虫送り
ツーリングが趣味のワタナベさんは、人懐っこい笑みを浮かべる青年だった。
「季節的には秋が最高ですね。でも最近は残暑がいつまでも続くじゃないですか。車と違ってバイクはさえぎるものが何もないから、日焼け対策はしても太陽光を浴び続けるのってけっこう疲れるんですよ。初夏を選んでも、梅雨と重なると天候に恵まれないし。どの時期でも天気予報を見ながら神頼みって感じです」
ワタナベさんが初夏にツーリング先で出会った光景だという。
道路も混雑するゴールデンウィークを避け、天気の悪い土日を恨みながら過ごしていたら、いつ梅雨入りしてもおかしくない六月に突入した。
やがて土曜の早朝、日曜の夕方に小雨が降るだけで、なんとか晴天を保ってくれそうな休日がやってきた。
朝の五時に関東の自宅を出発し、一般道を走って、K町についたのはちょうどお昼頃だった。ここにはバイク仲間のあいだでも有名な食堂があるので、そこの名物ラーメンを食べる。腹ごしらえをしたワタナベさんは、このまま逆戻りをして帰りたくなかった。一か月以上遠出をしていなかったので、何かを見ていきたかった。
食堂にあったK町観光マップを眺めていると、店に数人の男性が入ってきた。地元の人間らしく、女将と店主と軽くあいさつをかわす。それから店主に注文していたサンドイッチの数をたしかめあって、惣菜を入れる透明なパックにつめこまれたそれを女将から受け取っていた。
聞こえてきた話によれば、どうやら子どもの行事があるらしい。
男性たちが出て行ったあと、ワタナベさんは女将に何かイベントがあるのかと尋ねた。
「今日は虫送りがあるんだよ」
ワタナベさんにとって、虫送りという行事は初耳だった。
虫送りはK町独特のものではない。田んぼが広がる地域ならばK町のように、今でも続けられている土地は多い。虫送祭り、除虫祭りなどの呼び名もある。西日本では虫送りよりも、実盛送りというほうが聞きなじみがあるかもしれない。
稲作が主な産業となる農村では、米に害を与える生き物は嫌われる。最たるものが害虫であった。農薬がない時代、人々は害虫対策に頭を悩ませた。自分たちが生きるために骨身を惜しまず稲作を続けているのであって、虫に食わせるために命を削っているのではない。
農民はそれら虫を取り除く祈りを込めて、とらえた虫を炎に投げ入れたり、海に流したりした。それらが虫送りという儀式のもとになったといわれている。
地域によるが、虫と称したわら人形に虫をつけて送るというケースもある。これは虫による害を、人生を不幸な形で終わらせた人間による恨みととらえたらしい。いわゆる怨霊である。そうした怨霊を、自分たちの地域に害をなすものとして、内部から外部――自分たちの地域から地域外へ、
ワタナベさんは女将から虫送りのざっとした説明を聞いて、がぜんその虫送りが見たくなった。日が暮れる頃になって虫送りははじめられる。
見てもなんにもないよと女将には笑われたが、呪術が伝統として引き継がれているというだけで興味深かった。呪術。流行のマンガでも聞きなじみがあるそれが、町全体の伝統として根付いているなんておもしろい。ワタナベさんはどうしても見たくてたまらず、無理を承知で女将に掛け合った。女将の態度は豹変するかと思われたが、別に見られたところで減るものでも迷惑でもないはずだとあっけらかんと返された。先ほどの男性たちに女将が連絡を取ったら似たようなことを返してきたので、見学の許可はたやすくおりた。
時間だけはどうしようもない。ひとまず日暮れまで、ワタナベさんはK町を散策して時間を費やした。秋ならば紅葉がまぶしい山並みというが、新緑でも十分目に麗しい。足があるのならN湖周辺に少しは見るものがあると女将が教えてくれたので、湖畔までバイクを走らせた。
近くにあった美術館を見学してもまだ時間があったので、湖畔に引き返すと、来た時に見かけた民宿と書かれている建物に目が奪われた。ずいぶんと古い建物で、まあ、ボロい。これで経営していたら冗談きついよなあと思った。建物のそばで作業をしている男性がいたので、どうやら冗談ではないのかもしれない。ワタナベさんが声をかけると、田舎に住まう人間特有の「どこから来たのか」という、観光客に向けての定番の話題からはじまった。汗じみのついた肌着と作業ズボンの男性は、還暦を超えたあたりだろう。
