ジュンさんが受けたお祓いの効果を否定してしまうようなエピソードを続けてしまうことをご容赦願いたい。

 モエミさんには弟がいる。弟のアツシさんは自身の経験をしたとき、姉の目が赤くなった写真については聞いていなかった。よって当然、写真も見ていない。ジュンさんとモエミさんはお祓いのあと、神主さんに写真について相談した。心配ならば消したほうがいいと助言をもらったので、すぐに消していた。ジュンさんと姉と両親がお祓いに出ていた日もアツシさんは留守にしていたので、お祓いも行っていない。


 アツシさんの趣味は写真撮影だった。姉とそこはかとなく似てはいるが、観光地やぬいぐるみの来歴に関わる土地を訪れるモエミさんと違い、アツシさんはその土地の自然を好んで撮影していた。インスタグラムのフォロワーもそれなりにいるとはにかみながら自慢する彼のアカウントを、さっそく見た。フォロワー数はもうすぐ万に届きそうな数字である。アマチュアにしては相当な腕前らしい。褒めると照れた。


「その日も、インスタにアップする写真を撮りに行ったんですよ」


 二月上旬、アツシさんは県南地方に赴いた。二月の東北といえば寒さがいちばん厳しい季節である。だがこのあたりは雪があまり降らない代わりに、寒さが地中深くまで浸透する。そのため地面のなかまでガチガチに凍ることもめずらしくない。

 それでいて不思議なことに、山中はなぜか暖かい。冬でも枯れない針葉樹の枝が、空から降りてくる寒気を上空で押しとどめる。地面は秋に枯れた広葉樹の葉が幾層にも重なっているおかげで、空気中の熱をどこにも逃さずに保ってくれる。

 なじみのない土地なので、土地勘はない。冬山で遭難もしたくないので、道路からあまり離れない場所で撮影スポットがないか探した。近くには開花の時期に一度だけ訪れたダリア園があったが、冬は休業していた。


 さてどうするか。グーグルマップを眺めていると、ダリア園のそばに遊歩道を見つけた。名所もあるらしい。そういえば近くは渓谷や滝が多い。冬の空気は不純物が少ないので、寒さを無視すれば水場の撮影には向いている。

 アツシさんはさっそく車を走らせた。県道が別な県道とぶつかるところで脇道に入る。遊歩道の先の道路も舗装されているので、通り抜けられるようだ。脇道に入ってすぐは田んぼの跡があったが、やがて森の茂みに景色が取ってかわる。


 崩れそうなボロ小屋があった。

 なぜか田舎にはこういう建物があちこちにある。台風や大雨にさらされても、倒壊しているものはほとんどない。アツシさんは廃墟も好んで撮影するので、小屋のそばの路肩に車を停めた。

 建物の入り口は背が低いのか、それとも傾いているせいで低く見えるだけなのかわからない。開きっぱなしの戸の内側から、笹薮が顔を出していた。寒さで枯れた蔓植物が戸口に絡みついている。


 背筋がぶるりと震えた。

 アツシさんは撮影をやめて車内に戻った。遠くから川の流れが聞こえてきた。やはり水場周辺は冷える。

 それに。

 笹薮の向こうに、何かいたら。

 柄にもない発想がふいに降り立った自分が恐ろしく感じられた。


 車を走らせると、その先にも小屋があった。

 いちおうブレーキは踏んだが、今度は車外に出なかった。

 波板トタンを乗せられた屋根の一か所だけ穴が空いていた。風雨をもろに受けるその穴から、なんか飛び出してくるとか……ないよな、ないない。さっきの小屋で受けた印象が、飛躍した考えを連鎖的に連れてくる。なんか飛び出してくるって、何かって、なんだよ。

 アクセルを踏んで、車を出した。落石注意の看板と、木製の簡素な土砂崩れ防止の板をちらりと見る。人の膝ほどの高さの遮蔽で守れる土砂崩れなんて怖くもないだろう。

 そのすぐ先に、マップで見つけた名所があった。


「正直、いやいやなんだこれって肩透かしを食らいましたね。季節が悪いっていうのもあるかもしれないんですけど、ガードレールの向こうにちょっとした木製の足場があるだけで、名所って紹介する根性がすげえな、みたいな。地元の子どもが描いたかっぱの絵がなかったらブチギレてましたよ」


 せっかく来たのでひとまず写真は撮った。だが画角もどうもしっくりこない。そうそうにあきらめて車に戻った。近くに美術館があるとマップが教えてくれたので、慰めにそこでも行くかと思ってため息をついた。

 進んだ先で道路の端、川べりに茶色の木製風の看板を見つけた。地域の美化活動を担っている地域住民へのなんとかかんとか……アツシさんはブレーキを踏んだ。

 看板の後ろに道があった。しかも川を渡れそうな橋もある。

 これだ! がぜんやる気を取り戻したアツシさんはエンジンをかけっぱなしにしたまま、カメラを片手に車から飛び出した。

 看板の後ろから川べりまでは落ち葉が積もっている。霜が降って溶けた腐葉土の道は滑りやすい。妙な角度に足を置くと滑って転んでしまう。気をつけながら斜面を下りると、道路から見えた橋のそばまで来られた。丸太でできた橋らしい。

