雷様

 リュウタさんの祖父は雷が大の苦手である。


「子どものころ、落雷が原因で家族を全員失ったそうなんです。それ以来、農作業中でも雷が鳴るとすぐ家に閉じこもってしまうんです」


 リュウタさんや祖父が生まれ育った地域では、雷に様をつけて『雷様らいさま』と呼ぶ。夏の雷が鳴る時期は稲穂が膨らむ時期と重なるので、豊穣の神としてあがめる土地も多い。リュウタさんの祖父も雷を呼ぶときは雷様と呼ぶが、めったに口にしない。呼ぶことさえ恐ろしいらしい。

 祖父は農作業中に土手で足を滑らせて骨折し、これまでの過酷な農業人生で鍛えてきた体を動かせない日々が続いたことですっかり老いてしまったという。自らがそう長くはないことを悟った祖父は、リュウタさんの「どうして雷が苦手なのか」という、これまで何度尋ねても教えてくれなかった半生を、ゆっくり話そうかと応じてくれた。


 リュウタさんの祖父、ノイチロウさんの父親は戦争に召集されて帰らぬ人となった。ノイチロウさんを長男に子どもを六人抱えていた母は、女手ひとつで子どもたちを育てるべく朝晩関係なく働いた。ノイチロウさんも弟妹達も、母に苦労をかけぬようにと、子どもながらに家の手伝いをして支えていた。亡き父に代わり、ノイチロウさんは自分が大黒柱にならねばと歯を食いしばった。

 だが生活が楽になることはなかった。母は再婚することになった。ノイチロウさんは反対した。自分の父親が裏切られるような気がしたのだ。母からは家族のためだからと涙ながらに説得をされ、やむなく新たな父の登場を受け入れた。

 新たな父は結婚して間もなく、大工仕事中に転落する事故に遭い、怪我の後遺症で下半身が動かせなくなった。結局は、子供より大きな食わせる口が増えただけだった。しかもまた弟が増えた。

 新たな父は日がな一日家にいるくせに、幼子の面倒を見るわけでもなければ内職をするわけでもない。ノイチロウさんは心のなかでずっと、頼むから死んでくれと思っていた。母は離婚する勇気どころか、その発想すらなかっただろう。日夜を問わず働き生活する時間の合間に、離婚という新たな火種を抱えるには忙しすぎた。


 ノイチロウさんは生まれたばかりの弟を背負って仕事をした。煙草の葉を乾燥させるために、縄に葉の根元の茎を編み込む。締め方がゆるいと葉が抜け落ちてしまうので、適度な力加減が必要だった。葉のヤニで手は真っ黒だった。

 夏場は畑にも田んぼにも雑草が生え盛る。そのうえ急な夕立で雨が降る。小雨のうちに背負っている弟を家に置いて、また外に出る。だが弟が泣き出したら、家にいる新たな父に「うるさいから連れていけ」と怒鳴られる。ノイチロウさんは弟に手ぬぐいをかぶせて、雨に濡れないような恰好にしてから草むしりを再開する。降ってくる雨と地面から跳ね返ってくる水滴で、ノイチロウさんは毎日全身泥まみれだった。作物は泥に濡れないよう、むしった草や藁を根元に敷いてやる。そうすることで泥を浴びた葉が病気にならない。それは戦争に行く前の父が教えてくれたことだった。父の横顔を思い出すたび、ノイチロウさんは目元が潤んだ。亡き父が恋しかった。空を見上げて深呼吸をして、ノイチロウさんはすべてに耐えた。


 その日は豪雨だった。朝から、遠いところで響く雷鳴が聞こえていた。


「田んぼの水があふれっちまう。今から全部抜いてこい」


 新たな父はノイチロウさんに仕事を言いつけて寝転がった。母も弟妹たちも、こんな雨の中で出ていくなんて危ないと口にした。だが父は「米がなくなったらおらが食うもんまでなくなんだぞ。飢え死にしてえのか!」と怒鳴った。妹は泣き、弟は鼻をすすった。

