サイドミラー
大型トラックは車体の大きさもあって、横の見落としが多い。自転車を利用する人に、交差点の赤信号で立ち止まるとき、隣に大型トラックが止まったら特に気をつけろと言われるのはそのためだ。もちろんトラック運転手も万全の注意を払っているが、見落としが起こらないとは限らない。
念には念を入れ、トラックのサイドミラーは三つに分かれている。アンダーミラーと呼ばれる車体の前方下部を映すもの。サイドの下部を映すもの。その少し上に位置し、車体の後方までを映すもの。
「アンダーミラーは車体の前方ですから、車体の横にいるものがアンダーミラーに映らないってことはあります」
タカアキさんは運送業のトラック運転手をしている。
ネット通販隆盛時代、運ぶ荷物はどんどん増えていく。そのわりに自宅で荷物を受け取る人は少ないので引き返して、その後に改めて配達をすれば遅いと怒鳴られる。理不尽極まりない。
「疲れていたんだと思います。そういうことにしておきたくて。寝不足で見た幻覚だと思いたいので、そういうことにしておいてください。今はもうちゃんと眠るようにしてますから。事故を起こさないように。本当に、本当ですから」
念のため先に伝えておくが、別に彼は事故を起こしてはいない。自家用車を私有地でこすったり、雪道で脱輪したり、そういった並みの経験がある程度だ。なんせ職業がトラック運転手なのである。
その日、彼はいつものように配送センターで荷物を受け取った。勤めている地区は最近、営業所が軒並み廃止されて、近くに新しく作った配送センターにまとめられた。配送区域はあまり変わらないが、出発地点が異なるのでこれまで通っていたルートとは別の道を選ぶ必要も出てくる。そのせいで新たな配達区域も増えた。隣町とはいえ、めったに通らない道を覚えるところからはじまった。大型トラックが通れない道や、バックがしづらい道は選択肢に含めない。細い道の先に配達する家があるのなら、路肩に駐車して運ぶ可能性も考えなければならない。すると往復で何分かかるか計算しないといけない。人手不足がとても憎い。
がたん
はじめて通る道で、車体に妙な衝撃を受けた。
サイドミラーを見ても何もなかった。だがタヌキや野良猫が闊歩するような土地だ。何かをひいてしまったのかもしれない。念のためトラックを下りて、車体の下を確認した。アスファルトのくすぶったにおいと、刈り取られたばかりの田んぼから漂ってくる稲穂の香りがする。死骸や血なまぐささはなかった。
道路にはへこみがあった。そこにタイヤが沈んだようである。左側のアスファルトに、湾曲したへこみがある。白線も消えかかっている。年度末あたりの道路工事で直されそうな場所だった。
次に通るときから気をつけよう。申し送り事項として事務所にも伝えておいたほうがいいな。タカアキさんは運転席に戻って地図にメモを取ると、配達先に向かった。
運転中は前方もサイドも後方もつねに気にかけている。そうしないといつ事故が起きてもおかしくない。
サイドミラーに目を向けた。
赤い何かが映っていた。
車体サイドの下部側のミラーに映っている。やはり何かひいていたのか? その死骸を引きずっていたのか?
道路のへこみを見つけたとき、車体の左側面も見ていたつもりだった。見慣れた自社のマークとカラーに、経年劣化のこすれや汚れはあっても許容範囲内である。
ましてや、赤い何かなどついていなかった。
じゃあ、あれはなんだ。
前方を見ながら、タカアキさんはときどきサイドミラーに目を向けた。
赤い。丸みを帯びている。生き物、かどうかはわからない。だがそんな気がする。
もう一度停車して確認する時間はない。配達指定時刻の荷物も積んでいる。午後二時以降の荷物を午後二時ぴったりに配達しないと、サービスがなっていないとクレームが入ることさえある。
タカアキさんは運転を慎重に、しかし目と頭は赤い何かに支配されていた。
線路で一時停止をし、左右を確認する。いつもより少しだけ長めに、左を見た。
左のサイドミラー。
震えが、うなじから背中に広がる。
「自転車に乗った子どもでした。その子の顔が真っ赤だったんです」
通常なら、事故だと考えるべきだ。
だがその顔の赤い子どもは自転車に乗って走って、ずっとタカアキさんのトラックの脇をついてきていたのだ。
尋常ではない。
タカアキさんがトラックを発進すれば、子どももついてくる。子どもの運転らしく不安定に揺れはするものの、しっかりまっすぐ走っている。トラックは時速六〇キロ前後を出している。その速度に、自転車はぴったりとついてくる。
タカアキさんは、もう訳が分からなかった。
「いい年齢の大人ですが、正直なところ泣きべそをかいていましたね。仕事も一から覚えなければならないことがたくさん増えて、睡眠不足で、クレームがくることもあって、心身が限界に近かったんだと思います」
配達先の家についた。道路わきにトラックを停め、田んぼのあいだのあぜ道を走って荷物を届けなければならない。
タカアキさんが路肩にトラックを停めたとき、サイドミラーに少年は映っていなかった。トラックの後ろから荷物を取り出し、住所に間違いがないかチェックをして、小脇に抱えて走り出す。
家の縁側では、老夫婦がそろって待っていてくれた。遅くなったことを詫びるタカアキさんに、老夫婦の妻がうやうやしく頭を下げて荷物を受け取ってくれた。
「いつもいつもていねいに、ありがとうねえ」
その言葉を聞けただけで、タカアキさんは安心してトラックに戻っていった。
それから、顔の赤い少年は一度も見えなかった。
「疲れていたんです。そういうことにしてほしくて、今回お話しようと思ったんです」
疲労困憊といったタカアキさんに、これ以上の言及はしづらかった。
その顔の赤みというのは、血に濡れたような赤みでしたか? などとても聞けない。
「最初に、サイドミラーが三つあるって話をしましたよね」
――聞きました。
質問に答える余力はないのだろうが、自分が抱えていた疑問や不審点についてはすべてぶちまけたいらしい。
「その顔の赤い少年、サイドの下部を映すミラーにしか映っていなかったんです。後方まで広く映せるミラーにも、その部分は当然、少しくらい、映ってもいいはずなんです。でもその少年は、サイドの下部のミラーにしか映っていなくて」
疲れて見た幻覚にしては、やっぱりおかしい。でも自分が見たあれを幽霊だとか、そういうものだとは思いたくない。
だからタカアキさんは、それ以上の追及をしたくなかった。
このあと、お祓いに行ってすべてを忘れることにするらしい。
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