このあとの予定を聞かれたワタナベさんは、食堂の名前を出して、あのあたりで虫送りを見学させてもらうのだと告げた。男性は、そういえばそんな季節かと遠くの山を見やった。秋の紅葉は、湖畔にその山が映って絶景だとも教えてくれた。
「重要無形文化財とかに指定されてるってところもあったべな。好き好んで見るようなもんでもねえべやって思うんだけんじょ、都会の人にはおもしれんだべな」
「長年続いてきた伝統ってめずらしいじゃないですか。っていう見方が、都会の人間って言われちゃうんですかね」
「んだな。オレもガキのころにやったけんじょ、虫がおっかなくて触れねってぎゃーぴー泣いてんのに代わってその辺の虫
「虫ってどういう虫って決まってるんですか」
「虫は虫だべ。
害虫に限定しているのかと思っていたが、なんでもいいのか。子どもならではの残酷さか。
別れ際、男性から今度はうちさ泊まれやと、ボロの建物を親指で差された。今にも崩壊しそうなハウスや物置をちらりと見て、ワタナベさんは考えておきますと返事をした。
先ほどの食堂まで戻ると、女将から裏手にある小学校へ行くようにと声をかけられた。そこから子どもたちが練り歩くらしい。食堂にバイクを停めさせてもらい、ゆるやかな上り坂を歩いていく。道の両側には民家があり、住人たちが家の前で待っていた。虫送りのためなのだろう。書道用の和紙で作られた袋を握っている人もいた。袋からかさかさと音がする。このために虫を捕獲しておいたのだろう。なるほど、地域に根差した行事として学校側でも授業の一環として行っているのか。
子どもたちの前で、ワタナベさんは見学希望者として紹介された。若い男性教諭は、児童たちに失礼のないようにと言いつけた。「はーい!」と元気な返事があった。
さて、虫送りである。
籠を乗せたリヤカーを男性教諭が引いて、児童たちとともに校門から出発した。坂をおりながら、先ほど見かけた民家の前の住民たちから虫入りの袋を回収する。低学年の子どもが、大人を真似してうやうやしく頭を下げていた。それとは別に、道すがら目についた虫を採集する子もいる。
集めた虫や袋は、リヤカーに乗せられている籠に入れられる。籠は木製の骨組みで作られており、束ねた藁を逆さにかぶせただけの簡素なものだった。
「小さい虫だと隙間から逃げちゃうんだよ」と、低学年の男子児童。
「でも蚊とかは逃げてもわかんないかもね」と同い年らしい女子児童。
「イモリとかすばしっこいから、入れたら逃げちゃうね」
ワタナベさんがそう返すと、男子児童が首を振った。
「ここらはイモリは入れないんだ」
「そうなんだ。さっき別な地域のおじさんに聞いたら、そこではイモリとかカエルも捕まえて入れていたって聞いたんだ」
「それってN沢のほうでしょ? あそこは湖に竜神様の伝説があるから、そっくりな蛇を入れられない代わりにイモリを入れるってじいちゃんから聞いたことある」
「そうなんだ、詳しいね。じゃあこの辺は蛇を捕まえられたらいれるんだ」
「アオダイショウなら毒ないけど、ヤマカガシだったら毒持ってて危ないから取っちゃダメなんだって」
「でもむかしは捕まえて入れてたっておばあちゃん言ってた。だから今でもどこかの家の人が、生まれてすぐの小さい蛇を籠に入れてくれるんだって」
男子児童に会話の主導権を奪われて悔しいのか、女子児童がかぶせるように説明役を買って出てくれる。
先ほどの湖にも何やら伝承があるのか。やはありあのオンボロ民宿にも世話になるべきかもしれない。次にまた来る機会を作らないとな。
まださほど暗くはないが、子どもたちが和紙で作った灯ろうのなかに入れてあるろうそくに、教諭が火をつけていく。灯ろうは高学年の児童しか持っていない。学年ごとに役割分担がされているようだ。
ドンドン
リヤカーの後ろに乗せている太鼓を女子児童がたたいた。中学年だろう。
ドンドン
「虫をくれーえーよー、虫をくれーえーえーよー」
ドンドーン
「へでもねー虫ーもー、ごせやげーる虫ーもー」