 ノイチロウさんは「行ってくる」と静かに答えた。すると末の弟も泣き出した。新たな父は「そいつも連れてけ、うるせえ」と無茶を言う。母も「そればっかりは」と新たな父に懇願するが、その後の展開が見えていたノイチロウさんは手早く弟を背負って「連れていくから大丈夫」と母に笑いかけた。そうでもしなければ、突き飛ばされた母がえりをつかまれて引きずり起こされてたたかれる。そしてまた妹が泣いて、弟が鼻をすすって……。


「ごめんよお」


 母は謝った。その目もとに水が溜まっていく。だからノイチロウさんは、自分だけは我慢しなければと耐えた。無理に笑顔を作り「いいよ」と返した。

 弟に笠をかぶせて、土間に置いてあった鍬を握ると家を出た。


 堀は濁流と化していた。普段の倍以上の水量を見て、足元をすくわれたらおしまいだなと、ノイチロウさんは覚悟を決めた。田んぼの水をせき止めている泥を鍬ですくって、畔に寄せる。稲を水浸しにしていた田んぼの水が堀の濁流に合流していった。泥をすくってよせたら、急いで足を引き抜かなければならない。流れに体を引っ張られてしまったら、自分だけならまだしも弟まで道連れにしてしまう。自分だけラクになるわけにはいかない。自分より熱い体温を持つ弟。妹はまだ泣いているだろうか。弟は、いつか自分のように泣くのをこらえられるようになるだろうか。母にのしかかる負担が、少しでも減る日が来るだろうか。

 減っているようには思えない田んぼの水量を眺め、ノイチロウさんは次の田んぼへと移動した。

 亡き父を思いながら、雨の中、必死に泥をすくった。


 どごおっ

 みちみちみちみちみちっ


 音の出どころを探すため、ノイチロウさんはあたりを見まわした。落雷で木が折れた音がしたが、それらしい様子は視認できなかった。場所によっては土砂崩れとなって、田んぼが埋まってしまうかもしれない。雨除けに手を目元にかざして周囲をうかがったが、近くではないのかもしれない。音は近いような気がしたが、せめて自分の家に被害がないようにと祈った。


 カエルの鳴き声も、虫の姿もない。ただひたすら雨が落ち、堀が流れ、泥が積み重なってぶつかる音がするだけ。まるでこの世の終わりのようだとノイチロウさんは錯覚した。時折、自分は何をしているのだろうと意識が飛びそうになった。体が後ろに引っ張られそうになった。

 おぶっている弟の体温が、ノイチロウさんに正気を取り戻させる。笠をかぶせられたところで、自分の背中も濡れているのだから、弟だってずぶ濡れだ。それでも弟の体は尋常ではない熱さだった。はやく家に帰って寝かせてやりたいとノイチロウさんは思い直した。弟に命を救われたな、そんな気がしたという。


 ばりばりばりばりばりっ


 空が裂けるような雷鳴だった。

 ノイチロウさんは前年、隣の市に母と出かけた。その最中、空襲に遭った。敵軍の戦闘機が空を飛び交う音と機関銃掃射をして人命を奪う音は、まさにこんな感じだった。命からがら逃げだしたおかげで難は逃れた。後日聞いた話では、何百人と死者が出たという。ノイチロウさんは、父が生かしてくれたのだと感じた。その直後、日本が敗戦したと知ったからだ。ノイチロウさんは、父が自らの代わりに自分を生かして家族を守ってくれと言っているような気がした。


 田んぼの排水を妨げている泥をすべて鍬で退け終えた。

 家に帰ろう。あの男の顔を見るのは不愉快だが、母も妹も弟も待っている。おぶっている弟も休ませてやらなければならない。自分が無事に帰った顔を見せるだけでも、家族の気持ちはずいぶんと違うだろう。

 大きなため息をついて、ノイチロウさんは鍬を握り直して歩き出した。


 家はなかった。

 焦げ臭いにおいが周囲に満ちていた。生木の杉がくすぶって、黒ずんでいる。落雷を受けた木が割れて倒れ、周囲の木をなぎ倒した衝撃で土砂崩れも引き起こしたのだろう。家の柱よりも太い幹が何本も土壁を貫き、その穴から流れ込んだ山の土は戸口からはみ出していた。

