猫のいる生活(1)
三月に入ると、ようやく根雪も解けた。
代わりに海から吹く風が音を立てて吹きつけてくるようになり、海鳴りにも似たその音を聞くと、春だなと思う。
「今晩は春らしく、筍の炊き込みご飯でもしようか」
ベランダで洗濯物を干しながら提案してみた。
すると家の中から洗濯ばさみを手渡してくる真琴が、すぐさま返事をした。
「いいね、何か混ぜご飯系が食べたいと思ってたんだ」
「じゃあそうしよう。今日は店も休みだし」
休みの日の晩は手の込んだ物を作れるのが楽しい。店で作る物とはまた違う、自由な献立が作れるのもいい。どんな献立でも美味しいって食べてくれる相手もいることだし。
おまけに今日はいい天気だ。朝からよく晴れて、日陰にわずかにだけ残っていた雪さえ解けていきそうだった。風が強くて洗濯物が飛んでいきそうなのが心配だけど、それは手渡された洗濯ばさみでしっかり留めておく。
「時間もあるから、車出してドライブついでに買い物行こうか」
全ての洗濯物を干し終え、空のかごを持ち上げて俺は言った。
物干し竿にかけられた洗いたてのタオルがはためく中、真琴が声を弾ませる。
「行く行く! 何だったら私が運転するから、ちょっと遠出しようよ」
「どこか行きたい店でもあるのか?」
「うん、靴屋さんも見たかったの。せっかく雪解けたし、春物が欲しいなって」
「それなら付き合うよ、大きいとこ行こう」
この辺りは田舎だから、特に着る物や履き物なんかはまともに買い物がしたければ郊外のショッピングセンターまで出向かなければならない。そこだってリーマン時代に住んでた辺りと比べたら、品揃えは非常に貧弱だった。
でも真琴はいつも楽しそうにショッピングセンターを歩き回るから、俺も彼女を連れて行くのが好きだった。
いつも夜遅くまで、文句一つ言わずに働いてくれてる彼女には感謝している。労いの気持ちも込めて、ちょっといい靴でも買ってあげようかな、と思う。
そういえばもうじき結婚記念日でもある。ちゃんと覚えてた。
振り返ればこの一年間、あっという間だった。真琴にとっては慣れない土地に慣れない店の仕事にと大変なことばかりだったはずだ。それでも彼女はいつも笑顔でいてくれたし、俺はそんな彼女の笑顔を見ているだけで幸せだった。
何一つ不満のない結婚生活。
なんて言葉にすると白々しいかもしれないけど、まさにその通りだと俺は思う。
真琴は、この一年をどんなふうに振り返るだろう。
彼女は目の前で、屈託のない表情を浮かべている。
「ね、播上、ついでだから本屋さんも見ていい?」
さすがに一年くらいじゃ大きく変わったところなんてない。くるんと内巻きの短い髪も、明るい笑顔も、はしゃいだ時の目の輝きも何一つだ。社会人一年目、彼女と仲良くなり始めた頃と比べてもきっとそんなに変わっちゃいないだろう。
彼女をしばらく見つめてから、俺は頷いた。
「いいよ。どこでも付き合う」
「やったあ!」
真琴は跳び上がって喜び、その後で上機嫌になって聞き返してくる。
「播上はどこか行きたいとこないの? 私も付き合うよ」
「俺は特にないけど……いい筍が買えたらそれでいい」
考えながら答えたら、彼女はおかしそうに笑った。
「そんなの駄目! 播上の希望もちゃんと言ってよ!」
そう言われても俺の希望なんて、真琴が楽しそうにしてればそれでいい。
あとは美味しい夕飯が作れたら言うことなしだ。
「なら、行く途中で考えるよ。そろそろ準備して、早めに出よう」
俺も笑いながら応じて、ベランダから屋内へ戻ろうとした時だった。
家の中から顔を突き出していた真琴が、ふと目を瞬かせる。家に入ろうとする俺の背後に視線を向けて、物珍しそうにしている。
やがてぽそりと、呟くように言った。
「ね、あれ……どこの子かな」
言われて俺も振り返る。
俺達が部屋を借りているアパートはベランダが駐車場側に面しており、ここから各住人が車を停めた駐車場が見渡せるようになっていた。
アスファルトに覆われたその真ん中に、見慣れない猫が一匹、ちょこんと座っていた。
ふわふわした灰色の体毛に黒っぽい縞模様がある、それなりに大きな猫だった。
「どこかの飼い猫じゃないのか」
俺の声に反応するみたいに、その猫がぴくりと耳を動かし、こちらを向いた。
距離があるから表情まではよくわからない――と言うより猫の表情なんて見分けられるほど詳しくない。ただ人の声を聞いて逃げない時点で、馴れてるのかもしれないな、と思った。春の日差しに温められたアスファルトの上を気に入っているんだろうか、そこから一歩も動こうとしない。
「そうだね。あの子、首輪してる」
真琴が腕を伸ばして指差した。
