旅館

 こんこん


 窓がたたかれる。

 カーテンを閉めていても、隙間から漏れる明かりに集ってくる虫が窓にぶつかる。田舎ではよくあることだ。


 S市の旅館に泊まりに来ていたオオタさんは、誰かが窓をたたいているのかと思った。都会からのどかな田舎の旅館に泊まりに来ていた彼には、虫が窓にぶつかる音がわからなかった。

 古びた旅館のカーテンは、隅っこがぼろになってほつれてしまっている。たっぷり日焼けしたベージュのカーテンは黄ばんだ白という呼び名がふさわしいが、オオタさんはそんなところもけっこう好きだった。

 すっかりコシをなくしたカーテンをつかみ、しゃっと開く。


 室内の明かりが窓を照らす。

 ガラスには室内の様子がくっきりと映った。

 そのせいで、自分の顔かと一瞬思った。


「うわあああ!」


 真っ赤な顔の少年がそこにいた。


 オオタさんは部屋を飛び出して、旅館の玄関まで駆けた。女将とばったり遭遇したので、これこれこういうものを見たと慌てふためきながら説明した。女将も話を聞くにつれて顔から血の気が引いていった。自分もそんな顔をしているのだろうと、オオタさんは少しだけ冷静さを取り戻した。


「お客様、大変失礼ですが……お部屋は二階で間違いありませんよね」


 オオタさんの部屋は二階で、窓の下には足がひっかけられそうな屋根も段差もない。

 人ではないと、改めて知らしめられた。むろん、顔がない……厳密に言えば、顔が削がれたような頭の少年など生きている人間ではないだろう。


 部屋を替えてもらうことで、オオタさんはその晩をやり過ごした。女将や従業員たちが建物の周りを確認してくれたが、何もなかったと報告を受けた。


 オオタさんが怖い思いをしてから数年後、旅館は震災の被害を受けて本当に何もなくなってしまった。

 震災直後、現地を直接訪ねられないオオタさんは、在りし日の旅館の姿を見ようと思ってなんとなく検索してみた。

 グーグルマップで見つけた旅館の窓にはすべて、赤い円が描かれていた。

 もう二度と見ないと誓った。


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