背後からの視線
「部屋とか風呂とかトイレとか、自分ひとりしかいないはずの空間で視線を感じることってあるじゃないですか」
小心者なんですよ、とムトウさんは自己紹介をしてくれた。
「小心者のくせに、ホラー映画とか怖い話のまとめサイトとか見るの好きなんですよ。もちろん真昼間に限りますけど。怖いならじゃあ見るなよってよく言われるんですけど、でもあの、わかりますよね? 怖いもの見たさっていうこの心理」
怖いからこそ正体を知っておきたい。その怖いものは果たして、自分に害をなすものなのか。自分や周囲に不幸や恐怖といった形で降りかかる可能性があるものなのか。
人は「わからない」もののほうが不安に感じやすい。「わからない」状態に陥っているあいだがいちばん怖い。
だから、知ろうと行動する。
「正体を突き止めたかったっていうか」
最初に気づいたのは、高校のトイレに入ったときだった。ムトウさんの高校では男子トイレは並ぶ小便器の後ろに、大便用の個室が三室ある。一般的な男子トイレといえよう。
休み時間になって、ムトウさんはトイレに入った。
小便器の前に立ってため息をついたとき、背後から視線を感じた。
首筋に、つ。
毛先がうなじに刺さったのかと思い、手を伸ばす。だが先日、理容室にかかったばかりだ。空を見上げるほど顔をあげても毛先が刺さらないくらい短くしてある。ムトウさんは野球部だった。
トイレに入ったとき、個室はすべて空いていた。ムトウさんのクラスはトイレのはす向かいに位置しており、ムトウさんの席からは誰かがトイレに入る姿は丸見えだった。
誰か、いるのか。
平日の午後の学校である。扉一枚を隔てた廊下からは、休み時間にほかのクラスの友人とおしゃべりをするためにたむろしている連中が大勢いるはすまなのに。
同級生の声が一切聞こえてこない。
尻から背中をかけ上っていく感覚があった。それが頭の中にまで入り込んだら、自分は。
がらっ
「友人ってほどのやつじゃないんですが、隣のクラスの男子がふたり入ってきたんです。助かったって思いましたよ。脱力した瞬間にオシッコが出たくらいです」
ムトウさんを見た男子生徒は「おっ、勢いがいいねえ」と笑った。おかげでムトウさんはすっかり安心して用を済ませられそうだった。
コロナ予防のため、手洗いが推奨されていたころの話である。ムトウさんは水を流して手を洗っていると、ふと、目の前の鏡に視線が誘導された。
背後に髪の長い女性が立っていた。
「うわあ!」
「なんだよ急に」
思わず悲鳴をあげてしまったムトウさんに、隣で用を足していた男子生徒が声をかけてくる。
さっきの視線の正体はこいつだ。間違いない。
正体はわかった。だが恐怖が消えることはなかった。安心感なんて気のせいだった。そもそもなぜ男子トイレに女子がいる。入ってきた様子もなければ、最初からいたわけでもない。突然現れた、謎の、あれは、女子生徒ですらない、格好が制服じゃない、なら、あれはなんだ。
ムトウさんは油が切れた機械のようなぎこちなさで、隣の男子生徒にまで首を動かした。そうでもしなければ、間違えて背後の存在を直接見てしまいそうな気がして。
「こえー話すんなし! おれガキのころ悪皿の話でビビって引っ越してえって親に泣きついた男だぞ」
個室トイレに入ってきた男子生徒が叫びながら出てきた。
彼はムトウさんの背後にあった、女子生徒が立っていた後ろの、掃除用具が入っているロッカールームを蹴り飛ばす。大きな音におどろいて、ムトウさんももうひとりの男子生徒も反射的にそちらを向いた。アルミ製の古い扉は蹴られた衝撃でひどくゆがんでしまった。
彼以外、そこには誰もいない。
「アクロバティックサラサラって八尺様よりはいそうだもんな」
「おめーそれ二度と言うなよ」
連れ合いの男子が軽口をたたき合っていた。
ふたりのおかげで、ムトウさんはその日の恐怖を回避できた。
「でも、それからどうも、なんか、後ろにいるような気がして」
入浴中にもあった。頭を洗っている最中という、定番にして最悪のシチュエーションだった。
シャンプーを流そうとしてシャワーを出したら、湯気がもうっと周囲に広がった。熱気がすごい。熱かったか。出てくるシャワーに手をかざす。温度は先ほどと変わらない。
シャワーヘッドを見ていた視線をあげる。頭の動きに合わせて、蒸気が揺れた。風呂場の壁が見える。薄いブラウンの木目調の壁だ。
黒い前髪が顔を覆っている女性がそこにいた。
「わああ!」
座っていたイスから転がり落ちた。床に尻もちをついた格好のまま、つい後ろを振り向く形で起き上がってしまう。
誰かがいるはずもない。
「風呂はダメっすよ。でも、部屋も最悪ですよ」
ムトウさんの部屋はフローリングなのだが、もともとは畳敷きの和室だった。リフォームの際に床を張り替えただけなので、収納はふすまのままになっている。季節ものの服やむかしの教科書が押し込められているふすまはめったに開けない。そこの前にベッドを置いて、向かいに勉強机を置いている。机に座ると、ふすまには背中を向ける形になる。
「テスト勉強をしていたときです。なんか、あっ来たな……って感覚が、そのころにはもうわかるようになってて。ベッドの上にいたら嫌だなとか思ったし、振り返るか無視するか、めちゃめちゃ悩みました」
