そこにいる

「鏡を見たら後ろに知らない人が立っているっていう怪談、よくあるじゃないですか」


 エミさんの経験談も鏡にまつわるものだ。本人が先に結末を教えてくれたが、内容もそのとおり。怖い話屈指の『よくある話』といっていい。なんせこの手の話は、背後にいるのが幽霊であれ人間であれであれ、忽然と現れる。たったそれだけと言ってしまえばそれだけのことだが、たったそれだけのことでこちらの平穏な日常を乱す。この世に安心できる空間などないと、恐怖の圧をかけてくる。

 エミさんの経験を取り上げようと思った理由は、彼女がそのあとに語ってくれた持論がおもしろかったからである。

 まずはエミさんの経験を話そう。


 進学を機に、エミさんは大学のそばにアパートを借りた。地方の大学だが、複数の大学や短大、専門学校が密集している。そのため学生向けのアパートやマンションが充実している地域だった。

 アパートにいわくのようなものはないと聞いた。アパートの向かいにある大家さん夫婦や、地元出身で実家から大学に通う友人たちからの情報だ。かといって、エミさん自身が原因になるような思い当たるふしは何もない。


 起床したエミさんは、スマホを操作して七時近くまでボーっとして過ごす。それから目を覚ますルーティンの洗顔をするべく、洗面所に向かう。

 アパートは玄関から入って左側に洗面所兼脱衣所、浴室がある。洗濯機も置いてあるそのスペースはけっこう広い。大家さんが女子向けのアパートとしてリフォームしてくれたおかげで、洗面所の鏡は大きい。

 洗面スペースに水をびしゃっと出す。冷水を手に溜めて、顔に浴びせた。このあたりの水道水は五月になってもまだとても冷たい。一気に頭が冴え渡る。ようやく目が覚めた。

 目を閉じたまま水を止め、手元のハンドタオルで顔をぬぐう。

 ふう。止めていた息を吐きだした。

 目を開けた。

 鏡に映る自分の顔。メイクをしていないが、冷えた顔は血の気を失っていた。真っ白だった。


 背後に、真っ赤な顔の少年が立っていた。


 目や鼻といったパーツはない。顔が上からそぎ落とされたかのような、妙な縦筋が見えた。たとえるなら、生姜を一方向に向かってずっとすりおろし続けたような直線の列だ。繊維質の末端がちぎれてぴろぴろと伸びているのもやはり生姜のようだ。あれはおそらく、血管や神経のようなものだろう。本来あるはずのその先を見失った管は四方八方に飛び出していた。


「ひっ」


 冷たい水に触れたときのような震えではない。恐怖だった。悲鳴はもっと長く出るものだと思っていたのに、声は案外続かなかった。

 エミさんのその後の行動は、恐怖ゆえのものだったのだろうと彼女自身が語る。


「怖かったから、その、それが、私に何かをしてくるかもしれないって思ったら、もっとよけいに怖いじゃないですか」


 だから。

 振り返った。


 何もいない。

 何も。誰も。

 顔を鏡に向け直す。

 何も映っていない。

 見間違えた? 柔軟剤やシャンプーの容器、タオル類に赤い色はない。

 足下から鳥肌がゾワゾワとのぼってくる。

 落としたタオルが足に触った。不意に落としてしまったのは自分なのに、布が素足の甲に触れた気色悪さで、エミさんは洗面所から飛び出した。通学用のバッグをつかんで自宅からも逃げるように出て行った。メイクもしていなければ部屋着のままだったが、背に腹は代えられなかった。

 本当の理由は打ち明けずに、数日のあいだ友人の家を転々とした。

 自宅への恐怖がやっと薄れてきたころに帰ってきて、洗面所をのぞいた。あの日の朝、使い終わって落としたハンドタオルが床に落ちているだけ。変わった様子は何もない。

 大家さん夫婦は気のよい人たちだったので、本心は打ち明けられなかった。しかしずっとここに住み続けるのも怖かった。結局すぐに別なアパートを見つけて引っ越した。


「怖い思いは消えないっていうか、ときどき考えるんです。あれ、少年っていうか子どもみたいだったんですけど」


 あの子、鏡に映ったんですよね。

 で、振り返ったらいない。

 鏡にも、もう映っていない。


「それってどういうことなんでしょうね」


 ――どういうこと、というと。


「鏡って、そこにあるものを映すわけじゃないですか。だから私とか、私の後ろの洗濯機とか壁とかを映すわけで。鏡自体が意思をもって何かを映そうとして映しているわけじゃないでしょう。鏡は、何かを映す・・・・・っていう、ただそれだけのためにあるものじゃないですか。私が見ていようといまいと、そこにあるものをただずっと映しているっていうのなら」


 私の後ろにいたあの子って、本当にそこにいた・・・・・・・・から映ったんじゃないかなって。


「振り返ったらいないのは、もういなくなっていたからで。だからまた鏡を見ても、もう映ってないっていう当たり前のことだったっていうだけで」


 いれば映る。

 いなければ映らない。

 単純な事実確認でしかない。


「本当にっていうのがどういうことなのかは、自分でもよくわかんないんですけど」


 エミさんはちょっぴり、悲しそうに笑った。彼女の言う「本当に」という意味が、現実世界のエミさんの部屋の洗面所にいたという意味ならば、彼女の部屋には顔がすりおろされたかのような少年が不法侵入をしていたということになる。不法侵入以前に、そんな重傷を負っている少年がいるだけで大問題だ。


「映るのと、映ったのに消えたのと、映らないのと、どれがいいんでしょうね」


 ――映らないのがいちばんじゃないですか。


 私がそう言うと、エミさんは歯切れが悪そうに同意してくれた。見たものが少年というところに、幼児教育学部に通っている彼女の心が引っかかるのだろう。


 映らなくてもいる・・・・・・・・、という状態も可能性としては残されているが、口にはしなかった。


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