目を凝らせば、確かに猫は首輪をしていた。灰色の毛に埋もれて見えづらいものの、厚手の布でできたような青い首輪を巻きつけていた。
「まるまるっとしてて可愛いね。ほら、こっち見てるよ」
真琴はベランダに出てきたかと思うと、手すりからぐいっと身を乗り出し、食い入るようにして猫を見つめている。
猫もじっとこちらを見ているから、まるで猫同士が路地で出くわして、お互いを探るように睨み合っている状態だった。
いつになく興味をそそられているようだったから、聞いてみた。
「猫、好きなのか?」
たちまち真琴はこちらを振り返り、笑顔で頷く。
「好き! 子供の頃に飼ってたんだよ」
「そうだったのか、どうりで」
「猫はいいよね、ふかふかしてるし可愛いしおりこうさんだし」
そこまで語ると彼女は猫へ視線を戻し、懐かしんでいるような横顔を見せた。
「って言っても、本当の飼い主はお兄ちゃんだったけどね。真ん中のお兄ちゃん」
「なら、真琴は面倒見てなかったのか」
「ううん。時々は抱っこさせてもらったり、ご飯あげたりしてたよ」
「きょうだいで育ててたってことか。何かいいな、そういうの」
彼女にはお兄さんが三人いる。だから彼女が子供の頃の思い出話を語る時、それはそれは賑やかで騒々しい情景が浮かび上がってくるようだった。
俺はずっと一人っ子だったから、真琴が懐かしそうに、ちょっとだけはにかみながらお兄さん達の話をするのが少しばかり羨ましい。お兄さんが三人もいるってどんな感じなんだろうなとか、逆に真琴みたいな妹がいたらどう思うんだろうとか、そういうことも考える。
「そうそう、名前つけたのはすぐ上のお兄ちゃんなんだ。勝手に変な名前つけて、後で怒られてた」
大切な秘密でも打ち明けるみたいに彼女が言う。
「名前、なんてつけたんだ」
気になって尋ねると、真琴は我が事のように恥ずかしそうに答えた。
「しょうゆ」
「えっ?」
予想だにしない単語が出てきて、思わず俺は聞き返した。
すると彼女は俺にすがりつく勢いで訴えてくる。
「変でしょ? 変だよね? 『色が醤油せんべいにそっくりだから』って言ってたんだけど」
未だに呆れた様子で溜息をつきながら続けた。
「お兄ちゃんたらしょうゆ、しょうゆってずっとふざけて呼んでたから、猫の方もすっかり馴染んじゃって。真ん中のお兄ちゃんはもっと可愛い、女の子らしい名前で呼ぼうとしてたから、そりゃ怒られるよね」
それは怒られても仕方ない。しかも女の子にその名前は、俺でもどうかと思う。
にしても、真琴のお兄さん達は随分やんちゃな少年時代を過ごしていたようだ。真琴にとっては呆れてしまうような思い出もあるようだけど、俺にはやっぱり羨ましい。
そして、動物を飼える環境だったというところも。
「播上は猫、好き?」
今度は真琴が、日向で伸びをする青い首輪の猫を見ながら尋ねてきた。
俺はちょっと笑って、答えた。
「嫌いじゃないよ。飼いたいと思ったことはあるけど、駄目だった」
「そっか……やっぱ、食べ物扱ってるから?」
「そう。毛が入ったり、臭いがするといけないからって言われた」
飼いたいとねだってみたことはある。
小学生の時、クラスの友達が猫飼ってて、子猫が生まれたから貰ってくれないかって頼まれた。生後間もない子猫達は本当に小さくて可愛くて鳴き声だって弱々しくて、それほど猫好きだったわけじゃない俺ですらがっちり心を掴まれてしまった。
すぐさま家へ取って返して、店を開ける準備をしていた父さんに飼ってもいいかと聞いたことまで覚えてる。
もちろん父さんの答えはにべもなかった。
『うちが店をやっている間は駄目だ。わかるな、正信』
口下手な父さんには珍しく、理由もちゃんと言ってくれた。
だから俺は納得するしかなかった。自分で言うのも何だけど聞き分けだけはいい子供だったから、食い下がったり駄々を捏ねたりはしなかった。
「金魚なら飼ってもいいって言われたよ」
思い出してそう付け加えると、真琴が軽く笑んだ。
「飼ったの? 金魚」
「いや。俺は呼んだら返事してくれるようなペットが欲しかったんだよ」
「猫もそうそう返事はしないよ。気まぐれって言うか、人の顔色見てるって言うか」
「賢いんだな。……あいつも、ずっと俺達の話聞いてるみたいだ」
駐車場に座る灰色の猫は耳だけを動かして俺達を見ている。その仕種がいかにも耳をそばだてているみたいだった。
「全然動かないね、あの子。日向ぼっこがしたいのかな」
「車出す時は気をつけた方がいいな」
真琴はその後もしばらくの間、ベランダにしがみつくようにして猫を眺めていた。
でもあんまりそいつが動こうとしないのと、せっかくの休みに買い物に行く予定もあったから、しばらくしてから観察をやめて部屋の中へ戻った。