 あの男はもとより、母も、幼い妹も弟も、誰一人として家の外にいなかった。


「これで良いか」


 ノイチロウさんの耳に、はっきりとした言葉が届いた。

 振り返っても誰もいない。


 いや、いる。

 弟をおぶっている。

 まぶたの限界まで目を見開いていた弟と、視線が交わる。充血とは比にならないほど真っ赤な双眸が、自分を見つめていた。


「うわあ!」とノイチロウさんが悲鳴をあげると、弟は目を伏せて全身の力を抜き、その身をノイチロウさんに預けた。


 集落の住人がやってきた。ノイチロウさんの潰れた家から土砂をかき出して、母と弟妹の亡骸を探し出してくれた。新たな父だけは見つからなかった。

 ノイチロウさんがおぶっていた末の弟は、息を引き取っていた。ずぶ濡れになった低体温で、だいぶ前に死んでいただろう。背負っていた弟を預けた集落の女性が言う。

 そんなはずはない。ついさっきまですごく熱かった。女性に預けた弟の体を抱き直す。

 人形のように冷え切っていた。弟は生きていなかった・・・・・・・・と、ノイチロウさんもわかってしまった。

 では、あの声はいったい誰だったのか。そもそも、弟はまだしゃべれる時分ではない。

 何者かが、弟の体を借りてノイチロウさんに伝えたのだろう。

「これで良いか」と。


 ノイチロウさんは亡き父と親交があった集落の庄屋に引き取られた。

 自分だけが生き残ってしまった罪悪感に押しつぶされそうだったノイチロウさんは、庄屋夫婦に泣きながら訴えた。

 家族を守り切れなかった。父に家族を任されたのに、長男なのに情けない。母と弟妹たちに死んで詫びたい。だが自ら命を絶ったところで、戦死した父に会わせる顔がない。だから死ぬわけにもいかない。どうすればいい。

 雷雨のなかでも田んぼに出向かされたこと。まだしゃべれない年齢の、そのときにはもう死んでいたはずの弟が口を利いた事。すべてを包み隠さず訴えた。

 黙って話を聞いていた庄屋の旦那が答えた。


「それは雷様でねえべか」


「雷様っちゃ、雷ってことがい?」


「んだ。おれもよっくは知らねげど、雷様っちゃ子どものかっこしてんだど。んで、刃物とか鏡どか持ってるやつさひれ伏すんだど。んでも、お持っでだの鍬だもんな。刀と見間違えだんだかな」


 雷様が、死んだ弟の体を借りて自分の前に現れたのだろうか。

 だとしたら、家族を殺して自分を孤独の身にしたのは雷様ではないか。


「おれ、あの男に死んでくんちぇくれって思ったごどはあっけど、おっかと弟たちまでせでって連れていってくれどは思ってねがった」


「んだな。あの倅はろくでもねがったけど、おのおっかも働き者だったもんな」


 あの男を殺す機会が、雷様にはあのときしかなかったのだろうか。そのためなら、巻き添えを食ってしまう家族はどうしようもなかったというのか。

 そんな理不尽な話があるものか。ノイチロウさんは泣いた。


「それから、祖父は雷が大嫌いになってしまったそうなんです。自分は小さいとき、買ってもらったばっかりの傘を使いたくて、雷が鳴っている外に出たことがあるんです。そしたら祖父は裸足で庭に飛び出してきて、自分を抱きかかえると急いで家に引きずり込んだんです。あのときは大好きな祖父が怖くて大泣きしました」


 すでに高齢者施設に入っているノイチロウさんに、リュウタさんはしょっちゅう会いに行く。


「身体一つで家を興し直して、農業に人生を捧げましたから。本当に立派な人です。祖父の戦死した父も、きっと祖父の生きざまを褒めてくれると思います。でも、まだもっと長生きしてほしいですね」


 ノイチロウさんにとって命よりも大切な家族であるリュウタさんは、祖父を思う孫の優しい笑みを浮かべた。


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