橋
紅葉が絶景だというY橋へ、家族でドライブに来たマサトさん。橋が新しく架け替えられるとも聞いたので、今のうちに古い橋を見ておこうということで足を延ばした。
橋の向こうには、喫茶店とお土産屋を足したような店があった。連れてきたふたりの娘はまだ小さく、そこで買ったソフトクリームを食べていた。
秋だというのに、小春日和どころか動くと汗ばむような快晴だったので、マサトさんはアイスコーヒーを飲んでいた。飲み終えると、食べるのがゆっくりな娘たちを待っているのも退屈である。妻からそのあたりを歩いて暇つぶしでもしてきてと許可をもらった。だが女三人から目を離すのも忍びない。妻と娘からあまり離れないように、橋へと向かった。
橋の上に立つと、三六〇度見渡す限り、木々が赤と黄色に染まっている。ところどころ差し色になる針葉樹の緑も、こうしてみると悪くない。近くには滝もあるらしいから、アイスを食べ終わった娘たちを連れて行こう。そう考えながら、マサトさんはとぼとぼ歩いていた。
と、橋を見下ろした。
橋の向こう――この場合、橋の外側というべきか。欄干の根元に手を絡ませて、今にも橋から落ちてしまいそうな女性がいた。場所が場所なだけに、誰も彼女の存在に気づいていないようで、近くを素通りしていく。
マサトさんは大慌てで走り出した。緊急事態なので、誰かに助けを求めて叫べばよかったのだが、それをすることもなく一心不乱に駆けだした。
「大丈夫ですか!」
彼女がつかまっている欄干の根元に到着した。そこでようやくマサトさんは声を出した。地面に膝をついて、女性の手首をつかもうとする。
ぬるり、とすべった。
なんだ? マサトさんが妙に思うと、女の顔があがった。
そもそも、今にも橋から落ちそうだというのに女は「助けて」の言葉も悲鳴もない。
川からせりあがってきた風にあおられて、女の顔を隠していた黒髪がふわっと浮いた。
女の顔に目はなかった。
目玉を取った代わりの穴に墨汁を流しいれても、ここまで真っ黒にはならないだろうという底なしの黒さがあった。
女がにたりと唇を動かした。
「コラー!」
どこからともなく、巨大な声が響き渡った。
ほぼ同時に、雷が鳴った。どこかに落ちただろう。空は快晴で、雷を落としそうな雲などどこにもなかったはずである。天気予報でも、今日は全国的に雲ひとつない晴れ間が広がるといっていた。
マサトさんが怒鳴り声と雷に持っていかれていた意識を取り戻すと、橋の下にぶら下がっている女はいなくなっていた。
正しくいうのなら、落ちて遠ざかり、小さくなっていた。
あっ、とマサトさんは思ったが。
「ちっ」
忌々しげに顔をゆがめた女の舌打ちが、耳に届いた。届くはずのない距離で。
「あなた何してるの。ちょっと恥ずかしいんだけど、やめてよ」
ソフトクリームを食べ終えた娘ふたりを連れて、妻がやってきた。
「今、雷落ちなかったか?」
「この空のどこに雷を落とす雲があるっていうの。何と聞き間違えてるの?」
落雷はおろか、誰かの怒鳴り声さえ妻には聞こえていなかった。それどころか周囲の人もそうらしく、マサトさんは急に橋の下をのぞきこみながら手を伸ばす変な人として見られていた。若い女性たちは困惑しながら距離を取りながら歩き、遠くからこちらを見てくる男性たちの眉をひそめた表情はマサトさんの心に突き刺さった。さすがにバツが悪くなってきたので、立ち上がって膝の汚れを払う。妻は肩をすくめて、これでもかと大げさにため息をついた。よけいに申し訳なくなってきた。
マサトさんに物怖じせず近づいてきたのは上の娘だった。
手を握ろうとしたら、さっと避けられた。
「なんかパパの手くさい」
娘が鼻をつまむ仕草をする。見れば、手のひらが太陽光を反射している。ぬめりがまだ残っていた。
「あと、怒られることしちゃだめだよ」
上の娘には聞こえていたのだろうか、先ほどの怒鳴り声が。
「聞こえた。かみさまがおこったの。パパにじゃないけど、でもパパもだよ。だからカミナリおっことされたんだよ」
上の娘はマサトさんにそう告げると、だだだっと駆けだして一気に橋を渡り切った。
マサトさんも走って娘を追いかける。駐車場で娘をつかまえると、質問を続けた。
「さっきのその、かみさまの声? って、どうしてわかったんだ」
「なんのこと?」
「さっきの、パパをしかった声のことだよ」
「パパしかられたの? かわいそう」
よしよし、娘が頭を撫でてくれる。その声は嘘をついているものではない。
娘は本当に、覚えていないようだった。
現在、Y橋は新しいものに架け替えられている。マサトさんが遭遇した不思議な出来事も、橋自体にあった心霊スポットの噂も、すべて消えてしまっただろう。
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