郊外のショッピングセンターで買い物を楽しみ、帰ってきたのは午後三時過ぎだった。
アパート前の駐車場に車を乗り入れた俺達は、そこにまだあの灰色の猫が座っているのを見て、揃って声を上げる羽目になった。
「あ、猫! まだいるんだ……」
「どこの家のだろうな。まさか迷子とか」
猫は車を停め、荷物を抱えて降りてくる俺達に顔だけを向けた。
歩み寄っていっても逃げるそぶりもなく、黙って見上げてくる。本当に人に馴れているみたいだった。
「ねえ、おうち帰らないの? ここは車の出入りもあるから危ないよ」
真琴はそう呼びかけると買い物袋を置き、顔の辺りに向かって手を差し伸べた。
猫は彼女の手の匂いを嗅ぐように鼻先をくっつけてきた。話しかけられた言葉がわかったのかどうかは定かじゃないけど、打ち解けようとしている様子には見えた。
近くでよく見るとなかなか恰幅のいい猫だ。
毛並みはふっくらと柔らかそうだったし、色艶もよかった。
瞳の色は光の加減によって緑にも、褐色にも見える複雑な色をしていた。いわゆるはしばみ色というやつなのかもしれない。
俺が黙って観察している間に、猫は真琴に身体をすり寄せ始めた。今日買ったばかりの真新しい春靴にまとわりつくから、真琴も屈み込んで両手を伸ばす。
「抱っこしていいかなあ。抱っこするよ」
そう声をかけながら、彼女は猫を抱き上げる。
危なげない手つきに猫の方も気を許したか、特に抵抗することなく腕の中に収まった。
「すごいな、手慣れてる」
感心する俺に、真琴は首を横に振る。
「この子が人懐っこいんだと思う。よっぽど人馴れしてるんだろうね」
それから彼女は猫を抱いたまま俺に近づいてきて、
「播上、この子の首輪外してみてくれない?」
「取っちゃっていいのか?」
「うん。連絡先とか、名前が書いてあるはずだから」
今はまだ外も明るいけど、もうじき日が暮れる。風も一層冷たくなってきた頃合いだ。迷子かどうかはわからないものの、飼い主に連絡を取るなら早い方がいいだろう。
首輪は金具で留められていて、軽く引っ張るだけで簡単に外れた。裏側には確かにマーカーで猫の名前と飼い主の名字、そして携帯電話の番号が記されていた。
それによればこの猫の名前はクラフティで、飼い主は田中さんというらしい。
「クラフティ、ってお菓子から取ったのかな」
「かもしれないな。だけど、どこの田中さんだろう」
珍しい名字ではないものの、近所では思い当たる家が浮かばなかった。もちろん近所の猫じゃなくて、はるばる遠くからやってきて迷子になった可能性もある。
「連絡してみようか。もしかしたら探しているかもしれない」
俺が提案すると真琴も頷いた。彼女は猫を抱っこしていたから、俺が電話をかけた。
だが数回のコール音の後、留守電に切り替わってしまった。
もう一度かけてみたけど結果は同じで、しょうがないのでメッセージを残しておいた。
猫がうちの前でずっと座っていたこと、この時間まで動く気配がないこと、そろそろ日が暮れそうなので一旦うちで預かるからなるべく早く連絡をいただきたいこと――最後にこちらの名前と住所、電話番号を吹き込んでから電話を切った。
「しかし預かるって言ったけど、うちに入れて平気かな」
にわかに不安になってきた。
いかに人懐っこい猫とは言え、知らない人間の家にいきなり連れ込まれて、驚いたりはしないだろうか。
「大丈夫だよ」
そう言って、真琴が猫を差し出してくる。
「ほら、播上も抱っこしてみて」
「えっ……ああ、こうかな」
猫を抱くのはそれこそ小学生の頃以来だった。お蔭でちょっと緊張した。あの時に抱かせてもらった子猫よりもずっしり重いクラフティは、ぽかぽかと温かくて思ったより柔らかかった。ぐにゃぐにゃしてる、と言ってもいいかもしれない。
真琴に比べれば俺の抱き方なんてさぞかし覚束なかったことだろう。腕や背に要らない力が入っているのが自分でもわかる。
でもクラフティはおとなしく抱っこされていたし、逃げる気配もなかった。
「そうそう、上手い上手い」
俺に向かって、真琴は笑顔で拍手をしてくれた。
それから俺の背を軽く押して、
「さ、とりあえず家に入ろ。連絡しといてその子逃がしちゃったら困るもんね」
「俺が連れてくのか?」
「うん、お願い。何か播上にも馴れてるみたいだし」
表向きの理由を彼女はそう言ったけど、妙に楽しげな顔をしていたから、俺が猫の扱いに戸惑っているのを面白がっているだけかもしれない。
そうすると拒むのも何となく悔しくて、俺は猫を抱いたまま玄関のドアへと向かう。
その後に、買い物袋を提げた真琴がぱたぱたついてきた。
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