 川の流れが耳に心地よく届く。冷え冷えとした空気なのに、どこかやわらかく肌にまとわりついてきた。さっきまでの悶々とした気分をすべて癒してくれる大自然に、アツシさんは心から感謝した。


 そのときに撮影した写真を、インスタで教えてもらった。丸太橋についている手すりの虎ロープは、念のためつけておきました感が否めない。手すりの心もとなさに、覚悟できない人間は渡ってはいけないと警告をされているようだ。ある意味正しい。


 細心の注意を払ってアツシさんは丸太橋を渡った。

 川には巨石がいくつも転がっている。渡り切って振り返ってはじめて気づいた。向かいの川べりには、やけに整った角を持った石がいくつもある。よくよく見れば、渡ってきた丸太橋は砂利交じりのコンクリート製だった。ということは、このあたりはかなり人手が入っていると見て間違いない。整った角の石も、人工的に設置されたのだろう。両川岸にあるのも足場のつもりで置いてくれたに違いない。これはたしかに、地域の美化活動に専念している地元住民への感謝の念も湧いた。月日が流れて苔むすだけで、こうも自然と調和するのか。アツシさんか感心して、それらの石も写真におさめた。


 その先は、舗装や人の手とは無縁の空間だった。いわゆる獣道は、人の背の高さに伸び放題の枝があちこちから突き出している。これでこそ、とアツシさんはさらにテンションがあがった。いい写真が撮れそうな予感に、浮足立っていた。とはいえ迷っては元も子もないので、なるべく川の流れが聞こえる範囲で移動しようと決めた。右に行っては来た道を川の向こうから眺めるだけでつまらないので、未知なる左へと進んだ。


 なだらかな坂を上る。背の低い木々と笹薮が出迎えてくれた。針葉樹で日光がさえぎられ、成長がままならないのだろう。視界が一気に寒色に染まった。下を向いて、歩けそうな地面を選んで足を置く。折れた枝と針葉樹の葉、ときどき長く鋭利な深緑の葉。やや右寄りの地面を選ぶ。足をすべらせたら、川に向かって一直線だ。


「小枝か羽虫が目にぶつかって、目を閉じたんです。手でそれをよけるとなんにもなかったので、痛みが治まったころに目を開けました」


 そこは先ほどまで見ていた、針葉樹の森に違いなかった。低い枝は針葉樹が育ち盛りのころにさんざん働いたせいか、それともやはり先端の枝に日光を奪われ続けてきたせいか、すっかり枯れて、四方に止まり木を突き出すだけの姿となっていた。


「枝に引っかかって死んだ蛇って見たことありますか」


 突然の質問だった。さすがに知らない。首を振ると、アツシさんが「あれはすごいんですよ」と語ってくれた。

 枝に胴体の半分あたりから体を折り曲げて、逆Uの字となって死んでいる蛇がいた。その体に付着していた肉は、ウジやハエが寄ってたかって食べたのだろう。するとそれは見事に骨だけを残していた。白骨化した蛇は風が吹くたび、レースカーテンのような美しさを見せびらかすように揺れていた。その写真はアツシさんの思い出の一枚だそうで、めったに他人には見せていないと前置きを聞かされたうえでカメラのデータを見せてもらった。地衣類のサルオガセも彷彿とさせられる、まさに森のカーテンだった。


「あったんです。そこに、死んだ蛇の骨が」


 逆Uの字では済まされない全長を持つ蛇の骨が、あちこちの枝に絡まり合っていた。

 それは電線のようであり、植物の蔓のようでもあった。長い背骨の両脇から伸びる爪のような肋骨が、延々と続いている。ゆるいカーブを描いてぶら下がり、支えとなっている枝に向かうときは上昇して、また下降する。その骨が、視界の右から左まで何往復していることか。

 距離にして何メートルあるだろう。アツシさんはそこまで考えて、ぞっとした。生き物の全長に対して、距離という単語が出てくる。これは自分が想像しているよりも、はるかに長い。


 それはきっと、この世に存在してはいけないものだ。


「逃げました。帰り際に川べりを撮影しようなんてのも忘れて、丸太橋も全速力で駆け抜けました。エンジンかけっぱなしだったんで、すぐにアクセルを踏み込みましたよ」


 家に戻ってからも、あの巨大蛇の骨の恐怖は薄れなかった。帰宅そうそう部屋に閉じこもるアツシさんを、両親は心配した。ふたりに見たものを説明すると、明日にでもお祓いに行くように勧められた。

 理由は、考えられるだけでも三つある。

 ひとつは、その時点ですでにアツシさんの姉であるモエミさんの身に起きた出来事があったから。

 ひとつは、そんな巨大な蛇がいていいはずもなければ、そんな巨大な蛇が死ぬ理由というのも誰も想像がつかないから。


 そして。


「逃げ出してすぐ、声が聞こえたんです」


 女性が、息を吐き切ったかのような最期の一息という声で。


「間に合わなかった」


 それはジュンさんがお祓いの帰りに聞いた声と同じかどうか、証明する手だてはない。

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