安住の地である部屋にまで出てこられたらたまらない。ムトウさんは心底イヤになった。
そこで、ここはひとつ、思い切って正体をたしかめてみようという気になった。
自分の気のせいにしても、たとえ
「怖いことは怖かったんですよ。でも言っちゃ悪いんですけど、それ、たぶん女なんですよね。見慣れてきたってのもあったかもしんないです。だから、力勝負になったらイケるんじゃないかって思えてきてて」
ムトウさんは当時、現役の男子高校生で野球部員だった。力勝負で女性に負けるとは考えにくい。
人間の女性ではないケースは、考えないことにしていた。なぜなら怖かったからだそうだ。なんともいえない二律背反である。
対人であると仮定して、とがめられることになったとしても、一発ぶん殴ろうとムトウさんは決めていた。最近は頻繁に見るようになってきて、まるで小心者の自分が見透かされてバカにされているような気がしていた。
「で、真正面から向き合う前に、本当にいるのかどうかたしかめようって思ったんですね。スマホのカメラを起動して」
インカメラの位置を微調整しつつ、ベッド、ふすまが映るように手を動かす。
ふすまが数センチ開いていた。
開けた覚えはない。畳をフローリングに変えたとき、建てつけが悪くなったので相当な力を込めないと開かないのだ。
数センチしかない幅に、人の、女の顔が、すっぽりと挟まっている。
「本当にいるとは思わなかったっていうクソな言い訳するんですけど、でもまさか、本当にいるなんて思わなくて、スマホ落としちゃったんですよ」
スマホが手から滑り落ちていく瞬間、指が画面に触ったようだった。ぱしゃりとシャッターを切った。その音でムトウさんは飛び上がるほどおどろいた。ぶん殴ってやるという数秒前の決意など、とっくに消え失せていた。
その次の行動はというと、落ちたスマホを拾おうとしたことだった。イスに座っていた体を傾けて、床に手を伸ばした。
「なんかもう怖くて、本当に怖くて、バカみたいなことを考えちゃったんですよ。あの女の髪の毛って長かったよな。触ったらどうしようみたいな。冷静に考えたらそんなことあるはずないんですよ。ふすまからここまでの距離を考えたら、それだけの長さの髪があるってことなんだから、いやあるわけないじゃんって」
ひや
手がひんやりとしたものに触れた。
スマホを触ったつもりだった。だがその冷たいものは、内部のどこかに熱を帯びている。スマホ内部の熱ではない。表面はどこかしっとりとしめっていた。
ムトウさんは電源が切れたように気絶した。
スマホを拾おうとした体勢のままだったので、イスから体がズレ落ち、手足を床にたたきつけた衝撃ですぐに意識を取り戻した。
「さっきから何やってんだい!」
異音を聞きつけた母親が部屋にやってきた。大きな物音を立ててばかりの息子に、母親の表情はご立腹だった。
ムトウさんは母親のそんな顔を見てから、ふすまの隙間にあった顔を思い出してそちらに頭を向けた。首をひねったようで痛かった。
「なに、ふすまが閉まんなくなったのかい」
どう事情を説明しようか。息子が小心者であることは既に見抜かれている。
ムトウさんは、そういえばスマホのシャッターを押していたことを思い出した。いそいそとスマホを操作する息子を見た母親は、転げ落ちた自分の体よりもスマホの心配かとあきれてため息をついていた。
「写真を見てほしいと母親に言ったんです。これこれこれこれって」
映っていた。
写真は相当ブレていたが、ムトウさんの頭の端っこの奥に、ふすまが映っている。その隙間に、やはり映りはひどく不鮮明ではあるものの、女と認識できる姿が映っている。
黒く長い髪が、顔の脇によけられていた。今日は顔が出ていたようだ。もしかして振り向いていたら、ちゃんと顔が見えていたのかもしれない。見たいかと問えば、絶対に見たくないですとムトウさんは首を振った。
そして、女に顔はなかった。いくら映りが悪いとはいっても、顔が真っ白であるはずがない。パーツの陰影らしきものがあってもいい。
けれど、何もない。
「日曜、お姉ちゃんが厄年のお祓いに行くっていうからあんたも行きな」
ムトウさんは言われた通り、日曜日に姉と神社へ出向いた。お祓いをしてくれた神主に、スマホの写真を見せてみた。神主は、そういうのはわからないのでと苦笑いをした。心配なら消したほうがいいと言うので、ムトウさんはその場で削除した。
「女なんでしょ? あんた彼女とかクラスの女子になんか変なことしたんじゃない」
「してねえ」
「っていうか消したあとに言うのもなんだけど、さっきの写真って顔なくない? なんでそれで女ってわかったわけ? 髪長いってだけじゃん」
ずばずば痛いところを突く姉に、ムトウさんは辟易してスマホを操作する。
削除した写真が一定期間保存される、ゴミ箱フォルダを開いたときだった。
「あとちょっとだったのに」
姉の声ではない。
スマホから顔をあげた。
ムトウさんはまたスマホを落とした。
「はあ? 何やってんの」
スマホを拾ってくれる姉の動作にも声にも顔にも、違和感は何もない。さっきは声が姉と違っていれば、顔も姉と違う。
なかった。
ゴミ箱フォルダから、あの写真も消えていた。
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