ドンドーン
「虫をくれーえーえーよー、虫をくれーえーえーよー」
太鼓と声出しが中学年児童、女子二人と男子三人しかいない。低学年の児童も合わせているようだが、まだ小さな彼らは虫取りに夢中になって歌など頭にないようだった。
歌の意味、というよりそれらは方言である。「へでもね」は「ろくでもない」。「ごせやげる」は「腹が立つ」といった具合である。つまり害虫への憤りを指しているのだ。
住民が子どもに渡す書道用半紙で作った紙の袋には、児童たちが描いたイラストが添えられているものがあった。虫取りに興じている男子児童ではなく、女子児童にワタナベさんが尋ねるとそう教えられた。大人に頼られた彼女はうれしかったのか、その子は自分が描いた袋を持っている家を見かけたら教えるねと喜んでいた。
ガサガサガサガサ
袋のなかでしきりに動きまわる何かを持っている女性が、民家の陰から出てきた。老婆が女性に「
下り道が終わり、あの食堂の脇道に出た。虫を集める作業はこれでおしまいだと男性教諭が声をあげた。道路を渡った向かいにある駅前でいったん集合となり、人数を確認する。中学年以下の児童はそこで待機し、高学年の児童と教諭、地元の男性が駅舎の向こうの川べりに向かう。そこにあるT川に、虫の入っている籠を流すというのだ。
「あたしの絵描いた袋をあげた家ってどこだったっけ~」
ワタナベさんと話していた女子児童が泣きべそをかいていた。どうやら自分が絵を描いた袋を渡した家を見失ってしまったらしい。女子児童は女性教諭の膝にすがりついて、なだめられていた。
駅のホームを抜けて、線路を横断する。高学年男子五人の灯ろうを、女子三人が預かり、男子は虫籠を乗せたリヤカーを持ち上げて線路を横断した。線路を横断したリヤカーは大人たちが待つ川べりへとおろされた。
籠が川に浸けられる。流されないように、男子児童たちが片手で押さえている。空いている片手で女子から灯ろうを受け取って、準備が整ったようだった。
「せーの」
掛け声を合わせて、灯ろうが籠に向けて投げられる。または籠の藁に、灯ろうを直接突き刺す。
虫送りの最後は、地域によりけりだが、海や川に流す。または燃やす。その土地に応じた処理方法を採るようである。ここでは燃やして流す、両方を採用しているようだった。
全員が灯ろうを籠に押しつけたのを見て、籠を押さえていた男子児童の最後のひとりが手を放した。
「いてえ!」
籠をつかんでいた男子児童が叫んだ。左手を引っ込めて、顔をしかめている。
支えを失った籠は川の流れに乗り、ゆらゆらと流れていった。
籠の虫に噛まれたか、刺されたか。それとも藁や木組みのささくれでも刺さったか。
女子児童や男性教諭が、男子児童の手を見た。
「遠目から見てもわかりました。全員、一瞬で顔色を変えたんです」
ワタナベさんは、もちろん心配もしていたが、やはり興味が勝ってしまった。
彼のもとへ駆け寄って、声をかけた。
「大丈夫? どうしたの」
男子児童の左腕、手首よりも少し上の位置に痣が浮かんでいた。
「歯形です、人の」
腕をまるかじりにするかのような噛み方だった。
ワタナベさんは、流れていった籠に目を向けた。
灯ろうの火が燃え移った籠はめらめらと燃え盛りながら、夕暮れの川に浮かんでいる。炎の威力に反して、その存在はどこか薄ぼんやりとしていた。
木組みにかぶせられた藁の隙間から、一瞬、女の顔が見えた。
坂をおりていたときよりも、だいぶ日が暮れた。世界がまたたく間に色あせる時間帯だ。にもかかわらず、ワタナベさんはその女性の顔が、あの母親らしき老婆に叱られていた女性に見えて仕方なかった。
籠は川にどぷりと沈んだ。
つつがなくとは言えない終わりを迎えた虫送りの行事だったが、ワタナベさんはそのあとにもうひとつ、奇妙な事態に遭遇した。
「提灯がぶら下がっていた家では、通夜が行われるところだったみたいなんです」
先ほどまで子どもたちに虫を預けていた人の顔ぶれが、喪服姿に変わって集まりだしていた。
亡くなったのは、その家の一人娘だと耳にした。
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