浜辺

 その年の夏、ミドリさんは里帰りをしていた。実家は港町で、庭に出るだけで潮風のにおいが漂ってくる。波の音が鼓膜に響く。


「実家に帰ってくると、解放感とかさみしさとか、いろんな感情が入り交じるじゃないですか。その気持ちを再認識させてくれる風景とかよく言いますけど、私の場合、潮のかおりと波の音がきっかけになって」


 少し、散歩をしてこようと思った。


 集落を抜けて海岸沿いの道へ出る。夏休み期間だったので、観光客がいてにぎやかなはずだが、浜に近づいてもやけに静かだった。蝉の鳴き声も、あれほど感傷的な気持ちにさせてきたさざ波の音もどこか遠い。

 海運地蔵が見えてきたあたりで、海岸沿いから離れて陸地に入る道がある。ミドリさんは迷わずそちらに進んだ。何か嫌な気がしたときは海を見るのをやめなさい、と亡き祖母から教わっていたのだ。


 まっすぐ歩いたその先には、慰霊碑があった。水子供養の慰霊碑である。存在をすっかり忘れていた。その先にも鳥居と小さなお社がある。このあたりはどういうわけか神社が密集していた。神主がいる神社は少ないが、右を見ても左を向いても鳥居の朱色が目に入る。

 遠くを歩いている人の後ろ姿が見えた。背丈からして、夏休み中の子どもだろう。少し安心した。波音も耳に近づいてきた。稲荷大明神から、休憩所のような小さな公園を抜けるとまた海沿いの道になる。けれども子どもが歩いているし、ならば近くにはその子の家族もいるだろう。なら心配はない。


 ざあ ざああああああっ


 波のさざめきもまた、近くに聞こえた。


 ざざあ ざざああああああっ


 背後から。

 電気自動車のエンジン音?

 ミドリさんは振り返った。


 青黒い波が、静かに、こちらにやってきていた。


 津波!?

 地震は感じなかった。それとも震源地が遠いところで地震があったのか。津波注意報なんてスマホの通知には入っていない。街の広報スピーカーだって鳴っていない。


 ざあああああああああああっ


 波の音に振り返る。より近くに迫っていた。

 ミドリさんはまた震えた。

 その波のなかには、まだ年端もいかない子どもが巻き込まれていた。

 青い水に覆われた子どもが、目を開けてこちらを凝視していた。開きっぱなしだった口から、ごぼりと泡が漏れ出た。

 違う。

 たとえるなら、柔らかいゼリーに入っている固いゼリーのような、何か濃度の異なる・・・・・・・・水のようだった。口から泡を吐いた子どもは、全身の空気を絞り出すようにずっとごぼごぼと泡を吐き続けていた。

 吐いて、吐いて、吐き続けて、吐き切ったが最後、体が丸まって口から出て行って、水に溶けて、津波の一群となった。その背後にいた子どもの群れが、まだミドリさんを見ている。


 ごぼり、と口から泡を吐きながら。


 ごぼごぼごぼ


 子どもが泡を吐く音は、波よりも大きな音でミドリさんに迫っていた。


 ごぼりっ


 空気を吐ききったら、消えてしまうのだろう。また。水に溶けて。水に還って・・・・・しまうのだろう。


 ミドリさんは走り出した。公園を抜けてまた別な神社が近づいてきた。そのあたりで前を歩いていた子ども──少年に追いついた。彼になんて声をかけようか。ミドリさんは逡巡した。

 助けてほしい? 子ども相手に? それとも一緒に逃げよう? 後ろのあれに気づいているかどうかもわからないのに?

 なんせ、少年はミドリさんが走って近づいてきたというのに、振り向きもしない。


 そのときになってやっと、少年の足が止まった。やっと、ミドリさんに振り返ってくれた。


 真っ赤な顔で。


 少年の顔は真っ赤だった。厳密にいえば、顔はない。頭の半分ほどまで、ない。

 ミドリさんは叫んだ。

 反射的に背後を見やると、波から子どもがひとり転がり出てきた。少年よりもいくらか小さな子どもはずぶ濡れだった。

 その子の顔を見たミドリさんは、悲鳴もあげられなかった。


「行くぞ」


 声は、目の前の少年のものだとすぐにわかった。目も鼻も口もないはずの真っ赤な顔の少年が、波から飛び出してきた小さな子どもの手を握って歩き出す。小さな子どもも彼にすがりつくように近づいて、すなおにしたがってついていく。

 ふたりは歩道を進み、その先にある高い堤防もなんなく歩いて乗り越えて、海に向かって行った。波さえいとわず、静かに歩いていく。

 そして消えた。


 雲の切れ間から海に日差しのカーテンが降り注いだとき、ミドリさんの世界が戻ってきた。背後に迫っていた津波は跡形もなく消えている。ふたりの子どもが歩いて行った砂浜に足跡が残っていても、すぐ波に消されてしまった。ビーチボールを持った兄弟が、そこで遊び始めた。


「私、その前の年に息子を亡くしているんです」


 ミドリさんは後半、涙ながらに語ってくれた。その理由がここにある。

 まだ幼稚園児だった息子を連れて、家族で川辺のキャンプ場に出かけた。ミドリさんがバーベキューの準備をしていたら、息子はひとりで川に入って足を滑らせた。溺れただけなら、きっとジタバタもがく音を聞きつけて、テントを張っていた夫でさえ気づけたかもしれない。だが息子は運悪く、足を滑らせて頭を岩に打ちつけていた。そのせいで気を失い、静かに水に顔を浸けて、溺れて死んでしまった。

 夫が息子を見つけたとき、その顔は頭からとめどなく流れる血で真っ赤に染まっていたという。


「波のなかから出てきたのは息子だったんです。息子の手を、少年が手を引いて連れて行ってくれたんです。空の向こうまで、一緒に。私、それでやっと、あの子が成仏してくれたような気がして。わかってるんです。水子供養の慰霊碑とか、実家に帰ってきた安心感とかで見た夢とか幻覚なんじゃないかってのもわかってるんです。でも私、それでも少し安心したところがあって、でも同時に、息子を連れて行ってくれたあの子に申し訳なさが出てきて、私あの子をとても怖がってしまって、息子の手をつないで連れて行ってくれたあの子を、怖がってしまって、私それが、本当に本当に申し訳なくて」


 ミドリさんの実家のそばには複数の神社に加えて、水子供養の慰霊碑、賽の河原、震災の津波による犠牲者の慰霊碑もある。


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