めのキャットフードだった。真琴はそれを皿に出し、キッチンスケールで正確に計量してから、水を入れた皿と一緒にクラフティの前に差し出した。

 クラフティはふんふんとその匂いを嗅いだ後、ためらいもなく食べ始めた。お腹が空いていたのか、かなりいい食べっぷりだ。

「よく食べるなあ」

「だって朝からうちの前にいたんだよ。お腹空いてたんだよ」

 俺と真琴はその食べっぷりを傍らで見守った。

 人間だってそうだけど、猫の食べている姿もなかなか味があっていいものだ。さっきレシピを調べた時は『調味料を使わない』とあったけど、クラフティが一心不乱に食べている姿は何だかめちゃくちゃ美味しそうだ。心なしか、魚のだしのようないい匂いもする。

 程なくして皿は空になり、するとクラフティは覗き込む俺達を黙って見上げてきた。はしばみ色の目を丸くして、どこかきょとんとした顔をしている。

「……足りなかったのか?」

 催促の表情に見えて俺が呟くと、真琴が困ったように眉尻を下げた。

「あんまり食べさせすぎるのもよくないんだけどなあ。どうしよう」

「朝から食べてないんだったら、ちょっとくらいおまけしてもいいだろ」

「うーん……それもそうだね」

 そこで真琴は空になった皿に少しだけ、大さじ三杯分くらいキャットフードを追加した。

 クラフティはそれもあっという間に平らげ、また物欲しそうに俺達を見上げてきたけど、真琴は言い聞かせるように告げた。

「もう駄目だよ。腹八分目が一番いいんだから、あとは明日の朝ね」

 彼女の言葉がわかったのかどうか、クラフティはうなあうなあと繰り返し鳴いた。

「駄目ったら駄目。そんなに可愛く鳴いたってもう甘い顔しないんだから!」

 むっと真面目な顔を作る真琴が、まるでクラフティの母親みたいに見えた。

「はいはい、もうお皿片づけちゃうからね」

 そう言って真琴はクラフティの前からお皿を取り上げ、台所へと持っていく。

 その後をクラフティが、まだ諦めがついていないそぶりで慌てて追いかけていった。実に微笑ましい光景だ。


 さて、猫のご飯も済んだことだし、次は人間のご飯にしようか。

 そう思って俺も台所へ向かうと、お皿を洗い終わった真琴とその足元に座るクラフティが同時に振り向いた。

「あ、播上。ご飯作る?」

「そのつもり。予定より遅くなったし、ささっと作るよ」

 俺は念入りに手を洗い、夕飯の支度を始める。

 その隣に並んだ真琴が、ふと声を上げた。

「あれっ、首のとこどうしたの? すごい傷がついてるよ」

 彼女が軽く背伸びをして、俺の首の後ろを覗き込む。

 ついさっきつけられたばかりの傷なのでまだひりひり痛んでいたけど、そういえばどんな具合になっているか確かめていなかった。

「結構目立つ?」

「うん。思いっきり爪立てられた感じになってる」

「まずいな……クラフティに引っかかれたんだよ、俺の肩から首に登ろうとして」

 俺はそう言って、床の上の犯人ならぬ犯猫を軽く睨んだ。

 当の本人はもちろんそ知らぬ顔をしている。

 それから視線を真琴へ戻すと、彼女は複雑そうな顔つきで俺につけられた爪痕を見ていた。あんまりじっと見てくるから、そしてその表情がやや不穏そうでもあったから、俺は弁解みたいに言い添える。

「……猫だよ、猫。別にそういうのじゃない」

 朝にはなかった傷なんだから浮気を疑われても困る。そもそもそんなことしない。

 俺の言葉に真琴は即座に頷いた。

「うん、それはわかってる。そうじゃなくて」

「何?」

 聞き返せば彼女はうっと詰まり、うろたえながら答える。

「何て言うかその、手当てして、隠しといた方がいいんじゃないかな」

「ああ、まあそうかもな。目立つみたいだし」

 仕事着でも隠れるものじゃないし、父さん達にまであらぬ疑いをかけられたら困る。特に母さんはうるさそうだ。

 俺はそう思ったが、彼女の考えは違ったようだ。

「普通、私がつけたって思われるから……お義母さん達に見られたら恥ずかしいよ」

 真琴は言葉通り恥じらってか、ふと目を逸らした。

 それを俺が黙って見つめていると、赤くなった顔で言った。

「とにかく、消毒してから隠さないと! 救急箱取ってくる!」

 彼女はいつになく大慌てで踵を返し、台所を飛び出していく。まるで逃げていく猫みたいなスピードだった。


 その背中をぽかんと見送った俺は、ふと視線を感じて足元を見る。

 クラフティは俺達のやり取りを聞いていたのか、何か言いたげにこっちを見つめている。

 俺はその場でしゃがみ込み、クラフティに向かって囁いた。

「うちの奥さん、可愛いだろ」

 なあっ。

 クラフティの返事は肯定とも呆れているとも取れる、何とも威勢のいい声だった。

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